or farthest

SWCWのキャプトニです。その後のif話。
SWCWがどんな話かというとこんな感じ(わかりにくくてすみません)。→ WARZONES! CIVIL WAR 感想
完結したら本にしたい気持ちはある。

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  プロローグ

 

 いつの日か、この陽の目映さを恋しがる日が訪れるかもしれない。
 晴天のもと足を踏み出せば、昨日の名残が音を立てた。地面のくぼみにできた鏡に虹が一筋かかっている。それは波紋と共に二重にも三重にも橋を架けた。
 昨夜の土砂降りでぬかるんだ地面は歩きにくいことこの上ない。トニーは空を仰ぎながらも転ばないよう注力し、しかし跳ねた泥がパンツの裾を汚したことには気がつかなかった。
 春である。冬の肌寒さはすっかりなりを潜めてしまった。もう少し薄着でもよかったかもしれない。そんなことを思いながら、トニーは軽くぬかるんだ土の道を歩いていた。
 露を垂らす葉が風に揺れて爽やかな音を立てる。あの葉は何と名付けられていたのだったか。花の名前も植物の名前も、確かにあの男から聞いた覚えがあるのだが、いかんせんそうした情報はあまり自分の頭には馴染まない。化学式ならそこらのコンピューターにも劣らない記憶力なのだが――。
 散らばる思考をトニーは無理矢理かき集めた。それを一つ一つ組み合わせていけば、かなりメルヘンな外観をした小さな木造の家へと形を成す。
 帰らなければ。
 トニーははた、とそれを思い出した。
 次いで浮かび上がった輪郭に、無意識に足が急く。今にも光が零れ落ちそうなブロンドと、天に恵まれたとしか思えない体躯と、この青空を塗りたくったような天色の瞳と。あの男を形作るものの全てが、この景色と重なり合ってトニーの心を逸らせるのだ。――天に恵まれたような体躯は、現に「恵まれた」体躯だったじゃないかと、自分の浪漫染みた思念に苦笑してしまった。
 今、トニーの脳内で輪郭と色彩で成されているあの男は、なぜか帰宅時間に非常にうるさい。だから、この左腕に巻かれたのだ。使い古した革のバンドと、今にも止まってしまいそうな頼りない三本の針たちでできたこの腕時計を、手首への口づけと共に。
 短針は四と五の狭間を、長針はちょうど十の辺りを指していた。この長い針が天を指す前に玄関をくぐらなければ。確固たる数字を目にして、更に足が速まった。
 喉が渇いている。右手に持ったバスケット状のかばんからペットボトルを取り出したい気分に駆られたが、立ち止まって飲む気にもならずそのまま歩き続けた。着いたら思い切り喉に流し込めばいい。喉と腹の中で冷たさを享受するのは存外好きなのだ。
 家までの道に人影を見つけることはない。建造物があるわけでもなく、ただただ風が吹きさらして髪と肌を撫でていく。もっと進めば、隆々と立つ木々も少しづつ増えるのだけれど。
 まるでふたりきりの世界に帰るようだと、そう錯覚してしまいそうになる家への帰路は、春の訪れによって光に満ち満ちていた。

 

 十分で着くはずが、もう十分プラスされてしまった。左足を地面に僅かに残しつつ歩き続けて、やっと控えめな佇まいの玄関が目に入る。
 そしてその前では、まるで番犬よろしくスティーブがどっかりと腰を下ろしていた。この男を犬科のようだと思ったことはなく、どちらかというと百獣の王が似合うのだと思っていたが、トニーの気配にぱっと顔を上げた様子からは後ろでぶんっと揺れるしっぽが見えた気がした。
 こちらを見据える顔は険しい。が、表情というものが欠落した顔のようにも思える。それに軽く息をのんで、彼の目尻に薄紅が過ぎるのを捉えた。
「ただいま」
 トニーがそう声を発したのと、左手首を掴まれたのは同時だった。
「……遅かったな」
 その口ぶりからは責めるような色は見受けられない。左手首を握ってくる大きな掌にもそれほど力は込められていなかった。
「少し目測を誤ったんだ。でも、たった十分だぞ?」
 門限だとはっきり口にしたことがあるわけでもないが、五時、というのは、今の自分たちにとって区切りの時刻であることには間違いない。
 スティーブは若干眉間に皺を寄せた後、トニーの手首を離して玄関の中へ入っていった。その際にトニーが持っていたバスケットもさりげなく受け取っていく。
 玄関を抜けると右側にすぐ階段があり、上った先の壁には一つの絵が飾られていた。癖でそれに一瞬視線を向け、リビングに足を踏み入れる。軽い夕食の用意がテーブルの上に既にできていた。
「シャワーを?」
 カーテンに手をかけたスティーブが尋ねる。それに首を振りテーブルの側の木製の椅子に腰を下ろした。
「いや、先に食べよう」
 つい最近まではトニーが腰掛けようとするたびに彼は椅子を引こうとしたが、トニー自身がはっきりとそれを拒んだことにより、そのやりとりが成されることはなくなった。
 トニーの向かい側にスティーブも座る。身長一八〇越えの男ふたりが座るにはいささか小さなテーブルだ。
 サンドイッチと、数種類の野菜が入ったコンソメスープ。この家での夕食の定番メニューだった。特に何か言葉をかけるでもなく食べ始める。もそもそしたパンを飲み込むと、目の前でスティーブも同じような顔をして喉を動かしていた。
 こんな時だ。自分たちは一緒に暮らしているのだと実感するのは。
 別に、一緒に暮らすこと自体は初めてでも何でもない。――あのマンションでの日々を思い出して胸に過ぎった痛みを見ないようにする。そう、生活を共にするのには慣れていたはずなのだ。
 しかし、ふたりきりというだけでこんなにも変わるものなのか。馴染みのなかったこの感覚には、未だに慣れることができなかった。
 ちらりとこちらに視線を寄越したスティーブには気づかないふりをした。その目線の先にあるものはわかっている。
 カーテン越しに、緩やかな橙色をした夕日が差していた。それはトニーの色味の抜けた髪を染め、テーブルを横切りながらスティーブの手元を照らして途切れる。小窓を背にして座るトニーの髪を、スティーブはよく見つめるのだ。きっと、彼も慣れないのだろう。トニーの青みがかったブルネットが、銀色と見紛うような白髪に変わっていることに。
 スティーブは目を伏せ、再び黙々と夕食に手を付け始めた。そして今度はトニーが彼に視線をやる。
 自分が知っている――知っていたスティーブと寸分違わぬ容貌に、口角を上げてしまった。それがどんな感情に起因するものなのか、未だによくわかっていない。
 少し早めの夕食では、いつも静かに時間がゆるゆると流れていく。

 

「痛くないか?」
 その声にこくりと頷いた。ピンクベージュの色をしたソファは、自分たちには少し可愛すぎる。が、背後でトニーの左足に触れている男には、案外この色が似合うのだ。唇にマッチするからだろうか。
 うつ伏せになりながら受けるスティーブのマッサージは、始めはいたたまれない気持ちになるものの、次第に眠気が瞼に下りてくるのが常だ。左足の膝裏、ふくらはぎ、足首……と、徐々に下っていく大きな分厚い掌に、部分的とはいえ己の体を任せることは快感と呼んでもよかった。
 土踏まずの辺りを親指で押され、くるくると足首を回される。痛みどころか何の感触もしないトニーの左足をスティーブは仰々しく手から開放した。
「ありがとう」
 振り返って礼を言うと、スティーブはぎこちなく笑む。その表情につきんとした哀傷を覚えながら、上半身を起こした。
 スティーブはそのまま立ち上がりバスルームへと向かう。既にシャワーを済ませたトニーはソファに座りながらぼんやりと部屋の中を見渡した。
 暖色の電球、テーブルのすぐ側のキッチン、観葉植物も何もない殺風景な部屋。ソファのすぐ隣のバスルームからシャワーの音が聞こえてくる。その雑音に耳を澄ませながらトニーは瞼を閉じた。
 うたた寝をする前に、肩を軽く揺さぶられる。その大きな掌に「起きてるよ」と返せば、額を柔らかく撫でられた。シャワーを浴びた後特有の体温に、トニーはいつも擦り寄りたくなる。
 その衝動を腹の奥に飲み込みながら、かがんだスティーブの肩に手をかけた。スティーブがトニーの腰に手を回し立ち上がらせる。以前、トニーはこれも拒んでいたのだが、スティーブが引こうとしないため寝る前にこうして支えられることは日課になってしまった。
「つめたい」
 スティーブの髪から滴る水がトニーの首元に落ちてくる。トニーのその一言にスティーブが「すまない」と謝るのも、決まりきったやりとりだ。
 スティーブの体から離れ一人で歩き始めると、半歩後ろを彼が付いてくる。それが大型犬の動作にも似ている気がして、犬を飼ったことなどないというのにトニーはなんだか懐かしい気持ちになるのだった。
 階段に着くと、スティーブは「おやすみ」と声をかけてきた。いつものように同じ言葉を返して、手すりにつかまりながら階段を上る。「その」絵が近づいてくる。一人の女性が階段を下りているだけの、何の特異点も見つからない絵。そこにトニーが辿り着くと、背後でやっとスティーブがトニーから目を離し、狭いリビングへ戻っていったのを気配で察した。
 トニーは絵にじっと目をこらす。女性は全裸で、頭の毛や恥毛は白に近いブロンド、肌は青白く、長い手足に肉感的な腰つきをしていた。その女性の右足は下の段を踏み、左足は上の段をまだ踏みしめていたが、既に次の動作に移ろうとしていた。今にもこちらに向かってきそうなその女性の絵を初めて見たとき、トニーは目を奪われずにはいられなかった。それと同時に、これを外そうとしなかったスティーブを意外だと思ったりもして。
 軽く頭を振って寝室へと向かう。トニーが寝ても人一人分のスペースのできるベッド、それを一つ置けるだけの、小さな小さな寝室だ。シーツに体を預け、トニーはぼんやりと低い天井を見つめた。
 トニーはこのベッドで、スティーブは一階のソファで寝るのが日常だった。
 ここで寝ればいいのに。そう声をかけようと思った回数は一度や二度じゃない。けれど、どうしてか喉がつっかえてしまうのだ。トニーが一階のソファで寝ようとするのはスティーブが頑として了承しないだろう。だから、このベッドで寝ればいいのに、と言ってしまうことは、明らかにそういう意味を含んでしまっていて――。
 もう何度目の逡巡だろうかとトニーは瞼を閉じた。この小さな家では一階の小さな物音も耳が拾ってしまう。スティーブもソファで眠りについただろうか。それとも、眠れないからと何か本でも読んでいるだろうか。記憶の縁にある、夜の帳が下りる頃のスティーブを思い出しながら、トニーはうとうとと微睡みを受け入れ始めていた。

 

   

 カラン。扉の閉まる音に満足感を覚えながら、メアリーは再びスケッチブックの在庫を取り出そうと腰をかがめた。この時はいつもエプロンが邪魔だと思ってしまうのだが、いくら仕事着とはいえ絵の具やらなんやらで服をベタベタに汚すことも歓迎したくなかったので、この赤のチェック模様をしたエプロンは手放せないのだ。
 先程の妙齢の女性客は定期的に油彩紙を購入していく。時折プレゼントとして贈られる彼女の描いた油彩画は、全てこの店に点々と飾らせてもらっていた。
 祖父母、両親から受け継いだこの店を、メアリーはとても気に入っている。この小さな町の片隅でひっそりと経営している画材屋を、住民はいつもあたたかい表情を湛えて訪れてくれるのだ。メアリー自身が絵画や芸術の知識に富んでいるわけではないのだが、ここに訪れる客たちの知識に助けられているところが多かった。
 在庫を全て棚に並べ伸びをする。時計を見ると、今は午後の三時を少し過ぎた頃。カレンダーにも目をやり、そろそろだろうと無意識に口角を上げていた。店の入り口に目をやると、磨りガラスの向こうに見知った人影が見える。カラン、と音を立てて扉が開き、彼は店にやってきた。
「いらっしゃい」
 メアリーが声をかけると、白髪の男性は優雅な笑みを湛えてぺこりと会釈をした。
「いつものを」
「はい!」
 甘いテノールの声がメアリーにそう告げる。勢いよく返事しすぎたかしら、と少し恥ずかしくなったが、男性は特に気にする様子もなく店の中をいつものように見渡していた。
 頼まれたものを出しながら、ちらりと彼に視線をやる。黒のVネックのニットにジーンズという何気ない格好ではあるが、相変わらず気品を隠しきれない佇まいにほうと息を吐いてしまう。少し前はモスグリーンのマフラーをいつも身につけていたのだが、春が顔を出し始めてからは彼がそれを身につけることもなくなった。店でそれを外す仕草に見惚れることが多かったので、春が訪れることに初めて残念だという思いを抱いてしまった。
「はい、いつものです」
「ありがとう」
 十センチ四方の箱を手渡すと、男性は目尻を下げて受け取った。真正面から見つめると、やはり髪色から連想される年齢よりもかなり若い、と思った。最初に彼がここを訪れた時は初老を少し過ぎた辺りかと思われたが、実際に近くで彼を見れば、四十代半ば、それより上だとしても四十代後半ぐらいだろうとわかるのだ。
「昨日入荷したばかりの色もおまけでつけておきました」
「え、そうなのか? それはありがたい」
 彼が二週間に一度ここを訪れる理由。それは、水彩絵具を購入するためだった。違う色を四本、彼はここを訪れるたびに購入する。色はこちらのお任せで、と最初に頼まれたときはかなり困惑したものだ。
 しかし、四本中の一本は、必ずいつも同じ色だった。太陽に反射する紺碧の海をガラスに詰め込んだような、その色はいつも四本の中に鎮座している。
「そういえば、」
「え?」
「アレの調子はよくなったのか?」
 くい、と彼がカウンターの奥を顎で示して言う。合点がいき、メアリーははにかんだ。
「ええ、この間教えていただいたおかげで」
 アレ、とはメアリーの作業テーブルの上で申し訳程度に置かれているパソコンのことだった。両親の代から受け継いできたものを未だに使用しているので故障することは必至なのだが、いかんせんメアリー自身が機械に疎く、新しいものを購入しようにも右往左往してしまうのが現実だった。そこで現れたのがこの男性である。何度かこの店を訪れていた彼と初めて一言以上の会話を交わしたのは、あのパソコンがきっかけだった。パソコンの前に座り難しい顔をしていたメアリーに、何か困ったことでも? と話しかけてきた彼は、少し相談をするだけであっという間にこれを修理してしまった。それを機に、彼とは店員と客の関係よりも少し距離が縮まった。
「私が手を加えたから、当分新しいものは買わなくて済むぞ」
 得意げに言う彼に、自信家の側面を見つけてふふっと笑う。
「ありがとうございます。また今度壊れたりしたら助けてくださいね」
 もちろん、と笑む彼は、女性の扱いに長けているのだろうと、そう確信できるほど魅力的だった。彼が踵を返すと、なんとも言えない優しい香りがメアリーの鼻をくすぐった。
「じゃあ、また来るよ」
 扉へ向かう彼に小さく手を振る。それに軽く手を振り替えしてくれた彼に小さく胸がときめいた。
「はぁ。相変わらず素敵ね」
 一人になった店内でため息をつく。素性のわからない客に恋心を抱けるほど若くはないのだが、彼と言葉を交わすたびにときめいてしまうのは、女性として当たり前のことなのだと納得してしまう。それほどに魅力的な男だった。
「香水、何かつけてらっしゃるのかしら」
 そういえば、町の外れに香りものを売っている店があった。メアリーにはあまり興味がないものだったが、彼のあの仄かな花の蜜のような香りに惹かれ、いつかちゃんと足を運ぼうと小さく頷いた。

 

 ここは、一時間ほどで辺りを一周することができる小さな町だった。メアリーはこの町で生まれ育ち、他界してしまった両親の画材屋を三十代に差し掛かった頃に継ぎ、今もこうしてささやかながらも店主として店を続けている。小さな町ゆえ、訪れる客は全て知り合いだと言っても過言ではなかった。
 そんな中店の扉を開けた、全く見知らぬ魅力的な男性。この小さな町には不釣り合いなゴージャスで色っぽい雰囲気を纏わせる彼に、最初は戸惑ったものだ。しかし、「絵のことは全くわからないんだが、水彩具はどれがおすすめなんだろうか?」とはにかみながら尋ねてきた彼は、どこか少年のような瞳をしていて、メアリーは一瞬でこの男性を気に入ってしまった。ここに来るたびに興味深そうに店内を見渡す彼は、元来好奇心が強い人なのだろうと思う。だから、メアリーも興味を覚えたのだろう。この町に住んでいる様子のない彼は、一体どこに家を持っているのだろうかと強く疑問に思うぐらいには。
「――はぁ」
 手に持つ黄ばんだ紙を見て、メアリーは重い息を吐いた。
 そこに書かれている文字の筆跡はあまりにも見覚えがあるもので、以前はこれにたまらない愛しさを感じたものだが、今ではどうしようもなく嫌悪感染みたものを見つけてしまう。
「どうしよっかな……」
 差出人の名前は書かれていないものの、誰が送ってきたのかは明白である。これが初めてではない、むしろ何度も繰り返されてきたこととは言え、最近は落ち着いていたので久しぶりの頭痛の種にメアリーは険しい顔を隠すことができなかった。
「どうかしたのか?」
「へっ」
 突然頭上から降ってきた声に素っ頓狂な反応をしてしまう。慌てて顔を上げると、端正な顔立ちをした件の男性がメアリーを見つめていた。
「あっ、ご、ごめんなさいっ」
 カウンターに座り思い悩んでいたせいで、彼が店にやってきたことにも気づかなかった。立ち上がると、頭一つ分上にある瞳がふっと和らぐ。
「不用心だな」
「すみません……」
 恥ずかしい気持ちで笑いながら言うと、はた、とあることに気がついた。
「あれ、私、今日は休業の札にしてたと思うんですけど」
「ん? 営業中のままだったが」
「え?」
 ほら、と男性が扉の方を親指で示す。カウンターを抜け扉の方を見ると、彼の言うとおり札は営業中のままになっていた。
「あぁ……」
「今日は本当に気が抜けてるみたいだな」
 くすくすと笑われ、気恥ずかしくなり頭をかいた。気分を変えるために肩まで届く赤毛をいつも通り後ろで一つ結びにする。
「すみません、今日は何をお探しですか? というか、珍しいですね、最後にいらっしゃったのは」
「三日前だったな」
 彼はいつもきっちり二週間ごとにここを訪れる。だから、たった三日間を置いてこの店に彼がやってきたのは初めてのことだった。
「スケッチブックを使い切ったらしいんだ。それで随分落ち着かない様子だったから」
 ああ、と頷く。彼自身が絵を描くのではなく、同居人が筆を持つのだということは以前話の流れで聞いていた。
「スケッチブックだと、この辺りが個人的におすすめですね。普段はどんなサイズをお使いになってます?」
「んー、この辺りかな」
「それですと――」
 メアリーの説明を聞く彼は、口元を綻ばせてスケッチブックを並べてあるテーブルを眺めていた。
 その顔を見て、彼ははっきり口にはしないものの、同居人とはつまり恋人なのだろうと思った。隣の男性の優しげな表情を見て、顔も名前も知らぬ彼の恋人を羨んだ。彼が大切にする女性とは、一体どんな人なのだろう。彼のように気品の漂う、それでいて好奇心の強い子どものような人なのだろうか。それとも、全くの正反対の性格であったりするのだろうか。
 スケッチブックを使い切って落ち着かない様子でいると、彼が思わずここに立ち寄らなければと思ってしまうような人。絵を描いている姿が好きなのだと彼に思わせるような人。――ああ、きっと、彼はとても世話焼きで、面倒見がいい人なのだろう、と、メアリーは今更ながら気がついた。
 少し考えた末に彼がスケッチブックを手に取り、優しい水色の表紙をしたそれをカウンターに持っていく。メアリーは男性がここへやってきたことで忘れていたのだが、机の上に置かれたままの黄ばんだ紙を見て、しまったと眉をひそめた。
「ん?」
 彼がめざとくそれを見つける。急いで掌の中に隠したが、ぐしゃりと握りしめられたそれをしっかりと視界に入れた男性は、怪訝そうな顔でメアリーを見た。
「……それは?」
「あ、何でもないんです、すみません」
 カウンター側にまわりレジを打つ。その間も男性は心配そうに目を細めていた。
「ありがとうございました、今度また新しい色を入荷するので、同居人の方もぜひ一緒に」
「ああ……」
 男性はスケッチブックの入った紙袋を受け取って扉へ向かう。しかし、心配そうにこちらを振り返った。
「最近、この辺りで変な奴がうろついているみたいだから、気をつけて」
 先程、彼は世話焼きなのだろうと感じたことは、確かに正しい。だから、そのまま店を出て行こうとするのを、「あのっ!」と引き留めてしまった。
「…………?」
「あ、この後、少し時間あったりしますか……?」
 男性が静かに頷く。その頼りがいのある顔を見て、メアリーは思わず口にしていた。
「少し、相談にのってもらいたことが――」

 

 左足を若干引きずって、彼がこちらにやってくる。両手には一つずつカップが握られていた。
「ブラックでよかったかな?」
「はい、ありがとうございます」
 座っていたベンチに彼も腰を下ろす。もらったブラックコーヒーは人肌よりも少し熱かった。
 少し日が傾いてきた公園のベンチで二人でこうして座っていることがなんとも奇妙に感じられて、その気まずさを誤魔化すようにカップに口を付ける。ちらりと横を見ると、彼も同じくコーヒーを口にしていた。
 店の中で見る姿とは、やはり少し印象が違う。コーヒーから立ち上る湯気に鼻をくすぐられながら、メアリーはぼんやりとそう思った。店での印象よりも鍛えられている上半身に驚き、スレンダーな下半身ではあるが存在感の強い臀部の膨らみを見て、そこはかとなく女性的な体つきをしていることに何だか落ち着かない気分になる。メアリーが知っている男性の中に、こんな体躯をした男は一人もいなかったからだ。
「それで、話とは?」
 彼から会話の始まりを投げかけられてはっとする。メアリーはスキニーパンツのポケットから先程の黄ばんだ紙を取り出した。
「これ、読んでもらってもいいですか?」
 彼はそれを受け取り読み始める。目を進めていくほどに、神妙な顔つきになっていった。
「なんだコレは」
「気分を害されたらごめんなさい」
「君は悪くないだろう。随分と熱狂的な恋人――元恋人だな?」
 彼の言葉に頷く。メアリーの頭を朝から悩ませているこの紙は、元恋人から送られてきたものだった。
「別れたのは二年前でした。別れてから何度もこうやって嫌がらせの手紙を送ってきて。最近は落ち着いてたんですけど、昨夜また家の――店のポストに放り込まれてたんです」
 二年前別れた恋人は、以前までここに住んでいたメアリーよりも三つ年上の男だった。付き合ってからの束縛具合に疲弊したメアリーが別れを告げたのは、その男がちょうど隣町に引っ越しをするタイミングだった。同棲を持ちかけられていたものの、このまま続けられるとは思わず別れを切り出したメアリーに、男は今でも恨み辛みを抱いているらしい。その証拠に、今でも送られてくる手紙には目を覆いたくなるような事が書かれていた。店の二階に住んでいるメアリーは、店のポストを覗くたびに暗澹たる感情に襲われる。
「それで少しナーバスになってて、だからお店も休業にしようと思ったんですけど、全然頭働いてなかったみたいです」
 はは、と笑うが、隣で座る物腰柔らかな彼は神妙そうな顔つきのままだった。
「警察には?」
「ご存知だとは思うんですけど、この町には警察所はなくて、病院や学校も全て、隣町まで行かないと駄目なんです」
「……そうだったな」
 額に手をやり彼は呻いた。あまりにも小さな町ゆえ、地域の公共団体が設置した警察組織はここに常駐していない。更に、数年前まで二つの大きな国がこの辺りの警察組織をまとめ上げていた経歴もあり、治安方面については未だ行き届いていないのが現状だ。だから、メアリーがわざわざ隣町まで出かけ相談したときも、具体的な策がとられるわけではなかった。
「その元恋人とやらは、どんな奴だったんだ?」
 尋ねられたが、メアリーは上手く言葉が出てこずに悩んでしまった。
 同じ年頃の友人さえほぼ見つけたことのないメアリーにとって、恋人とやらのことを他人に話すのはほぼ初めてと言っていいだろう。
「両親が亡くなった直後に出会った人なんです」
 その言葉に、男性は片眉を上げた。
「あの人が店にやってきて、何度も好意的な言葉をかけられました。話していく内に、隣町の人だってこともわかって、年が近い男性と仲良くなれたのはあれが初めてだったから、深く考えずに付き合うことを決めたんです」
 正直に言えば、男性と体の関係を持ったことはあるが、恋人という関係まで踏み込んだのはあの男が初めてだった。あの頃の甘酸っぱい感情を思い出し苦笑する。
「だけど、付き合ってみたらあまりにも束縛が激しいというか、私の行動を逐一制限したり監視するようになって――私が耐えられなくなって別れました」
「それで、別れたと思ってるのは君だけ、ということか」
「はい」
 彼は小さくため息をついた。
 以前、信頼できると思った町の人に相談をしたこともあるのだが、ありふれた話ねぇと笑われてしまった。確かにどこにでもあるこじれたカップルの話かもしれないが、当事者からすればそんな風にまとめられたところで解決の方法が見つかるわけではないので、ただただ疲弊するばかりだった。
「警察に話しても実害が出ていないから対処ができないのか。わかってやってるなそいつは」
 忌々しそうに話す男性にメアリーはこくりと頷く。
「大変だったな」
「え?」
「疲れただろう?」
 一瞬、メアリーは呆けてしまった。何も言葉を返さないメアリーに彼はなんとも言えない顔をした。それにはっとして口を開く。
「ごめんなさい、突然こんな話して」
「謝らなくていいんだ。……ここまで来ると、何か対策をした方がいいな」
 男性は口に手を当てて少し考える素振りを見せた。それを見て、メアリーはなんとも言えない気持ちになる。
 思わず話してしまったが、特に何かをしてほしいわけではなかった。両親が亡くなったのが早かったので、誰かに頼ることも苦手で落ち着かない。久しぶりの手紙に覚えた不安は、話したことで少し解消された。
「あの、話しておきながらこんなこと言うのも失礼だと思うんですけど、大丈夫です」
「…………? 何が?」
「あの人、こうして手紙を送ってくる以外、何もできない人だと思うので」
 メアリーの言葉に彼は眉に皺を寄せた。その顔も大層美しく、外見が整っている人はこんな表情こそが魅力的に見えるのかもしれないと場違いなことを思った。男性の髪は銀に見紛うような白髪であるが、眉や口ひげを見る限り、本当は青みがかったブルネットだったのだろう。それを見てみたかったと見つめていると、目の前で薄くも厚くもない唇が開いた。
「こういう男は何をしでかすかわからないぞ。用心するに越したことはない」
 心の底からの心配そうな表情に、メアリーはふっと口元を綻ばせた。見知らぬ他人からこんなにも寄り添ってもらえるのは久しぶりだ。
「大丈夫です。迷惑をおかけするのも忍びないので」
 男は、メアリーの言葉に納得していない顔をしながらも、そうかと返した。
 しばらく沈黙が横たわる。彼を連れ出したのはメアリーだったが、この手紙以外の話題など持ち合わせていなかった。このまま帰るのもなんだかもったいないような気がしてそわそわしていると、ふと、風上の方にいる彼からいつもの香りが漂ってきた。
「……あの、」
「うん?」
「香水か何か、つけてらっしゃいますか?」
 言うと、男性は一瞬きょとんとした後に頷いた。
「ああ。町の外れの店で」
「やっぱり!」
 思わず声を上げると、彼は少し驚いたように目を丸くした。
「あそこ、主人の方が引っ越してきたばかりの新しい店なんです。ずっと気になってたんですけどなかなか足を運べなくて」
「そうだったのか」
「はい。でも、あなたの香りはとっても素敵だから、やっぱり行ってみないとなぁって、」
 すると、男はぷっと吹き出した。メアリーは我に返り口に手を添える。
「あ、変な意味ではないんです! ただその、あなたにその香りがとても似合うので、つい」
「うん、ありがとう」
 彼は、はにかんでそう言った。デイジーに似た香りだが甘すぎず、むしろ男性的だと感じる香りだった。彼が身に纏う目に見えるもの見えないもの全てが、彼を引き立たせ魅惑的にする。チャーミングかつセクシーな印象を併せ持つこの男は、きっと自分の見せ方をよくよく理解しているのだろう。
「君に似合いそうな香りもいくつかあったな。今度一緒に見てみよう」
「えっ」
 今までで一番気さくな笑みを向けられ、メアリーは素っ頓狂な反応をしてしまった。デートに誘っているにしては色気がないものなので、単純に友人としての距離を詰められているのだろうと思った。
「わ、じゃあ是非、ご一緒させてください」
 驚きはしたものの嬉しい誘いだったので快く頷く。そして、彼の同居人のことがちらりと頭を過ぎり、気づけばふと口にしていた。
「あの、同居人の方も、」
「ん?」
「もしよかったら、今度一緒に店にいらしてください。色々おすすめしたいものもあるので」
 言うと、彼は微かに目を見開いた後、ゆっくり頷いた。
「ああ。そうだな、また機会があったら連れてくるよ」
 夕日が段々と落ちていく。公園の人影も減り、隣の男は小さく息を吐いた後立ち上がった。
「そろそろ帰ろうか。送るよ」
 頷いてメアリーも立ち上がった。
 帰る道中、彼はどこに住んでいるのかと随分前から気になっていたことを尋ねようとしたのだが、目に見えない力で喉を優しく押さえられている感じがして、結局一言もそれに関して口にすることができなかったのである。

 

 君は悪くないだろう。謝らなくていい。
 気がつけば、彼からもらった言葉を頭の中で何度も反芻していた。
 いつも通り簡単な夕食を取り、軽くシャワーで体を流し、冬用の掛け布団の上に静かに寝転がった。照明の消えたこの部屋では、カーテンから漏れてくる夜の方が明るい。
 出会ってからまだそう日にちの経っていない男の言葉をこうも繰り返し思い出すなど、メアリーにとっては初めてのことだった。この小さな町からまともに出たことがない、いわゆる「世間知らず」な自分にとって、あのような男性の言葉は全て新鮮に感じられるのだろうか。
 名付けることのできない感情が胸の内で渦巻いている。気持ち悪いのか心地いいのか、それすらもわからない。
 寝なければ、と瞼を閉じた瞬間、カタン、と下から小さな音がした。
「…………?」
 下、というより一階か。音の出所を瞬時に察して眉をひそめる。何か物でも棚から落ちただろうか。それにしては存在感の強かった音に、メアリーはぶるりと体を震わせた。
 嫌な予感がする。
 上着を一枚羽織って、静かに寝室の扉を開ける。ひんやりとした床が足裏を固まらせた。それを振り払うようにして一階に下りていくと、ブラインドの下りた暗い店内がメアリーの視界に広がった。
 耳に纏わり付く静寂にほっとした。嫌な予感というものは大概が自らの神経の昂ぶりによって生み出されるものだが、それを振り切ることのできる人間など普通はあまりいないのだ。それはメアリーも例外ではなく、己の神経が昂ぶっていたことを自覚してそのまま寝室に戻ろうとして踵を返す。
 しかし、自分以外の微かな気配を感じて思わず勢いよく振り返った。背筋の産毛が僅かに逆立つ。
(なに……?)
 嫌な予感、と言ったがあれは嘘だ。予感ではなく、これは確信だ。
 何かが、誰かがいる。
 そこまで思考が繋がり、さあっと血の気が引いた。
 シャワー前にゴミ箱に投げ捨てた黄ばんだ紙を思い出す。もう、思い浮かぶ人物は一人しかいなかった。
 あの人が――あいつがここにいる。
 すると、今度は明確にガタンッと大きな音がした。それに軽いパニック状態になりとっさにカウンターの下に隠れる。二階へ駆け上がって部屋に閉じこもる勇気は無かった。
(どうしよう……どうしよう――!)
 指が小さく震え始める。そして、小さな息づかいも聞こえてきた。確かな人の気配に声を上げそうになり口を押さえる。
「メアリー?」
 ひゅっと息をのんでしまった。
 あの声だ。二年前までは愛おしさを覚えていたあの声で名前を呼ばれた。
「メアリー? いるんだろう?」
 たん、たん、とおぼつかない足音がする。メアリーはカウンターの下でひたすら息を潜めていた。
「どうして返事をしてくれないんだ? もう二年にもなるのに。君が奥手なことは知ってる。でも僕と君の仲じゃないか」
 こうして手紙を送ってくる以外、何もできない人だと思うので。つい数時間前にそんなことを言った自分を恨む。彼の言うとおり、何をしでかすかわからない男だったじゃないか。
 ここに侵入してきた目的は何だろう。最悪のことを想像して気分が悪くなった。
 どうしよう、もうそれしか考えることができなかった。メアリー、メアリーと名前を呼ぶ不気味な声が近づいてくる。
 カタカタ震える両手で口を押さえ瞼を強く閉じながら、メアリーは無意識に「助けて」と声にしていた。
 すると、ガシャンッという大きな音が店に響いた。
 それに体を震わせとっさに頭を覆ったが、「うァッ!」という呻き声が聞こえ恐る恐る目を開ける。何度か物がぶつかるような音がして、呻き声も段々小さくなっていった。何が起きているのかわからないまま体を縮こませていると、先程の男とは別の声で「メアリー?」と呼ばれた。
 途端に、足の先からあたたかいものがじわりじわりと体の中を満たしていく。怖々とカウンターから顔を出せば、件の彼が心配そうにこちらを伺っていた。
「大丈夫か?」
 その、少し癖のあるテノールの声に、目頭がどんどん熱くなっていく。メアリーの顔を見て彼は苦笑した。
「大丈夫じゃないな」
 手が差し伸べられ、メアリーはやっと立ち上がることができた。自覚はなかったが腰を抜かしていたらしい。ゆっくりカウンターから出ると、「そいつ」は床の上で意識を失って倒れていた。
「少し気絶してもらっただけだ」
 メアリーを見て彼は言った。
 どうして、と尋ねたかったが、喉から声が出ない。しかし彼はメアリーの言いたいことを察したのか「嫌な予感がして」と話し始めた。
「予感、というには確信がありすぎたが――店の前のゴミ箱、最近は少し変だったことに気づかなかったか?」
 予想だにしない言葉にきょとんとしていると、彼は店の外を顎で示す。
「最近は不自然なぐらいあのゴミ箱が空っぽだったからな。それ以外にも色々あったが……まぁいい、後で話そう」
 ゴミ箱、と言われメアリーははっとした。この町には清掃業者がなく、ボランティアで各家、店のゴミを隣町まで運んでくれる住民がいるので、その回収周期は不規則だった。最近はその周期の間が短くなっているのかと深くは考えなかったが、どうやら自分が楽観的過ぎたらしい。
 メアリーが顔を俯かせるのを見て、彼は決まりが悪そうに言う。
「むやみに不安にさせるのもと思って黙っていたんだが、逆効果だったな。すまない」
「あっ、いえ、全然、あなたは悪くなくて――」
 やっと声が出た。掠れ気味の散々なものではあったが。
「……私が、不用心だっただけです」
 情けない。その思いが喉の奥の方でとぐろを巻いていて、まだ震えが止まらない両手が恨めしかった。
「君は悪くない」
 優しい声に、俯いていた顔を上げた。眉尻を下げた、こちらの全てを受け止めてくれそうな彼の顔を見て、メアリーの瞳からついに涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「あ……」
 怖かった、とその感情でいっぱいになり、メアリーはその場にうずくまって泣き出してしまった。肩に優しく置かれた彼の手にとてつもなく安心する。そして、意外にもでこぼことした硬い掌であることをこの時初めて知ったのだ。

 

「落ち着いたか?」
 店の前、石畳の階段の上に腰掛けるメアリーは、周りの喧噪に耳を傾けながらも件の男へと意識を向けていた。隣に立つ彼は何気ない風を装ってメアリーに尋ねる。
「はい、すみません、取り乱しちゃって」
 店の騒ぎに駆けつけた何人かの住民が、隣町の警察署へ出かけていった。電話さえ使えないこの町では、住民の足と手紙ぐらいしかまともな連絡手段がないのだ。店の周りでは野次馬が騒がしくこちらを覗いている。
 男は、住民が持ってきた結束バンドで拘束されたまま今も意識を失っていた。
「君は謝るのが癖みたいだな」
 そう言われ、メアリーは困った顔をしてしまう。またしてもごめんなさい、と口にしそうになり唇を引き結んだ。
「責めてるわけじゃない」
 彼はそのまま座ろうとして小さな声で呻いた。それを聞き逃さなかったメアリーは、はっとして男性の体に視線を走らせる。
 すると、左の足首から僅かに血が出ていて、スキニーパンツにどす黒い赤が滲んでいた。
「あ……て、手当しないと」
「いい、大丈夫だ」
 首を振って彼はそのままメアリーの隣に腰を落ち着ける。
 先程の男との取っ組み合いで怪我をしたのだろう。全く気がつかなかった自分を責めそうになったが、ここで謝ってしまうとまた彼に気を遣わせてしまうと唾を飲み込んだ。
「……メアリー」
「は、い」
「君は、もう少し頼るということを覚えた方がいい」
 彼は、まっすぐにこちらを見つめてそう言った。しばらくその言葉の意味を咀嚼できずにぽかんとしていると、彼は薄く笑った。
「君のその自立心が強いところは素晴らしいと思う。だけど、今日のようなことがあるとやっぱり心配だ」
 心臓がぎゅうっと掴まれたようで、メアリーはまたしても目元が熱くなっていくのを感じ、俯く。
 両親が亡くなってから――いや、きっとその前から、他人に寄りかかることをメアリーはけして好まなかった。なぜだろう。きっと、たいした理由なんて無いのだ。それは自分の性格としか言いようがないもので、だけど、年齢を重ねていくたびに、「頼る」ことがどれだけ生きていくために必要なのかを実感する。
「……私も、慣れていないから、わかるよ」
 ふと、彼が口にした。綿の上を踏みしめるような口調に無意識に顔を上げていた。
「私も、頼るのは苦手だ」
 その瞳の奥に、何かが見えそうだった。揺らめいた熱のような霞が、彼の美しい色をした瞳の中で蹲っている。
「あ――」
 彼を呼ぼうとして、けれど、メアリーは今初めてこの男の名前すら知らないことを思い出した。
「メアリー!」
 突然、大きな声で名前を呼ばれる。
 驚いて声のした方を振り返ると、男性と女性が何人かこちらに走ってくる。
「もうすぐ警察が来てくれるよ」
「大変だったわね」
「大丈夫だ、もう安心だよ」
 メアリーにそう口々に声をかけるのは、隣町まで出かけてくれた住民たちだった。次々にメアリーのまわりに集まって優しい言葉を贈ってくる。
「あ、あの、」
 急な善意の来訪にメアリーは戸惑った。彼女を心配するこの住民たちは、いつも店を訪れてくれる客であり、顔も名前も知っている人ばかりである。
「おっかない男もいるものね」
「気づかなかった俺たちも悪いな。怖かっただろう」
 戸惑いながらも、メアリーは体が次第にぽかぽかと温かくなっていくのを感じた。怖かっただろう、との言葉に素直に頷く。
「……ありがとうございます」
 メアリーが俯いて言うと、誰かが優しく背中を叩いてきた。
 もう少し頼るということを覚えた方がいい。
 その助言を実行できるまではまだ時間がかかりそうだったが、今、謝罪よりも礼の言葉を口にすることができた点については、少しだけ自分を褒められるなと心の中で小さく笑った。
「ん? まさかあの男、メアリーが一人気絶させたのか?」
「え?」
 一人の住民が、気絶している男を指して言う。メアリーはまさかと首を振り彼を紹介しようとしたが――。
「あれ?」
 いつの間にか、メアリーの隣には誰も居なかった。
 つい先程までいた彼の気配を探してきょろきょろと辺りを見渡す。しかし、件の男性らしき人影はどこにもなかった。
「…………?」
「ま、いいか。あの連中も君にそこまで深く尋問したりしないさ」
 住民はあっけらかんと笑っていたが、メアリーは別のことを思い出してきた。
 そういえば、住民たちが店に駆けつけたときも、彼は店の奥に居て姿を現さなかった。
 メアリーは、住民たちの優しい言葉に心身を安心させながらも、「彼」の気配を探すことを止められなかった。
 遠くで、仰々しいサイレンの音が聞こえる。

 ■

 一ヶ月。それは、体感としてはあまりにも短すぎる期間だ。けれど、一つの季節が町に施す化粧を変えてしまうには十分な期間であり、この町も違わずすっかり春の様相に様変わりしていた。
 あれからもうそんなに経つのかと、メアリーはカレンダーを見てため息をついた。
「ありがとうございました」
 客を見送り、カウンターを離れて窓の外に視線をやる。
 あの事件は、メアリーの元恋人が遠く離れた町の拘置所に送られる形で幕を閉じた。何せあの男、メアリー以外の女性にも似たようなストーカー行為を繰り返していたらしい。深く知りたくないメアリーはそれ以上の情報を得ていない。
 それよりも気になるのは「彼」のことだった。
 結局、名前も、住んでいる場所も、何も知らないままの別れだった。もしかしたら以前のようにこの店を訪れてくれるかも、と淡い期待を抱いていたが、この一ヶ月、彼が店を来訪する気配はまるでなかった。
 小さくため息をつく。あの香りの店に一緒に行く約束、結構楽しみにしてたのにな。残念がる自分の気持ちを律して首を振る。住民たちに聞こうにも、彼自身が人前に出ることをあまり好まないのだとあの日に知ったので、メアリーは彼の居場所を他人に尋ねたりはしていなかった。
 あの怪我は大丈夫だっただろうか。
 すると、悶々と巡り続けるメアリーの思考を切り裂くように、店のドアが開く音がした。
「こんにちは――」
 思わず、最後の言葉を飲み込んでいた。
 開いたドアの外から春の匂いを含ませる風が店の中を泳いでいく。黄金と見紛う日差しを背に、輝くようなブロンドの髪をした男が、入り口で立っていた。
「…………」
 男は、口元に小さな笑みを携えて片手を上げた。白いTシャツとジーンズに覆われた体はあまりにも完成された体躯をしていて、メアリーは思わず見惚れてしまった。
 ――ああ、デジャブだ。
 ちかっと脳裏で沸いたイメージに、メアリーはゆっくり息を吐いた。
 男は一通り辺りを見回してから、こちらに堂々たる足取りでやってくる。近くで見ると、華やかな風貌というわけではないが確かに整っている顔立ちに、無意識に瞬きを繰り返していた。
「――いつものを」
 年若い外見よりも年齢を感じる声で発せられた言葉に、メアリーは「え?」と聞き返す。
 この青年がここを訪れるのは初めて、のはずだ。メアリーは一度あのドアを開けた客の顔はけして忘れない。
「あー……聞いてないかな」
 よくわからない青年の言い分に首をかしげると、彼は苦笑して「すまない」と謝ってきた。
「水彩絵具が欲しいんだ。四色、一本はいつもの色で」
 散らばっていた何かが、カチリと音を立てた。
 あの見目麗しい彼が脳裏で慎ましげに笑う。それはメアリーの確かな記憶なのか、この一ヶ月で脳が勝手に生み出した願望が形作ったイメージなのか。
「はい、存じています。今出しますね」
 カウンターにまわり「いつもの」それを取り出す。
 心臓が激しく動悸を打っている。多分、きっと、恐らく、間違いなく、この青年は。
「どうぞ」
「ありがとう」
 彼が言っていた「同居人」は、メアリーが想像していたような、たおやかで凜とした女性でもなく、溌剌とした豊麗な女性でもなく、服の上からも体を覆う筋肉の形がわかるような体躯を持つ、穏やかな顔つきをした美青年だった。
「そういえば、」
「え?」
「君に謝らなければと言っていた」
 誰が、などは訊かなくてもわかる。何に、かはうまく察することができなかったが。
「あの日、勝手に帰ってしまってすまないと」
「あ……そんな、謝ってもらうことじゃないです。むしろ、私の方こそまともにお礼もできなくて」
 慌てて言うと、青年は片眉を上げた後優しく笑った。彼の笑い方とは全く違うけれど、どこか似たところを探してしまう。
「足が治ったらまた来ると」
 かけられた言葉に、メアリーは自らの顔がぱっと華やぐのを自覚した。
「……ありがとうございます」
 よかった。彼がここを訪れなかったのは、足に怪我をしていたから。そしてその怪我はきっと治りつつあるのだろう。嬉しいという感情を隠さないでいると、青年は「それじゃあ」と立ち去ろうとする。
 メアリーは、その後ろ姿に声をかけようか迷った。何を尋ねる。家の在処? 彼の様態? あなたは彼の――。
 しかし、喉から出てきたものは自分でも思いもしなかった疑問だった。
「あ、あの!」
 メアリーの声に、青年は振り向いた。
「何の絵、を、描いてらっしゃるんですか?」
 画材屋の店の店主としては、あまりにも真っ当な質問だった。
 青年は一瞬視線を逸らした後、窓の外を見つめて、再びメアリーに顔を向ける。
「彼を」
 そう言って、青年はドアを開け店を去った。
 メアリーは体中を駆け巡る高揚感に身を任せないようにするのが精一杯だった。
 スケッチブックを使い切って落ち着かない様子でいると、彼が思わずここに立ち寄らなければと思ってしまうような人。絵を描いている姿が好きなのだと彼に思わせるような人。
 そんな青年が、先程見せた顔は、あまりにも。
 そしてメアリーは、今更ながらに気がついたのだ。
 太陽に反射する紺碧の海をガラスに詰め込んだような、その色。
 ああ、彼は、息をのむような美しい深い青の瞳を携える人だった。

 

 ■■■

 痛みは、感じなかった。
 ベルカーブボムですら破壊し尽くせなかった自らの体の強靱さに笑い出したくなる。耐えきれず二、三度体を震わせると、肩に担いだ体も一緒に振動した。
 立ち止まり、後ろを振り返る。立ち上る硝煙がまだこちらから視認できるので、まだまだ歩き続けなければならないと自らを律した。
 しかし、担いだ体は未だ鉄のアーマーを纏っていて、このまま歩き続けるのは流石に辛いと、一度砂の上に彼の体を横たえた。ここは、岩陰になっていてどこからも死角になっているはずだ。
「…………」
 目映いほどの、赤と金。つい数時間前までは憎くて恨めしくてしょうがなかった色。いや、数時間前と言わず、もしかしたら今も――。
(ならばなぜ、連れてきた?)
 スティーブは首を振った。今は思考を巡らせているときではない。
 まるで服を裂くように、スティーブはアーマーを彼の体から剥がしていく。露わになった上半身には幸い、目立った傷は見つけられなかった。
 しかし、彼の左の足首を見て顔をしかめる。赤い。アーマーの輝かしい色とは違う、どす黒い、濁った赤だ。
 止血の処置を施し自らの軍服を破りそこに巻いた。衛生面が心配だが、背に腹は代えられない。
 そしてスティーブは再び彼を担ごうとして、アーマーの無残な欠片たちに視線をやった。
 これをこのまま捨てておく訳にはいかない。
 スティーブは、アーマーの欠片たちを更に粉々に破壊した。掌で握りつぶせばこの砂のようにさらさらとこぼれ落ちていく。時折欠片が抵抗するようにスティーブの掌を傷つけていくことに舌打ちをした。
「――っく」
 今度こそ彼の体を担ぎ上げる。先程までの重さに比べたらまるで羽のようだった。馴染みのある重さだ。しかし、最後にこの重みを感じたのは六年以上前なのだ。
 そして、ひたすら歩く道を選ぶ。自分の体のどこが傷ついているのかを、スティーブはまだ知りたくなかった。
 ベルカーブボムが消さなかった自らの超人血清の巡りを感じて、スティーブは誰ともわからない何かに感謝した。
 なぜ、私は歩いているのか。
 なぜ、私はこの男を担いでいるのか。
 これは夢か、走馬灯なのか。
 スティーブはおぼつかない足取りで歩き続けながら未だ自分が生きているという実感を持てずにいる。
 そんな果てしない砂の中で、かついでいるこの男の重みと体温だけが、目映いほどの本物だった。

 ■■■

 

    

 けだるい、というか、頭が頗る重かった。
 鉛のような瞼を開ければ見慣れた天井が視界を埋め尽くす。ぼんやりと眺めていると、近くで微かな物音がした。
「起きたか」
 声のする方を向けば、テーブルの側の椅子に座ったスティーブがこちらにやってくるところだった。
「……また寝てたのか」
「熱が出ていたんだ、仕方ない」
 言って、スティーブはトニーの額に手をかざす。
「大丈夫だ、もう下がってる」
 スティーブはそのままキッチンへと歩いていった。
 トニーは未だ朧気な思考を手探りでかき集め、昨夜のことを思い出した。
 あの画材屋をストーカー男が襲ってから何日かが経った。その男との取っ組み合いで負傷した左足の怪我は十分癒えてきているが、時折思い出したように体が発熱を訴えるのだ。
「水……」
 気力を奮い立たせて上半身を起こす。スティーブはトニーがねだる前からグラスに水を注いでいた。
 彼の大きな手からグラスを受け取り一気に中身を煽る。からからに乾いた喉に染み渡っていく水は、まるで甘露のようにトニーの舌を満足させた。
 体が水分を取り込むと、重かった頭も次第に明瞭さを取り戻していく。何か本でも持ってこようとソファから立ち上がろうとすると、スティーブの手がトニーの腰にまわった。
「っ、」
 トニーが立ち上がるのを支えようとしたつもりらしい。一ヶ月前から更に顕著になったスティーブの過保護具合にトニーは眉をひそめる。
「大丈夫だ」
 はっきり告げて、トニーはリビングを抜け階段を上っていった。
 階段を下りようとする女性が段々近づいてくる。それから目をそらして、トニーは階段を上りきり寝室の扉を開けた。

 

 窓の桟に肘をかけページをパラパラめくっていると、柔らかな視線に全身を包まれているような気がして足を組み直してしまった。その視線は、右側からひたむきに向けられている。
 窓のそばで本を読むトニーをスケッチするスティーブ、というのがここ最近の午後の決まった画になっていた。テーブルの上にはあの画材屋で買っている水彩絵具が広げられていて、パレットではトニーにはわからない色彩が幾つも展開されていた。
 ページをめくる音と筆が紙を滑る音だけが、部屋を緩やかに歩き回っている。
 トニーは、ここ一ヶ月のことを思い出し気づかれないように小さな吐息を零した。
 あの夜、家に帰ってくると案の定スティーブが玄関前に座っていた。険しかった顔はしかし、いつもよりも引きずっているトニーの左足を見てみるみる様相を変えた。
「何があった?」
 心配そうでもあり、有無を言わさぬ声音でもあり。トニーはとりあえず家に入ろう、と口にする間もなく、そのままスティーブの腕の中に倒れ込んでしまったのだった。
 それからは三日間熱を出して寝込んでいた。スティーブが直ちに足の怪我の処置をしてくれたおかげで化膿したりなどのトラブルが起こることはなかったが、トニーの体力が持たなかった。
 一ヶ月間、熱がぶり返して寝込んで、治ってまた熱が出て、を繰り返していた。己の体があまりにも弱っていることにトニーは戸惑いを感じずにはいられなかった。が、それをスティーブに悟られたくはない。
「……彼女が」
 ふと、スティーブが口を開いた。彼女、との言葉に脳裏ですぐさま名前を重ねて、トニーは彼の方を振り向いた。
「また君が来る、と言ったら、嬉しそうにしていた」
 それから何か話が続くかと思ったが、スティーブはそれきり唇を閉ざし、再び黙々とスケッチブックに筆を走らせた。
 トニーは文字の羅列に視線を流しながら、胸の内に生まれ出た甘い疼きへの対処に悩んだ。
 スティーブの先程の口調に、確かな嫉妬を感じて。よもや彼女にそれをあからさまに向ける男ではないが、あの女性は聡い故、もしかしたらスティーブが店を訪れた際に何かを感じたかもしれない。謝り癖のある彼女を思い出し、少し心配した。
 わざわざスティーブのためにあの町の画材屋を訪れていたのは、ひとえにトニーがそう望んだからだった。
 左足のことがあるせいで、スティーブはトニーが外出することをよしとしない。だから、トニーはいつだって外出する理由を探していた。水彩絵具は、その一つだったのだ。
「香りものの店に一緒に行こうと約束してたんだ」
 スティーブが走らせる筆の音がぴたりとやんだ。そして己の頬に突き刺さるような視線を感じて、確かな優越感を覚える。
 君はまだ、私にそんな目を向けるんだな。
 口元に笑みが浮かびそうになり、トニーはそれを誤魔化すように咳払いをした。
「君と一緒に店に行く、とも約束した。だから、今度行こう」
 すると、スティーブは視線の鋭さを和らげて「ああ」と返した。
 以前は、こんなにもわかりやすい反応を返す男ではなかった。トニーは再び本の中身に集中しようとしたが、スティーブの顔を真正面から見つめたいという衝動に抗うので精一杯だった。

 

 そろそろ潮時だったのかもしれない。
 トニーはいかんせん、退屈を悉く嫌う男だった。
 退屈と停滞と倦怠は、トニー・スタークにとって縁がないものであり、だからこそ今のこの生活に何かメスを入れたいと、そう思っていた。
 しかしどうやって、どんな風に行動すればいいのか。それがわからないことに酷く苛立っている。以前なら、こんなことで迷いなどしなかっただろうに。
 今日の夕食は、シェパードパイだった。手伝うと言ったトニーを、スティーブは苦笑しながら「そこで座っててくれ」と軽くいなした。料理をするのが苦手だということは十分自覚しているが、なんとも気にくわない。少しふてくされたトニーを、スティーブは完璧な味付けのパイでもてなした。
「旨い」
「それはよかった」
 今日も、一言二言言葉を交わして夕食が済んだ。大きな口にパイを押し込むようにして食べるスティーブを何度か盗み見していたが、やっぱり食べ方は変わらないんだなとひっそり笑む。六年以上の空白が自分たちの間には横たわっていたが、スティーブは中身も外見もあまりに変わっていない。そして自分だけが、老いている、衰退していると暗澹たる感情に襲われるのだ。
 きっかけが欲しかっただけ。だから、事故のような振りをして手を伸ばした。
 洗い物は自分がやると譲らなかったトニーの隣にスティーブは立っていた。急に倒れたりすることを心配しているのだろうか。そんな風にして意識を失ったのはあの夜だけだというのに。
 皿を洗って片付ける、以前なら全て機械に任せていたことだ。テクノロジーの欠片も見当たらないこの家は、正直なところ、トニーにとって落ち着くとは言い難い場所だった。
 全て洗い終わると、スティーブは何も言わず踵を返してテーブルに戻ろうとする。しかしトニーは、濡れたままの右手をスティーブの左手に重ねた。
「っ、」
 スティーブは一瞬身じろぐ。トニーは何も考えないまま手を伸ばしたので、何も言うことができず俯いたまま、ただ己の手を彼のそれに預けていた。
 トニーの手から滴る水がスティーブの白い大きな手に伝っていく。それにぴくりと反応したスティーブは、しかしトニーの手を振り払うことはしなかった。ぬるかった水は、空気に触れてだんだんと冷たくなっていく。だから、お互いの手の温度を否が応でも意識せざるを得ないのだ。
 トニーは顔を上げようとした。しかし、
「……――シャワーを」
 そう言って、スティーブは優しくトニーの手を振り払った。
 そのままバスルームに向かう背中を見て、とん、と壁にもたれかかる。
「スティーブ」
 呼ぶと、彼は一瞬立ち止まった後ゆっくり振り返った。
「もう、ソファで寝るのはやめないか?」
 スティーブが目を見開く。トニーは何の感情も顔に浮かべないように努力して言った。
「あのベッド、広すぎて寒いんだ」
 そして、数秒の沈黙が横たわった。
「……わかった」
 言って、スティーブは再びバスルームへと向かい扉の先へと消えた。
 はぁ、と大きく息を吐いて、トニーは天井を仰いだ。
 これで、動揺すればいい。私も、君も。

 

 トニーがシャワーを浴びてバスルームを出ると、スティーブはソファに座ったまま手持ち無沙汰にしていた。先に寝室へ行っててもよかったのに、とトニーが声を出さず小さく笑うと、スティーブはこちらを振り向いた。
「もう寝るか?」
 ベッドに入るにはまだ早い時間だったが、特にこのまますることもなかったので頷く。
 スティーブは少し目を泳がせた後立ち上がり、階段へと歩いていった。その後ろをついていきながら考える。私は、この後彼に何かを要求する気があるのだろうか。
 寝室のベッドへ入るまで、ふたりは無言だった。お互い背中を向けながら、瞼を閉じながらも眠る気配を見せていない。いや、スティーブは眠ろうと努力していたが、それが実っていないことをトニーは察していた。
 こうしてふたりでベッドを共にした最後はいつだったか。背中に確かなスティーブの体温を感じて、トニーは久方ぶりの他人の温度に酷く安心するのを自覚した。
「眠れないのか」
 そして、とうとう口にしてしまった。背中の向こう側で彼が身じろぐのを感じる。スティーブは何も返さなかった。
「……何を考えてる」
 尋ねても、答えが返ってくることはなかった。
 それに苛立ち、くるりと体の向きを変える。大きな背中が視界に飛び込んできて、今はもう見ることの叶わない盾をそこに幻視した。
 途端に、たまらなくなる。この男の、キャプテン・アメリカの盾を初めて改良したのは何年前だっただろう。かつての伝説のヒーローを海の中で見つけたことが嬉しくて、彼の持つ盾の性能を追求したいと研究心が疼いて。その頃、スティーブはまだトニーとアイアンマンが同一人物だとは知らなかった。だから、トニー・スタークとして新しい住居を与え、アイアンマンとして彼の盾をグレードアップさせた。
 今の自分は何をしているのだろう。スティーブといるときは常に何かを彼に与えるのが当たり前になっていた。しかし、今はスティーブに与えられるばかりで、トニーは何も生み出していない。
 創り生み出すことを人生の軸にしていたトニーは、今この瞬間、とてつもない虚無に襲われた。
「スティーブ」
 手を伸ばしたのは、先程盾を幻視した背中だった。
 ぴくりと彼の肩が動く。しかしこちらを振り返る気配はなかった。
「なぜ私を見ないんだ?」
 ストレートなトニーの言葉にスティーブは反応しなかった。白いTシャツを握ったままトニーは続ける。
「気まずいのか? 本当は一緒に寝たくなんかなかったか? 気を遣うからか? なぁ、」
 矢継ぎ早に問いかける。トニーは自分でも吐き出す言葉をコントロールできなかった。
「……私の顔を見たくないならそう言えばいい」
 すると、スティーブは勢いをつけてこちらに体を向けた。トニーの手が振り払われぽすんと小さな音を立てシーツの上に落ちる。
「本気で言っているのか?」
 こちらを見るスティーブの瞳の奥には、仄かな怒りの影が揺らめいていた。
「私が毎日君を絵に描いているのを知ってて?」
 トニーは困ったように眉尻を下げた。
 知っているからどうだと言うんだ。過保護のように見せかけて、私とまともに目も合わせないのは君じゃないか!
「じゃあなぜ避ける? どうして同じベッドで寝ているのに私を見ようともしないんだ?」
「怖いからだ」
「怖い? 君が何に怖じ気づいてるって言うんだ」
「…………わかるだろう」
 苦悶に満ちた表情で、スティーブは俯く。しかしトニーは興奮状態のまま言葉を続けた。
「わからない」
「トニー」
「教えろ、何が怖い? 私と一緒に寝ることか? 雰囲気に流されて、そういう意味で」
「トニー!」
「初めてじゃない、何を今更」
「違う、私は――」
 スティーブは反論の言葉を飲み込んだようだった。最近はそうやって何かを諦めたような素振りを見せることの多いスティーブに、トニーはやるせない気持ちを抱き、そして、暴きたくなるのだ、どうしても。
「……したいくせに」
 ぽつりと呟いたそれは、乾いた響きでもって部屋に投げ出された。それはスティーブが強固に築いていた砦を確実に突き抜け、トニーは気がつくとシーツに両手を縫い付けられていた。
「ん……ッ」
 歯がぶつかるような勢いで唇が重ねられる。開いたままだった口の中に、分厚い舌が確固たる意思を持って侵入してきた。
「っは、」
 お互い、瞳を露わにしたままの口づけだった。他人の粘膜と触れ合うのは久しぶりで、トニーはぶるりと体を震わせる。じゅく、じゅ、と口づけとはかけ離れた重たい粘着音が部屋に響く。トニーは、真上から注がれる唾液を飲み下すので精一杯だった。この男は時折、こうして力任せのキスをしてくるんだったと思い出す。
 やっと唇が離れ、急に与えられた酸素に軽く咳き込む。トニーの唇の端からどちらのものともつかない唾液がシーツに一筋零れるのを、覆い被さるスティーブはじっと見つめていた。
「は、ぁ……ッ、乱暴、だな」
 視線を合わせずに言うと、スティーブは詫びるような手つきでトニーの口元を拭った。
「……もう寝よう」
「冗談だろう? こんなキスをしておいて」
「君は準備が、」
「私が何も考えず君をこのベッドに誘ったとでも?」
 言って、トニーは両足を真上のスティーブの体に巻き付けた。スティーブは意味を理解したのかぐっと喉を鳴らす。
「……本気か?」
「冗談だと思うなら、今すぐこの足を外せばいい」
 君なら朝飯前だろう? とスティーブの腰の辺りを両足できつく挟む。淫猥な足の動きに反して、トニーは鋭い瞳でスティーブを睨むようにして見上げる。
 スティーブの両手が力強くトニーの腰を掴み、問答無用で自分の元へ引き寄せるのに、そう時間はかからなかった。

 

 入れるところまで考えていなかったスティーブにバスルームで準備してきたことを見せつけると、大きくため息をつかれた。
 それは呆れたことを示すものではなく、沸き立つ興奮をなんとか抑えようとしているものに見えた。
 トニーがいつの間にか用意していた潤滑油をスティーブの指が掬い、少し緩んだ穴の中に入ってきた。六年、いや、それ以上ぶりのトニーの中の体温に、スティーブは身じろいだようだった。覆い被さっている男の頭を片手で撫で、トニーは熱い息を吐く。この男の顔を余すことなく目に焼き付けようと、正面からがいいと譲らなかった。
 ぐるりと中をかき回され、その後すぐ二本目、三本目が入ってきた。中が拡がるたびにスティーブの顔が険しくなっていく。準備してきたとは言え、あまりにもスムーズに指が入っていくことを彼が怪訝に思っているのは明白だった。
「……トニー」
 戸惑うような声で名前を呼ばれた。話すつもりはなかったことを口にする覚悟を決める。面倒くさいことにならないように、と祈ることも忘れずに。
「ジェニファーだ」
 ジェニファー・ウォルターズ、シーハルクの名を口にすると、スティーブは一瞬ぽかんとした後、腑に落ちたのかますます眉間の皺を深めた。
 アイアンの大統領であったトニー・スタークと、その側近のジェニファー・ウォルターズが「そういう」仲であったことは、国内外問わず周知の事実だったはずだ。それはブルーの将軍だったスティーブも例外ではなく、むしろ対立していた国の弱点にもなる要素だと詳しく調査すらしていたのではないだろうか。
「彼女がそういう趣味だったんだ。最初は驚いたが、まあ、君との行為で慣れてたし、なかなかよかったよ」
「今話すことか?」
「君が聞きたそうにしてたんじゃないか」
 ふたりはしばらく視線をぶつけ合い、折れたのはスティーブの方だった。
「わかった。でももう聞きたくない」
 指が引き抜かれ、熱く滾ったそれが穴の縁を辿る。くる、と目を瞑った瞬間には既に中が満たされていた。
「……――ッ!」
 久しぶりの熱さと硬さに息が一瞬止まった。それをやり過ごそうとするが、スティーブが既に腰を使い始めたのでひ、ひ、と酸素を吸うことに精一杯になる。
 先程までの鬱屈とした雰囲気はどこへやら、スティーブはがむしゃらに腰を振ってトニーのことを追い立てていた。それについていくことに必死になりながらも、余計なことを考えさせる余裕を与えないスティーブの動きにどこか安心する自分がいる。
 衝撃を受け入れようときつく閉じていた瞼を開ける。すると、眉間の皺を深めて歯を食いしばりながら、必死なことを隠そうとしている顔が視界に飛び込んできた。
 途端に懐かしい風がトニーの肌を撫でていった。思わず両手を伸ばし、ブロンドの髪をくしゃっと撫でて彼の頭をこちらに引き寄せる。
 変わらない。初めて体を繋げたときから、何も。
 その昔、現代で目覚めてまだ不安がっていたスティーブを上手く言いくるめてベッドに誘ったときも、こんな顔をして自分を抱いていたのだ。彼のあの頃のうぶさと今の老成さはあまり重ならないはずだった。それでも、スタークさんとぎこちなく呼びながら腰を振っていた顔と、今こうして悲痛ささえ浮かべながらトニーの体を揺さぶっている顔は、やっぱりどうしたって同じに見えるのだ。
「……ッ、あ、ぁ、すてぃーぶ、」
「く、ぅ、」
「……かわいい、スティーブ、かわいい――ッ」
 思わずそう口走っていた。頭をおぼつかない手つきで撫でながら、ちゅ、ちゅ、と頬に唇を寄せる。
 かわいいかわいいと溢れてくる感情に押しつぶされるようにトニーの中がきゅうっと狭くなり、スティーブは低く呻いた。
 名前を呼ぶと、腰を強く掴み奥へ奥へと性器を突き立ててくる男は泣きそうな顔を見せる。ブルーのトップとして君臨していたスティーブは古き良き時代を体現するかのような軍人の顔をしていたのに、今はこんなにもおぼこい表情でトニーを抱いている。
 彼の外見が変わらないのは超人血清ゆえのものだろうが、内側からにじみ出るいくばくかの稟性にこの男の悠久を垣間見て、トニーは思わず口元を緩ませた。
 それを目にして、スティーブはきつくトニーの体を抱きしめ中に白濁を吐き出した。その熱を直接受け止めたトニーの体がびくんと震える。
 は、は、と息を荒げるスティーブのつむじにキスを落としたトニーは、美しい筋肉を纏う背中をゆるゆると撫でた。
「ふ、はやい、な」
 スティーブはそのまま動かず再び自身を硬くさせた。
「……次はもう少しゆっくりお願いしたい」
 トニーのその言葉を塞ぐようにしてスティーブは口づけてきた。これは機嫌を損ねたときの癖だったと、思い出して少し甘酸っぱい気持ちになった。

 

「足は?」
「ん?」
「……痛くないか?」
 申し訳なさそうにスティーブが問うてきた。何の遠慮もなくこちらの体を貫いていた男にしては殊勝な言葉に「今更か?」と笑う。
「痛くないよ。そもそも感覚がないんだ」
 言うと、スティーブはやはり唇を噛んでなんとも言えない表情をした。
 スティーブは三度、トニーは二度達した後、おざなりに後始末をしてこうしてベッドに横たわっている。シーツがまだ少しべたついている気がするが、体の疲労には逆らえない。
「熱は」
「出てない、大丈夫だ」
 遮るようにして答える。ピローロークであまりにも体の心配をされるのは趣味じゃなかった。
 手を伸ばして彼の前髪に触れる。そして額を撫でるようにすると、スティーブはくすぐったそうに目を細めた。
「伸びてきたな。切らないのか?」
「そのうち」
 その返答があまりにも眠そうだったので思わず吹き出した。かわいい。
 短く刈り込んであるのも、額にかかるぐらいに伸びる前髪も好きだったので、トニーはそれ以上何も言わなかった。
 スティーブのうとうととした顔を見つめながら、ふとあることを思い出す。どうしてか今まで訊けなかったことだ。
「スティーブ、」
「ん……?」
「階段の絵、あれは元々この家にあったのか?」
 スティーブはぱち、と瞬きをした後、トニーの腰に腕を回しながらぽつぽつと話し始める。
「ああ。気に入ったから外さなかったんだが――嫌だったか?」
 ぐい、と確かな力で体が引き寄せられる。性的な意味を含まずに肌と肌が触れあう感触はとても心地よかった。スティーブの眠気がこちらにまで伝搬してくる。
「ん……そうじゃなくて、あの女性がタイプなのかと」
「……そんなことを考えてたのか?」
 むっとした声を出すスティーブにふふっと笑って、彼の肩に額を預けた。
「だってそれぐらい魅力的だったじゃないか」
 腰を両腕で抱かれて安心する。自分は今、揺るがない庇護の元に置かれている。それがたまらなくもどかしいと同時に、このままここで眠っていたいと祈る気持ちもあるのだ。
「君が嫌だと言ったら外そうと思ってた」
 そんなことを言うスティーブの声は酷く甘い。
 それにどろどろに蕩けそうになりながら、あの絵の女性を思い出す。
 きっとあの階段を下りていった先には、彼女を絶対的な庇護で包んでみせるような、そんな存在が待っていたのだろうと、眠りの淵を漂いながらトニーはそれを悟った。

 

to be continued…