ガトーショコラ

 

 

 透きとおった瞳をしている。隣に座る彼を見ながら、今まで何度思ったかしれないことを、今ひとたび実感する。どちらもフィクションの世界を追いかける性質ではないけども、子どもの頃にこうした体験が出来ていたらと、そう夢想したことも実は少なくないのだ。
「今日はどんな本だ?」
「これだ。空を旅する男の話。ピーターパンをモチーフにしているそうだが、私はそもそもピーターパンにも詳しくない」
 へえ、と相槌を打つ私の声は、興味がないと思っていることをあからさまに滲ませていて。しかしトニーはそんなことにも構わず、空中に向かってしっとりとしたガトーショコラのような甘い声を吐き出すのだ。
 トニーが突然目覚めた趣味である、絵本の朗読。郊外のとある病院を慈善活動の一環として訪れた際に、絵本の朗読をせがまれたらしい。そこで一度読んでみた結果、思いの外好評を受け、トニーはそれからも何度かその病院で朗読を続けている。そして私に、「練習に付き合ってくれないか」と頼んできたのだ。私以外に適任はいくらでも居るだろうと思ったが、一度彼の朗読している声を聞いて以来、これを誰かと二人きりの時に聞かせるのはあまりに気が進まなかったので、今もこうして彼の「練習」に付き合っている。こうして何度も、トニーは図書館から適当に見繕ってきたものを、私の部屋のソファになんとなしに腰掛け、ぽつぽつと世界を紡いでいた。
 青空をきる綿あめのような雲だとか、夕焼けに溶けていく麦わら帽子の女の子だとか、大海原へヨット一つで冒険に出かける小人たちだとか、花びらを集めて魔法の宝石を作る街だとか。最初は、そんな世界に連れていってほしいとせがむのは思った以上に気恥ずかしかった。子どもの頃でさえ、絵本の中のめくるめく世界に飛び込むことなど一度も無かったのだ。しかし、糸をひとつひとつ鈎針で編んでいくように、ほろり、ほろりと広がっていくトニーの声が形どる世界に、一度だけじゃ飽き足らず、次も聞かせてほしいと、自らせがんだのは私だった。そう、彼から「練習」に付き合ってほしいと請われたのは、実は最初の一度だけだったのである。
「君は」
「うん?」
「退屈じゃないのか? 絵本の朗読なんて」
 トニーの不思議そうな声に、そうだなと微かに唇の端を上げた。
 そうだな、実のところ、退屈だ。私はあまりフィクションの世界には興味が無いし、役に立つ戦術が書いてあるわけでもないし、絵本を朗読している時の君は私のことを見ない。
「でも、たまにはいいと思うんだ」
 きょと、と彼が首を傾げた。この私が退屈なのもいい、なんて言う理由が、きっとわからないのだろう。
 わからなくてもいい。知られたら知られたで気恥ずかしいんだ。
 そんな思いを込めて、隣に座るトニーの肩を引き寄せてキスをした。これは、トニーの紡ぐ世界に飛び込むための、私のための儀式だった。

 

Fin.