ペイルブルー・ディミヌエンド

 

 

 やさしい音がした。

 瞼をあけることは、時に人にとてつもない労力を課す。トニーにとってもそれは例外でなく、まるで舞台の仰々しい緞帳のごとく、それは空へと引き上げられた。
「……――」
 さらさらと。
 最初は、葉がそよ風に揺れている音だと思った。だけどここは屋外ではない。他愛のない喧騒を聞き、思い出した。
 ぺっとりと。
 これは、絵の具の匂いだ。不快ではないけれど、トニーにとっては非日常な匂い。それにも増して鼻孔をくすぐるのは、すっかり冷めきったブラックコーヒーの香りだ。この豆はけしてトニーがいつも嗜んでいる高級なそれではない。しかし、時折口にしたくなる、懐かしさの色を持っていた。そうだ、初めてこれを飲んだとき、美味しいでしょう? と、得意げな顔をされたんだっけ……。
 ふうわりと。
 カーテンに濾された日の光。あたたかいと、だから、この机に突っ伏して眠ってしまったのだ。出先でこんな風に熟睡することなど、一人だったらけして許さない。
 だけど。左肘に当たる少々――いや、大分――硬い筋肉を感じて、ふっと顔を綻ばせた。一人じゃないのだ。
 ぼんやりと。
 左隣に顔を向けて、その姿を見た。眠りから目覚めたばかりの視界はまだ定まらない。その中でも確かにはっきりと輝いたのは、太陽のような髪でも、彫刻のような筋肉でもない。
 ――あおだ。
 あおの瞳が、トニーのうすらぼんやりとした視界の中で輝いていた。
 きっと、窓の外を熱心に見詰めている瞳に、太陽が反射しているから。眩しい。
 喧騒が形を成し、絵の具の匂いがコーヒーやらサンドウィッチやらの匂いにかき消されていく。ここはカフェだった、と、トニーはやっとのことで思い出した。
 こじんまりとしたこのカフェは、これまたこじんまりとした公園のすぐ横に在った。テーブル席は三つ。窓に面した席が五つ。自分たちは、その窓に面した席を陣取っていた。持ち運び用の小さな画材たちが、一人分のスペースを我が物にしている。几帳面に見えて結構雑な置かれ方をしているそれらに、持ち主の性格を表すようだと、くすりと笑った。
 今は何の絵を描いているのだろうか。
 隣の男がA5サイズのスケッチブックの上で、ちまちまと筆を動かしている様を見て、気になった。綺麗な鼻梁の目立つ横顔は、真剣そのものというよりは、力の抜けているリラックスした表情を載せている。たまに、ふと、口元を綻ばせる彼が、面白くないと。隣に居る自分が無視されたような気分になって、思わず、その手から筆を奪ってしまった。
「あっ」
 いとも簡単に奪われた筆に驚きの声を上げた男は、ぱちっと目を丸くして眉尻を下げた。
「トニー、起きたのか」
 それがまるで、ベッドの上で共に目覚めた時のような――そんな声をしていたので、降下していたトニーの機嫌はくんっと上向いた。
「随分楽しそうじゃないか、スティーブン」
 少しぶりっ子気味に、そう呼んで。案の定、小言を言おうとした唇は少しひらいたのちに引き結ばれた。
「何を描いてたんだ?」
 覗き込むと、スティーブは特に嫌がることなくスケッチブックを見せてくれた。
 緑が縁取る公園の中、指ほどの大きさで描かれている人々。家族に、恋人に、犬を散歩させながらジョギングをしている人に。空の色がまだ載せられていないこの中で、風景を鮮やかにさせているのは、人間だった。
「…………」
「君が見ても面白いものは描いてないだろう」
「そんなことはない」
 珍しく素直にそう言ったトニーに、スティーブは再び目を丸くした。
「君らしいな」
 言って、奪った筆を返した。
 スティーブは少し怪訝そうにしながらも、窓の外に視線を戻す。
 トニーも同じくそちらに視線を寄越しながら、思考はかなり昔のことに飛んでいた。
「……シェルヘッドは飲めないから」
 トニーの声に、スティーブは僅かに反応したものの、手は再び筆を掴みスケッチブックに色を添えていた。
「なんだその理由って、おかしかったんだよ」
 くすくす笑うトニーの方は向かないけれど、スティーブの意識は半分隣の男へと傾いていた。
「本当はアベンジャーズのみんなも連れて来たかったんだけど――?」
「あの頃はまだ、君がシェルヘッドだと知らなかったんだ」
 スティーブが反応したからか。久しぶりにその愛称を聞いたからか。嬉しそうにくふくふ声を立てるトニーに、スティーブは少しぶすくれた顔をした。
 初めてここを訪れたきっかけは、スティーブだった。主に金銭面でスティーブを援助していたトニーに、何か礼がしたいと、ここを紹介された。
『本当はアベンジャーズのみんなも連れてきたかったんですけど、あのコスチュームだとなかなか難しくて。それに、アーマーを着ていると、シェルヘッドは飲めないから』
 お気に入りのエスプレッソが入ったカップ片手に、スティーブは微笑んでいた
 そして当のシェルヘッド本人であるトニーは、その言葉におかしさを堪えていたのだ。正体を隠さなければと必死になっていたが、スティーブがトニーの目の前でアイアンマンのことを話すのを、楽しんでいたのも本当だ。
 蘇った我が国のヒーローの素顔は、こんなにも素朴な青年だった。それを、スタークさんと懐かれる度に、こそばゆく実感したりして。
 ……かわいかったのだ、と。言うとこの男は、少し眉を顰めて、不機嫌そうにするけれど。(そこも、また)
 隣では、スティーブが筆を新しい色に染めていた。見慣れた、だけど、自分にはあまり馴染みのない色に――思わず。
「君の色だ」
 言えば、スティーブは螺旋を描こうとしていた筆をぴたりと止める。今回は特にこちらに意識を向けさせる意図はなかったので、また彼の思考を中断させてしまったことに、後ろめたくなった。
 そんなところがいじらしいのだと、スティーブが思っていることをトニーは知らない。
「これが?」
 目の前に掲げてスティーブが見る。
 コバルトブルーをミルクでかき混ぜて、一粒水を垂らしたペイルブルー。
「君の色だよ」
 起こしていた身体を再び机に倒して、腕を枕にしながらスティーブを見上げる。
 スティーブは少しの間不思議そうな顔をしていたものの、ふいとスケッチブックに視線を戻しながら、「そうか」と相槌を打った。
「こんなにも柔らかい色か?」
 しかし、心底怪訝そうに言うものだから。トニーは腕に顔を押し付けて、笑いを堪える羽目になった。
「……からかったのか?」
「ふ、違うさ、ただ――」
 かわいいな、と。そう思ってただけだよ。
 口にすればこの男はすねるだろうから、言わないでおくけど。
「空を塗るのか?」
「いや、地面を」
「地面?」
「今日は空があおいから」
 スティーブの言葉の意味が分からず、首を傾げると、少々気まずそうに言われた。
「空があおすぎると、地面がそれを反射しているように見えることって、ないか?」
 口をポカンとあけてしまった。
「ないな!」
「…………」
 スティーブの感性はトニーに重なることはない。正直に言ったら、スティーブは唇を尖らせた。
「ああ、でも」
「……?」
「君の瞳は空を閉じ込めているから、その色をしてるんだと、いつも思うよ」
 トニーの口説き文句のようなそれに、徐々に目の前の頬がほんのりと染まっていく。
「……からかってるな?」
「まさか!」
 くつくつ笑うトニーに、スティーブはため息を零した。
 しかし、満更でもなさそうなのは、スティーブの今にもほどけそうな口元を見ればわかる。
 ――そういえば、今日はどうしてここに来たのだったか。紙に筆を滑らせるスティーブを見ながら考える。
 トニーが久しぶりに完全な休みをもぎ取って。そうだ、スティーブが行きたいところがあると声をかけてきたのだ。エルミタージュの展示品がここまでやって来たと、嬉しそうに道中話していた。帰り際に、少し休憩しようと……訪れたカフェが、ここだった。
(懐かしい。ここに来たのは、まだ二度目なのに)
 初めて訪れた時と変わらないメニュー。顔ぶれは変われど、店員の雰囲気は皆似通っている。あの頃と同じ匂い、同じ味のブラックコーヒーを、あの頃と同じ席で、同じ男と。
 ――ああこれは、ノスタルジーなのか。
 己にはついぞ縁のなかった感情が、じくりと胸に滲んでいく。
 だから今日はこの男がこんなにもかわいく見えるのだ。まだどこかおぼこくて、何もかもに戸惑ってみせたスティーブを思い出し、隣の男にそれを重ねた。
 随分と変わった。だけど、何も変わっていない。
 トニーは、スケッチブックに添えていた彼の左手に手を伸ばした。
「トニー?」
 ごつごつした、どこもかしこも太い指に、一つずつ確かめるようにして唇を落とす。
 スティーブはぎくっと体を強張らせた。
 最後に、親指にふれて。そのまま、舌で爪と指の間をくすぐった。
「トニー」
 今度こそ、咎めるような調子で名前を口にされた。こんな席は誰も見ていないので、トニーは構うことなく親指を口に含む。
「っ、」
 スティーブの筆を握る右手に力が込められた。音を立てるのは控えめにしていたが、きっと彼の耳には届いている。ぐるりと周りを舐め、指の先に舌を立てるようにすると、スティーブの目の色がぐにゃりと変わった。
 ああ。これが好きなのだ。
 空を閉じ込めたようなペイルブルーがなりを潜め、灰色がかった色味を増す。スティーブのその瞳は、あの頃も今も、変わらなかった。
「そろそろ退屈になってきた」
 ちゅぱ、と指から唇を離して言えば、スティーブはさらに眉間の皺を深めた。
「このままここで、君の指がふやけるまでしゃぶり続けてもいいが――」
 ちら、と上目でスティーブを見る。腕に右頬を預けながら、トニーは続けた。
「絵は帰っても描けるだろう?」
「……描きたい対象があれば、だ」
「そうか。ところで私は、久しぶりにヌードにでもなりたい気分なんだ」
 ぐっとスティーブの喉が鳴る。いい気分だ。かのキャプテン・アメリカが、真昼の日差しが満ちるカフェの席で、こんな顔をしているなんて、堪らない。
「ちゃんと聞いたぞ」
 スティーブは、そのまま画材たちを片付け始めた。トニーは笑いながら席を立つ。会計はもちろん自分持ちだ。
 そういえばここはカードが使えないのだったと、小さな財布を取りだしながら、スティーブの肩に手をかけた。何だ、と振り向こうとするのを遮って、そして。
「かわいいな、ロジャース」
 耳元で囁くと、今度こそこの男は、顔や首を真っ赤にさせた。
 その昔、トニー・スタークは若い金髪碧眼の男を囲っていると周りに噂されたこともあったが、まあ、間違いではないのだ。
 あのペイルブルーが自分を映し、鮮やかさを潜ませるのを楽しみにしながら、トニーはスティーブのうなじに指を添わせたのだった

 

Fin.