おかえり

 

「まだ他の皆は帰ってきてないみたいね。私はリビングを見てくるわ」
 自分たちにとっては偽物に等しいアベンジャーズタワーに帰ってくると、ナターシャはそう言って早々に階段を下りていった。
 先ほどこのタワーが現れたときは嫌悪感しか抱かなかったが、隣の彼が居ると途端に家に帰ってきたかのような錯覚を覚える。
「俺はシャワーでも浴びようかな」
 んー、と伸びをしたトニーが言った。
 以前よりも髪や髭が伸びており、トニーはそれをうっとうしそうに触った後スティーブを見上げた。
「君はどうする?」
 何ヶ月ぶりだろう、この明るいブラウンの瞳を見るのは。上目で見上げられると更に明るさが増す瞳を、つい見つめずにはいられなくて――。
「キャップ?」
 怪訝そうに呼ばれてはっとした。
「あ、ああ……」
「大丈夫か?」
 問われて、スティーブは返事をすることができなかった。ぼおっとしたままの男を見かねて、トニーは苦笑する。
「俺の部屋――って呼ぶのが正解かわからないが、来るか?」
 一呼吸置いた後、こくりと頷く。くるりときびすを返したトニーの半歩後ろを付いていく。久しぶりに聞く甘めの声やくるくる変わる表情に、ああ、と納得する。
 自分は、トニーと一緒に居たかったのか。
 スティーブは、彼の元を離れたくないという己の感情も自覚できないぐらい、思いがけない再会に未だ混乱していた。

 

 彼の部屋のベッドに座って、スティーブはぼおっと周りを見渡した。トニーが居なくなった時の部屋の様子のままだった。
 彼があの現実世界から姿を消してからというものの、この部屋に足を踏み入れたのは一度きり。トニーが居ないという現実を思い知らされるのが辛かったので、スティーブはそれ以来この部屋に立ち入ろうとはしなかった。
 トニーはもう死んでるかもしれない、と。誰が言い出したのかはもうよく覚えていない。トニーの犠牲によりウルトロンを封じた後、自分たちもまた別世界に飛ばされたりと、様々な出来事があった。だからと言って忙しさにかまけて彼を探さなかったわけではない。
 怖かったのだ。彼を探して、「トニーはもう死んでるかもしれない」と、そんな事実に突き当たってしまうことが。トニーの不在を埋めるようにして明るく振る舞ったり、彼の軽快な言動を真似してみたり。スティーブのそんな姿は他のメンバーには頼れるリーダーとして映っていただろうが、スティーブ本人にとっては、臆病さに負ける自分を誤魔化していたに等しかった。
「面白くない顔だな」
 降ってきた声にはっとする。シャワーを浴びたトニーが、バスルームから顔をひょっこり出していた。
「さっきはあんなに嬉しそうな顔をしてたのに」
 言って、トニーはバスルームのドアを開け放したまま鏡に向かった。はさみを持ったアームが伸びてきて、彼の増えた髪を切り始める。
「ここにもちゃんとフライデーは居るんだな。前よりももっと男前にしてくれよ」
『できる限りの範囲で、トニー』
「微妙な返事だな……」
 髪を切るのをフライデーに任せたトニーは、剃刀を顔に近づけて伸びた髭をそり始めた。
 そんな様子を見ていると、途端に胸にこみ上げてくるものがあった。もう何度も見ている光景だ。自分はベッドに寝転んだまま、彼が身支度を整えるのを見つめている。また別の日には、ジョギングから帰ってくると、トニーはちょうど髭を整え終えていたり。
「よし、やっぱりこれが一番だな」
 髪も髭も整え終わったトニーがいつもの私服に着替える。それを見て、スティーブは無意識のうちに立ち上がっていた。
 もう何ヶ月も前に失ったと思った日常が、戻ってくるかもしれない。このバトルワールドを解決に導いて、トニーと一緒に、メンバー全員で帰ったら、あの賑やかで愛おしい日常が戻ってくるのだ。
 手を伸ばしたら、彼に触れることができる。トニーと再会したあの瞬間に彼を抱き上げてしまったけれど、今一度、この手で確認したかった。
「キャップ、このあとなんだがっ」
 トニーが振り返ろうとする前に、後ろから彼を抱きしめた。腰に腕をまわして、肩に額を押しつける。
「……スティーブ?」
 トニーの口から久しぶりに聞く己の名前に、目の奥が痛いほど熱くなる。
「え、おい、スティーブ?」
 肩がじわりと濡れていく感触にトニーが戸惑った声を上げる。その声を聞いて、スティーブは己が泣いていることを初めて自覚した。
 自分でも戸惑って、思わず大きく息を吸う。すると、恋しかったトニーの匂いを全身で感じてしまって、ますます涙が止まらなくなってしまうのだった。
「……どうしたんだ? さっきまで全然大丈夫だっただろ?」
 自身を抱きしめてくる腕をトニーはぽんぽん、と優しく叩いた。そのあたたかい声に感情が抑えられなくなって、更に力強くトニーの体を抱きしめた。
 さっきまで大丈夫だったのは、ナターシャが居たから。彼女がトニーと再会できてどれだけ嬉しいのかを自分は知っているから。彼女が「私もトニーに会いたい」と口にしたから。「私も」と、言ってくれたから。
 ああ、違う、私が言いたいことは、こみ上げてくるものは、そんな理性的なものじゃなくて――。
「…………会いたかった」
 お粗末なほどにか細い声で呟いたそれを、トニーはしっかり受け止めてくれた。
 肩にのっているスティーブの頭にこつん、と己の頭もくっつけて、
「うん」
 と、トニーは返した。
 すると突然、部屋の外から賑やかな音がした。ハルクの大きな声が聞こえてきたので、メンバーたちが帰ってきたのだろう。
「……と、帰ってきたみたいだな」
「…………」
「俺は向こうに行って顔を見せてくるが――」
 君はどうする? と尋ねられた。
 しかし、このぐしゃぐしゃの顔のまま皆の前に出て行くことはできない。キャプテン・アメリカともあろうものが、この不可解な世界でただでさえ不安でいるだろうメンバーに泣き顔を見せるわけにはいかないのだ。自分の言動がいかにチームを鼓舞させるかを熟知しているからこそ、これからの士気を危うくさせるようなことをしてはならない。
 肩口に顔を埋めたまま首を振ると、トニーが吐息をこぼして柔らかく笑う。
「目、冷やしておくんだぞ」
 腕を数度優しく撫でられたスティーブは、やっとトニーの体を離した。泣き顔を見られるのが恥ずかしく、ぱっとトニーから顔を逸らす。
「スティーブ」
 後ろでトニーが柔らかく名前を呼んでくる。
「俺も」
 その言葉を最後に、トニーは部屋を出て行った。
 リビングの方で沸き立つ声が聞こえ、スティーブはやっとのこと、先ほどのトニーの言葉を理解した。
『俺も、会いたかった』
 未だ混乱しているので、彼の言葉を咀嚼するのにも大分時間がかかってしまう。賑やかなリビングの声に、もう少しトニーを独り占めしたかったと子供じみたわがままがにじみ出てきた。
 そして、髪も髭もすっかり綺麗にする前に、もっとあのあたたかそうな彼を堪能すればよかったと、お気楽な後悔もわいてきたのだった。

 

 余談だが、この後しばらく、トニーが腕を広げる仕草をするたびに吸い寄せられるようにしてスティーブが彼に抱きつきに行くようになるのだが、それはまた別の話。