ディア マイ レジェンド

 手を引いて連れてきた場所は、この五年間何度も通った、実家の最寄駅から電車で三十分ほどのところにある、萎びたラブホテルだった。
「ごめん、金なかった」
 部屋に着くとカラ松は慣れたようにベッドに腰掛け、俺はそんなカラ松にぼそりと謝った。カラ松はちらりと俺を見たあと、ふっと目尻を柔らかく溶かして両手を俺に広げる。
「おそ松」
 俺だけに広げられた胸がとても大きく見えて、たまらずぼすんっと顔を埋める。カラ松は右手で俺の頭を撫でて、左手で背中をぽんぽんと叩いてくれた。
「どうした、そんなに浮かない顔をして」
 幼い子供に聞かせるような、低くて甘い庇護のための声だった。
「カラ松」
 甘えた、強請るような声が出た。カラ松は俺のつむじにキスを落として「なんだ?」と聞き返してくる。
「ごめんな」
 俺が贈った四文字に、俺のすぐ下の弟は「うん」とそれだけ頷いた。
 寂しいか、と聞かれたら、ぜんぜん、とおちゃらける余裕もないほどに。

          *

 おそ松、と、父さんの声がした。俺は居間で漫画を読みながら寝転がっていたけど、普段よりも低く温度を感じ取ることのできないその声に肩をぴくりと震わせたのだった。父さんの方を見ないままむくりと起き上がる。台所からは水の音が消えて、母さんもこちらに歩いてくる足音が聞こえた。
(思ったよりも、長かったけど)
 もう随分と前にしたはずの覚悟を思い出しながらくるりと振り向く。卓袱台の向こう側では、父さんと母さんが正座をして俺を見つめていた。
「なに?」
 本当はもっとおちゃらけた返事をするつもりだったのに、出てきたのは何のひねりもない真意を尋ねる声だった。二組の瞳が俺を映す。責められているような色を勝手にそこに感じて、俺は逸らしたくなる顔をなんとか耐えるのだ。口元は引きつってやしないだろうか。
「お前たちのことだ」
 父さんが口を開いた。お前たち、とぼかされながらも脳裏に浮かぶのは一人の姿だけだ。ここには赤しかなくて父さんと母さんの目に映るのもそれだけだ、でも。
「あなたと、カラ松のことよ」
 母さんは昔から物事をぼかすことを好まなかった。父さんが気まずそうに口に出せなかったことを、この人はいとも簡単に言葉にしてみせる。自分の両親が長年の月日のなかで培ってきた呼吸に嫉妬する。そんなの、俺たちだっていくらでも身に着けてきたのに。血も繋がっていない、遺伝子も違う男と女なのに、こんなにも一つなのだ、夫婦というものは。
「えー、俺たちなんかした? あ、仕事を見つけろっていうのはちょっときついな。他のことなら、」
「お前たちは、関係を持っているのか」
 ひゅっとのどから鋭い息が零れる。
 はは、と乾いた笑いさえ出てきそうだった。好きあっているのか、兄弟以上なのか、恋人なのか。いくらでもかけられる言葉は想像していたというのに、父さんの口から吐き出されたものは、率直に自分たちの肉体関係を問うものだ。
 もうちょっとこう、オブラートに包むとかあるじゃん。少しずつ責めてくとかあるじゃん。父さん、それはちょっと、いきなりすぎだよ。
「見たの?」
 否定も何もできなかった。結局俺は誤魔化す余裕も何でもないように取り繕う演技力もなくて、弟たちや他人の前ではああも簡単にやり過ごせることも、この二人の前では何の意味もないことを悟った。
「あなたたちは、そうなのね?」
 母さんは俺の質問に答えなかった。返ってきたのは断罪にも似た優しいナイフだ。いつもあんなに聞きなれているはずの声が心に柔らかく刺さっていく。
 ぶわっと頭が沸騰するような心地を覚えた。それは、純然たる怒りだった。
(そうやって、俺らを責めるんだろう? はっきり言えよ、おかしいって)
 息子を案じるように優しい声色を出す二人が憎かった。あいつが居ない所で俺一人に静かに問いかける二人が憎かった。いっそ激昂してくれたらいいのに。俺が反抗期だったころみたいに殴り飛ばせばいいのに。おかしいと、気持ち悪いと言えばいいのに。なぜ今この二人は親の顔をしてみせる。そんな、父と母の顔をして。
(あんたらはいいよな。男と女で、血のつながりなんかなくて、結婚して、子供が六人いて、全員ニートになっちまったけど、でも、おかしいなんて絶対に言われやしないんだ)
 ぐっとあぐらをかいた膝の上で拳を握る。震えを抑えるのがやっとだった。
「だったら……――ッ!」
 何だって言うんだ、と続けたかった言葉は、俺が目を上げて二人の顔を真正面から見つめたせいで途切れてしまった。
 二人の目尻には、こんなに皺が刻まれていたっけ。
 歳を取った。俺はこんな時に自分の両親に向かってそう思ったのだ。引き結んでいる口元、たるみ始めた肌、俺たちが六人で一つになってはしゃぎまわっていたころは宵のように黒かった髪が今は雪のように白がまばらに散らばっている。
 俺が思っていたよりも、この二人は歳を取った。頭の中でガンガンと何かが暴れまわる痛みを感じる。父さんと母さんが名前も知らない親戚の子どもを抱いて顔を綻ばせていたのを思い出す。孫が楽しみだと、そんな二人の会話は聞かぬふりをした。
 父さんと母さんは、俺たちの子どもに「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼ばれていても、おかしくない歳だった。
「――――無理矢理だったんだ」
 掠れた声が出た。再び顔を下に向けてしまう。俺の小さな声を聞こうと、二人が少し体を寄せたのを気配で察した。
「俺が、無理矢理あいつを巻き込んだから。だから、あいつは悪くないんだ」
 その時、ガララッと玄関が開く音がした。はっと俺も二人もそちらの方に顔を向ける。ただいまーと聞こえてくる声は四つ。俺はその声たちが誰のものかと見分けることなんて朝飯前だったし、自然と腰を上げていた。
「俺のせいだから、あいつのことは怒んないで」
 立ち上がって早歩きで居間を出ようとする。父さんと母さんは俺を引きとめようとしなかった。襖に手をかけてそれを言ってしまったのは、俺の最大の誤算だった。
「父さんと母さんがさ、羨ましいよ」
 居間を出て襖を閉める。そんな俺を四人の弟たちが見つけた。
「おそ松兄さん?」
 声をかけてきたチョロ松に曖昧に微笑んで、四人の横を通り過ぎる。
「どこ行くの?」
「あー、夕飯食べないからさ、母さんに言っといて」
「あれ? 一緒に居たんじゃないの?」
 一松の質問に答えて、トド松の不思議そうな声には返事をしなかった。靴を履いて、先ほど閉められたばかりの玄関を開ける。五月の空は真っ青で、濃い緑色が目に痛かった。
「おそ松兄さん?」
 十四松が俺の服の裾を掴もうとして、やめた。俺は振り向こうとして結局そのまま玄関の戸を閉める。外に出てしまったら、家の中の音は全くと言っていいほど聞こえない。
 道路に出てあてもなく歩く。歩く、歩いて、足が早まって、気づいたら俺は全力で走って一つの姿を探していた。どこにいる。何でお前の居場所を俺は知らないんだ。朝起きた時にどこに行くんだと聞けばよかった。俺も行くって着いて行けばよかった。
 会いたい。会いたいよ。
「おそ松?」
 気づけば橋に居た。そこで見慣れた青いパーカーを見つけて立ち止まるのと、名前を呼ばれるのは一緒のタイミングだった。
「カラ松」
 泣きそうになって、その衝動の赴くままに腕を掴んでいた。ぐいっと引っ張って早足で歩きはじめる。カラ松は何かを言おうとしたみたいだったけど、俺の手を振り払うことなく着いてきてくれた。
「カラ松」
 歩いている間、俺は何度もカラ松のことを呼んだ。呼ぶたびに掴む手の力を強くして、俺より少しだけ高い体温を噛みしめる。すると、カラ松が掴まれていないほうの手で俺の手のひらをほどいた。
「……っ」
 ばっと後ろを振り向くと、カラ松はほどいたかわりに二人の手を繋いで見せた。指を絡めて、さっきの一方的ではない、それは所謂恋人つなぎと呼ばれるものだった。
「ここにいるぞ」
 そう言って笑う弟に俺は無性に抱き付きたくなって、早く、早くと二人きりになれる場所を探していた。

          *

「この前、縁側で居るの見られたのかな」
 カラ松の中に入って精を出した後、しばらく俺は動かないでいた。未だ少し芯が残っているそれをゆるゆると動かすと、カラ松がきゅっと眉を顰める。
「そうか。少し軽率だったかもしれないな」
「うん」
 でも、しょうがない。あの時はもう一か月ぐらいこうして触れ合うことなんてできなくて、俺もお前も限界だったのだから。
「カラ松」
「なんだ?」
「もう、五年だね」
 それが何を意味するのかをカラ松もよく知っている。俺はカラ松の体ごと横に倒れて、ベッドの上で二人向かい合う形になる。
 高校を卒業してすぐだった。お互いが抱える気持ちには気づいていたけど言葉にする術も勇気もなかった俺たちは、学生という衣が剥がされた後、文字通り体でもってして自分たちを繋げた。とんでもなかった。まともに手を繋いだことも抱きしめあったことも唇を重ねたこともなかった俺たちは、その全てを飛び越えて粘膜と内臓を擦りあわせて、ぶっ飛びそうな気持ちよさの中、名前を呼びあって泣きじゃくったのだ。
「懐かしいな」
 頬を人差し指の背で撫でられる。素直に目を閉じて甘えるようにすると、額にキスを落とされる。普段俺に対しては結構ドライな面を見せるこいつだが、二人きりのベッドの中ではこんなにも甘ったるい。癖になる。俺はこいつに甘やかされるのが好きだった。
「どうしようね、これから」
 カラ松の胸に抱き付いて、答えを求めるでもなく問いかけた。頭を撫でられてその気持ちよさに浸っているとこのまま眠ってしまいたくなる。頭も体もちんこもカラ松にあたたかく包み込まれて、これ以上ないってくらい幸せだって思った。
「寝るか?」
「んー……」
 ぐずるようにする俺に苦笑して、カラ松は身をよじった。流石に俺のを埋められたままなのはきついのか、なんとか腰を離そうとしている。その腰を片手で掴んで、もう一度カラ松の上に乗りあげる。
「もういっかい」
 カラ松の中で俺のがどんどん芯を持ち始める。カリのくびれのところがイイ所に当たるのか、カラ松は上ずった声を出して俺の背中に手をまわす。
「いい、ぞ」
 その吐息も全部俺だけが知っていればいい。そんなわがままに突き動かされてカラ松の口をふさぐと、塩辛い味がした。俺の冷たく濡れている頬を、カラ松が両手で包む。

 シャワーを二人で浴びて俺はぼすんっとベッドに転がった。ついさっきカラ松に髪を乾かしてもらったから枕を濡らす心配もない。うつぶせになってちらりと横を見ると、カラ松はスマホを手にしていた。
 誰と連絡を取っているのか。いや、誰からの連絡が来たのか。それを知りたくなくてふい、と顔を背ける。するとそんな俺の様子に気がついたのかカラ松はすぐに俺の隣へとやって来た。
「カラ松」
「なんだ?」
「……なんでもねぇ」
 誰と話してたの。聞こうとしてやめた。明日のことを、先のことを考えるのは怖い。これから考えなきゃならないことがたくさんあることはもちろんわかっているけれど、シーツを握りしめていると、だめだった。
「そうか」
 くしゃっと頭を撫でられる。あたたかくて優しい手つきに瞼がとろんとおりてくる。こうしてカラ松がそばにいる時に眠りにつくのが、たまらなく幸せだった。

***

「結婚記念日って、正直息子たちから何を渡すんだよって感じだよね」
 十九か、二十歳のころだったか。両親の結婚記念日に何かプレゼントでもしようかと六人で百貨店を見て回っていた。
「そもそも二人とも覚えてるの? 何かしてた記憶もないんだけど」
 トド松がそう言ったら確かにとみんな宙を見つめる。でも、ふと、カラ松がすたすたと歩き始めた。
「カラ松兄さん?」
「昔……中学のころだったかな。父さんがあそこの店の菓子を買ってきてたんだ」
 ふうんと他の五人が曖昧な相槌を返すと、笑いながらあいつが振り向いた。
「父さん、普段そんなの買ってこないから変だなと思ってて。あれ、もしかしたら母さんへのプレゼントだったんじゃないか?」
 カラ松の言葉に、トド松が「あっ!」と声を上げた。
「母さんが食べてもいいってくれたゼリー? あれ、確かお酒入っててボクたちまだ美味しいって思えなかったんだよね」
 トド松が話すと俺たちも徐々に思い出してきた。中学の頃。確かに、あの時期は二人の結婚記念日と重なっていた気がする。
「ああ見えて父さんも結構マメだから、今もこそっと渡しているのかもな」
 はにかむようにしてそう言ったカラ松に、なぜか胸がちくっと痛んだ。
 カラ松を追って弟たちも駆けていく。百貨店なんて普段俺たちは足を踏み入れないからそわそわと浮足立っていたのだ。父さんと母さんは結婚記念日を自分たちで祝いあって、息子たちにもそれを祝福してもらっている。じくじくと痛むのは、単純に羨望の気持ちゆえだと俺だって気づいてた。
 俺たちがそういう関係になってもうすぐ一年。初めて体を重ねた日が両親の結婚記念日だったと気がついたのは、奇しくもその時だった。

***

 朝日の色はミルク色。カラ松はいつかそう言っていたけど、俺はビールの金色に見える。情緒がないって怒られるから言わないけど。ゆったりと目を開けるとぼやあと顔が見えてきた。俺と全く同じ顔。違うのは眉毛の角度くらい。
「おはよう」
「……はよ」
 ここはどこだと一瞬呆けてしまった。しかし視界がはっきりするにつれて次々と昨日のことが頭に思い浮かんでくる。カラ松がそおっと右手を俺に伸ばしてきた。思わずぴくっと身じろぎしてしまう。何を、言われるんだろう。
「おそ松」
「なに」
「とりあえず、泣かないでくれると嬉しい」
 は? と思った。何言ってんのと顔を動かそうとして、ふと、右耳が濡れたように冷たいことに気がついた。
「え」
 枕が濡れている。そして目元も熱は引いていたけど涙の痕か何なのか、ぱりぱりとしている。俺泣いてたのか、と俺はその時初めて気づいた。
「うわ。ガチ泣きじゃん。なにこれ」
「あ、こするなよ」
「かっこわりぃなぁ」
 ぐし、と左手で目元に手をやると擦るなと叱られてしまう。でも、なんだか自分が酷くかっこ悪く思えてしまってだめだった。
 そしてふと、左手の違和感に気づく。
「ん……」
 違和感は指の方にあった。詳しくは、薬指。なんだ? と思いながら見ると、そこには何本かの糸でできた輪っかがはめられていた。
「は?」
 何だコレ、と思わず口に出す。俺に覚えがないということは、犯人はカラ松しかいない。するとこいつは一瞬目を泳がせて、ぱちりと大きく瞬きをしてみせた。
「なにこれ」
 今度は間違いなくカラ松に問いかける。目の前の弟は右手で俺の薬指を撫でて「数えてみろ」と、それだけを告げた。
「数える?」
「数えるというか、そうだな」
 色を、見てくれ。
 そう言われて今度はしっかりとそれを見る。指輪に、似てると思った。でも指輪というには頼りなくて、くんにゃりとしている。
 それは、緑、紫、黄、桃の糸で紡がれていた。
「……――」
 ばっとカラ松の顔を見る。カラ松も左手を出してみせた。その薬指には、俺と同じものがはめられている。
「とりあえず、試しに作ってみたんだそうだ」
 はにかむ顔を見て、俺はぱか、と口を開けるばかりだった。なんで、とか、いつから、とか、聞きたいことはいっぱいあるのに一つも声となって外には出てきてくれない。
「昨日、トド松から連絡があってな」
 カラ松兄さん、多分、今なんだと思う。この間ボクたちがあげたやつ、渡しといてよ。あの人どうせどうしようどうしようって泣いてるでしょ。うーん、もう寝てるかな。ま、いいや。帰ってくる時は連絡してね。母さんが今日の夜は豪華にするわよーってはりきってるんだから。だから、夕飯までには帰ってきてね。帰ってこいよ。
「え……なんで」
 トド松の留守電のメッセージを聞いて、混乱するばかりだった。カラ松は携帯を枕元に置いて俺の左手を絡めとる。
「前からあいつらが作ってくれてたらしいんだ。それで、ついこの間もらってな。今がちょうどいいタイミングだろうと思って」
「そうじゃなくて!」
 思わず大きな声が出てしまってはっとする。カラ松は表情を崩さずに朝日を溶かす澄んだ瞳で俺を見つめるばかりだった。
「なんで。あいつら、知ってんの……? いつから、」
 ぱちくりと瞬きをした後、カラ松はふっと笑ってみせた。
「さあな、それはオレもわからん。でも多分、結構前からじゃないか?」
「は……」
「あいつらもあれで敏いからなぁ。オレたちなんかじゃ隠しきれなかったってことだ」
 あまりにもあんまりな事実に茫然とする。カラ松は相変わらず笑うばかりで、俺ははくはくと間抜けな顔をさらしてしまう。
「なんだよそれ。そんなの、一言言ってくれたって」
「オレたちが隠そうとしてるのもわかってたんだろう。それか、言うほどのことじゃないって思われてたか」
 弟たちの顔が思い浮かぶ。じゃあ、あんときも、あんときも、あんときもばれてたってことかよ。何だよそれ。ばかみてえ。必死に隠してた俺たちは。俺は。
「あいつらの手のひらで踊らされてたってわけ?」
「というか、多分そこまで興味を持たれていなかったんじゃないか?」
「意味わかんねえよ! は? だって上の二人が恋人って、セックスしてるって、興味持つ持たないの話じゃねーだろ!」
 ぐああっと怒涛の勢いで叫ぶがカラ松は依然としてあっけらかんとしている。こいつがこうも落ち着いてることも納得いかねえ。なに。俺の弟たちってこんなにも感性とかそういう色んなもん、ずれてたっけ。
「まあ何だ。それぐらいオレたちが兄弟以上のことをしてても、あいつらにとってはただの日常でしかないんだろう」
 寝転がったままなのに膝が崩れ落ちそうになる。
(なに、なにそれ)
 手が震えてきそうだった。目の奥がぐうっと熱くなる。六人で居間でごろごろしているときのことを思い出して、胸を掻き毟りたくなるような衝動を覚えた。
 俺がカラ松とセックスしてても、愛を囁いていても、それはただの日常なんだ。なにも変わったことなんてない。六人で朝起きて、飯食って、それぞれ遊びに行って、銭湯に行って、おなじ布団で眠りにつくのと一緒。そんな日常の一つに過ぎなくて。
「――ああ、だから、泣かないでくれると嬉しい」
 冷たかった目元や右耳が熱くなる。熱が引いた目元が再びぼろぼろとダムを決壊させる。
「なん、だよ、それぇ……」
 カラ松の男らしい指が俺の涙を掬う。天の川みたいだ、なんてイタイ言動をつっこむ余裕もないんだこっちは。
「指輪ももらったことだし。なあ、」
「なに」
「結婚しようか、おそ松」
 ふにゃんととろけたような顔で見つめられてしまって、俺はそれに見とれることしかできなかった。結婚、との言葉に酷く胸の辺りが甘ったるくなって、塩辛いはずの涙がどろっどろの砂糖水に変わったみたいだった。
「結婚って」
「オレと一緒に人生の墓場に入ろう」
「ぶはっ! お、俺たちどうせおんなじ墓入んだろ!」
「はっ、それもそうだな」
 シリアスなんだか穏やかなんだか笑えばいいんだか感情が混乱している。そんな中でカラ松は、俺の左手の薬指に口づけやがった。
「病める時も、健やかなるときも、オレはお前と一緒に生きていくぜ」
「誓ってくれんの?」
「もちろん。おそ松は?」
 口づけたままのカラ松の顔は悔しいけどかっこいい。こういうキメ顔は結構様になるんだよなぁ。
「誓う誓う。カリスマレジェンドに誓う」
「それはつまりお前なんじゃ……?」
「いいよなんだって。俺が誓ったこと、お前が知ってるなら」
 するとカラ松は、かあっと器用に顔だけを真っ赤にした。赤面症のきらいのあるこいつは、照れるとあまりにもわかりやすすぎる。
「ねえ」
「な、なんだ?」
「抱きしめてもいい?」
 おちゃらけたように言ったつもりだったけど、思ったよりも真剣な声色になってしまった。カラ松は一瞬口をぱかりと開けたあと、照れくさそうにはにかんで両手を広げた。
「どうぞ、マイレジェンド」
 迂闊にも肋骨が一、二本やられるとこだった。笑いをこらえながらカラ松の頭を胸に抱え込む。昨日、カラ松の心音を聞きながら眠るのが心地よかった。そのお礼とは言わないけど、俺の心臓の音をカラ松が好きだってことぐらい知ってる。
「おそ松。オレは、幸せはいくらもらってもいいものだと思ってる」
「どしたの急に」
「オレはお前とこうして抱き合ってるだけで世界一幸せ者だと思えるんだが、でも、これ以上を望んだって、ばちなんか当たりはしないんだ」
 ぐっと喉が詰まる。それは苦しさなんかじゃなくて、幸福感で満ちているが故のものだった。
「もっともっと、幸せになってみようか」
 カラ松に問いかけられて、ぎゅうっとその体を抱きしめる。
「うん」
 そうやって返事をするのが精いっぱい。これ以上口にしたら、もう何度目かもわからない涙を流しそうだ。
「父さんと母さんみたいに、幸せになってみようか」
「うん」
「弟たちに囲まれて、幸せになってみようか」
「うん」
「あの家で、幸せになろう」
 結局、たった二文字すら返せなくてカラ松にぎゅうぎゅうしがみつくばかりだった。
 ねえ、俺の胸元が濡れてるのも勘違いじゃないよね。泣いてるの、俺だけじゃないよね。
「おそまつ」
「うん」
「オレ、お前の弟でよかった」
 すっかり泣きじゃくっている弟に、兄ぶって「泣くなよぉ」なんて言ってしまった。自分も鼻水ずるずるになって泣いてるくせに。
「へへ。俺ら、結婚したんだな」
「家帰ったら披露宴だな」
「いいね。あいつら余興でもやってくんねえかな」
 朝日はすっかり空に昇り青空をさんさんと照らしている。俺たちだけを照らしているように思えた太陽は、結局この街全てをまんべんなく明るくしていく。
「……俺も」
 お前の兄ちゃんでよかった。
 そう言いながらキスした唇は、とんでもなくしょっぱくて甘かった。

          *
 
「いつから気づいてたの?」
 そう尋ねたのは、意外にも一松兄さんだった。昼ごはんの準備を手伝いながらさりげなく、それでいて緊張したような物言いに母さんはくすりと笑ってみせた。
「何年あんたたちのことを育ててると思ってるの。最初からよ」
 父さんは仕事に出かけてしまったけど、今日はなんとしても定時には帰ってくるらしい。父さんと母さんが最初に気がついていたというなら、ボクたちが知るよりも大分前に二人はおそ松兄さんとカラ松兄さんの関係を見守っていたのだろう。改めて、男六人を育て上げた両親の器のでかさに感嘆のため息を吐いてしまう。
 ボクたちの中で一番最初に気がついたのは十四松兄さんだった。一松兄さん、チョロ松兄さん、そしてちょうど一年ほど前にカラ松兄さんの寝顔を見るおそ松兄さんの横顔を見て、ボクはそれを知った。兄さんたちは他の兄弟に二人のことを話さなかった。そしてそれはボクも同じだった。特に言うほどのことでもない。みんながそう思っていることにボクは人知れず安心感を覚えていたのだ。
 婚約指輪でも作ってやろうかと言い出したのは果たして誰だっただろうか。ミサンガを作るような感じで、糸で作ってみよう。金もかからないし簡単だし、それぐらいのほうがあいつらもいいだろうと、そう言ったのは確かチョロ松兄さんだ。それができてカラ松兄さんに渡したのがちょうど一週間前。あの人は驚いた顔をしてみせたけど、ボクが思っていたよりも慌てふためいてはいなかった。カラ松兄さんは多分、ボクたちが二人の関係を知っているということを知っていた。頭の回転がいい人ではないけど、その分、変なところで察しのよさを見せるのがあの次男だった。
 昨日おそ松兄さんが出て行ってしまって、ボクたちは何事かと居間にいた両親に問い詰めた。そしたら、
「あいつらもかなりのお熱だなぁ」
 と、父さんが笑いをこらえながらそう言った。
 ボクたちは口を開けて呆けることしかできなくて、何かあったら両親に二人がどれだけ真剣なのかを話そうと思っていたボクたちは拍子抜けしてしまった。結局、息子は所詮息子だ。ボクたち六人を産んでみせた母と、息子六人に妻一人を養い続けている父は強い。
「気持ち悪いとか、思わなかったの?」
 一松兄さんは話を続けた。このことで話を続けようとする一松兄さんが珍しくて思わず手を止めて見ていると、チョロ松兄さんも十四松兄さんも同じようだった。
「おれは、一瞬思ったことあったから。母さんたちはどうだったのかなって」
 一松兄さんが言うこともわかる。血縁関係者が「そういう関係」だと知って一瞬でも嫌悪感を覚えてしまうのは本能のようなものだと思う。ボクは自分が片時でもそう思ったことを自己嫌悪するつもりもないし、誰かを責めるつもりもない。きっとそれは他の兄たちも一緒だ。
「そうねぇ。思ったこともあったかもしれないわ。でも」
 ごはんをよそった母さんが一松兄さんと一緒に居間に戻ってくる。茶碗を並べて、ボクたち四人は母さんと向き合った。
「母さんたちね、息子を六人も育ててきたから賑やかなのに慣れちゃってるのよ。だから、全員お嫁さんもらって家を出ちゃったら寂しいでしょう? あの二人が残ってくれるなら、年をとっても寂しくないわ。そう考えちゃってね」
 くすくすと笑う母さんを見ていたら、なぜか部屋の輪郭がぼやけていく。目の前の人は、やっぱりボクたちの母親なのだ。父さんと母さんが何を話し合っていたのか、何を考えていたのか、これから先二人をどう受け入れていくのか、ボクたちは知らない。
 でも、
「ありがとう」
 鼻水をすする音とともに、十四松兄さんの声が聞こえた。ああ、この人は、愛する人と別れることがどういうことなのかを知っている。知っているからこそ、この兄の「ありがとう」の言葉はボクたちの胸にもじわりじわりと染み渡っていく。
「不甲斐ない兄たちだけど」
 チョロ松兄さんが正座をする。一松兄さんも、十四松兄さんも、そしてボクも、それに続いた。
「よろしくお願いします」
 チョロ松兄さんの声は、かっこよかった。この人も兄なんだなぁって思ったら、またじわりと涙が浮かんできてしまう。一緒に頭を下げて、畳に涙の痕がぽつり、ぽつりと残されていく。
「いやねぇ。顔を上げなさいバカ息子たち。そういうことは働いてから言うものよ」
 ころころと笑われて、それもそうかと顔を上げたボクたちも声を上げて笑ってしまった。
「とりあえず、今日は赤飯にでもしようかしら」
 買い物にはついていく、と話しながらボクたちは箸を手に取った。いつもは母さんは居間の卓袱台でご飯を食べないから、今日こうして五人で机を囲んでいるのが新鮮に感じた。
「兄さんたち、いつ帰ってくるかな」
「夕飯の時間には帰ってこいって言っておいたよ」
「どうする? 帰ってこなかったら」
「近場のラブホ奇襲しにいく」
「ヒヒッ、えげつないね」
「ちょっと、それだけは勘弁してよね!」
 ああ、だから、早く帰ってこい。ウエディングケーキぐらいなら、近所の店で買ってきて用意してやるからさ。んで、どっか遠出してハネムーンにでも行ってきなよ。資金が出せるかはまた別だけどさ。
 その時はお土産よろしくね、兄さんたち。