(命題:トニー・スタークが猫に似ているのならば、トニー・スタークは猫である。)
【一日目】
これは私の極めて私的な報告書、否、日記である。万が一これを見てしまった者は即刻私に知らせること。
昨夜、研究室で机に突っ伏して寝ているトニーを見つけた。恐らく新しいアーマーの開発にでも勤しんでいたのだろう。しかし、もう夜が更けているというのにそんなところで寝ていては体調を崩してしまう。
私は彼を自室へ運ぼうと、その体のわきに手を差し込み持ち上げようとした。
なぜこんなことを書くのかというと、私自身、その後の彼に驚いたからだ。
伸びた。トニーが。にょーんと。
……いや、伸びたというのは正確な言い方ではないかもしれないが、体感としてはその言い方が一番しっくりくる。
伸びた。伸びたのだ。まるで猫のように。にょーんと。
トニーの身長体重胸囲腹囲股下諸々は把握している。だからもちろん、突然トニーの身長が伸びただとか、体が薄くなっただとか、そういうわけではない。トニー自身の体が変化したわけではないのだ。
ただ、彼の体を持ち上げた時に、確かに伸びたと感じた。
私はそれが不思議で不思議でたまらない。己がこの体ゆえ、人間の身体的な諸々については一般よりも深く熟知しているつもりだが、昨夜のことだけはよくわからなかった。猫は持ち上げたりすると思いの外その体の長さに驚くものだが、人間は違う。伸びない。特殊能力でも持っていない限り。
そこで、しばらくトニーのことを観察してみようと思う。彼には色々トレーニングをつけたりスパーリングをしたりと色々付き合いがあるので、その体のことは把握しておかなければ後々大変なことになる。
二度目になるが、これは私の極めて私的な日記である。特段シールドに提出もしないし、アベンジャーズのミーティングの議題にもしない。
私的なものなので、トニー本人にこれを読まれることも是としない。
【二日目】
早速収穫があった。
今日はヴィランたちが街を騒がせることもなく、極めて平和な一日だった。「あの」トニーがメンバー共用のリビングのソファで昼寝するぐらいには。
私と一緒にスパーリングをしていたサムが「この後一緒にガンマ線のことについてトニーと調べる予定だったんだけど」と言うので、彼を起こすことにした。眠りは浅めの男なので、数度肩を叩けば昼寝からは容易に起きるだろうと。
私に肩を叩かれたトニーは、しばらく唸った後うつぶせになり、体を丸めるようにして膝を畳んだ。まだ寝るつもりか? と名前を呼ぼうとしたところ、ぐぐ~っと両手を握りしめる形で腕が前に伸ばされた。そのまま上半身をソファにぺっとりくっつけながら、尻を高く持ち上げる。その体勢で顔を上げながらぴるぴる震えている様は、まさに猫が伸びをしている姿にそっくりだった。
それを見てぶふっと吹き出したサムも、きっと同じことを思っていたのだろう。
眠そうに欠伸をしたトニーは私たち二人の姿を見てしばらくきょとんとしていたが、サムとの約束を思い出したようで、のそのそソファからおりた。
「どうして笑ってるんだ?」
トニーがこちらを見て不思議そうに言ったので、サムだけではなく、私も笑っていたらしい。
【五日目】
トニーは何か気に入らないことがあると、人が持つ物を手ではたく癖がある。もちろんそれは、メンバー間のじゃれあいの範囲内でのことだ。
ここ最近の被害者はクリントだった。
「すぐそうやってはたくのやめろ!」と言う声が別室から聞こえてきた。話を聞くと、クリントがまたアークリアクターでポップコーンを作ろうとしていたので、トニーが叱ったらしい。それに言い訳をするクリントが持っていた漫画をはたいたのだと。これはクリントが悪いな。
度重なる実験の失敗続きでイライラしていたトニーを宥め、「しばらく休んでくるんだ」と自室へ送ろうとすると、後ろからクリントが「もう猫パンチやめろよ!」と声を投げてきた。
それにまたぷんすかするトニーに「君が怒るのはわかるが、物をはたくのはよくない」と言うと、「そもそもクリントがアークリアクターでポップコーンなんか作らなければいい話だろ!」と返された。最もだ。
クリントの猫パンチという言葉にとてもしっくり来たのだが、それを言うとまた彼を怒らせそうだったので黙っていることにした。
【十一日目】
ハルクとトニーがテーブルに並んでマグカップを手にしていた。珍しい光景だなと近寄っていくと、「キャプテンも飲むか?」とハルクが嬉しそうに言った。
二人が飲んでいたのはトニーが淹れたホットミルクだった。どうやら、冷蔵庫にミルクしかなく腹を空かせたハルクにトニーが振る舞ったらしい。
せっかくだしと私ももらったのだが、ホットミルクと言うには少しぬるかった。
正直に言うと、トニーは気まずそうに「熱すぎるのは苦手なんだ」とこくこくミルクを飲みながら答えた。
意外だった。今までそんなことは聞いたことがない。
理由を聞こうとしたが、ハルクのおかわりを求める声にかき消されてしまった。
機会があれば訊いてみたい。
【十九日目】
トニーに用事がありタワー内を探していたら、研究室の机と壁の間にぎゅむっとはまりながら計算をしていた。
「そんなところに挟まるんじゃない」と引っ張り出したが、やはりよく伸びた。みょーんと伸びた。
【二十五日目】
思わず。そう、咄嗟の衝動だった。
三日前に敵の攻撃を受けたシールドのメンテナンスをトニーに頼んでいたのだが、今日それが終わったらしい。受け取ると、以前よりもしっくりくる盾に感動してしまった。彼のどこまでも最先端を行く武器や装具の開発にメンテナンス、技術力には、いつも感銘を覚える。
「少しだけだが改良してみたんだ。以前よりもずっと投げやすくなっているはずだ。なにせ、俺が三日三晩かけてそいつの面倒を見てやったからな」
得意げに胸を張るトニーに「ありがとう」と言うだけでは済まなく、何故か私は、その露わになった喉に手を伸ばしていた。
「ん?」とトニーは不思議そうにしていたが、構わず指でそこをくすぐる。喉仏から顎にかけてを、私の指の背で撫ぜていた。
スティーブ? とトニーは一度だけ私の名前を呼んだが、その後は大人しくそこを撫でられていた。何をするんだ! と抵抗されるかと思ったが、突然の私の行動に、驚きの方が勝ったらしい。
しばらくそこを撫で続けていると、次第にトニーの目が細くなっていく。顎も上がり、私にそこをさらけ出すようにしていた。ありがとうという感謝の気持ちと、シールドの性能を上げてくれた褒美の意味も込めて顎をくすぐると、彼は瞼を閉じてなんとも気持ちよさそうな顔をした。
あまりにも無防備だ。私相手だからいいものの。
ナターシャが「何やってるの?」とこちらに声をかけてくるまで、私はずっとトニーをくすぐり続け、トニーはそれを大人しく受け入れていた。ごろごろと鳴く音さえも、空耳で聞こえてくるぐらいに。
【三十二日目】
トニーが意気揚々と楽しそうな声で私をからかってくるので、「そういう君は喉に子猫でも飼ってるのか?」と言ってしまった。
トニーはきょとんとしていた。
【三十三日目】
子ども向けのアベンジャーズのイベントで、メンバーの手形をとることになった。
トニーは手全体にうまくインクがつかなかったらしく、指の先が写らずに、手のひらの周りに丸く指の痕がついている手形になってしまった。
それを見た子どもたちに「肉球みたーい!」と言われていたトニーは困った顔をしていた。
【四十日目】
アーマーを脱いでアンダースーツ姿になったトニーを、ソーがじっと見つめていた。どうしたと訊くと、何か頭をチラつくものがあるらしい。
どうやら話を聞いていると、指の先だけ出ているアンダースーツの形状が気になると言う。
「どこかで見たことがある気がするんだが」
ソーの言葉に私もデジャヴを感じ、二人でうんうんと唸っていた。
それをナターシャに目ざとく見つけられ、何をしているのかと問われた。ソーが私に話したようにナターシャに説明すると、彼女は少し考えた後、「これじゃない?」とタブレットの画像を見せてきた。
そこには黒白のハチワレ猫がいた。おまけに、足先が見事に黒から白に切り替わっている。
まるで靴下を履いているような猫に「これだ!」と、私とソーはデジャヴの正体を確信した。
暇ねあなたたちも、と言われてしまい、私は少し恥ずかしかったが、ソーは嬉しそうにしていた。
「トニーのアンダースーツは随分可愛らしい形だな!」
こんな言葉を彼本人に聞かれたら、またもやひと悶着起こりそうだ。
【四十二日目】
なぜ彼の声はあんなにも猫に似ているのだろう。時折本当に、みゃあみゃあと鳴いているように聞こえるのだ。これは私の耳の問題なのか。いや、そんなはずはない。
何しろトニーは――――――
・
・
・
◇
ぱちりと瞼を開ける。スティーブにしては珍しく、ベッドに入ってもあまり寝つけずにいた。夕方のヴィランとの戦闘が尾を引いているのだろうか。
むくりと起き上がり、己の喉が乾燥していることに気がつく。このままベッドに居てもしょうがないので、水でも飲もうと自室を出てリビングに下りた。「……ん?」
リビングには既にうっすらと明かりが灯っていた。その明かりに揺らめくようにして、ソファに一人分の人影がある。ぼんやりとしたそれが次第に形を成していけば、馴染みのある男の後姿になった。
「トニー?」
声をかければその影は振り返る。驚いたのか、ぱちぱちと数回瞬きをした。
「スティーブ、起きてたのか」
「眠れなかったんだ。何か飲みたいんだが――」
「ん、」
トニーが腕を伸ばしてマグカップを差し出してくる。どうやら先程まで飲んでいたらしいホットミルクだ。
「……ふ、」
「何だ?」
「君は本当にこれが好きなんだな」
ソファの背をまたいでトニーの隣に座り、マグカップを受け取る。ミルクから立ち上る柔らかなブランデーの香りに、思わずほうと息を零した。一口飲むと、なんとも懐かしい味がする。
そういえば昔、ホットミルクに一滴だけブランデーを混ぜたものを、母がよく作ってくれたのだったか。
「母さんが昔、よく作ってくれたんだ」
ふと、自分の口が滑ったのかと思った。しかしそれはスティーブではなくトニーが口にしていて、懐かしむような目をしてこちらを見ている。
「父さんの帰りを待ってる俺に作ってくれたよ。母さんは熱い飲み物があまり得意じゃなかったから、いつもぬるかったけど」
笑うトニーを見てホットミルクを口に入れると、やはり以前にハルクも交えて飲んだ時のようにぬるい。
「だから君も、熱いものはあまり得意じゃないのか?」
訊けば、一瞬だけ眉を顰める。そしてふっと目を伏せて、スティーブに向けていた体を正面に戻した。
「昔から、冷めた料理を口にすることの方が多かったし、パーティーでだって、熱い料理が出てくるわけじゃないだろう? 単純に、慣れてないんだ、舌が」
自嘲するように言うトニーに、胸を痛めた。
けして良好とは言えなかった父親との関係。華やかな人生を辿ってきてはいても、そこに温みがあるかと言ったらけしてそうではなかったのだろう。
一人が好きなのか。寂しがり屋なのか。人間嫌いなのか。孤独を恐れるのか。人となりが一貫しないこの男の断片に、スティーブは今更ながら触れた気がした。
「――じゃあ、慣れていけばいい」
トニーを見つめてスティーブは言う。
再び顔をこちらに向けたトニーにスティーブは続けた。
「熱いものも、きっと慣れだ。皆と居れば慣れるさ」
「そういうもんか?」
「そういうものだ」
スティーブらしからぬ曖昧な相槌に、トニーはふはっと吹き出した。夜中だからか、表情のガードが緩い。普段とて表情は豊かな方ではある男だが、こんな風に無邪気さを垣間見せることは稀だ。
「まあ、でも」
「ん?」
「熱いものが苦手な君の舌は、それはそれでいい」
手を伸ばし以前のように顎に指の背を添わせると、トニーはくりっと目を丸くさせる。
拒否されるかと思ったが、トニーは相変わらずスティーブの指に身を任せるだけだった。
――これまで彼をよく観察してきたが、一つ、確かめたいことがある。
「トニー、口を開けてくれ」
その言葉に、目の前の男は素直に口を開けた。相変わらず無防備だ。
顎を持ち、その手で親指を口の中にくっと入れれば、彼の体はびくりと震えた。
「しゅてぃーぶ?」
怪訝そうにトニーが名前を呼ぶが、構わず舌に指の腹をつける。
微かにざらついている感触はするが、勿論、猫のように突起がついているようだとまでは思わない。
「……ふ、」
「ひゃんだ?」
「いや、」
トニーはとても猫に似ているが、猫ではないのだ。
当たり前のことを思って、ホットミルクを一口飲みながら笑う。
意地悪をした指を抜くと、柔らかい唇の感触が指の腹を撫でる。触れ合うことに慣れている唇だなと、何とはなしに思った。
マグカップを返すと、トニーは再びそれを飲み始めた。もしスティーブが熱いホットミルクを作ってやったら、トニーはそれこそ子猫のようにぺろぺろと、己の作ったそれを舐めるのかもしれない。
そんなことを考えながら隣のトニーを観察する。そうしたら、「冷め過ぎだ。やる」と、あまりの気まぐれさを見せながら、トニーはスティーブにマグカップを突き返してきたのだった。
◇
(命題:トニー・スタークが猫に似ているのならば、トニー・スタークは猫である。)
果たしてこれは真か偽か。
結論としては偽でしかあり得ないのだが、トニー・スタークは猫のように愛らしいと、観察していくうちに感じたことは確かなので。
――とりあえず今は、旨いホットミルクを作る練習でもしようかと思う。
Fin.