愛笑む 逢い会す得ず ゆう

 

 

 愛が笑うとは、朝部屋に差し込むミルク色の日の光と同じなんだと、少しロマンチストな友人が言っていた。誰かに逢いたいと願う心は氷漬けにされてもなお、ぬくい居場所を求めて仔猫たちが太陽の当たる床に会するがごとく、いつまでも胸に鎮座するものだった。ただ、それをひたすらに叫ぶ場所を得ず、体の中に凝り固まったものを手持無沙汰にしているのも事実だ。本当はただゆうゆうと、寂しいんだと言えたらいい。孤独だと認めたくない自分が、思わず笑ってしまうぐらいに。

 

(あい えむあいえすえす ゆう)

 

 それは本当に、ただの偶然だったのだ。
 この世に偶然と運命がきちんとその定義と同じように存在しているのなら、スティーブはいかんせん、運命に好かれる側の人間だった。それでもやはり、今日ここでスティーブが立ち止まったのは、ほぼ99テン9パーセントの確率で偶然の出来事だった。ふとジョギングにでかけようと食後のコーヒーを飲んでいる時に思い立ったのも、いつもと同じ道ではなく3つの曲がり角を全て逆に曲がったのも、初めて出会う橋を渡ろうとペースを落とした時ふと左に目をやったのも、ただただ偶然の積み重ねだった。
 だから、今目の前で横たわっている彼を見つけたのも、女神が微笑んだわけではない。
「スタークさん?」
 無機質な灰色のベンチに、不釣り合いなほど高級なスーツを着た男が仰向けで寝転んでいる。今日が満月でなければスティーブはきっと見過ごしていたことだろう。すーすーと夜空に向けて寝息を捧げているのは、かのトニー・スタークであった。
「え、スタークさん?」
 半ば混乱したままもう一度名前を呼ぶ。するとその声に反応したのか、ぴくりと瞼が動いた。
「ん、んん?」
 しかし、それから覚醒する素振りは見せない。スティーブが「スタークさん」と名前を呼びながら肩を揺すると、今度こそうっすらと瞼をあけた。
「……?」
「スタークさん、ここがどこかわかります?」
「……キャプテン?」
 スティーブの質問に答えないまま、彼はもごもごと声を出した。ごしごしと目を擦る様子が普段目にする彼と全く違って、スティーブはどこか心がざわざわするのを感じた。
「何でこんなとこに、って」
「んー……」
「だめですよ寝たら!」
 何とか肩を起こし話しかけたが、スタークはそのまま再び瞼を閉じようとする。何度名前を呼んでも覚醒する様子のない彼にどうしようかと悩んだスティーブは、とりあえずマンションに連れて帰ろうと思い立った。
「スタークさん」
「なんだぁキャプテン」
「肩、掴まれます?」
 背中に背負おうと彼の両手を掴むと、意外にも素直にスティーブの背中に寄り掛かった。まさかあのトニー・スタークを背中に背負うことになるとは、と不思議な気持ちである。酒でも飲んでいたら揺らすと危ないかもしれないとふと思ったが、酒の匂いは全くしなかったのでその心配は無用のようだ。
 先ほどまでのジョギングの道が、彼が加わったことで介抱の帰り道になる。もし自分が通りかからなかったらと思うとぞっとした。あれほどの大企業の社長があまりにも無防備ではないか。もしや何か事件があって薬でも打たれたからあんなところで? と、そんな可能性だって考えてしまった。
「きゃぷてん」
「何ですか?」
「……んん――」
 しかし、この様子を見るとただ寝ぼけているだけのようで、結局スティーブは更に混乱するばかりだった。
 スティーブは自分も住んでいるトニー・スタークのマンションに戻って来たが、ここである問題に行きついた。スタークの部屋は鍵がかかっていたのだ。
 恐らく何かの仕事を終えた後そのままあの場所で眠ってしまったのだろう。まだ鍵が開けられていないスタークの部屋には入れなかった。
「スタークさん、部屋の鍵ってあります?」
「んあ、こーひーよりミルクがいいぞじゃーびす……」
「だめだなこれは……」
 背中でもごもごととんちんかんなことを言う男の様子にため息をつく。そういえば、執事のジャーヴィスがいない。きっと何かの用事で居ないのだろうが、彼がいたらスタークはあんなところで寝ているまま放置されなかっただろうと思うと複雑だった。
(私の部屋しかないか)
 リビングに寝かせるのも忍びなく、スティーブは自分の部屋のベッドで彼を寝かせようと思った。スタークの提供するマンションなだけあってスティーブが今まで住んでいた部屋の何倍もの広さがあったのだが、元から物をあまり持たない性格ゆえ、私物はごく少数だった。
「よ、っと」
 男性としては平均体重のスタークだったが、スティーブからすると取るに足らない重さだった。ベッドに彼を寝かせた後、ふとそのスーツに目が留まる。
 このままではスーツは確実に皺になるだろうが、無断で服を脱がすことができるほどの関係はまだ築いていない。しかし緩められたネクタイとジャケットぐらいは脱がせてもいいだろうと手を伸ばす。
「うぅ」
 スティーブの手が邪魔だったのか、ベッドで眠る男は鬱陶しそうに右手を振った。幼子のような様子に思わず口元に笑みが浮かぶ。
 氷漬けにされた状態から現代に目覚めた後、こうして住む場所などを提供してくれるスタークのこんな様子を見るのは初めてだった。いつもセンスの良い上品なスーツを着て、会社の仕事をこなしながらもアベンジャーズの手助けをしてくれて、時に現代の流れについていけないスティーブに頼もしく助言をしてくれる男が。こうしてスティーブのベッドで無防備に眠っている。
 少しだけ、このトニー・スタークという偉大な男に近づけた気がした。
「さて……どこで寝ようか」
 ベッドを渡した今、それが問題だった。基本どこでも眠ることはできるので大した問題ではなかったのだが。
 結局、リビングのソファーで眠ることにした。ジャーヴィスもいないことだし、特に誰に気をつかわせるということもないだろう。
 シャワーを浴び着替えていても、スタークは起きる気配はなかった。普段はそんなに睡眠時間が長いほうでは無いらしいので、よほど疲れていたのだろうか。
 部屋を出るときに、「おやすみなさい」と一応声をかけていく。返って来る声はなかったが、彼が寝返りをするのを見て、一応届いてはいたかなと苦笑した。

 

 翌朝目覚めると、向かいのソファーに昨夜のスーツ姿のままのスタークが座っていた。彼より早く目覚めるつもりが失敗したらしい。「おはようございます」と声をかけると「--おはよう」と普段よりも低い声が返ってきた。
「体、痛くないですか?」
「ああ」
「よかった。スーツ、皺になるかなと思ったんですけど脱がすわけにもいかなくて」
「どうして私は君のベッドに?」
 スタークの言葉に、スティーブはぱちっと瞬きをした。思いがけぬ返答だった。
「覚えてないんですか?」
 そう訊くと、しばし迷う素振りを見せた後、こくりと頷いた。驚いたが、あれだけ寝ぼけていたならしょうがないか、と苦笑する。
 スタークは居心地が悪そうに、肘を自分の膝に置き、手で口を覆っていた。そうじゃない左手は、水の入ったグラスを持っている。それを見ると寝起きのせいか喉が渇いているのを自覚して、もらっていいかと尋ねる。
「あ、ああ、ほら」
「ありがとうございます。昨日、外で眠っていたことは覚えてます?」
 すると、絶句したように彼はぽかんと口を開ける。この様子を見ると、本当に何も覚えていないらしい。
「ど、どこで?」
「ここから歩いて三十分ぐらいの所に橋があるでしょう? その橋のすぐそばにあるベンチで」
 気持ちよさそうに眠ってました、と言うと、自分の記憶にない行動に彼はうんざりしたようだった。
「そうか……それで君が運んでくれたと、そういうわけか」
「はい。あなたの部屋の鍵が閉まっていたので私の部屋に」
「わかった。すまないな、迷惑をかけて」
 困ったように目の前の男は笑う。みっともない失態を見せてしまったと思っているのが丸わかりだった。スティーブは彼に大層世話になっている自覚があるので「気にしないでください」と言ったが、スタークの表情は晴れないままだった。
「私と言うよりも、スタークさんの安全の方が心配です。今回は私がたまたま通りがかったからよかったですけど……」
「ああ、気を付けるよ」
 すまなかった、ともう一度謝ってからスタークはソファーから立ち上がった。昨日は熟睡できていたようだから、風邪を引いたりなどそういう心配の必要はなさそうだった。自室へと帰る彼の背中を見送る。案の定、Yシャツとスラックスには皺ができてしまっていた。

   ■

 偶然とは二度続くものなのかと、スティーブは唖然としてしまった。
「スタークさん?」
「んん、きゃっぷか」
 あの日から三日後、スティーブはまた同じ道を走っていた。思いのほか走りやすかったのでこのルートを選んだものの、またしても同じ場所で無防備に眠るスタークを見つけて唖然とする。
「またこんなところで!」
 ただあの日と違うのは、彼が黒のタンクトップにスウェットというラフな格好をしていることだった。ということは、自室からここまでやって来たのだろうか。いくら夏だとは言え、こんな場所でそんな恰好で寝ていたら風邪をひく。
「とにかく戻りましょうスタークさん!」
「よってないぞ、さけはのんでないからな」
 誰に対する弁明なのか、ぽやぽやと喋っている。三日前と同じく背中に彼をのせると、そのままそこで眠ってしまったようだった。
「まったく、どうしたって言うんだ」
 全く持って彼らしくない。マンションから出てきたのだとしたら、自分でセキュリティをとっぱらってここまでやって来たのか。意識があってそうしたのか、無意識でここまでやって来たのかは本人すらわからないだろう。ただ、直感的に後者だと思った。
 マンションに帰り、今日は彼の部屋の鍵は開いてるだろうと向かおうとしたが、突然ぐっと首を絞められた。
「うっ」
「きゃぷてんのへやだ!」
「え?」
「すてぃーぶのへやにいくぞ」
 眠っていたんじゃないのか。そう思うほど突然に、彼は駄々をこね始めた。
「いくぞぉ」
「わかった、わかったから締めないでくれ!」
 よたよたと歩きながら自室へと向かう。三日前よりも少し乱暴にベッドに彼を横たえると、満足したような笑顔を見せた。
「……起きてるのか?」
「んー?」
 ふふふ、とスタークは笑うばかりでスティーブの話していることがわかっているのかわかっていないのかという様子だった。少し気になって彼に顔を寄せたが、アルコールの匂いはやはりしなかったので、純粋に寝ぼけているだけなのだ、これで。
「寝るのか?」
「ん……」
 徐々に瞼が下がってきているのでそう訊くと、ゆっくり頷いたまますうすうと寝息を立て始めた。
「はぁ……」
 ため息をついたスティーブは、今日もリビングで寝ようかと思ったものの、またここから抜け出して外に出て行かれたらたまったものじゃない、と自室で眠ることに決めた。
 シャワーは明日でいいかと疲れた体を休ませることを優先する。今日は昼間に強盗犯を五人ほど捕まえたことを思い出した。一人用のソファーの背もたれを倒し簡易ベッドにする。それでも十分スティーブが眠れるほど、スタークが提供してくれる家具は総じてサイズが大きい。彼は直接言わないが、きっとスティーブのために新しく用意してくれたものなのだろう。ちらりと横目にスタークの寝顔を見る。安心しきった寝顔を見て、こちらもとろんとまどろんできた。
 次に目が覚めた時、今度はベッドの上で申し訳なさそうにして座るスタークがいた。
 あの日と同じく何も覚えていない様子の彼に説明をすると、またしてもすまないと謝られた。何かの病気かもしれない、と浮かない顔をするスタークの肩を励ますように軽く叩く。
 迷惑なわけじゃない。ただ、心配なのだと。あの日と同じくそう告げても、やはり困ったように笑うだけだった。

   ■

 それから何度、同じことが続いただろう。
 スティーブがあの場所を通り、そこで眠るスタークを見つける。自分がもし見つけなかったら、と思うと居てもたってもいられなくなり、スティーブはそのうち毎日そのルートを走るようになった。彼がそこで眠っているのは決まった規則があるわけじゃなかった。三日連続して居ることもあれば、二週間の期間を開けてベンチで寝息を立てていることもある。
 そして決まって、彼は夜のことを何も覚えていなかった。ベッドに入るまで、会社を出るまで、研究を終えるまでなど、眠りにつく直前のことまでしか覚えていないようだった。
 夢遊病なのはほぼ間違いない。しかし、トニー・スタークが夢遊病などと世間に知らせるわけにもいかないので、表立って病院に行くこともできなかった。信頼できるそのスジの医者から薬はもらっていたようだったが、それでも治る気配はない。スタークがあのベンチで眠り、「たまたま」そこを通りがかったスティーブが彼を見つけ、スティーブの部屋で寝かせる。それがいつしか決まったローテーションとなっていた。
「せいざみつけたか?」
「いや……難しいな、どうやって君はそんなのを見つけるんだ?」
「ふふ、わたしはかしこいからな」
 もうすっかり慣れた重みを背負いながら夜道を歩く。たどたどしく話す彼とこうして会話を交わすのも、もうすっかり日常の一つとなっていた。普段よりも距離が近くなった気がして、スティーブはよりフランクに話すことができた。生きている環境や場所、地位があまりにも違う自分たちが、こうして無邪気に会話することができる。スティーブは、この時間を至福と感じている自分に気づき始めていた。
「きゃぷてんは、」
「スティーブ」
「すてぃーぶは、えを、かくんだろう?」
「ああ」
「こんど、あれをかいてくれ」
 あれ? と訊くと、夜空を指さされる。さっき話していた星座のことかと気づいたが、自分はそれをまだ見つけられていない。
「描くから、ちゃんと教えてくれないか?」
「ん――うん……」
 相槌が心もとないものになって、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。いつも眠りにつくのが唐突だな、と軽く笑ったスティーブは、帰路に着く足を速めた。夏が終わりかけていて、気温が下がるのも早くなった。風邪をひかせたくないと、当たり前にそう思っている。
 だからこそ、この状況が続くのはよくないとわかっていた。彼自身の体調のこともあるが、トニー・スタークほどのあらゆる面で有名な人物が、夜中に一人で外で眠っているなど愚の骨頂だ。彼自身の人間性がどうとかの話ではなく、ただ単純に、この男には敵が多すぎる。あの第二次世界大戦を駆け抜けたキャプテン・アメリカの自分でさえ、時にぞっとしてしまうぐらいには。
「スタークさん」
 返ってくる声はない。耳元で控えめな寝息が聞こえるだけ。この状況が異常なのだとわかってはいるがなぜかとてもしっくりとくる自分に、戸惑いながらも見ない振りをすることは思ったよりも難しいのだ。

   ■

 この世にもう一度目覚めた時、運命が自分を愛してくれたのだと思った。
 それと同時に、見放すのも愛ゆえの行動のひとつなのだと諭された気がした。
 自分とあまりにもなじみがない時代に生きること、それがどれだけ孤独を煽るものなのか、スティーブ・ロジャースほど身に染みて実感している人間はいないだろう。
 あの氷の中から目覚めたキャプテン・アメリカは、今でも変わらない姿で人々の間で生き続けている。それを自身の誇りとして生きていくことは、けっして苦だとは思わなかった。むしろ、自分を奮い立たせる根源であり、揺るぎないアイデンティティのひとつとしていつまでも輝き続けることだろう。
 しかし、スティーブ・ロジャースとしては、どこまでもひとりだった。
 運命に見放されたのはきっとスティーブ・ロジャースの方なのかもしれない。道行く人も、口に入れるものも、娯楽も、住まう場所も、どこか壮絶な違和感を伴ってスティーブの傍にある。それを常時嘆いているわけではない。ただ、孤独という言葉が、スティーブの胸を過ぎるようになった。
「キャプテン、君はどこか住む場所はあるのか?」
 とても心地いい、声だと思った。
 その日、スティーブはアベンジャーズのミーティングを終えて、そのままミーティングルームで昼食をとっていた。メンバーがそれぞれ帰る場所があるなか、スティーブはそのような場所を持ち合わせていなかった。この部屋に入ることができる人間は限られてくる。その中の一人であるトニー・スタークが、キャプテンアメリカに話しかけてきた。
「あ、えっと、スタークさん」
 アベンジャーズのメンバーであり、スティーブを海の中から見つけたひとりでもあるアイアンマンの上司のスタークとは、まだ一言二言言葉を交わしただった。なので少々緊張しながら答える。
「あの――探してはいるんですが、なかなかいいところが見つからなくて。どう探せばいいのかも、まだ現代に慣れていないしで右往左往してます」
 あのキャプテン・アメリカが、頬を掻きながらこんな風に自嘲めいて話す姿など、誰が想像できるだろうか。
 目の前のヒーローの様子に、スタークはふむ、と考える素振りを見せる。
「そうだな……もし、キャプテンが良ければの話なんだが」
「はい」
「ここに住まないか?」
 スタークの言葉に、ぽかんと口を開けた。
 そんなスティーブの様子に目の前の男はぷっと軽く笑って、楽しそうに言葉を続ける。
「ここは私が言うのもなんだがだいぶ快適に暮らせるところだと思うし、ヒーローの任務に支障が出る立地でもない。私はここに来る頻度はそんなに高くないし、君が気をつかう必要もない。どうだろう?」
「え、えっと」
 突然降ってきた選択肢にスティーブは動揺した。どう受け止めていいのかもわからない様子でいるスティーブをじっと見つめるスタークの瞳は鮮やかなブルーで、今まで見てきた中でもとても大きな瞳だった。
「嫌だったらいいんだ。無理強いするつもりは、」
「えっ、嫌だなんてとんでもない! むしろとてもありがたいです!」
 スティーブがそう言うことはわかっていたのか、スタークは楽し気に笑っている。年上に遊ばれる年下のような気持ちを味わったが、実年齢は全く逆なのだからおかしなものだ。
「ありがたいんですが……その、スタークさんにそんなにお世話になるなんて」
「本人がいいと言ってるんだから、そんな風に思わないでくれ」
「でも」
「キャプテン・アメリカをこうやって手助けできるのは、名誉なことだと思ってるよ」
 その言葉に、思わずぴくりと反応してしまった。
 キャプテン・アメリカ。
 なぜ彼が自分にこうも好意的な申し出をしてくれたのかは、そうだ、よく考えなくてもわかることだった。
 スティーブの複雑な心情に気づいていない様子のスタークはそのまま言葉を続ける。
「それに、ここに君が住んでいたら、君の現代に馴染む手伝いを私ができるだろう?」
 え、と沈んだ心が思わぬ言葉に動揺する。
 聞き間違いだろうか。自分の耳がそんな柔なつくりじゃないことを知っていて、それでもそう思ってしまうぐらいに。
「あの時代から急に現代で目覚めたんだ。色々戸惑うことがあるだろう? その手助けを、少しでもできたら嬉しいよ」
 キャプテン・アメリカではなく、スティーブ・ロジャースの顔がぱあっと明るくなる。
 気づいてくれる人がいたんだと、たったそれだけで重い心の枷が一つ外れた気がした。彼はきっと彼自身の言葉がこうもスティーブに影響を与えたことには気づいていないだろう。そしてそれが、スティーブへの救いとなったのだ。
「スタークさんがよかったら……ぜひ、お願いしたいです」
 スティーブがそう言うと、ぱちっと大きな目を瞬かせて、スタークは仄かに笑った。育ちのいい人の笑い方だと、そんな印象を抱いた。
 そしてそれから、スティーブは彼の持つマンションに住むことになる。
 その後、彼に金銭面において頼り過ぎていることや、衣食住を誰かに世話されることに一人の男として様々な葛藤を覚えることになるものの、現代で戸惑う自分を見つけてくれる人がいた、そのことがスティーブの中でずっと生き続けている。
 トニー・スタークの多面性に、憧れる自分を自覚していた。その懐の深さに、感謝は絶えなく親しみも持っていた。
 そんな彼がひとり外で眠っているのをあの夜に見つけた時、スティーブ・ロジャースが運命に見放されていてよかったと思った。愛されていたら、きっとあの日彼を見つけるのは自分じゃなかった。スティーブ・ロジャースは偶然を勝ち取る男なのだと、そう誇ったりもした。
 あれから何度、スタークを自分のベッドに寝かせただろう。もう断ち切らなければと思いながら、今日もきっと彼をあのベンチで見つけるのだ。

   ■

「あの人を見ててやってくれないか」
 キャプテンのその言葉に、赤と金色のカラーリングの鉄を纏っている男は、何かの作業の手を止めてゆっくりと振り返った。
「何のことだ?」
 ヘルメットがあるからか、少しくぐもった声である。目の前の機械で囲われている彼は自身のアーマーの修理をしていたようで、部屋には独特の匂いが漂っていた。
 いつものミーティングで使うテーブルで作業をしていた彼の正面に座る。普段と違う席に座るのは少々違和感を覚えてしまうたちなので、浅めに腰かけていた。
「スタークさんのことだ」
「……――ああ」
 ヘルメットの二つの隙間から、微かに泳いだ目が見えた。スティーブは目の前の男の目を鮮やかなブルーだと思っているが、時にその色が変わるのを目にするので、その隙間にはなんらかのフィルターがかけられているのかもしれない。
「あの人の最近の行動は把握しているのか、シェルヘッド」
 特に尋問するつもりはなかったのだが、少々きつい物言いだったかと後から気づいた。しかし、シェルヘッドと愛称で呼ばれた男は特に気分を害した様子もなくスティーブと向き合っている。
「最近と言うと、」
「夜に寝ぼけたままひとりで出歩いているのは知ってるか?」
 キャプテンのその言葉にぴくりと肩を動かし、数秒の後頷かれる。上司のそんな様子がキャプテン・アメリカに知られていることを良しとしなかったがゆえの動揺だろうか。なぜか、表情が変わるはずのないフェイスプレートが浮かない顔をしているように思えた。
「そうか。じゃあなぜ、」
「何もするなと言われているんだ」
 スティーブの言葉を遮り、目の前の鉄の男――アイアンマンはそう言った。
 どういうことだと尋ねると、少しの沈黙の後アイアンマンは再び口を開いた。もっとも、実際に口が動いている様子を見ることはできないのだが。
「彼のそのことは――どこまでもプライベートなことだから、ふれないでくれと言われたし、私もその言葉に従ってる」
「でも君はトニー・スタークのボディーガードだろう? 彼にもしものことがあったら君だって、」
「ああ、ああ、わかってるよキャプテン」
 顔の前で手を振り、アイアンマンは投げやりに話を終えようとする。
 この男らしくないと思ったが、ヘルメットの下の顔すら知らないのにそれを面と向かって言ってしまうのは違う気がした。この鉄のアーマーの下がどんな人物だろうとスティーブは彼についていくという気持ちは変わらないのだが、こういう時だけは、アイアンマン以外の名前を知らないことがもどかしく感じる。
「……わかった。踏みこんでしまってすまない」
 スティーブの謝罪にアイアンマンが顔を上げる。
「ただ、心配なんだ。あんな風に無意識にひとりで――いつ襲われても不思議じゃない」
 顔をしかめて話すキャプテンの肩に、アイアンマンが軽く手を置く。
「キャプテン、そんなに気を揉まないでくれ。彼だってばかじゃない。きっと大丈夫さ」
「今まで大丈夫だったのは、私があの日ひとりの彼を見つけたからだ。私が見つけなかったらどうなってた? 私がいなかったら――」
 険しい表情を隠さないままそう言ったスティーブに、アイアンマンはふとフェイスプレートの奥にある目を丸くさせる。それを見て、スティーブは興奮しすぎたとはっとした。
「っ、だめだ、すまない。君に話すことじゃなかった」
「いや……いいんだ」
 ふっとスティーブの肩から手の重みがなくなった。しばらくふたりの間に沈黙が流れる。なぜ自分がこうも熱くなっているのか、うまく答えを出せないのがもどかしい。
「……なぜあの人はあんな風に、ひとりで外で眠るんだ」
 机の上で手を組み、そこに額をのせてぽつりとつぶやく。目の前の男に聞かせるためと言うよりは、ほぼひとりごとのそれだった。
「――じゃないか」
 しかし、はっきりとしない声が返ってくる。「え?」と、聞き返すために顔を上げた。
「君が、見つけてくれるからじゃないか?」
 思わず、というより無意識に、強く両手をぐっと握りしめた。
 話しすぎたと思ったのか、「キャプテン、そんなに気にするな」との言葉を最後に、アイアンマンは立ち上がり部屋を出て行った。
 どく、どく、と鼓動の音が煩い。
(なんだ、これは)
 酷く重苦しく、酷く心地いい。
 次にスタークを見つけた時、自分は何をしてしまうかと考える。この衝動は、簡単に収まってくれる類いのものではなかった。

   ■

 かの姿を見つけてほっとする。あの日からここまで、「今日も見つけてしまったらどうしよう」から、「今日は見つけられなかったらどうしよう」という思考にシフトするまでにそう時間はかからなかったのだ。
「寒いんですか?」
「さむい」
「まったく、上着を着てこないから――」
 スティーブが現れた途端、薄く目を覚ましぶるっと体を震わせたスタークに、苦言を呈しながら着ていた上着を肩にかける。ジョギングをするスティーブに上着は必要ないので、何のためにここまで羽織って来たかなど、言葉にするまでもなく明らかだ。
「む……汗くさいぞ」
「ここまで走って来たからですよ。いやなら返してくれ」
「さむいのはわたしだ」
 そう言って、ぷいっと背中を向けてスタークは再びここで眠ろうとした。それを許すわけもなく、スティーブはぐっとスタークの肩に手をかけてこちらを向かせる。
「スタークさん、ほらもう一緒に、」
「トニーだ」
 とろんとした目で見上げられ、おぶろうとしていた手を止める。
「トニーと」
 以前、スタークに護身術を教えたことがあった。そこで言われた。「トニーと呼んでくれ」と。
 あの時と同じことを言われ、スティーブはぐっと息を呑んだ。彼が彼としてはっきり意識がある時ならともかく、今、そう呼んでしまうのは――
「スタークさ、」
「トニー」
「…………トニー」
 このままだとだだをこねそうな男に負け、素直に名前を呼ぶ。すると、ふにゃっと普段はけして見せない笑い方をした。
「ふふっ、トニーだって」
「……?」
「キャプテンが、トニーって、はは」
 何がおかしいのか、くふふと嬉しそうに笑うスタークに戸惑った。
「トニー」
 その様子に、枷がぴんっと一つ外れたのかもしれなかった。背負って帰ろうとしたはずが、ベンチに腰を下ろしスタークの肩を掴み起き上がらせている。
 ぐにゃりとした体を支えると、彼の頭が右肩にずしりとのった。
「キャプテン」
「スティーブと」
「スティーブ、どうして?」
 寝ぼけている声で尋ねられ、ん? と右肩のスタークに顔を向ける。
「どうして、ここに来たんだ?」
 今まで何度もこんなことがありながら、彼にそう訊かれるのは初めてだった。
 思わず右手で掴んでいるスタークの肩をぎゅっと握る。今日はここで初めて見つけた時と同じように、隣の男はスーツ姿のままだった。
 簡単な質問なのに、どうしてか息が詰まる。本音と建前がそれぞれ何なのかさえ、今のスティーブはよくわかっていなかった。
「君が、見つけてくれるからじゃないか?」と、シェルヘッドの声が思い浮かんだ。あの時は随分と心臓の音が煩かった。もしそれが本当だったらいいのにと思う自分がいる。だけど、それによって引きずり出された自分の本音は、極めて幼く、単純なものだった。
「君に会えるから」
 ぴく、と、握った肩が動いた気がした。そして肩にのせられた頭がゆっくりと向きを変える。
 口にしてしまえば簡単なことだった。いつもいつも、あの道を走りここを目指したのは、全部。
「君に会えるから。だから来たんだ」
 スティーブの言うことがわかっているのかいないのか、彼の瞳は相変わらずとろんとしたままだ。だけどいつもと違うのは、夜空のせいで黒々として見えるスタークの瞳には、スティーブの顔がはっきりと映っていることだった。
「わたしに?」
「ああ」
「……――」
 ぱち、ぱち、と数回瞬きが繰り返される。猫のようなその仕草に、けして彼ほどの男に抱く感情ではないものがスティーブの胸をいっぱいにした。
「トニー」
 名前を呼ぶと、つい、と更に体を密着させてくる。仕草だけでなく、彼そのものがむしろ、と思考してる間に、スティーブは目の前の唇に口づけていた。
「ん、」
 お互いに冷えた唇だった。触れあわせたまま動かないスティーブに、スタークも大人しくしている。あれだけプレイボーイと浮名を馳せる彼がこんなに大人しく唇を受け容れたまま、なんてありえるのだろうか。しかし現にスタークは、じっとスティーブにキスされたまま動かない。
「んう、ん」
 動かない彼に気を良くし、スティーブは軽く開いた唇の中に舌をいれる。一度その粘膜に触れてしまうと止まらなかった。
 肩にまわしていた手をうなじに添え、彼の頭を固定した。くちゅ、じゅ、と舌を絡めあわせながら唾液を送る。スタークは唇から少しスティーブのものを垂らしながらも、こく、と小さく喉を動かしていた。ざらつきのある舌で上顎を舐めると、くふっとスタークの口から息が零れた。スティーブはキスに慣れているわけでもないので、ただただ貪るように彼に口づけている。舌を思い切りじゅうっと吸うと震える体がたまらなかった。うなじに添えていた手が段々と彼を逃がさないようにするためのものに変わっていく。あのスタークが、この腕の中にいる。その興奮だけでどうにかなってしまいそうだった。
「んン、……っは、う、んむ、」
 息が苦しいのか、必死にスティーブの舌を受け入れるスタークは顔を真っ赤にしている。夜空の下でさえわかるその色にますます興奮しながらも、これ以上はだめだと囁く声がする。
 意識がはっきりしていない人間にこれ以上を求めてしまうのは、スティーブ自身が許さなかった。
「っは、ァ、あ」
 名残惜しい気持ちで唇を離す。ぐちゃぐちゃにされた彼の舌と自分のそれの間につうと糸がひく。先程よりもますます蕩けた瞳になったスタークに、どくどくと骨を撃ちつける自身の心臓の音を聞かせたい。君のせいでこうなったのだと、そう言ってしまえたら。
「……――帰ろう、トニー」
 そう言って、スティーブは立ち上がる。スタークはぼおっとベンチに座ったまま目の前の男の背中を見つめていた。いつものようにかがんでスタークを背負う。いつもよりも力が抜けた体はぐんにゃりとしていた。
「スティーブ」
「なんだ」
「また……――れるか」
 ぼそぼそと話す声は、普通の人間なら聞き過ごしただろうが、スティーブの耳はしっかりと受け止めた。
 安易に返事をしていいのだろうか。そう思ったが、自分の気持ちはけっして自分にさえごまかせないのだ。スティーブ・ロジャースは、そういう男だった。
――――また、見つけてくれるか?
「ああ」
 スティーブの返事に、小さくスタークが――トニーが笑った。
 背中のあたたかさになぜか泣きそうになったスティーブは、勢いよく空を仰ぐ。
 ずっと自分はこの現代で、孤独だと思っていた。だけどどうしても、その姿を見つけたいと思う人がいる。それが自分にとって、寂しいと叫ぶことなのかもしれなかった。
 トニーと呼ぶと、聞こえてきたのは控えめな寝息で、もう一度キスがしたいと逸る心を宥めることに必死になる。

 その夜以来、トニー・スタークをあのベンチで見つけることはなかった。

   ■■

 塵のような星がぱっと視界で輝き、次に瞬きしたときにはぼおっとぼやけた星座が広がっていた。
 起き上がろうとして体の痛みに呻く。風で冷えた関節が音を立て、思わずぐっと歯を食いしばった。
「……またやったのか」
 ぽつりと、ひとりで空に向かって呟く。体にムチを打って起き上がることは諦めた。
 もう何度ここで目覚めたことだろう。その回数を数えることはあまりにも虚しかったのでわかるはずもないのだが。
 以前はここで目覚めても、ひとりではなかった。
(ばかみたいだ)
 くっと痛々しく口角を上げて自嘲する。もう随分とこの笑い方にも慣れたものだった。
『スタークさん、起きてください』
 声が聞こえた気がしたが、空耳にすらならない紛いものだとわかりすぎるほどわかっている。
 トニーは夜空を見上げながら、あの真っ青な瞳と太陽のような黄金の髪を思い出していた。
 初めてトニーが無意識にここへやって来た時、見つけたのはあのスティーブ・ロジャースだった。ある朝突然彼の部屋のベッドで目覚めた時の衝撃は今でも覚えている。その後スティーブから聞いた自分の無意識の行動への驚愕も。
 あの日以来、何度彼のベッドで目覚めたことだろう。何度彼にここで見つけてもらったことだろう。思い出しても思い出しても色褪せることのないそれは、トニーの胸を押し潰して今にも溢れ出てしまいそうだ。
 もうあの声を耳にすることはないのだと、その事実が今でもガラス瓶に詰められた紛い物の宝石の様にしか思えなかった。
 ――――葬式は、雨の記憶しか残っていない。
 人がたくさんいた。誰もかれもが黒色をしていた。棺だけが赤と青と白の星条旗を纏っていて、間違いなくあれは彼のユニフォームなのだと、そんなことを思ったのかもしれなかった。用意していた筈のスピーチを、空の棺を思って話すことはできなかった。棺の中をそうしたのは自分だと言うのに、あの国旗の中で眠る者は誰もいないのだと、自分だけが知っていることにこみ上げてきたものを、何と名付ければよかったのだろう。こんなはずでは、と、一言だけ呟いたのは、自分の記憶違いだろうか。多分あそこで涙を流すことはしなかった、と、思う。その記憶すら曖昧だったのだが。
『さて、見回してみてください。素晴らしいと思いませんか? 我々は普段、互いの違いを意識して暮らしています。国籍や人種や宗教によって分断されているのです。その我々が繋がりました』
 ああ、
『スティーブ・ロジャース、ニューヨークの下町で生まれた、やせっぽちの金髪の少年が…アメリカン・ドリームの理想を実現して見せてくれたのです…様々な人々の坩堝が、彼を介する事によりこうして同じ立場に立てたのです。彼のこの力、この物語は今この場にとどまらず、長く伝えられていくでしょう。我々の子どもや…孫たちの世代へと。スティーブ・ロジャース、キャプテン・アメリカは不滅なのです。』
 ああ、
『今日を悲しみの日とする必要はありません。連帯と希望の記念日として記憶しましょう。こんな日のために、キャプテン・アメリカは生きたのですから!』
 ああ、ああ! ああ!!
 我が国のヒーロー! キャプテン・アメリカ!!
 彼の親友、相棒のサム・ウィルソンのスピーチを一言一句覚えていた自分に頭を抱えた。ガンガンと鳴る頭が痛い。押し寄せてくる喪失感に立ち向かう術を、未だ何も作りだせていないというのに!
「う……っあ」
 嗚咽がこみ上げてくるが、涙はついぞ出てこなかった。スティーブの遺体の横で枯れるほどに泣いた時以来、この目はずっと乾いたままである。
 キャプテン・アメリカを、――スティーブ・ロジャースを見つけた日のことを、今でも鮮やかに覚えている。
 あの日から、世界が変わった。
 その場に立ち会えたことは、トニー・スタークの人生において最も誇らしいことのひとつだった。キャプテン・アメリカを見つけた。そのことがどれだけトニーの人生をまるっと変えてしまったのかを知るものは、トニー本人以外いないだろう。
 嬉しかったのだ。彼を見つけることができて。
 だから、ただのトニー・スタークをスティーブがここで見つけてくれたと知った時、こみ上げたものは歓喜だった。
 なぜここに眠ったまま来てしまうのか。それをあの時は何度も何度も考えた。医者に訊いても薬を飲んでも、結局自分はここに戻ってひとりで寝ていた。その理由を考えたら、もう、スティーブが見つけてくれるのが嬉しかったからとしか、説明できないのだ。
 トニー自身がアイアンマンだと知らなくても、スティーブは自分を慕ってくれていた。それが嬉しくて誇らしくて、舞い上がったゆえのものが夢遊病のようなあの一連の行動だったのだろう。
 君を見つけた私を、今度は君が見つけてくれた。
 少女のようにそれを後生大事に抱えて、今もひとりここで眠っている。目覚めても、彼はけしてここに居ないのに。無意識にこの場所を目指してしまう自分があまりにも滑稽だった。
「……スティーブ」
 トニーとしても、アイアンマンとしても、何度も呼んだ名前だった。この国のヒーローとして燦然と輝くキャプテン・アメリカの姿も、現代にうまく馴染めず右往左往していた等身大の若い男としての姿も、きっと誰よりも昔から傍で見ていた。
 会いたい。どうしようもなく、会いたかった。
 自分の信念を曲げなかったことを後悔はしていない。だけど、あの戦争で誇ることができたのは、酒を一滴も飲まなかったこと。それだけだった。
 ――彼の本物の遺体を、彼を見つけたあの海に還したい。その場に居合わせてほしいのは、アベンジャーズに、彼のチームメイトに、彼の友人たち。だが皆、それぞれの理由で去ってしまった。呼べるのはきっと、ハンクとジャネットだけだろう。
 たったひとりで別れを言うのはあまりにも辛すぎた。
「スティーブ」
 君を弔う前に、ここでもう一度、君に見つけてもらいたがっている私を許してくれ。
 震える指で、自身の唇をなぞる。たった一度だけ、スティーブとこの場所でキスをした夢を見た。
 もう一度あの夢が見られたらと思うのに、スティーブはもう二度と、トニーの前に現れてはくれなかった。

   ■■

 もしかしたらと、思ったんだ。
 夜に、あの無機質なベンチで、スーツ姿で眠る彼を見つけた時、自分がいる時間がわからなくなった。
「トニー。トニー、起きろ」
「ん……んん?」
 肩を掴み、背中を向けていた体を仰向かせる。痩せたと思われた体は、あの世界でヘラと戦った時以来、きちんと肉が戻ってきているようだった。
「……」
「トニー?」
「――すてぃーぶか?」
 ふにゃっと、普段はあまり見せない笑い方をしたトニーに、スティーブは思わず口をつぐんでしまった。大分昔にトニーをこうして見つけた時も、こんな顔を見せられたのだ。
 だけど、あの頃よりも髪が短くなり少し老けたトニーにぎゅうっと胸が掴まれたような心地がした。これほどの年月が経ってもなお、自分はここでこの男を見つけた。
「帰るぞトニー」
「んー、きみの部屋か?」
「――そうだ」
「なら、かえる」
 そう言って、トニーは寝ころんだままこちらに手を伸ばしてくる。背負えと言わんばかりの彼の姿に苦笑した。ああ、全く変わらない。
「すてぃーぶ」
「なんだ。あっ、きちんと掴まっててくれ、落としてしまう」
「ふふ、すてぃーぶ」
 寝ぼけた声で、すてぃーぶすてぃーぶと名前を呼ばれる。こんなに甘えた声を聞くのは久しぶりで、気恥ずかしくなってしまった。
 もしかしたらと思って、ジョギングにでかけようと食後のコーヒーを飲んでいる時に思い立ち、いつもと同じ道ではなく三つの曲がり角を全て逆に曲がり、橋を渡ろうとペースを落とした時に左に目をやった。
 眠るトニーを見つけた時、もう、後戻りはできないのだと悟った。今回は運命でも偶然でもなく、すべて自分が選んだことだった。スタークではなくトニーと呼ぶ自分だけが、あの頃と違った。アイアンマンが彼なのだと、己はもう知っている。この現代に目覚めた時からアベンジャーズの仲間として一緒にいたのも、住む場所や他の様々なものを与えてくれたのも、氷漬けにされて海を漂っているスティーブを見つけてくれたのも、スティーブが見つけてくるのを待ちながら夜空の下でひとり眠っていたのも、全て背中にいるこの男なのだと知っている。
 ブルネットの髪がスティーブの頬をくすぐる。そういえば、トニーもアイアンマンも鮮やかな青の瞳をしていることは知っていたのに、同一人物だと結び付けなかった自分が今思うとおかしかった。けれど、彼自身が正体を知られることを好まなかったので、スティーブの行動は正解だったのだ。
 今日はマンションではなく、アベンジャーズタワーに向かう。あの頃よりも、長く歩かなければならなかった。
「君はどうして――」
 スティーブのその声は、背中にいるトニーの耳に届くことはなく、夜空に向かって溶けてしまった。

 

 トニーはあの日と同じくスーツ姿だったが、今ではもう着替えさせることにためらいを覚えることはない。むしろ、着替えさせなかったら次の朝トニーに文句を言われてしまうことだろう。
「こらトニー、動くな」
「んう……」
 Tシャツを着せようとしたが、うだうだと動くトニーのせいで上手くいかない。やっと着せることができた時、もう一度苦労しながら下を履かせる気にはなれなかった。スティーブのものはサイズが大きいので上だけでも大丈夫だろうと妥協することにする。
 着替えさせられたトニーは、スティーブのベッドの上でぼおっとしている。時折、スティーブの部屋を物珍しそうにきょろきょろと見渡した。そういえば、このタワーでスティーブの部屋に彼を入れるのは初めてだった。
 自身もTシャツとスウェットに着替えたスティーブは、トニーの隣に腰を下ろす。ベッドが沈んだ感触に、トニーはスティーブのいる隣に顔を向ける。
「まだ寝てるのか?」
「……?」
「寝てるんだな」
 夢遊病とは本当に奇妙なものだ。こうして見ていると起きているようにしか見えないのに、次の日には何も覚えていないのだから。
 手の甲で、冷えたトニーの頬を軽くさする。髭のざらっとした感触と肌のすべらかさのギャップに思わず息を吐いた。スティーブの手が気持ちいいのか、トニーは目を閉じて擦り寄ってくる。猫のようだと、以前も確かそう思ったのだ。
「トニー」
「ん、」
「どうしていつも、あんなところで眠るんだ?」
 最後にトニーをあのベンチで見つけた日、彼に訊かれた。どうしてここに来るんだ、と。
 だから、自分も訊いても許されるはずだ。
 トニー、どうして君は、ひとりであそこにいるんだ?
「……――」
 閉じていた瞼がゆっくりと開く。大きな瞳には、スティーブしか映っていなかった。
「きみに、見つけてもらえるとおもった」
 とても心地いい声だった。眠たげで少しとろんとしている、深みのあるテノールの声。
「あの日、うみのなかで、君を見つけたわたしを――ああ、きみを見つけたのは、わたしだけじゃ、ないけど……こんどは、君が見つけてくれたんだ」
 ふふ、と小さく笑いながらトニーはそう言った。その様子がとても嬉しそうに見えるのは、けしてスティーブの欲目ではないだろう。
「みつけてくれるから……だから、行ってしまう。あそこに行けば、きみと、あえるだろう?」
 眠たげにぽつぽつと、トニーはスティーブに話している。それを聞きながらスティーブは、彼の肩に右手をまわしていた。ふれたいという気持ちを、もう抑えたりしない。
「また、見つけてくれるか?」
 それを唇を塞ぐことで飲みこんで、これが返事だと言うがごとくその唇を食む。トニーは少し驚いたのか、薄く唇を開いていた。遠慮することなくその中に舌を滑り込ませる。もう何年かぶりの彼の中の温度に、ぐっと体中が熱くなった。
「ふぁ、ん、む」
 入ってきた舌をトニーが懸命に吸う。ぐっと肩を抱き込み、左手は彼の顎を掴んだ。スティーブのその少し乱暴な仕草にトニーはふるりと体を震わせた。
 また見つけてほしいのだと、素直にそう言うトニーがたまらなかった。
 自分が死んでいた時のことを、時折人々から教えられる。もちろん、スティーブがいなかったときの彼の様子も。トニーがシールドの捜査官77人にキャプテン・アメリカの盾を投げさせたと聞いた時は、その必死さに心を痛め、同時にその77人が妬ましくなった。一度だけあんたの代わりをしたんだとクリントに言われた時、キャプテン・アメリカに見せるあの危うげな憧憬の瞳を私以外に見せたのかと、どうしようもなく嫉妬した。
「う、んぁ、すてぃ、ぶ」
 軽く舌に歯を立てると、びくんっと体が震え目の前の瞳が潤んだ。これは私のものなのだと、どす黒い執着が顔を見せる。それと同時に、スティーブの孤独を見つけてくれたこの男が、夜ごとスティーブに見つけてもらいたがっていたことに、感じたことのない庇護欲が湧き上がってきた。
「んぅ、ふ、……っあ」
「トニー」
 くちゅ、と舌の付け根をくすぐり唇を離す。蕩けた顔も今はすべて、スティーブのものだった。するりと彼の頬を撫で、鼻を寄せながら呟く。
「一緒に寝ようか」
 その途端、トニーの瞳が水分でいっぱいになる。
「……――ッ、あ、あぁ、」
「トニー」
「すてぃーぶ、スティーブ……ッ」
 彼の体を抱きしめると、ぎゅうっとしがみつくようにしてトニーが腕をまわしてくる。
「スティーブ、スティーブ――」
 必死に名前を呼んでくるトニーと一緒にベッドに倒れる。あの頃よりも少し小さくなったベッドだった。
 ちゅ、ちゅ、と顔じゅうに口づけるとそれを追うようにしてトニーも唇を寄せた。こんなにも泣きじゃくりながら求められるのは、現代で蘇ってから――いや、生まれて初めてだった。
 寂しいと言い慣れていないのは、スティーブだけでなく、トニーもなのだ。
「――――」
 トニーに覆いかぶさり再び口づける。泣き止ませたかったし、もっと泣かせたくもなった。
 明日には、酷い男だと笑ってほしい。この腕の中の男の泣き顔も、笑顔も、私は――――

   ■

 暖かい朝日だった。
 誰かと一緒にこのベッドで朝を迎えるのは初めてで、腕の中にある体を抱きしめようとした。が、すでにこの腕は何も抱きしめていなかった。
「とに、」
 思わず名前を呼ぼうとすると、盛り上がったシーツが視界に飛び込んでくる。
 顔を上げると、ベッドヘッドに背中を預けながら、膝を立てて座るトニーを見つけた。
「……おはよう」
「トニー」
 昨晩散々泣いたからか、彼の目元はうっすらと赤くなっている。トニーの方に体を向け、肘をつき少し上半身を持ち上げた。スティーブの裸の上半身を見て、トニーは少し狼狽えたようだった。目覚めたばかりなわけじゃないだろうに、と思わず笑う。起きてからしばらくスティーブの横でしかめっつらをしていただろうトニーを思うとおかしかった。
「――ききたいことがあるんだが、」
「うん?」
「私はどうして、上しか着ていないんだ?」
 Tシャツをつまみながらトニーがそう言う。知らぬ間に誰かのベッドで目覚めて、誰かのTシャツを着て、そして自分が下には下着以外何も身に着けていなかったら、当然戸惑うだろう。
「私の服のサイズならそれだけでもいいかと思って」
「……うん」
「ちなみに私が上を着ていないのは、君が泣いている内に私のTシャツがぐしょしょになったからだ」
 ぽかん、とトニーは間抜けと言ってもいいような顔をした。「どうりで目が痛いのか……」と目の下を指でさすっている。すがすがしいほど昨夜のことは覚えていないようだった。いつもそうなので今更驚いたりはしないが。
「あー、その、なんだ……迷惑をかけたな」
 居心地が悪そうにトニーは言った。その謝罪の言葉は聞き飽きたのだが、正直にそう言ってしまうのも酷かと思ったので黙っている。
「またやったのか、私」
「ああ。覚えては?」
「いない。前と同じだ」
 トニーははあ、とため息をつき片手で顔を覆った。夜にひとりで外に出て行ったとき、翌朝はこうして自己嫌悪に浸るのがいつものパターンだったが、それは今も変わっていないようだった。
「スティーブ」
「なんだ?」
「その、勘違いだったらそれでいいんだが、君、……うん、」
 はっきりしない物言いに首を傾げる。顔を覆った手は口元まで落ちていた。ちらっとその目がこちらを向いたが、すぐに逸らされてしまった。
「――君、昨日、私にキスしたか?」
 ぼそっと心もとない声で、そう訊かれた。
 まるっきり覚えていないと思っていたので少し驚いたスティーブは、トニーを見上げ頷いた。
「ああ」
「……そうか」
 夢じゃなかったんだな、とぽつりと零す。そんなトニーに、どこまでそれを覚えているのか訊いてみたい気もした。しかしそれはあまりにも意地が悪いかと思い踏み止まる。代わりに、横を向いたまま頬杖をつく姿勢でトニーの方を見つめる。
「覚えてないんじゃ?」
「覚えてない。……それ以外は」
 ぷっと吹き出したスティーブを恨みがましい目でトニーは睨んだ。心なしか耳が赤い。
 意地が悪いかと思ったが、でも、どうしても訊いてみたいことがある。
「トニー」
「何だ」
「そんなに、私に見つけてもらえるのが嬉しいのか?」
 スティーブの言葉に、目の前の男はしばらく固まった後、ぐっと唇を引き結んで、かあぁっと顔を赤く染めた。
「……っ、な、あ、」
 言葉を紡げない唇がぱくぱくと動いている。トニー・スタークをこんなにも動揺させることができる人間が他にいるだろうか。
 ぐうっとこみ上げてきた感情のままにスティーブは起き上がる。そして固まったままのトニーの唇に、ちゅ、とキスを贈った。
「君が嬉しがってくれるのはいいんだが、さすがに夜に君があんなところでひとりで寝ているのは心配なんだ」
 寝起きでセットされていない髪を軽く梳く。見た目よりも柔らかい髪質なのは、もう随分と前から知っている。
 すり、と鼻を寄せもう一度キスしようとすると、ふいっと軽く顔を逸らされた。むっとして手を頬に添えてこちらを向かせようとすると、ぽつりとトニーが口を開く。
「……君が、私と同じベッドで寝てくれるなら――もう外であんな風に寝たりしない」
「……」
「……――かもしれない」
 その声に、スティーブは心臓を素手で思い切り掴まれた気がした。
 もう何年も眠りながら外を出歩いてしまうことに悩んでいるのに、自分が一緒に寝てやることでそんなことはしないと言ってしまえるのなら、もう。
「君とはずいぶん長いこと一緒にいるが――これは初めて言うな、トニー」
「……?」
 すり、とトニーの頬を撫でてスティーブは笑う。
「君はかわいい」
 そう言って、スティーブはトニーをベッドの中に引きずり込んだ。驚くトニーの言葉を待たず、その唇に口づける。体の中に凝り固まったものが、甘くほどかれる気がした。
 トニーはスティーブの唇を受け容れながらまたしてもじわりと涙を滲ませる。
 何で泣くんだと訊いたら、君が恋しかったからだ、と、たまらなく甘えた泣き声で、そう言われた。

 

(i miss you)