B.L.U.E.

 

 

「結婚しようと思うんだ」
 先ほどまで甘い熱がくすぶっていた体の温度が急激に冷えていく。ベッドヘッドに背中を預け、こちらを見ながらはにかみそう言う男は、幸せを絵に描いたような顔をしていた。
「結婚?」
「ああ。そろそろいい時期かと」
 ずくりと心臓がいやな音を立てる。ついに、この時がやってきたのかと。
 いつの間にか恋人を作っていた男――スティーブに苦笑する。普段はまったくそんなそぶりを見せないのに、意外とちゃっかりしてるんだからおかしくなる。
 おかしいのは、 いままでこの関係があまりにも心地よかったから、手放すことが最後までできなかった自分のほうなのかもしれないが。
「トニー」
「なんだ?」
「これを」
 ベッドのそばの棚からスティーブがあるものを取り出す。それは特に包装されたものではなく、鉄の破片のように見えた。
「これは?」
「アーセナルの破片だ」
 思わぬ言葉に目を見張る。スティーブは頬を掻きながらこう続けた。
「一度目に壊れた時以来ずっと持っていたんだが、どうしても渡すタイミングがなくて――いい機会だと思ったんだ」
 いい機会とはどういうことだと問い詰めたい自分がいる。しかしトニーは、大人しくスティーブの言葉を聞いていた。
「本当はもっと装飾したいんだが、私はそのようなことをしてくれる良い店を知らなくて……とりあえず、君に見てほしかった。店を見つけてうまくできたら、また改めて渡そう」
 最初で最後の贈り物だとでも言うのか。こんなときにでも誠実さを見せてくるスティーブに、トニーは胸が張り裂けそうだった。
 いらないと言ってしまえたらいいのに、スティーブの顔を見るとどうしてもそれは口に出せなかった。
「――わかった」
 トニーが言うと、スティーブはほっとしたように顔をほころばせる。後腐れなく関係を終わらせたい、この男に限ってそんな思考は持たないだろうが、どうしてもそんな印象を抱いてしまう自分が情けなかった。
「ありがとうトニー、おやすみ」
 いつものように額にキスをされる。セックスの後の少し乾いた唇が、トニーは密かに好きだった。
 トニーの頭を右肩に寄せるようにしてスティーブはベッドに入る。以前は恥ずかしいからやめろと言っていたのだが、こうしていると寝つきが良いんだと言われてしまって以来、文句を言うことなく大人しくそれを受け入れている。そうされて寝つきが良くなるのはトニーも同じだった。
 しかし今夜だけは例外だ。ぐずぐずと痛む胸に邪魔をされ、いつまでたっても瞼がおりてこない。
 この腕から抜け出せたら。そう思うのに、これが最後のスティーブと過ごす夜なのだと思うと、どうしてもトニーはそこから抜け出すことができなかった。

   ■

 初めて体を重ねたのは、深海でレッドスカルの潜水艦に潜入を果たした日の夜だった。
 アーマーやスーツなしにふたりきりであそこまで敵と張り合ったのは初めてで、お互いにその興奮を引きずっていた。共有のシャワールームで服に手をかけたとき、その上から大きな手のひらが重ねられた。あの時のスティーブの瞳の熱は今でも覚えている。きっと自分も同じ熱を宿していた。そのままふたりでシャワーを浴び、シャワールームから近いスティーブの部屋で一線を越えた。トップとボトムどっちがいいと聞いたら、君が望むほうでと答えられたものの、普段ではけして見ることのできない切羽詰った様子にぐっときてしまって、抱いてくれるかとせがんだのだ。それ以来、熱をもてあましたときにお互いに手を伸ばす関係が続いた。
 スティーブのことが好きだなんて、そんなのもう今更だった。体を重ねてから、それ以前から、いつからだなんて自分でもよくわからないしわからなくてもよかった。彼に惚れてしまっている、その事実だけが存在し、トニーのことを惑わせるのだ。
 スティーブに抱かれるのは好きだ。あの太い腕が自分だけを抱きしめ、あの透明な青い瞳が自分だけを見つめ、あのピンク色のぽってりとした唇が自分だけに口付ける。それがどれだけ俺を高揚させるか! トニーはいつだって、スティーブのあの熱いものを受け入れるのを好んだ。
 しかしそんな関係も、昨夜終わりを迎えたのだ。
 きちんとした恋人をいつの間にか作っていたスティーブは、結婚を決意したらしい。
 その恋人とは、どんな容姿をしているんだろう。ブロンド? ブルネット? 赤毛? 体型は? スレンダーかふくよかか中肉中背か?
 その恋人は女のほうがいい。男だったら、きっと自分の何が負けたのかと、きっと見苦しいぐらいに嫉妬してしまうだろうから。

 

「キャプテンは一週間、シールドの任務でタワーを離れることになった。その間アベンジャーズの活動は普段と変わらず行う。このミーティングの指揮も俺が取るが、何か異論はあるか?」
  恒例の朝のミーティングは、キャプテン・アメリカが一週間アベンジャーズタワーを離れるという連絡事項で終わりを告げた。特にメンバーから異論は出なかったのでトニーはメンバーたちを解散させる。この一週間は遅刻もできないなと少し意識を改めたが、それが三日持つかどうかは本人にすらわからないことだった。
「スターク」
 最後にミーティングルームを出たトニーを、廊下でソーが呼び止めた。その隣にはハルクもいて、この二人が珍しく朝から喧嘩していないことに思わず笑ってしまった。
「なんだ?」
 二人のもとに歩いていくと、こっちへと手招きされる。大人しく着いていくと、招かれた場所はハルクの部屋だった。
「入ってもいいのか?」
 驚きながらそう尋ねると、ハルクに背中を押されてしまった。普段は他人を入れることをあまり快く思わないハルクの部屋にこうして招かれることなど、きっとこれが最初で最後じゃないのか。そう思いながら部屋を見回す。ガラスでできた動物たちが棚にひしめいて並んでいるさまは相変わらず壮観だった。
「すごいな……」
「壊すんじゃないぞ」
「はは、ソーじゃあるまいし」
 何だと、とソーがむっとしてみせるが、つい二週間前にソーがこの動物たちをうっかり壊してしまいそうになったことで二人は一日中喧嘩していたのだ。その記憶がまだ新しいソーは、このハルクの部屋でも珍しく大人しくしていた。
「それで、何か用か?」
 くるりと二人を振り返りながら尋ねると、ソーはにんまりと笑ってトニーの肩を思い切り叩く。
「うおっ!」
「そうだ、大事な用だぞトニー!」
 なぜか急にご機嫌になったソーに首をかしげていると、ハルクが何やら自分のベッドの下をごそごそと探っているのが目に入った。
「ハルク?」
「お、これだ」
 何かを見つけたらしいハルクがずんずんとこちらに歩いてくる。思わずガラスの動物たちに視線をやったが一つとして倒れる気配を見せない。ハルクが歩く振動でも揺れない棚を設計したのは他ならぬトニー自身だが、その出来のよさに自分でも思わず感心してしまった。
「落とすなよ」
 その言葉と共に、ハルクに手を取られあるものが渡される。
 ハルクが手渡してきたのは、赤のリボンで不器用に結ばれている、ちょうど十センチ四方をした箱だった。
「これは?」
「開けてみてもいいぞ」
 なぜか得意げな顔をしているソーに怪訝な顔をしながらも、少々ぶかっこうな蝶結びをほどく。赤のリボンをたらしたまま箱を開けると、中にいたのは予想だにしない動物だった。
「鳥?」
 ガラスでできた鳥のブローチだった。
 トニーはそれを手のひらに乗せる。ちょうど手のひらに収まる大きさの鳥は、今まさに空へと羽ばたこうとしていた。
「きれいだろう?」
 ハルクがうっとりしながら言う。もちろんきれいだが、とトニーは返し、一体どうしてこれを俺に? と尋ねたがハルクはそれを聞いていなかった。
「新しくお願いしたんだ。身につけるものがいいと言ったら、そのブローチとやらを作ってくれた」
「鳥を提案したのは私だ! 新しい門出にふさわしいだろう? ぜひ身につけてくれ!」
 ソーのその言葉に、昨夜できたばかりの傷が広がった。
 そういうことかと、酷く納得する自分がいる。
「……そうだな。ぴったりだ」
 心情を悟らせまいと明るくそう言うと、二人は満足したように笑顔になった。
 スティーブの結婚のことを、皆はきっともう知っているのだろう。新しい門出というソーの言葉に胸がしめつけられる。スティーブのその門出にぜひ身につけてくれと、そういうことなのだろう。なぜ二人がここまでしてくれるのかはわからないが、それを聞くのもなんだか野暮な気がした。
「幸せの青い鳥みたいだな」
 部屋の光を透かしながら言うと、なぜか二人に勢いよく背中を叩かれた。自分とスティーブの関係は知られていないはずなのであるわけもないのだが、まるで「元気を出せ」と言われているようで、彼らには知られないように苦笑した。
「ありがとう」
 礼を言うと、またしても嬉しそうに背中を叩かれた。どこまでもまっすぐで屈託のない大きな怪物と神様は、トニーの心を少しだけ軽くした。

   ■

 自分の気持ちをはっきり伝えようとしなかったわけじゃない。
 己のあまのじゃく気味な性格は自覚しているし、素直じゃないなりに言葉にしてみようとも思っていたのだ。
 スティーブのあの言葉を聞くまでは。
「君の体は素晴らしい」
 スティーブとしたセックスの回数が片手じゃ足りなくなったころだろうか。ふたりで達した後、まだ息が整わないうちにその言葉を聞き、舞い上がっていた気持ちが急速にしぼんでいった。
 まるでトレーニング中と変わらぬ物言いに、スティーブの真意を見た気がした。
 スティーブはトニーのことを友人としてとても大切にしてくれているし、対等な仲間として時に叱咤激励してくれる。それはトニー自身をトニーたらしめる要素の大切な一つで、これからもけして手放せはしないものだ。しかし今はそれが、大きな枷となっていた。
 このセックスも、トレーニング中に体をぶつけ合うのとなんら大差ない彼なりの友人としてのコミュニケーションの一つなのだと。
 そんなばかなことがあるかと思った。そんな風に簡単に友人と体を重ねるような男なわけがあるかと。
 しかしトニーは、スティーブとの短くはない付き合いの中で、ふたりの間にはけして埋めることのできない価値観の違いがあることを知っていた。普段はそれがふたりの関係を確固たるものにし、時にすり合わせ時に対立することが自分たちにとって最も大切なのだと、トニーもスティーブも理解していた。
 ただこれだけはどうしようもないことなのではと、トニーは胸を突かれるようだった。
 自分のことをどこまでも友人だと思っているスティーブと、それ以上のものを抱えながらセックスにのぞむトニーとでは、初めから立つ位置が違っていた。
 それ以来、自分たちはいわゆるセックスフレンドのような、そういう関係なのだと落とし込むことにした。かつてはプレイボーイとして名を馳せた自分だ。それはけして難しいことではないはずだった。
 現に、トレーニング中にスティーブの予想外の動きをしたトニーにスティーブはこう言ったのだ。
「君の体は素晴らしいよ、トニー」
 ありがとうと、確かベッドの中でも、そう返した。  

 

 雨が酷く、空気の重苦しさに思わず息を吐く。外出する予定もなかったのにこうも気分が落ちてしまうのは不思議なものだ。幼いころは雨に無邪気に喜んだりもしたのに、歳を重ねた今、ざあざあとした灰色の音は雑音にしか思えなかった。
「あ、トニー」
 リビングの窓に映ったトニーの顔が、ブルネットの髪をした後頭部に変わる。そこに加えてサム・ウィルソンの雨に少し濡れた姿がそこに映った。
「サム、出てたのか」
「うん、ちょっと実家に用があって」
 タオルを手にしたサムは髪をがしがしと拭いてソファーに座る。いつものファルコンのスーツではなく、ネイビーのパーカーにジーンズという装いのサムは普段よりも幼く見えた。
「タオル、もう一枚いるか?」
「ううん、そんなに濡れてないから」
「途中でジャーヴィスに乾かしてもらえばよかったのに」
「そこまでしてもらうほどじゃないよ」
 隣に座ったトニーにサムが笑いながらそう返す。トニーと同じぐらいテクノロジーに浸かっているはずのサムは、こうした時にジャーヴィスやテクノロジーに頼ることはしないのだ。それが自分の身の回りの世話は自分で、との信条を持つスティーブと重なって微笑ましい気持ちになった。
「……どうしたのトニー?」
「え?」
「なんか元気ない?」
 サムに言われ、トニーは内心焦ってしまった。表に出しているつもりはなかったのだが、雨のせいもあってかどんよりとした空気を纏っていたらしい。正直に話すわけにもいかなくて「何でもないぞ」と返す。
「そう? ならいいけど」
  ほっとしたようにサムが笑んだ。優しさや気遣いを見せることに何のためらいも見せないこの若者は、トニーだけではなくアベンジャーズのメンバーにとっても清涼な川のような存在だった。
「それで、実家に何の用だったんだ? ママに会いに行ってたのか?」
「あ、そうそう!」
 トニーの問いかけを受けたサムは、髪を拭いたタオルを今度はパーカーの中に忍ばせる。不思議な動きにおや、と思っていると、サムは何やらパーカーから細長い箱を取り出した。
「これを貰いに行ってたんだけど、雨で濡れないようにするの大変だったんだよ。ビニールとかで包んでもらえばよかったかな」
 その細長い箱は藍色をしていて、特に包装紙などで包まれてはいなかった。光沢のあるその箱の大きさからして、入っているものは。
「ネクタイか?」
「そうだよ」
 サムが頷き、ぱかっと箱を開けた。
 箱の色とは違い中にしまわれているそれは、ワインレッドのレギュラータイだった。
「お、いい色だな」
「でしょ? 叔父さんの店がオーダーメイドでネクタイを作ってるから、結婚式の時にお願いしたらしくて」
 ほう、とトニーがサムの目を見ると、何やら照れたように笑う。
「これ、僕のパパが結婚式でつけたネクタイなんだ」
 肉親のことをこうして話すのは照れがあるのか、少しサムの耳が赤い。その様子に口元を緩めたトニーはネクタイにもう一度視線をやる。有名なブランドの品ではないが、ただ一人のためだけに作られたそれは、やはりこの世でただ一つだけの輝きを持っているのだった。
「それで、サムがもらい受けたのか?」
「ううん、トニーのために借りてきたんだよ」
ん? とトニーは聞き返した。サムはトニーのその反応を予想していたのか、笑いながら続ける。
「キャプテンに頼まれたんだよ。聞いてない?」
「は?」
「結婚式するんでしょ? そのときに何か身に着けるものを僕の親から借りてきてほしいって言われてさ」
まさかの事情に唖然とした。キャプテンから頼まれただと? 彼の結婚式に俺が身に着けるものを、サムに頼んだ?
「何がいいかなって悩んでたんだけど、この色ならトニーに似合うかなって」
 へへ、とはにかむサムはとことん楽しそうだった。以前はキャプテンの相棒になりたいと悶々としていたこともあったから、スティーブが頼みごとをしてきたことが珍しく、そして嬉しかったのだろう。
 トニーは、スティーブの行動に驚愕せざるをえなかった。きっと先日のハルクとソーからもらったブローチも、スティーブが頼んだのであろうことは察した。何を考えているかまったくわからない。自分の結婚式に出席する友人の装いをここまでプロデュースするのは普通のことなのか? いや、そんなことはありえない。そもそも、トニー以外のサムやハルクやソーに頼んでまで。
 トニーは頭が痛くなる心地がして、ため息をつき顔を手で覆った。
「サム、それはスティーブに渡したほうがいいんじゃないのか?」
「え、何で?」
 主役は彼なのだから、と言おうとしたが、主役は主役でまた別のネクタイを用意していることだろうと思いとどまった。
 いや、何でもないと返したトニーはサムからネクタイを受け取る。
「ありがとうサム。じゃあ、しばらく借りるぞ。ママによろしく言っておいてくれ」
「うん!」
 勢いよく頷いたサムは、その勢いのままソファーから立ち上がり、シャワーを浴びてくると去ってしまった。
 再びため息をついたトニーは背もたれに頭を預ける。相変わらず外では雨がざあざあと音を立ててニューヨークの街を灰色で包んでいた。
(何を考えてる、スティーブ)
 一番近くにあると思っていたものは、いつだって一番遠くにあるのが世の中の理であったことを、トニーは思い出していた。

   ■

 かのヒーローを液晶画面越しに初めて目にした時、きっと自分は母親の手に抱かれていた。
 あれは? と尋ねる自分に、母がヒーローの名前を告げる。
『キャプテン・アメリカ』
 その名前を耳にした時、胸で煌めいた大きな星を、この世界は憧れと名付けたのだと後になって知った。
 トニーの胸で煌めいた大きな星はキャプテン・アメリカのユニフォームのそれと同じ形をしていて、赤と白と星と、そして晴れやかな青空のような青が、トニーの憧れを象っていく。いつしかそのヒーローの格好を真似するようになったりして、その写真が今でも部屋に残っているくらいだ。
 好きなヒーローは? キャプテン・アメリカ!
 そう、何の屈託もなく答えることができた幼いころの自分に、いつしか別れを告げるようになったのは父親が原因だった。
 キャプテン・アメリカの誕生に深く関わった父は、そのヒーローの捜索に酷く没頭していた。息子の自分よりも、あの父親には大切なものがたくさんある。それを幼い時分で理解してしまうのは、とても残酷なことだった。自分を顧みない父親には、いつもキャプテン・アメリカの影がちらつく。いつしかトニーは、キャプテン・アメリカの名前を口にすることは無くなっていた。
 それが何の因果だろう。氷の中からそのヒーローを見つけたのは、父ではなく自分だったのだ。
 これがもしかして血縁の繋がりということだろうかと苦笑する自分がいた。どうして父が存命の時に見つかってくれなかったのかと憤る自分もいた。
 しかし、そんな思いを鮮やかにかき消してしまうぐらいに、眩しかったのだ。幼きころに憧れを象った青が、トニーの目の前に在る。キャプテン・アメリカは、アイアンマンとしてヒーローになった自分の前に現れてさえ、とてもとても眩しかった。
 そんなヒーローと対等に肩を並べて同じチームにいる。アベンジャーズは、トニーの人生と言っても過言では無かった。
 それと同時に、キャプテン・アメリカの――スティーブ・ロジャースの素顔を知った。
 まるで絵に描いたような好青年。金髪碧眼のハンサムで、身体能力は言わずもがな学もあり、芸術的センスだって申し分ない。人あたりも柔らかく、キャプテン・アメリカとしての姿の時と同様、スティーブ・ロジャースも万人に好かれる人物だった。
 だけど、思ったよりも頑固だった。それを知った時、思わずおかしくて笑ってしまった覚えがある。最先端技術のテクノロジーに関しては苦手意識を持っているけれど、日々勉強して現代に追いつこうとしている。実は苦いものがあまり得意ではなくて、それを人に知られないようにもしていた。初めてスティーブがブラックコーヒーにこっそり砂糖とミルクを入れているのを目撃した時は、大笑いして怒られたものだった。肉とポテトが好きで、高級な食事はあまり得意ではない。味覚が発達してしまって複雑な味が得意ではないんだと言っていたけれど、彼は結構典型的なアメリカンなので、単に肉とポテトが好きなだけなんだと思う。
 憧れたヒーローのこんな姿を見て、どうして好きにならずにいられるだろう。キャプテン・アメリカの高潔な姿も、スティーブ・ロジャースのまだまだ若い等身大の姿も、トニーにとって限りなく近い日常の一つとなっていた。
「ハワードの最高傑作は君だ」
 アーセナルのことで随分と身をやつしていたトニーに、スティーブはそう言った。その言葉に救われ、掬われたものはどれほどのものだっただろう。対立し袂を分かっていてもなお、スティーブはトニーに一番欲しい言葉をくれた。
 君はどうしてそうなんだと、尋ねたことがある。そうしたら、君も私に一番欲しい言葉をくれるからだと、そう言われた。
 どこまでも対等であろうとしてくれる彼に、自分もそうでありたかった。アベンジャーズのリーダーとして力不足を実感するたびにいつも叱咤激励をしてくれたのは、リーダーシップの申し分ないスティーブその人だ。憧れ、追いつきたい。きっとそんな気持ちもトニーにはあった。しかしスティーブはそのたびに言うのだ。君は君であることが素晴らしいのだと。
 スティーブは、トニーからありとあらゆる全てのものを奪っていって、ありとあらゆる全てのものを与えた。そして自分も、スティーブに同じだけのものを欲してしまうのだ。スティーブのありとあらゆる全てのものを奪っていって、ありとあらゆる全てのものを与えたい。
 そして気がついたら、トニーはスティーブに恋をしていた。
 結婚しようと思うんだ。そんな風にして、スティーブはトニーから離れていく。トニーの知らない道を、トニーの知らない人物と歩いていく。
 トニーは物心ついたときからスティーブが心にいたのに、スティーブはけしてそうじゃない。不公平だ。そう叫ぶどうしようもない自分がいる。対等だと言ってくれるのならどうして、こんなにも求めても隣にいてくれない。
 体を重ねてもなおトニーとの関係を崩そうとはしないその姿は、キャプテン・アメリカとしてトニーが憧れたヒーローそのものだったのかもしれないけれど。

 

「うーん……」
 トニーはリビングのテーブルに、二つの箱を並べて唸っていた。
 ハルクとソーからもらったブローチと、サムの両親から借りたネクタイ。これらをどう扱えばいいのかトニーはわからずにいた。
「結婚式で身に付けてくれって? 何を考えてるんだスティーブは……」
 友人として特別扱いをされているのだろうか。それでも今までセックスをしてきた相手にすることじゃないだろう!? とここ数日トニーは憤慨していた。デリカシーがないと言ってしまってもいいのではないかこれは。
 しかし、スティーブはそういったことには疎いのかもしれない。一回目にベッドインした時に、初めてなんだと顔を赤らめて言ったスティーブを思い出す。まさかこの男の童貞をもらうことになるとは! と驚いたものだ。同時に、初めて見るスティーブの初々しい姿にきゅんと甘い気持ちを覚えたりもした。
「って、いやいや、そんなこと思い出してどうする」
 首を振り明後日の方向に向かい始めた思考の舵を切りなおす。
 とりあえず、スティーブに真意を問い詰めるのが優先事項だとトニーは考えていた。ブローチもネクタイも、どういうつもりでトニーに贈ろうとしたのか。それも、あの三人に頼んだりして。
 スティーブがタワーに帰って来る日はまだ先だ。通信で聞く気にもなれなかったので、直接顔を合わせる日をトニーは待っていた。
「あら、トニーじゃない」
 ふと、ナターシャの声が聞こえた。
「ここにいたのか!」
 続いてクリントの声もしたのでトニーは振り返る。いつものヒーロースーツではなくカジュアルな普段着の姿の二人は、シールド任務だったのか、はたまたプライベートな用事で出かけていたのか。二人が一緒にプライベートで出かけるなどほとんどありえない気がするので、まあ恐らく九割方前者だろうなと考えながら「シールドの任務でもあったのか?」とトニーは尋ねた。
「いや、ちょっと店に出かけてたんだ」
 クリントの言葉に、まさかの残り一割の方だったかとトニーは目を見張る。ナターシャはそんなトニーの思考を察したのか苦笑していた。
「別に二人の用事があったわけじゃないわ。頼まれた事があったの」
 まとめていた髪をほどきながらナターシャが言う。たわわな赤毛をさっと手櫛で整え、いつものスタイルに戻っていた。
「頼まれ事?」
 ふと、トニーは嫌な予感がした。
 ここ数日の流れからして、二人に頼みごとをした人物とは。
「もしかしてスティーブからか? 頼み事って俺絡みのことじゃ、」
「あら、知ってたの?」
 やっぱりかとトニーは肩を落とした。これでスティーブはもれなくメンバー全員に頼みごとをしたというわけだ。
「どうしたんだよ?」
「いや、何でもないんだ」
 クリントが気遣うが、やはり本当のことは言えない。「それで、頼み事って?」と尋ねたが、二人はなぜか腑に落ちない顔をしている。
「それがよくわかんなかったんだよ。これ渡されて、装飾してくれるような店を探してくれないか? って言われてさ」
 クリントがごそごそと上着の中のポケットを探る。中から出てきたのは、小さな鉄の欠片だった。
「……――」
「ゴミと間違えて捨てちまいそうだ」
「ちょっと」
 二人が話している声は、トニーには聞こえてこなかった。
「トニー?」
「……だ」
「え?」
「アーセナルの破片だ」
 トニーの言葉にクリントとナターシャを目を丸くする。クリントが手にしていたのは、あの夜にスティーブが見せたアーセナルの欠片だったのだ。
 ますます混乱する。クリントとナターシャに頼んでまで、どうしてこの破片を?
「ああ、だからこれなのか」
  ふと、クリントが納得したような声を出す。顔を上げると、なぜか顔を綻ばせるクリントの顔が視界に入った。
「だから?」
「トニーの父さんの、ハワードの形見だろ?」
 クリントの言うことに、ナターシャもああと頷いた。トニーは相変わらず首を傾げたままである。
「まったく、キャプテンもわかりにくいことするわね」
「ほんとだよ!」
 納得がいったらしい二人はお互いに笑ってスティーブのことを話す。トニーだけがその真意がわからなくて呆けていた。
(なんだ、なんなんだ)
 胸に張り付いた靄が一層濃くなるようだ。
「……何で」
「ん?」
「何で、スティーブはこんなことを?」
 思わずそう口にしてしまった。独り言のつもりだったのか、この二人に尋ねてみたかったのかは自分でもよくわからなかった。
「何でって……結婚するんだってキャプテンに言われたけど」
 ああ、やっぱりそうなのかと諦めに似た落胆が胸を覆う。
「そうか。すまない、気をつかわせて」
 それっきり黙り込んでしまったトニーに不思議な顔をしていた二人だったが、バタバタといくつもの足音が聞こえて来たので三人はそちらに顔を向けた。
「あっ、いたいた!」
 先頭にいたのはサムで、勢いよく階段を下りてくる。次いでハルク、ソーが後ろに続き、その背後にはもう一人居た。
「……――」
「ただいま」
 ここ何日も頭を離れなかった男が、皆に向かってそう言う。
「キャプテン! 早かったな!」
「おかえりなさい」
 クリントが驚きの声を上げ、ナターシャは迎えの挨拶をした。
 トニーは予想外の姿に何も言うことができず、ぽかんと口を開けている。
「思ったよりも早く敵のアジトが見つかったんだ。後日またシールドから呼び出されるだろうが、とりあえずこの任務は終わりだ」
 任務の後そのまま帰ってきたのか、スーツはまだ薄汚れたままだった。きっと着替える前にサムたちがここへ連れてきてしまったのだろう。しかしそれにもかかわらず、スティーブの顔は達成感に溢れているものの、疲労の色はこれといって浮かんでいなかった。
 ふと、スティーブがこちらに顔を向けた。まっすぐにトニーの目を見る視線に、ぴくりと体が軽く震える。
「トニー」
 ふわりと笑いながら呼ばれた名前に、ぎゅうっと心臓が掴まれたようだった。久しぶりに聞いた低く甘めな声と、久しぶりに見る端正な顔の柔らかい笑みに、トニーの色々なものが剥き出しになっていく。
(あ、だめだ)
 もう限界だと、どこかで呟く声がした。
 机に置いてある二つの箱を手に取り、トニーはスティーブの元へと向かう。
「トニー?」
 突然すたすたと自分の元へ歩いてきたトニーに、スティーブが不思議そうな顔をする。先ほどまではしゃいだ様子だったサムやソーやハルクは怪訝そうにし、トニーの浮かない姿を見ていたクリントとナターシャは少し心配げな表情をしていた。
「どういうつもりだ、スティーブ」
 スティーブの真正面にやって来たトニーは、じろりと目の前の男を睨む。
「え?」
 なおも不思議そうな顔をするスティーブに、ずいっと手に持った二つの箱を見せた。
「皆に頼んでまで、これを俺に?」
するとスティーブは、「ああ」と照れたように笑った。全く持って意味が分からないその反応に靄は濃くなるばかりだ。
「そうなんだ、君は嫌がるかと思ったんだが、せっかくだしこういうこともしてみたいと思って」
「……?」
「喜んでくれたか?」
 スティーブのあまりにも嬉しそうなその言葉に、ついにトニーの中で何かがぶちりと切れる音がした。
「――ああ、そうだな」
 ぽつりと呟き、とん、とスティーブの鍛えられた胸板に二つの箱を突き返した。
「トニー?」
 ぐっと顔を上げて、悔しさがにじみ出ているであろう笑みで言う。
「お幸せに、キャプテン」
 トニーのいっそ空虚なほどのその声は、リビングに寒々しく響いた。
  トニーはスティーブの隣を通り過ぎ、リビングの階段を上っていく。任務帰りの汗が少し混じったスティーブの匂いに疼きを覚える体が憎かった。
  唖然としているメンバーの視線が背中に浴びせられる。トニーの心と連動するようにして、次第にその足が速まっていく。一刻も早くここから出てしまいたかった。
「トニー!」
  少し遅れて、背後からスティーブの声がした。しかしそれに構わずリビングを出て、タワーの扉へと向かう。
(くそっ!)
 半ばもう走るようにしてニューヨークの街へと出た。太陽がすっかり沈んでも未だ明るいこの街に普段なら落ち着きさえ覚えるのに、今はこの光全て消え去ってしまえばいいのにと思っている。
 捨て台詞のようなものを吐いてしまった自分が恥ずかしい。だけど、本当はもっとたくさんのことを捲し立ててやりたかった。
 俺とセックスしてたくせに。
 そんなこと、言えるはずもなかったが。
 ぐしゃぐしゃしたとした整理できない頭のまま上を見上げると、そんなトニーをあざ笑うかのようにして、ニューヨークの夜空の数少ない小さな星たちがちかちかと煌めいていた。

「トニー……」
「ど、どうしたんだろ?」
「さっき、ちょっと浮かない様子だったけど何かあったのかしら」
「えっそうなのか?」
「あー……そういえば、」
「サム?」
「ネクタイ渡した時も元気なさそうだったな」
「……」
「いつもの調子じゃなさそうなのは感じたな」
「ハルクまで? ソーは、」
「私にはわからなかったが……キャプテン、」
「何だ?」
「お幸せにとトニーは言っていたが、あれは?」
「……――まさか、」
「あー、何だ、とりあえず――

追いかけることをオススメするぜ、キャプテン」

   ■■

「何やってるんだ……」
 セントラルパークのベンチでトニーはうなだれていた。
 衝動のままに街へ出てきてしまったものの、どこかの店に入る気にもならなくて、この公園へと足を運んでいた。人気はまばらで、時たまちらちらとこちらに視線を寄越す人がいたものの、タワーの中の普段着であったためトニー・スタークとはばれていないようだった。
「プレイボーイの名が泣くな」
 はは、と自嘲したが、結局更に気分が沈んだだけだった。
「……もっと言ってやればよかった」
 ぽつりとそう零したら、むかむかとまたしてもこみ上げてくるものがあった。
「だいったいなぁ、セックスの後に、結婚しようかと思って、とか言い出すほうがおかしいんだ!」
 膝にどんっと拳を叩きつける。この痛みも、スティーブにぶつけてやればよかった。
「それに加えてブローチにネクタイにアーセナルの破片だと? 意味が分からん! 特にアーセナル! ばかにしてるのか? デリカシーがないにもほどがある!」
 捲し立てるたびに徐々に声が大きくなっていく。幸いトニーの近くに人は近寄ってこなかったが、万一その姿を傍で見られてしまったら、向こう一週間はSNSやら他のメディアやらを騒がせてしまうことだろう。
「くそ、もっと言ってやればよかった。あのばかスティーブ、」
「私が何だって?」
 はた、とトニーは口をつぐむ。聞こえるはずのない声が背後からトニーにかけられた。
「スティ、」
「探したぞ、トニー」
 振り返ると、焦ったような、困ったような顔のスティーブが立っていた。追いかけてくるだろうとは思っていたが、予想外に早く見つかってしまった。浴びせかけてやろうと考えていた言葉は、スティーブの顔を見た瞬間にまたしても腹の奥に引っ込んでいく。顔を見られて嬉しい、追いかけて来てくれたことが嬉しいなどと思ってしまう自分をぶん殴ってやりたかった。
「……探さなくてもよかっただろ」
 ふいっと顔を逸らす。スティーブの眉が顰められたのを気配で感じた。
「もう少しぶらぶらしたら帰るよ」
 そう言ってトニーは立ち上がる。そしてそのままセントラルパークを出て行こうと歩き始めた。スティーブに見つかった今ここに居たくないと思ったのも本当だが、自分はともかく、キャプテン・アメリカのユニフォーム姿のままのスティーブがここに居て騒がれるのも本意じゃないと足を速めた。
 案の定スティーブは後ろを着いてきて、トニーが何か話すのを待っているようだった。人目につくのも嫌だったので、昼間も比較的人通りの少ない道を選んだ。歩いていても誰も通り過ぎることはない。自分とスティーブの足音だけが静かな道を硬く鳴らしていた。
「……よくわかったな」
「え?」
「あそこに居るって」
 この沈黙にも嫌気がさしたので何とか話しかける。きっとタワーから迷いなくあそこへ来たであろうスティーブにそう言ってみた。
「君はこういう時、店には入らないだろう?」
 スティーブの、いかにもトニーを理解していますといったような物言いにむかついた。それがけして嘘でも比喩でもなく、彼は本当に自分のことを理解していると知ってるから、尚更。
「――ふん」
 更に早足になって歩く。走ったとしても後ろの男を振り切れるわけがないので、ただただ肩で風を切っていた。
「トニー、話を聞いてくれないか」
 ついに、スティーブがそう言った。
  来るとは思っていたが、だからと言って心の準備ができているかと言われたらまた別の話だ。
 ふと、シュレーディンガーの猫のことを思い出した。スティーブの話を聞いてしまったら、今度こそ何もかもこの手のひらから零れ落ちていく。みっともなく縋るのもプライドが許さない。それなら、何も聞きたくなんかなかった。
「いやだ」
「トニー」
「聞きたくないんだ」
 まるで駄々っ子のようなトニーに、スティーブが更に困ったような顔をする。それは後ろを振り返らなくてもわかった。
 こうしてトニーを追いかけてくる理由を考えたらたまらなくなる。
 君が顔も知らないどこかの誰かと結婚するんだということを、俺は知りたくないんだよ!
「君は何か誤解してる」
「しつこいぞスティーブ」
「トニー、私は、」
「ッ、」
 思わず立ち止まって、勢いよく音を立てるようにして振り返る。
 スティーブはそんなトニーに、一瞬ひるんだようだった。
「何が誤解だって?」
「トニ、」
「俺とのセックスはそんなに軽いものだったか?」
 すると、スティーブは唖然としたように口を開けた。
「何を言ってるんだ」
「セフレなのはまあいいとして、自分の結婚式に俺の格好をプロデュースしてやろうって? しかも他のメンバーに頼んだりして」
「ちが、」
「そんなのあんまりだろ、俺がどれだけ――ッ!」
 そう言おうとして、咄嗟に口をつぐんだ。ぎゅうっと下唇を噛む。言ってしまったら本当に戻れなくなるとわかっていた。
 仮にもプレイボーイだったのだから、後腐れなくこれからも関係を続けていけるって? そんなの、とても無理だった。物心ついた時から、この男に心を奪われているというのに!
 トニーは密かに腕に巻いた装置を起動させた。それに気づかないスティーブは話を続けようとする。
「トニー、とりあえず落ち着いてくれ。ゆっくり話したい」
「だから嫌だと、」
「なぜ君はそんなに私を拒絶するんだ?」
 次第にスティーブも苛立った様子になってくる。トニーの頑なな態度にスティーブも困惑していた。
「君は誤解してるんだ、私は――……っ!?」
 すると、スティーブが突然後ろを振り返り、何かから身をかわすようにした。
「何だ?」
 スティーブのその驚いた声とは裏腹に、トニーは右手をあげて「それ」を待つ。
 勢いよくやってきた「それ」は、かしゅっと右手に気持ちよくはまった。
「な、」
 スティーブが絶句しているが、トニーはその向こうに視線をやるばかりだった。手だけではなく、腕、足、胴体などそれぞれのパーツがこちらに勢いよく飛んでくる。
「おいトニー、何を」
 赤と金の二つの色が段々とトニーの体を覆っていく。ヘルメットにフェイスプレートも身に着けたトニーは、すっかりアイアンマンの姿になっていた。
「しばらくしたら帰るから、今は放っておいてくれ、スティーブ」
 アーマーをすっかり身に着けてしまった目の前の男の真意に気がついたのか、スティーブは焦ったような表情を見せた。
 アーマーが作動して、足が宙にふわりと浮かぶ。だんだんと空に上がっていくトニーを、スティーブは焦れた顔をして見上げていた。
「だめだトニー、行くな」
「ちゃんと帰るって言ってるだろ!」
「私は今話したいんだトニー!」
「聞きたくないんだよ!」
 ここから飛び去ってしまいたい。だけど、スティーブの引きとめる言葉にどうしても反応してしまう。情けない、本当に。
「どうしてそうやって逃げようとするんだ!」
 スティーブの切羽詰まった声に、トニーもぐっと喉を鳴らす。
 この男の必死な姿が、自分だけのためだったら、どんなに。
「――どうしてだって? そんなの、俺が君を、」
 ああ、もう、今更だ。
 けして言うものかとずっと固めていた決意の蝋燭が、スティーブの点けた火のせいで、どろどろと醜い蝋を垂らして溶けていく。
 逃げてしまいたいのも、それでもスティーブの引きとめる声に縋ってしまいそうになるのも、全部、
「好きだからだよ! 悪かったな、めんどくさくて!」
「……--っ」
 トニーはそう言って、さらに高く空に舞い上がろうとした。
  もう今夜はこの夜空の星の一つになろうとアイアンマンが夜空に飛びたっていく。
「トニー!」
  しかし、それを引きとめたのは――

「結婚しよう!」

 静かな夜が横たわっているここに、切実な男の声が響く。
  アーマー越しにトニーはその声を聞き、はた、と動きを止めた。
  空へと向かっていた体がゆっくりと振り返る。地面を見下ろしたトニーの目には、今までに見たことがないほど緊張した顔のスティーブが映った。
「――は……?」
 ぱくぱくと動くトニーの口からは意味のある言葉は何も出てこなかった。
 空耳なんかじゃない。今、この男は何と言った? 俺に向かって、そうだ、結婚しようと――
「……」
「トニ、」
「……――ッ!?」
 何拍も置いて、その言葉を理解する。
 トニーはあまりのことに脳がショートしたようになってしまい、宙に浮かんだまま少しも動けずにいた。
「あー、トニー」
「……」
「とりあえず、下りてきてほしい」
 よくわからないままその言葉通り素直に地面に降り立つと、ほっとしたようにスティーブが顔を綻ばせた。
「これで、ちゃんと話せるな」
「スティーブ、」
「結婚しよう、トニー」
 今度こそ正面切ってそう言われ、スカイブルーの瞳がトニーを鮮やかに照らしている。
 何を言ってるんだ、と。どういうことだ、と。未だ混乱する頭は思考を停止しているのか、それともオーバーヒートするかのようにフル回転しているのか。それすらわからないまま、アーマーを着ているので少しだけ目線の下にあるスティーブの顔を見つめる。
「――俺と? 結婚?」
 ついに出てきたのは、とてもシンプルなその一言だった。
「ああ。君とだ」
 唖然とした表情をフェイスプレートの下で晒していたトニーはしばらく呆けていたが、はっとして言葉を絞り出す。
「な、何を言ってるんだ? 君の恋人は?」
「私はずっと君と恋人同士だと思っていたんだが、違うのか?」
 またしても予想外のスティーブの返答に、トニーはますます頭がくらくらするのを感じた。
 恋人? いつ? 俺とスティーブが!?
「俺たちセフレじゃなかったのか?」
「そこだ、よくわからないのは。なぜ君は、私がそんな認識で君とベッドを共にすると思っていたんだ?」
 よくわからないのはこちらの方だ。トニーは以前のスティーブが口にしたことを思い出す。
「だって前に、君の体は素晴らしいって――」
「……? 素晴らしいぞ。いつも夢中になってしまう」
「いや、そんな面と向かって言われても困るんだが――そう言われたから、俺の体が好きなのかと」
  今度はスティーブが唖然とする番だった。
  トニーはその表情を見て、まさかと思った。
  まさか自分は、
「――そこから誤解だったりするか?」
「当たり前だ!」
 スティーブが普段より幾倍か大きな声を出して言う。彼がこんな風に声を荒げるのは珍しく、思わずびくっと体を跳ねさせてしまった。
「なぜ君はそう、というより私がそんな風に君を、ああ、だから私は、」
 スティーブにしては支離滅裂な言い様にトニーも大人しく黙っていた。自分が何やら多大な誤解をしていたことはわかった。
「つまり、俺の体が好きなのではなく――?」
「そうだ、体だけじゃない! 君の全てが好きだトニー!」
 ぶわっと勢いよくそう告白されて、は、と小さく息を吐く。
 ぐるぐるとする頭は未だヒートアップしている状態で、自分の頬や耳が段々赤くなってきていることにも気づかなかった。
「な、な、」
「どうして君はそんな風に思っていたんだ?」
「いや、だって、あの言い方ならそうも思うし、そもそも君に好きだのなんだの言われた覚えは全く無いぞ!?」
 アイアンマンとキャプテン・アメリカがこれでもかと言い合いをしている姿は、目撃されたら向こう一か月は街の話題を独占していたことだろう。しかしここはトニーが考慮したおかげで人っ子一人通らない。周りを気遣う余裕のないふたりにはトニーの下した決断は吉と出た。
「言って、は、」
「ない! 聞いてないからな!」
「……君が眠ったすぐ後に、言うのが日課だったんだ」
 スティーブが少し体を小さくして言ったそれに、トニーはますます勢いづいた。
「眠った後? どうせなら起きてる時に言ってくれよ! わからないだろう!?」
「そういう君も私に一度もそんなこと言わなかったじゃないか!」
「体目当てだろうなーとか思ってる相手に言えるかばか!」
 はあはあとフェイスプレートの下で息を荒げてトニーは言う。
 あの頃のどうしようもなかった想いの行き場が、ダムが崩壊したように溢れ出てくる。
「大体な、こっちはいつから君のことを知ってると思ってる? 五歳よりも前だぞ! そんな相手に軽々しく言えるか? それも自分たちはセフレだなんて思ってるのに!」
 トニーの必死になっていく姿に、スティーブはふと唇を引き結んだ。トニーは言いすぎだと思いながらも、幾日も抱え込んできたものが口から零れ出て止まらなかった。
「じゃあ今言うさ。そうだ、好きだよ。随分前から知ってるヒーローとセックスしたし、頑固で説教好きな君を好きになったよ」
「……」
「でもどうしたらよかったんだ。素直に最初に言ってればよかったって? できるわけないだろう、俺が君にどれだけ、」
 スティーブがゆっくりこちらにやって来る。それを見てトニーは思わず俯いた。昔から熟成させてきたこれは、面と向かって言うにはあまりにも羞恥と懐かしさがにじみ出てしまう。
「どれだけ昔から、憧れてると思ってるんだ」
 それを象る青が、目の前にある。自分は今も、その鮮やかさに惹かれてやまないのだ。
 ふと、スティーブの右手がフェイスプレートに添えられる。勝手知ったる動きである装置を作動させた。それはトニーが万が一戦闘不能となった時に機能するもので、スティーブだけがその操作を許されていた。
 固く閉じられていたフェイスプレートがゆっくりと上がる。フィルター越しに見ていたスティーブの顔が、直接トニーの視界に飛び込んできた。
「――泣いてるかと」
 ふ、と、目尻を下げて柔らかく微笑まれた。
 ぎゅうっと心臓が直接掴まれたようだった。この瞳に、ずっとずっと、自分は。
「泣かないさ、こんなことで」
 むすっと唇をとがらせると、何がおかしいのかスティーブは笑みを深くする。それをじろりと睨むと、つい、とささくれのある親指で目尻がなぞられた。
「――すまない、トニー」
「何が」
「君がそこまで私を想ってくれているだなんて、知らなかったんだ」
 トニーはその言葉に、だんだんと顔を赤く染めていく。自分の先ほどまでの言動を思い出して、アドレナリンで引いていた羞恥が戻って来たようだった。
「ちが、そういうことじゃ」
「違うのか?」
「ちが、く、はないが、俺は、」
「好きだ」
 澄んだ声が耳に届き、トニーはぴく、と肩を震わせた。
「好きだ、トニー。君を知ってからの年月は、君が私を想ってくれていた時間とは比べものにもならないが――だけど、そんなのもう関係ないんだ。だって、君と出会ってからの私の時間がどれだけ濃密なものなのか、なんて、言わなくてもわかるだろう?」
 オブラートに包むということを知らない男の気障で甘すぎる告白に、トニーは顔から火が出るようだった。端正な顔がこれでもかと言うほど発揮されていて、こんなのずるいだろ! とトニーは喚きたくもなった。
「あー……」
「トニー、」
「わかった、わかったから。……言うのも言われるのも、大分覚悟がいるんだな、これは」
 口を手で覆って、意味の分からない呻き声が出てきそうなのを何とか抑えこむ。誤解を招く行動をしていたことや、遠回りすぎた今までの告白に文句を言いたかった気持ちも、もうすっかりしぼんでしまっている。とりあえず君はその顔に生まれたことを感謝すべきだと言ったら、きょとんとした顔を見せられた。
「――すまない、色んな誤解をしていた」
「君にそう思わせてしまったのは私の責任だ。こちらこそすまなかった」
 謝罪の言葉に、スティーブも律儀に返してくる。公私で全く変わらないその態度に、思わずふはっと笑ってしまった。そんなところが面倒くさくて、同時にとても愛おしい。
「……――」
「スティーブ?」
  笑うトニーをしばらくじっと見つめていたスティーブは、ふとその顔を近づけてくる。思わずきゅっと目を閉じたが、期待した感触は暫く待ってもやってこなかった。
「……?」
 ぱち、と目を開けると複雑そうな顔をしたスティーブがいた。何だ? と思っていると、ヘルメットをコンコンと中指の背で叩かれる。
「ん?」
「これがあるままだとキスがしにくい」
 表情にはあまり出ていないものの、不機嫌にそう言ったスティーブに、またしても笑いがこみ上げてきた。
「ふは、ははは」
「笑わないでくれ」
「ふ、すまない」
 そういえば、キスもセックスもスティーブがタワーを留守にしていたからしばらくご無沙汰だったのだ。先程のキス未遂のせいで、今までに散々覚えさせられたスティーブの肌が恋しくなってしまった。それはきっと、目の前の青いヒーロースーツを纏っている男も同じだ。
「帰ろう、スティーブ」
 スティーブのベッドで、思いっきりセックスがしたい。
 今まではできなかったこと。愛を囁きながら、ベッドで絡みあってみたい。
 名前を呼びながらキスをして、そして、トニーが一番初めに覚えた青が煌めく瞳を見つめて一緒に果てたい。
「ああ。でも、その前に」
  スティーブがアーマーに覆われたトニーの左手をとりながら言う。淡く微笑みながらも、少し緊張した色を載せた表情でトニーに問うた。
「プロポーズの返事が聞きたい、トニー」
 普段ではあまり見ることのできないスティーブのその殊勝な様子に、笑いながら、でもうっかり泣きそうになりながら、トニーは普段のあまのじゃくな自分などかなぐり捨てて、言ってしまったのだ。
「イエスに決まってるだろ、俺のヒーロー!」
 だなんて!

 

「そういえば、」
「ん?」
「スティーブが皆に頼んでたものは一体何だったんだ?」
「ああ、あれか。君のことだからすっかり知ってるものだと思っていたよ」
「……?」
「最後の青は迷ったんだが、私でいいか?」
「君でいい……? いやいいけど、だから何なんだ?」
「怒らないでくれよ。ヨーロッパのジンクスなんだが、花嫁が身に着けると幸せになれるものが四つあるんだ」
「花嫁……? ――――あっ!」
「ああ、だから怒らないでくれと言ったんだ!」
「君が恥ずかしいことをするからだろう!?」
「すまない、一度やってみたかった」
「あーもう、帰ったら皆にどんな顔して会えばいいんだ! おい、笑うなスティーブ!」
「ふは、そうだな。――私の隣で、幸せそうな顔で笑えばいいさ、トニー」

 

サムシング・フォー
(Last one is blue.)

 

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Something Old    ハワードの形見
Something New   ガラスの鳥のブローチ
Something Borrowed 幸せな夫婦の結婚式の思い出のネクタイ
Something Blue   、