あと一つ、花があったら

「なあ。それ、ほしい」
 枕に頭を乗せて、散々喘いで酷使した喉を震わせながら、カラ松が呟いた。
 おそ松はベッドに腰掛けながら情事後の一服、とカラ松に背を向けてライターを探していたので、カラ松のそんな一言に反応するのが一拍遅れた。火をつけることをやめ、右手の人差し指と中指の間に煙草をはさみながらカラ松の顔へと自らの体を近づける。お互いの睫毛が触れ合った瞬間にぴたりと近づくことを止めると、泣いた名残でカラ松の瞳は随分と水分を蓄えている。きゅっと指で瞼を軽く押せばそれは簡単につるりとした頬に流れていくことだろう。しかし今おそ松はカラ松の涙を見たいわけではなかった。
「なに。たばこ?」
 おそ松が優しい声でそう問うた。おそ松が一番優しい声を出すのは、寝起きの時でもなく、風呂に入っている時でもなく、セックス中でもなく、情事後にこうして二人、ベッドで甘ったるい時間を揺蕩っている時だった。それはまあ当然のこととして、何故ならカラ松が一番甘えた声を出すのもこのセックス後の三十分ほどの間だからだ。
 カラ松はおそ松の問いにふるふると頭を振る。節くれだった男らしい指をおそ松の目元に這わせ、そして、瞼をきゅうっと柔らかく押してみせた。
「これ」
 絹に触れるような優しい手つきであったが、しかし動きはまるで瞳を抉り取るような、そんな仕草だった。
「これがいい」
 おそ松はカラ松の答えに苦笑して見せる。この珍しく甘えたな弟にしてやれることは全部してあげたい。だが、いくらおそ松でも瞳はあげられそうになかった。
「だめだよ」
「なんで」
「とっちゃったら、お前のこともう見れなくなるじゃん」
「ずっと俺の傍に置いておくぞ。ずっと俺がこれを見つめている。それでも」
「だめだ」
 おそ松が揺らがないと悟ったのか、カラ松はなーんだとでも言うように、ぐいっとおそ松の体を剥がしてしまった。先ほどの空気を霧消させてしまったカラ松は、まるで人が変わったように勢いよく上半身を起こし、床に落ちていた下着とスキニーを素早く身に着ける。
「なんだよ、俺はお役ごめんってか」
「くれないならもういい。時間が過ぎてしまう。早く着替えろ」
 ばさっとおそ松の衣服をカラ松が投げつける。おそ松は何だよとぶつくさ言いながらも素直にここに着ていた時と同じ格好に戻っていった。
 ラブホテルから帰る途中に、ある雑貨屋におそ松は寄った。カラ松を外に残したままおそ松は目的の物を見つけ手早く購入してからカラ松の元へと戻った。袋に入れてもらう時間すらもったいなかったので、それはシールがぺたりと張り付けてあるだけだ。
「何だこれ」
「飴だよ。これで我慢な」
 カラ松はビー玉ほどの大きさの赤い飴が詰まっている瓶をおそ松から受け取った。ついさっき炎を水あめに溶かして固めたような、そんな模様の飴である。ありがとうと一言お礼を伝えたカラ松は、さっそく蓋を開けて飴を取り出す。力自慢のカラ松が新品の瓶の蓋を開けられるかどうかはまったく心配しなくてもよかった。人差し指と親指で飴を摘まむカラ松は、東側で顔を出している太陽に透かすようにして手を高く天に上げた。
 ガリッ。
 歯を立てられて飴がカラ松の咥内で飛び散っていく。ガラスの欠片のようなそれがカラ松の柔らかくねっとりとした中を傷つけてしまわないかとおそ松は一瞬心配したが、たとえ傷つけてもそれはおそ松の色が傷つけたのであって、その結果じわりとにじみ出てくるのもどうあってもおそ松の色だった。
 瞳がじくっと痛むような気がした。カラ松が淡々とかみ砕いていくものを見ながら、おそ松は無意識の内に右手で自分の瞳を覆う。
 そして、自らもカラ松に手を伸ばした。
「ね、俺もちょうだい」
 カラ松はぴく、と一瞬おそ松を見た後、素直に一粒飴を渡す。おそ松はそれをカラ松のようにかみ砕くことはしないまま、コロコロと口の中で赤いそれを転がす。舌で舐り歯で軽く噛みながら、きゅっと吸った後上顎に擦りつけるようにして舐めていく。完全に丸い飴が口の中から消え去った後、べえ、とおそ松が舌を出しカラ松に見せつける。
 その舌はまるで血のように、赤く赤く染まっていた。
「……」
 カラ松もおそ松に倣うようにしてべえ、と舌を見せる。しかしその舌はおそ松ほど赤く染まってはおらず、ほんのり桃色に色づいているのみだった。
「だからいつも、噛むなっつってんだろ」
 おそ松がくっと口角を上げ笑う。それを見たカラ松は舌を引っ込めて、右手を口元に持っていったあと人差し指で軽く下唇を引っ掻いた。
「癖なんだ、俺の」
「じゃあ、俺と居る時しか飴食えないね」
 お前が飴を齧らないようにさせないと。
 独占欲と執着を孕んだ言葉を実の兄に浴びせられたカラ松は、それでも何事もなかったかのようにもう一つ飴を取り出した。
 人差し指と親指でつまんで唇に柔く触れさせた後、ころ、と咥内の中にそれを迎え入れた。おそ松の言いつけの通り、ころころと大人しくそれを舐めている。時々齧りたくなる衝動が襲ってくるのか、きゅっと眉をひそめてみせる。
 おそ松よりも長い時間をかけて舐め終えたカラ松は、もう一度、べえと舌を見せつけた。
真っ赤に色づいたその舌を見て、おそ松が目を細める。
「ぐっちゃぐちゃにしてやりてぇ」
 そこはキスがしたいとかじゃないのかとカラ松はため息をついた。
 東に在った太陽は段々と南へ昇っていく。それに合わせるかのように歩みを進める二人は、指先がくっつくかくっつかないかの距離を保ちながら隣を歩き、賑やかな町へと戻っていく。
「今日病院は?」
「五時からだ。検査だけだからそれほど時間はかからないと思う」
「送ってく?」
「いや、いい」
 カラ松の瞳が赤色を認識しなくなってから三年が経つ。
 世界から赤色が消えたことで灰色が周りに増えたんだとカラ松はよく笑っている。カラ松は灰色が嫌いではなかった。
「なあ、くれないのか」
「だめだよ」
「そうか」
 カラ松の瞳が赤を映さなくなってから、カラ松はよくおそ松に瞳を強請るようになった。
 それが文字通りの意味ではないことは勿論わかっている。
「眠い……」
「帰ったら寝るか。多分あいつら外出てるだろーし」
 おそ松が認識している色は、今はたった一つだけだった。
 カラ松が着ている青色が、その青色だけが目に飛び込んでくる。
 それ以外は鬱屈とした灰色ばかりで、おそ松ももう三年はこの世界で生きていた。
 カラ松が欲しがっているのは、おそ松が見ている青色以外色のない灰色の世界だった。賑やかなものが好きで寂しがりやなお前には、灰色ばかりは辛いだろうと、いつもこの弟は言っていた。
 だけどどうしてこんなにも寂しい世界をこの男に見せることが出来ようか。世界は美しいと当たり前のように豪語してみせるこの弟に、この瞳はやれなかった。
 それに、この瞳が青色を映してくれるだけで、それだけでおそ松にとっては十分だった。
 自らがしたことを顧みれば、随分と軽い。
「おそ松」
「あげないよ」
「何で、」
「ないものねだりは嫌われるよ」
「……酷い男だよ、お前は」
 初めて実の兄と、弟と体を重ね合ってから、三年が経っていた。

カラ松の腹の中では虫が幾匹も蠢いている。卵が産まれうじゃうじゃと腹を食い破るようにして生きるこの蟲は、一番初めにカラ松から赤を奪った。

「検査、どうだったの?」
 チョロ松が帰宅したカラ松にいつも通り尋ねると、カラ松もいつも通り「なんてことはなかった」といつも通りの返答をした。
 靴を脱ぐカラ松に夕飯できてるよと声を掛けたチョロ松はすたすたと居間へと戻っていく。その背中を見送ったカラ松は、二階へと目を向けた後思い直してチョロ松の後に続いた。
「おかえりー!」
「カラ松兄さんだけか。おそ松兄さんは?」
「二階にいるよ」
 十四松とトド松がもうすでに夕飯を前にして座っていた。チョロ松が二階へ長男を呼びに行ったのを見送ると、カラ松もいつもの位置へと腰を下ろす。
「クソ松、もっと右寄って」
「お、すまない」
 一松は今日はこの位置で食べる気分なんだろうか。隣へ座った一松は夕飯を目にしてぼそりと呟く。
「これ、見えない?」
「トマトなのはわかるが、灰色だな」
 そう、と短く返した一松はカラ松から顔を逸らす。赤が見えなくなってから、一番カラ松を気にかけているのは意外にもこの四男だったのである。
「おー! 今日カレーじゃん!」
 おそ松がチョロ松と一緒に居間へと降りてきて、夕飯を目にした後嬉しそうに顔を綻ばせてみせる。サラダの鮮やかな緑も、カレーの食欲をそそる茶色も、米の優しい白色だっておそ松の目にはすべて灰色に映っていることだろう。
「いただきます」
 手を合わせて夕飯を食べ始めれば、六つ子の食卓風景は静かなものへと姿を変える。
 ドレッシングを取ろうと手を伸ばすと、ばちっとおそ松と目があった。表面上は何も変わらないけれど、微かに、ほんの微かに眉尻を下げたおそ松にカラ松は想う。
(好きだなぁ)
 恋を、している。

***

 ほら、泣くなおそ松!
 うっせー泣いてねぇよ! ……泣いて、ない。
 母さんたちもすぐ来るよ! チョロ松たちも探してると思うし、
 あいつらぜってー駄菓子屋で遊んでるだろ!
 うんまあそれはそうだな……。
 ……つまんね。
 …………あ、おそ松。
 なに?
 この花、すっごくきれいじゃないか?
 そうかー?
 うん! なんだか、おそ松によくにあうな!

***

「花、探してるんす」
 家から電車で約一時間、自分にしては大分遠出をした方なのではなかろうか。鰯の大群のように押し寄せる人の波から一歩抜け出た位置でおそ松は男女一組で歩いているのを見かけたら片っ端から声を掛けていた。
「あの、花なんすけど」
 かれこれ三時間ほどここに立っているが、立ち止まってくれたのはたった一組だけである。それでも、詳しく話したら怪訝そうな目で男が女を引っ張って人の渦へと消えていってしまった。
「あー……やっぱ見つかんねーわな……」
 おそ松は探していた。花を、それもただ野道に咲いているわけじゃない特別な花を探していた。
「この世には、恋をすると花を吐く奇病があると言われてるダス」
 デカパン博士からその話を聞いたのは今から約二年半ほど前。カラ松の世界から赤が消え去ってから半年が過ぎたころだった。
「何だそれ? 聞いたことねぇや」
「実際にあるかどうかもわからないダス」
「はあ? んだよ無理ゲーじゃん」
「でも、それしか救う方法は無いダスよ」
 おそ松はぼりぼりと頭をかきながら目の前の博士を見る。相談した時から一筋縄ではいかないことだとは思っていたが。
「……んで、その奇病の花が、あいつを救うって?」
「奇病の人が吐いた花をカラ松君に食べさせれば、きっと」
「……やってやろーじゃん」
 他ならぬ自分に向けて宣言した。口に出すと言霊となって確かにその実体を持つのだと、物語の世界を、言葉で作られた世界を現実のものとする芸術に携わっていたカラ松が言っていた。今ならそれを信じてみようと思えた。自分は、やらなければならないのだ。
「出来れば、青色の花がいいダスよ」
 その奇病を見つけることすら気が遠くなるような道のりだろうに、その中で青を探せなど天文学的数字の確率にもほどがある。ただ、自らの世界にある色が失われても青だけを認識することが出来るのは不幸中の幸いだとでも言うべきか。
「花探してますー。花を吐く人、いませんかー」
 居るなら出てこい。今すぐ、この俺の目の前に。

 家に帰ると、居間でカラ松が鏡を片手にじいっと自分の顔を見つめていた。鏡を握る左手に目をやりながら「ただいま」と帰宅を告げると、「おかえり」とぱあっと色付くような笑顔でカラ松が答えた。
 疲労で重りがぶらさがっているような足をひきずりながら、あぐらをかいて座っているカラ松の足に自らの頭をとすんと乗せる。家で二人きりの時、おそ松はこうしてカラ松に膝枕をしてもらうのが好きだった。正座だと百点満点なのだが、まあそこはあまり贅沢は言わない。
 すり、と軽く腹筋がついている腹にパーカー越しに頬ずりをすれば、聞こえるはずのない無数の命の音が耳を侵すようだ。
「……カラ松」
「何だ?」
「今日も、だめだった」
「そうか」
「ごめん」
「謝ることはないさ、おそ松」
 さらりとカラ松がおそ松の髪を梳いて、それがどんなに綺麗で艶っぽい手つきをしているかを知っているおそ松はたまらなくなってしまって、六人の中では一番引き締まっている腰に両腕を巻き付けながら、腹に顔をうずめた。
「ごめん」
「俺は大丈夫だ」
「ごめん」
「お前への気持ちで育っていると思えば、愛しいものさ」
 茨の棘が絡みついてじくじくと己の全てが縛られているような心地がする。しかし恍惚たる歓喜が蜜のごとく己の全身を塗りこめていった。

 カラ松の腹の中では虫が幾匹も蠢いている。卵から産まれうじゃうじゃと腹を食い破るようにして生きるこの蟲は、あの日からずっとカラ松の胎内で息をしている。

***

「ごめん」
 目覚めてから一番最初にしたことは、床に頭を擦りつけての謝罪だった。。
「……--」
 どうしたんだとでも言うようにカラ松が上半身を起こそうとする。そして、びきりと言葉にならないほどの痛みがカラ松の腰を襲ったのか、昨夜よりも気怠い表情の中歯を食いしばった。
「……おそ松」
 名前を呼ばれて、カラ松の兄はびくりと大きく体を震わせる。寒がっていると思われたのか、剥き出しの上半身に一枚の毛布をかけられて、おそ松はぽろっと一粒涙を零してしまったのだった。
「……--おそ松」
「……っ」
「何でお前が泣くんだ」
「……ごめん」
「謝らないでくれ、おそ松」
 カラ松がそう言えば、おそ松はぐしゃりと汚く顔を歪めた後、声もなくその場にうずくまって泣き始めた。カラ松はひたすらに泣きじゃくる兄をどうすることもできないまま、自らが毛布を掛けた兄の背中を柔くさする。
 おそ松は昨夜自分がこの弟にしてしまったことを顧みながら、つい数時間ほど前までカラ松の手首を抑えつけていた自分の手を血が出るほどに握りしめた。
「おそ松、もう、顔をあげてくれないか」
 カラ松がそう懇願しても、おそ松はけして床に擦りつけた頭を上げようとはしなかった。けして許されるべきではない、カラ松の全ての尊厳を踏みにじるようなことをした自分を殺してしまいたいと思いながらも、それでも昨夜の甘ったるくどろどろとした気持ちよさを、幸福感を消し去ることは出来なかった。
それが、おそ松がカラ松を強姦した翌朝のことだった。
 お互いにずっと秘めていた想いがあった。おそ松がカラ松の瞳を見れば、カラ松がおそ松の瞳を見れば、二人そろって同じ想いを抱えていることは夢の中で生きているわけじゃないと思えるほどに明らかであったし、たまに触れ合う指先が、肩が、煙草の火を移す時に睫毛が震えてしまうことが、何よりもその熱を伝えていた。それでもそうした想いをせき止めていたのは、自分たちに流れるこの真っ赤な血である。本当は一つの体であったはずの自分たち、同じ血が流れている自分達がお互いに引き寄せられるのは至極当然のことではないかと何度も思った、だけど、自分たちがそうすることを許さないのもその血であった。何年も何年も我慢していた。何年も何年も織の中に閉じ込めて、出して出してとひっきりなしに叫ぶ血みどろの想いを、恋を、いつもいつも兄弟愛だという洗いたてのシーツのような白色に替えていた。
 それを爆発させたのは、おそ松の方だった。
 この腕であの体を抑えつけた時、何度も何度もあの弟はだめだだめだと訴えていた。涙腺が弱くすぐに水を落としてしまう瞳には当然のように涙の膜が張っていて、自分はそういえばこいつを泣かせたことだけはなかったなとどこか冷静な部分の頭で思案しながら、しかし、やっとだ、と、やっと手に入れることが出来ると、心で歓喜の雨が土砂降りのように降り注いでいた。
 兄弟でいさせてくれとカラ松は必死に泣いていた。兄に首筋に噛みつかれながら、胸を腹を愛撫されながら、体の奥を暴かれながら、中に注がれながら、カラ松はだめだと泣いていた。だけど、自分よりもはるかに力があるはずの弟が、逃げなかったことが嬉しくて。
 だめだ。兄弟なのに。おそ松。兄さん。
 兄さん兄さんと泣きじゃくる弟を抱いた。兄弟でいたいと祈る弟をついにこの手で抱いてしまった。
 ぴんと張った糸をぶちりと引きちぎったおそ松は、その日以来暫くカラ松と目を合わせることが出来なかった。

「クソ松、お前もういい加減にしろよ」
 だから「それ」に気が付いたのも、兄弟の中で一番最後だったのだ。
「え?」
「え、じゃねぇ。しらばっくれんな」
 六人全員が夕飯後にだらだらしている時だった。銭湯に行こうと皆が動き始めた時、一松の不機嫌そうな声がカラ松を刺した。
「フッ……しらばっくれてなどいないさ。それより夜ももうだいぶディープになってきた。俺たちも早く行かないと一日に一度のパラダイスが」
「おい」
「ヒッ」
 ガッと勢いよく胸倉を掴まれてカラ松は怯えた声を出す。しかし、いつもはそれを止める立場のチョロ松も、その日は一松を制そうとはしなかった。
「……カラ松、一松の言う通りだよ。隠すな」
 チョロ松が厳しめの口調でそう言うと、十四松もトド松も険しい顔をしていた。何も事情を把握することが出来ないおそ松は弟たちのそんな様子を見て、タオルと桶を持ったまま階段付近で一人立ち尽くしていたのだった。
「隠してなど、」
「おい、クソ松。これ何色だ」
 一松が手にしていたのは、最近新調したタオルだった。一松のシンボルカラーではないタオルは皆が初めて目にするもので、ああ、一松も珍しい色を選んだものだなとおそ松は頭の片隅で思った。カラ松ははっと一瞬だけ目を丸くさせて、そして何事もなかったかのように片頬をあげる。
「フッ……わかるぞ、赤だな」
「じゃあ、おそ松兄さんのパーカーとこのタオルと、どっちが濃いんだよ」
 さあっと、その時確かにカラ松の顔から温度が消えた。
 おそ松はえ、と思考が停止しそうになりながらも、ついにそのことを悟ったのだ。
「……」
「クソ松」
「…………」
「お前、赤が見えてないんだろ」
 決定的な瞬間だった。まるで裁きのように落とされた一松の一言に、カラ松は茫然とそのタオルを見ている。いや、その視線の先に在るおそ松のパーカーを見ていたのかもしれない。
 チョロ松以下弟たちがしん、とカラ松を見つめ、睨み、心配そうに、憤った様子で一歩も動かない。
 その空気を壊したのはやはり長男だった。
「まあさー、それはとりあえず置いといて銭湯いかね? 早く行かないと閉まっちゃうよー」
その場は長男の言葉に従い、重苦しい空気を纏ったまま六人は銭湯へと足を運んだ。
 そして家に帰って来た時に、カラ松はついに白状した。
「俺、赤色がわからないんだ」
 その日からおそ松は奈落の底を泳いでいるような日々を送っていた。
 わかっていた。彼の見る鮮やかな世界から一つの色を奪ったのは、紛れもないこの自分だと。
 いつからだと聞いた。三か月前からだとカラ松は隠すことなく答えた。
 おそ松がカラ松を強姦した日からも、三か月が経っていた。

「蟲が、いるんだ」
 それが、おそ松が深い深い絶望の海溝に飛び降りた気がした瞬間だった。
 夏の熱帯夜、どうしても寝付けなくて布団の中でおそ松は瞼を閉じたまま何度も寝返りを打っていた。だから、トド松をはさんだ隣で人影が動き、弟たちを起こしてしまわないようにとつま先立ちで布団を出て行くカラ松の姿に気が付いたのだ。階段を降りていった音が聞こえなくなると、おそ松も後を追うようにして布団を出る。そして、一階へと降り居間に何の人影もないことを確かめたおそ松は、裏庭に面している縁側へと手を伸ばした。
「おそ松」
 そこには、カラ松が居た。暑いのだろう、パジャマの上二つのボタンを開けて、カラ松はじっと庭を見つめているようだった。その肌蹴た襟ぐりから覗く鎖骨を見ることが出来なくて、おそ松はカラ松を上から見下ろす体勢から逃れるようにしてその隣へと腰を下ろした。
 特に会話を交わすことなく、隣に座っているだけだった。さあっと時折吹く生ぬるい風が頬を撫でていく。その風に庭の草がさわさわと音を立てて、遠くの方で蛙が寂しそうに鳴いていた。
「あっ」
 カラ松の声がして、続けてぱちんっと肌を叩く音がした。隣を見れば、カラ松が右手で左手の甲を抑えている。そおっとカラ松が右手を退ければ、少しの血が手の甲を汚していて、そして何本かの黒い足、羽、体が見えた。
「くわれた」
 眠っている時でもブゥンとした羽音が気になる季節である。蚊にくわれたカラ松はじいっと甲を見つめながら、血が出ているなと温度を感じさせない声で呟いた。今のカラ松には、赤色が灰色に似た色に見えているらしい。つまり、カラ松が見ている手の甲には、灰色のそれがぶちまけられているのだろうか。
「あー……かゆそうだな」
 ティッシュいるかと尋ねると、無言で首を横に振った。そして、手の甲から目を逸らしたカラ松は庭の剥き出しの土の地面をじっと見つめた。ぼこっとそこが盛り上がり、でろりとした動きで何かが這い上がってくる。無数の足を持つ昆虫だった。おそ松は別段虫が苦手なわけではなかったが、幼いころと比べるとぞわりとした鳥肌が腕に立つのも事実だった。
「蟲が、いるんだ」
 カラ松が夏の湿った空気の中に漂わせるようにして、告白した。
「え……?」
「俺の、腹の中に」
 蟲がいるんだ。
 おそ松は、背中をじっとりと覆う汗を感じながら、もう一度え、と言葉を詰まらせてしまった。
「デカパンの所に行ったんだ。そうしたら、ここに蟲がいるって」
 そう言って、カラ松は右手で自らの腹を撫でた。その表面も中も知り過ぎてしまっているおそ松の喉から、ひゅうっと風穴が空いてしまったような音が出た。
「蟲……? 腹……え?」
「恋心を養分にする蟲らしい。それが、俺の目をおかしくさせたんだろうと」
 どくどくと全身の血が嫌な音を立てていた。頭の中に浮かんだのは、足を粘膜に這わせてうじゃうじゃと動く蟲がいる、カラ松の腹の中だった。
「俺の恋心は年季が入っているからな。きっと、蟲たちにとってはご馳走なのだろう」
 カラ松の左手の甲の血はもうすっかり乾いていた。おそ松の体にも流れている血を食べた虫が、おそ松がこの世で最も渇望する人の手の上で死んでいる。
「好きだよ、おそ松」
 泣いた。
 その夜、おそ松は涙が枯れるほど泣いて泣いて、そして口から出てくるのはひたすらに謝罪の言葉だった。
 ごめん。ごめん。謝るたびに、カラ松がおそ松の頭を撫でていた。
 お前のせいじゃない。俺がお前を好きだから、それだけなんだ。
(でもやっぱり、俺はあんなことをするべきじゃなかったんだ)
 あの日自らがこの弟の体を暴かなければ。カラ松の想いを、恋を、秘めたままにしておくことが出来ただろうに。
 お互いに、三途の川を渡るまで閉じ込めておくべき想いだった。
 それが守れなかったからカラ松の腹には蟲が棲むようになったのだろうか。
 好きだと、一番望んでいた言葉を貰うことが出来て何物にも代えられないほどの幸せを手にしたはずなのに、同じぐらいの絶望も手に入れたおそ松は、ただたださめざめと涙を流したのだった。

***

「おそ松、寝るか?」
 腹に顔をうずめていると、カラ松がゆったりと頭を撫でてくる。その優しさに微睡みながら、それでもおそ松の腹の中で渦巻いているものは灼熱の嫉妬と、体が打ち震えるほどの歓喜だった。
 この腹の中に棲む蟲たちが憎い。この男の体の中を暴いてもいいのは俺だけだ。だけど、こいつが俺への恋心を携えてこの蟲たちを育てていると言うのなら、どうしたって愛しいと悦を感じてしまうのだ。
「絶対、見つけてやるから」
「いいんだ、おそ松。俺はお前が好きだから」
 身動きが出来ない。あの日からずっと、がんじがらめになって動けない。
 おそ松は知っていた。もうずっと前から全部わかっていた。
 だけどそれを見ない振りをして、今日も、明日もまた、花を探し続けるのだ。

***

 こんな色にあわないよ。
 そんなことないぞ。ほら、ぴったりだ!
 女みたいでやだ。
 どうして。こんなにも似合うのに。ほら、夕日とおんなじ色をしているぞ!
 ……カラ松は?
 なに?
 この花の色、好きなの?
 うん。好きだ! だってこんなにもおそ松ににあうんだから!
 なんだよそれ。……へんなの。

***

春の公園はどうしたって美しい。桜はもうすでに散ってしまったけれど、花壇には色とりどりの花が咲き誇っていて何匹もの生き物たちがそこで思い思いに生きていた。
「あー、スッキリスッキリ」
「ほら」
「ん」
 便所から戻って来たおそ松はベンチに座って待っていたカラ松の元へと戻り、預けていた煙草をもらい受けた。すうっと煙を吸い込むと、先が少しだけ濡れていた。さてはお前も吸っていたなとカラ松に視線をやると、うまかったぞとでも言うようにカラ松は口元を綻ばせた。
 日曜日の公園は、遊具で遊ぶ子供たち、それを見守る親の話し声、道路を走る車の音、野球をする学生の掛け声で賑わっていた。カラ松は花壇を見て、あの色が綺麗だとおそ松に楽し気に話しかける。
「どれ?」
「あれだ。黄色の花びらの中心にオレンジが混ざっていてな。とても綺麗だ」
「ふーん。紫の花とか無いの?」
「あるぞ。あそこの、今ハトが餌を食べているところだ」
 青色以外を映すことのないおそ松の瞳の為に、カラ松は一つ一つ花の色を説明する。おそ松は別段花が好きなわけではなかったが、カラ松が楽しそうに話しているのを見ると、春っていいなと殊勝なことも思ってしまう。カラ松が一番好きな花はやはり赤いバラだろうか。今度、聞いてみようと思う。
「あれ?」
 おそ松がふと、ある一か所を視界に入れた。ん?、と尋ねるようにしてカラ松もその視線の先を辿る。
 そこには、一人の老婦人がいた。
「なんか探してんのか?」
「そうみたいだな……随分と必死な様子だが」
 花壇を見て、ベンチの下も覗いているようだった。公園を歩く人々にたまに尋ねかけているが、どうにも見つからないらしい。
 おそ松はそんな姿を見て、自分と重なるような心地がした。
 すっと立ち上がると、隣の弟も同じタイミングで立ちあがっていた。
「あ」
 その声も重なった。シンクロ、と二人しておかしくなってしまいははっと笑い合う。未だ何かを探している老婦人の元へと歩いていくと、あら、と二人は驚かれた。
「双子かい? 久しぶりに見たねぇ」
「へへ、そんな感じっす。ばあちゃんなんか探してんの?」
「そうだねぇ。ちょっと、探し物をしてるのよ」
 おそ松とカラ松に双子かと尋ねた老婦人は探し物をしているとの旨を告げ、おそ松は彼女を近くのベンチに座るように促した。自分も隣に座り、カラ松にもと場所を空けようとしたが、カラ松は二人の前で立っていることに決めたようだった。
「何探してんの?」
「ブローチよ、このぐらいの大きさの。青い石がはめこんであるのだけど……」
 五センチほどの大きさのブローチらしかった。寂しそうに話す老婦人を見て、おそ松とカラ松は自然に目を合わせていた。
「ばあちゃん、俺達も探そっか?」
「え?」
「安心しなレディー。俺たちが漆黒の闇夜からでも見つけてみせるさ」
「いいのかい? すまないねぇ」
「いいっていいって!」
 立ちあがったおそ松に続いて、老婦人もゆったりと気品を漂わせる仕草で立ちあがった。カラ松が呼んだレディーという呼称がしっくりくる。そんな人だった。
「すみません、探しているものがあるんですけど」
「ブローチ知りませんかー? こんな感じの、青い石がついてるやつー」
 道行く人に聞いて、しばらくしてからこれは無意味だと知った三人は、しらみつぶしに公園の中を探すことにした。この公園はとても広い場所だったので骨が折れる思いがしたが、今日失くしたばかりならチャンスはあるだろうと必死で探し続ける。
「そのブローチってさ、大事なものなの?」
 カラ松は少し離れたところで、草むらを掻き分けて探していた。おそ松はと言えば、老婦人に付き添いながら花壇の周りを探っていて、そのブローチが彼女にとってどういうものなのかを知りたくて尋ねていた。
「ええ、とっても」
「ふーん……」
「だから、失くしたくなかったのだけどねぇ」
 失くしたくなかった。その言葉に、確かな後悔がにじみ出ていた。
 ぎゅうっと何かの重しに胸が抑えつけられるようだ。失くしたくなかったと、後からする悔やみはこんなにも辛く寂しい。
「そうなんだ」
「ええ。……夫から、貰ったものなのよ」
 老婦人は一つの花に触れ、おそ松の目ではそれが何色かを窺い知ることは出来なかったが、彼女は花の扱いに慣れているのだろうなと感じさせるような、そんな手つきだった。
「プレゼント?」
「ふふ、そうなのよ、プレゼントなの。あの人は頑なにたまたま見つけたからっていつも言い張るのだけれど」
 顔に刻まれている皺が形を変えて、夫への愛がその年数分だけそこに描かれているようだった。
「誕生日とか?」
「いいえ。結婚記念日にね、一度だけ、それを貰ったの」
「へぇ。粋なことする旦那さんじゃん」
「幸せの青い鳥だよって、話もよく知らないくせにそんなことを言うものだから……思わず笑っちゃったのよ」
 くすくすと笑う老婦人はいっそ可憐な少女のようだ。あの日の思い出と共にずっとそのブローチを身に着けていたのなら、やっぱり失くしてはいけないものなのだ。
「見つかるよ。俺もカラ松も探すし、絶対!」
「頼もしいねぇ」
 俺の目では色がわからないけれど、青だけははっきりそれだとわかるんだ。
 おそ松は花の間を目を凝らすようにして探していた。
 そして、聞こえてきた老婦人の言葉に心臓が止まるような衝撃を受けることとなる。
「花は綺麗だねぇ。昔、恋をすると花を吐く病気があるって聞いたことがあるのよ」
 ばっと勢いよく老婦人へと目を向ける。
 突然のおそ松の変わりように彼女は多少なりとも驚いたようで、二、三度瞬きをしてみせた。
「あ……そ、それ」
「どうしたんだい?」
「お、俺、も、知ってて。……探してるんだ、ずっと」
 老婦人は静かにおそ松を瞳の中に映し、そして、そうなのかい、と母親を思い出させるかのような声色で相槌を打った。
「それは、誰かのために探しているの?」
「……そいつの中に、蟲がいて」
「むし?」
「その、病気の花を食べさせれば、蟲はいなくなるかもしれないんだって」
 縋るような声が出た。もう三年も、なんのとっかかりもない崖を這いあがっているような日々だった。この崖を這いあがった先にその花はあるのだろうか。そしてその花は本当に、カラ松を救い上げてくれるものなのだろうか、と。
「その蟲は知らないねぇ……それがいると何か駄目なのかい?」
「色が、どんどんわかんなくなるんだって。今は一つだけだけど、でも」
 あいつ、赤いバラとかすげー好きなのに。
花壇の花の中に、青い花はなかった。他の人には眩しいほど鮮やかに映るこの花たちも、おそ松にとっては灰色の植物にしか見えなかった。
「恋心で育つ蟲、ねぇ。でも、その蟲はあなたへの恋心で育っているんでしょう?」
「え、うん」
「それが、他の人が吐いた花なんかで治るのかい?」
 ぽちゃ、と、水面に小石が投げ入れられたようだった。
「あ……」
 ずっと鏡のように静かに波も立てなかった水面は、投げ入れられた小石によってまあるい波紋をつくりだしていく。
 カラ松の世界から赤を奪ったもの。それはカラ松が抱える、おそ松への恋心だった。
(そっか、そうだ。そうだったんだ)
 見ない振りをしていた。ずっと、それから目を逸らし続けていた。
 カラ松を救い上げるのは、誰とも知らない他人の恋心などではない。
 それは、俺だけの。
「……うん、うん。ありがと、ばあちゃん」
「ちょっとは助けになったかい?」
「うん。さいこー。すげぇ感動した」
 老婦人はおそ松を見て優し気に微笑み、おそ松はぎゅうっと強く両手を握りしめる。
「あった! あったぞ!」
 その時だった。カラ松の声が小さな噴水の向こう側から聞こえて、その声と共に小走りでこちらに向かって駆けてくる。
「え、あったのか!」
「ああ! 俺とおそ松が最初に座っていたベンチの下にな、転がっていた」
 カラ松が驚いている様子の彼女に右手を差し出す。その手は茶色の土で汚れていて、でもそれでブローチが汚れてしまわないようにと、ハンカチでそれは包まれていた。
 そおっと手のひらから現れたのは、小石ほどの大きさの瑠璃色の石の周りに小鳥が舞っているブローチだった。瑠璃は日の光にきらめいて、私はここよと囁いていた。
「ありがとねぇ。まさか、本当に見つかると思っていなかったわ」
 ぽたりと涙の落ちる音がした。おそ松とカラ松がぎょっと老婦人を見ると、左手で目元をささやかな手つきで拭っていた。
「あの人がくれたものは一つも失くしたくなかったの。ありがとう。私ったら、本当に幸せ者ね」
「フッ……レディーの泣き顔は得意じゃないんだ。だからどうかこれを使ってくれないか?」
「ふふ、変わったお話をする弟さん、ありがとう」
 カラ松は、ハンカチを差し出したまま困ったように笑っていた。どんな時でも女の泣き顔に弱い、そして、面と向かって礼を言われることにも慣れていないのがこの男だった。
「ばあちゃん、よかったな」
「ええ。優しい優しい双子さん、ありがとねぇ」
 老婦人がその言葉を最後に公園から去っていく。大事に大事に、その手にブローチを握って。
 背中を見送り、カラ松は眉を下げて笑みを浮かべている。おそ松が「お前らしいな」と言うと、カラ松はふっと隣を見た。
「その手。どうせ目星とかつけずにがむしゃらに探し回ってたんだろ?」
「ああ。だってどこにあるかわからないから」
「お前らしいよ」
 きょと、と首を傾げるカラ松を抱きしめたくなった。カラ松の好きなところを一つあげてみろと言われたら、こういうところだと言えるものの一つだった。
「また、探しに行くよ」
 おそ松が言うと、案の定カラ松は顔を曇らせる。唇を噛みしめるような表情を見せた後、おそ松の服の裾を掴もうとして寸前でやめたようだった。
「おそ松、いい。いいんだ」
「よくないだろ」
「お前が好きだっていう気持ちで育つなら、俺はそれで」
「でも、お前の目が俺の色を映さないのはむかつくんだよ」
 酷い独占欲だと笑うなら笑え。おそ松はもうずっと、カラ松の瞳に自らの色が蘇ることを祈っている。
 カラ松の左腕を掴み、言った。
「絶対、見つけてやる」

***

 あーきのゆーうーひーにー。てぇるーやーまーもぉみぃじ。
 ススキを手にして歩くカラ松は、見渡す限り金糸の田んぼばかりが広がる道を、たった一人の兄の手を引いて歩いていた。つい最近学校で習った歌を口ずさんで、でももみじなんてないやと先程手に入れたばかりのすすきを放ってしまった。
「ほら、泣くなおそ松!」
 おそ松は弟に手を引かれる恥ずかしさやら、夕日が眩しいやら、二人ぼっちで心細いやらで、どんぐりのような瞳に涙の膜を張っていた。
「うっせー泣いてねぇよ! ……泣いて、ない」
「母さんたちもすぐ来るよ! チョロ松たちも探してると思うし、」
「あいつらぜってー駄菓子屋で遊んでるだろ!」
「うんまあそれはそうだな……」
 家族総出で少し遠いところに居る親戚の元に遊びに来ていた。六人で外で遊んでいた筈が、いつの間にかおそ松とカラ松だけがこの道を歩いていて、空のてっぺんにあったはずの太陽が今は田んぼの向こう側へと顔を隠そうとしていた。
「……つまんね」
 歩き続けて疲れてしまって、おそ松はその場にしゃがみ込む。穂波を目にすれば、同時にリーン、リーンと鈴虫の音が聞こえてきた。まだ夕方だって言うのに、頼むから迫りくる夜の予感を感じさせないでほしかった。
「…………あ、おそ松」
「なに?」
「この花、すっごくきれいじゃないか?」
 たたたっとカラ松が軽快に走っていってしまう。それを追う気にもなれなくて地面の小石をいじって遊んでいると、一輪の花を手にしたカラ松が戻って来た。
 道端で咲いていた花だろうか。手を少しだけ茶色に汚して、カラ松は夕焼けの中にかっと笑っていた。
「そうかー?」
「うん! この花の色、なんだか、おそ松によくにあうな!」
「こんな色にあわないよ」
「そんなことないぞ。ほら、ぴったりだ!」
 カラ松が花をおそ松に近づけて、顔の横でふるふるとふってみせた。みずみずしい命の匂いがする。花の匂いは甘ったるくて苦手だと思っていたけれど、土の匂いを感じさせるそれはけしておそ松の嫌いな匂いではなかった。
 しかし、ふてくされた子供が素直になるにはあと十歩程が足りなかった。
「えー……女みたいでやだ」
「そんなこと言うなよ。ほら、こんなにも似合うのに。夕日とおんなじ色をしているぞ!」
ぶわぁっと風が吹いて、おそ松は思わず目を瞑ってしまう。そして次にこの目に飛び込んできたのは、橙と言うには生ぬるい、燃えるような夕焼けだ。
「……カラ松は?」
「なに?」
「この花の色、好きなの?」
 おずおずと問いかければ、カラ松はその花を手にしたまま口を大きく開ける。その口に、この花と同じ色をした夕焼けが飛び込んでいくみたいだった。
「うん。好きだ! だってこんなにもおそ松ににあうんだから!」
「なんだよそれ。……へんなの」
 理由になってないじゃんと言っても、カラ松はきょと、と首を傾げるばかりだった。
 
 その日から、おそ松はカラ松から貰った花の色が目に焼き付いて離れなかった。
 六人全員、色違いのパーカーから好きな色を選べと母から言われた時も、それは同じだった。

 おそ松は花を探している。
 あと一つ、その花をずっと。

***

 秋の村雨の寂寥感が、体の内からもじわじわとにじみ出ていくようだった。しとしとと降る雨に身を任せながら思う。おそ松はあれから、どれだけ走り回って、どれだけそれを探しているのだろう。
 おそ松は以前にもましてぼろぼろになって帰ってくることが多くなった。以前は疲労を見せていただけだったのが、服が汚れ、両手も土で塗れ、髪もぐしゃぐしゃになりながら家に帰ってくることが多くなった。
「今日も、なかった」
 毎日毎日そう言って帰ってきて、それからまた次の日に外へと繰り出すのだ。
 もう勘弁してほしかった。あるかどうかもわからない花を探してぼろぼろになるのはやめてほしかった。
 雨の中、カラ松は探していた。花を探すおそ松をカラ松は探していた。秋の雨は濡れると寒くて風邪をひいてしまう。どうかその身が震えていませんように。灰色の世界の中、ただひたすらに青を探しているのであろう兄の姿を探す。
 そして、ある寂れた商店街のシャッターが下りている店の前で姿を見つけた。今日は赤いパーカーを着ていなかったから、カラ松の目にはちゃんとした色を纏うおそ松が映った。
「おそ松」
 呼ぶと、びしょ濡れになった顔がこちらを見た。そして、カラ松、と嬉しそうに顔を綻ばせてみせるのだった。
「濡れてるじゃないか」
「だから雨宿りしてんだよ。って、ばか、お前の方が濡れるだろーが」
 おそ松の元へとぱしゃぱしゃ水たまりの上を駆けていく。そして、家から持ってきたタオルで乱暴に髪を拭うようにすると、うわっと軽く抗議の声をあげられた。
「また、探していたのか」
「うん」
「見つからないだろう」
「おう」
「……--なあ、もう、やめてくれ」
 何度目の懇願だろうか。カラ松がいくら言い募っても、この男はまるで聞く耳を持たない。案の定、おそ松はゆるりと首を振って、淡い笑みをその顔に浮かべるだけだった。
 ふと、おそ松の両手が目に入った。
(……--ッ)
 茶色い土だけじゃない、灰色の筋が、手の甲に幾つもついている。
 カラ松は思わずその両腕を手に取った。
「なん、で」
「カラ松?」
「なんで、こんなにも、お前は」
 おそ松に傷ついてほしくない、ただ、その一心だったのに。
 これでは本末転倒ではないか。
「おそ松、おそ松、もう、もうやめてくれ。もういいんだ、もう、俺はこれでいいんだ」
「何がだよ。今、なんにも解決してない。お前の世界には赤がないし、お前の腹の中には蟲がいるまんまだ」
「違う、ちがうんだおそ松」
 しとしとと控えめに降っていた雨が、だんだんとその強さを増していく。雫にこの世界を映して、それは地面へと儚く落ちていく。雨の雫に映る世界でさえも色づいているというのに、おそ松の世界はただただ灰色が広がるばかりだった。
「おそ松、もう、薬飲むのやめろ」
「やめないよ。決めたんだ」
「だって、それを飲むのやめたらお前はそんな、灰色ばかりな世界じゃなくて、ちゃんと……っ!」
「お前の目が赤を映すまで、俺は俺から色を奪うよ」
 どうしてだろう。どうしてこの兄は弟の必死の願いを聞いてくれないのだろう。
 ある日突然、おそ松の視界から色が消えた。それは、デカパン博士からもらった薬をおそ松が飲み始めたからだった。
『ほら、お前とおそろい』
 何がおそろいだ。お前の世界には青しか残らなかったくせに。寂しがり屋のお前が、自分の世界からあんなにたくさんの色を奪ってどうするつもりなんだ。母さんが作る料理の色も、パチンコの銀玉の色も、馬のゼッケンの色も、煙草の煙の色も、弟たちのパーカーの色だってわからないくせに。
「なあ、俺、お前が、土砂降りの中探しに行くのも、明け方にボロボロになって帰ってくるのも、その目に色が映らないこともいやだよ」
「うん、ごめん」
「謝るならもうやめてくれ!」
「やめねぇよ」
 まるで大木のように、地に根を張った彼の決断は揺るがない。
(じゃあ、じゃあ、もう)
 白状するしかないじゃないか。
「……おそ松」
「なに?」
「あのな、もう、無駄なんだ」
「何が?」
 俯く。雨で泥水が跳ねる地面しか今のカラ松は見ることが出来ない。
 これは自らが死にに行くことと同義だった。
「……俺の腹にいる蟲は、俺の恋心で育っているわけじゃないから」
「は?」
「だから、……だから、花吐き病の花を見つけても無駄なんだ」
 死刑台の十三段の階段の最後の一段に足を掛けたような告白だった。
 腹の中でうぞ、と蟲たちが蠢いた気がした。
「だから、だから……--」
「知ってるよ」
 どぷ、と泥の音がした。
(……え?)
 目の前の世界全てが黒く塗りつぶされて、その中でたった一つの色を求めて顔を上げる。しかしカラ松の瞳は未だ赤を拒絶するばかりだった。
「知ってたよ」
「おそ、ま、」
「お前のじゃなくて、それ、俺の恋心で育ってるんだろ?」
 おそ松の世界から、ある日突然色が消えた。 
 それが彼の自らに課した罰だったのだと、今、カラ松は漸く理解した。
「ごめんな。全部、俺のせいだ」
 カラ松は泣いた。

***

 あれは十五歳の春だった。高校に入学したばかりの六つ子はこの機会にと母に一つの大きな布団を渡された。一人ずつ別々の布団で寝ることはもう不可能だとの母の判断だった。成長した体を僅かに丸めて眠っていたのはたった一週間の間で、それを過ぎれば六人は思い思いの寝相で夢の世界へと漂っていた。
 だからあれはほんの偶然で、もしも神様がこの世界に居るのなら、それは自分たちに用意してくれた最後の逃げ道だったのだろう。
「あ、いた」
 その日カラ松は星を見ていた。四月の星座は一つも知らなくて、中学で習った夏の大三角も冬のオリオン座も見上げた夜空には居なかった。代わりに一つ流れるものを瞳に入れることが出来たら。そんな願いもむなしく空はきらきらと自分勝手に光を放つだけだった。
 窓がカラカラと開いた音がして、少しだけ不安めいたものを抱えながら振り向けば、おそ松が「あ、いた」と小さい頃のかくれんぼの鬼のように嬉しそうな様子でカラ松を見つけたのだ。
「兄貴」
 中学から呼び始めた呼称でおそ松に声を掛ければ、彼はよっとカラ松の隣に降りてくる。そして、肩が布二枚を隔てて触れ合う絶妙な位置に腰を下ろした。
「何してんの」
「星を見ている」
 業務連絡に似た簡潔さで会話を終えて、おそ松はつまらないと一蹴するかとカラ松は思ったが、隣の兄は意外にもカラ松と同じく空を見上げ星を見ることに決めたようだ。
 まだ肌寒い春の夜長一人ベランダで膝を抱えていたカラ松には、吐息が聞こえるほど傍に居るおそ松の体温は、温くて瞼の奥からじわりと甘ったるい何かがにじみ出てくるたまらないものだった。
「部活、どう?」
「楽しいぞ。中学の時とはやはり違うけどな」
「そうなの?」
「ああ。なんかな……そう、厳しいんだ」
「へー。お前がそういうこと言うの珍しいね」
 きっと俺は、厳しいって言う前に普段ならやめてしまうから。でも、演劇だけはやめないんだ。俺でも不思議だけど。
 カラ松が眠さを隠そうとせず言葉を一針一針毛糸を編む様に紡ぐと、おそ松はそれを受け取って空に手を伸ばしながら言った。
「それぐらい、好きなんだろ」
「何が?」
「演劇」
 違うのかと問われれば、カラ松はきょと、と首を傾げてしまった。わからない、そう答えるとおそ松は「ばかだなぁ」と目を細めてカラ松の頭を子犬に触れるようにして撫でるのだ。
「撫でるな」
「何でよ」
「……察しろ、ばか」
 弟扱いされることにカラ松が慣れていないことなどもうとっくに熟知しているだろうに。このカラ松にとっての唯一の兄はずるい意地の悪さを生まれた時から携えていた。
 それにほとほと嫌気がさしながら、でも自分からこの手を振り払うことなど出来なかった。
「カラ松」
 名前を呼ばれて隣を見れば、いつの間にか兄は空ではなくカラ松を、カラ松だけを瞳に映していた。
 次に触れたのはカラ松の左手と、おそ松の右手だった。中指の爪が、人差し指と薬指の第一関節が、お互いの指の股が触れ合っていく。外に出ていたカラ松の手の方が冷たかった。
「カラ松」
 二回目に呼ばれた名前は、うっとりとした熱を灯らせていた。
(あ、)
 だめだと頭でちかちかと火花が散った。
 近づいてくるおそ松の顔にカラ松は何も出来なくて、ただ、おそ松に握られていない右手ですうっとおそ松の唇をやんわりと押した。
「……」
 おそ松の瞳がゆらりと揺れる。次の瞬間、その瞼は閉じられた。カラ松はそれでもおそ松から目を離すことが出来ないでいると、聞こえたのは鉛を溶かしたような重く濁った声だった。
「やっぱさ、だめ?」
 だめだよ。そう伝えなければならないはずなのに、カラ松は喉奥に綿が詰まっている心地がして結局言うことは出来なかった。
「カラ松、俺さ」
 もう一度、ぎゅうっと兄の唇を押す。これ以上聞いてはいけなかった。これ以上、兄に言わせてはならなかった。
「おそ松。もう、寝よう」
 子守唄を唄おうか。そう言うと、おそ松はいたいよーと密やかに笑うばかりだった。そして、唇を抑えていたカラ松の右手に額をくっつけて、まるで祈るようにして口を開く。
「寝るよ。でも、でもさ、」
 もうちょっとだけここに居てよ。
 兄の願いをカラ松は拒否することなど出来なかった。
 欲しいと願う気持ちは確かにこの星空の下、ゆらゆらと燃ゆる形をして二人の胸の中にあるというのに、それをせき止めているのは互いの体に流れる真紅の血であった。

 それ以来、おそ松がカラ松にそういった意図をもって触れてくることはなくなった。
 高校時代、何の因果か二人は三年間同じクラスだった。朝二人一緒に教室に入れば、松野と何人かに呼ばれ友の誰かの机に連行される。出席を取る時は二人そろって返事をした。体育でチーム分けをする時は必ず二人別々にされた。居眠りをするおそ松を起こしてくれと教師に何度もせがまれた。
 それは正しく同じ学校で過ごす兄弟の姿だった。松野家の六つ子を知らない生徒などあの学校にはきっと一人もいなかったことだろう。
 だから、授業中にたまに絡み合う視線や、友達と仲よさげに話しているとうなじに感じるちりちりとしたものや、夕暮れの教室で二人きりになった時手が触れ合ってしまったことは、全部全部気のせいだった。そうでなければいけなかった。
 しかし、三年間同じ教室で過ごした二人が卒業式を迎えた時、それは緩やかに、しかし確固たる激しさをもって校庭に咲く桜の花びらのように降り注いだ。
「これ、やるよ」
 おそ松が右手の拳を突き出すようにしてカラ松に渡したのは、心臓に一番近い第二ボタンだった。
「え……?」
 おそ松の制服にはボタンなど一つも残っておらず、それどころか名札や袖のボタンまで見事にむしり取られていたのである。
「……やるって言ってる」
 カラ松から顔を逸らしてぶっきらぼうに言うおそ松の耳は、桃色どころか真っ赤に熟れたりんごのように赤い色をしていた。カラ松は、その耳に真紅の血が、自らと同じ血が流れていることを思いながらも、でもどうしても、「いらない」のたった四文字が言えなかった。
(どうしよう、どうしよう)
 嬉しかった。胸を突き破るような歓喜がカラ松の体内で渦巻いていた。腹の奥から湧き上がるこの悦びをなんと呼べばいいのだろう。
(ああ、おそ松、おそ松)
 震える右手を差し出しながら、手のひらを天へと向けると、秋の稲穂を思い出させる金色のボタンがころりとおそ松の右手から零れ落ちた。
「…………ありがとう」
 それが精いっぱいだった。その五文字が、カラ松がおそ松に自らの悦びを伝える己の精いっぱいだった。
 カラ松から完全に目を逸らしたおそ松が照れくさそうにしきりに鼻の下を擦っている。
 もしかしたらこの瞬間が、自分たちにとって一番の幸福の時だったのかもしれない。

 六つ子全員がニートになって実家に寄生するようになってからは、学生の時よりも二人きりで過ごす時間は確実に減っていた。四六時中家に居れば誰かしら弟が居て、日々に何の変化も望めない生活は、夏の昼の波打つ海のように穏やかに過ぎていく。
 そして、その生活が三年続いたころ、黒電話がけたたましく家の中で鳴り響いた。
「はい、もしもし」
『松野さんのお宅ですか? 私、伊藤と申します』
「伊藤さん……。あれ、その声」
『あ、松野君か! よかった最初に出てくれて』
 カラ松が受話器をかちゃりと取ると、若い女性の声がそこから聞こえてくる。その声があまりにも聞き馴染みのあるものだったのでカラ松はもしやと思うと、案の定電話の向こうで嬉しそうに話し始める彼女だった。
「やっぱりそうか! 久しぶりだなぁ」
『その話し方は……弟君のほうかな?』
「ビンゴだ。フッ……やはり俺の紡ぐ音色はいつの時もビューティフルに響くんだな」
『……? うん? わかんない……』
 受話器の向こう側に居るのは、高校時代、カラ松、おそ松と三年間同じクラスだった女子だ。伊藤と名乗る彼女は吹奏楽部に所属しており、同じ文化部のカラ松と比較的仲が良かった。なので、話し方ひとつで弟の方だと認識することが出来たのだろう。高すぎない声で弾んだ調子で話す彼女はとても話しやすく、学生時代に程よく仲良くしていた数少ない女子だった。
「それで、今日はどうしたんだ?」
『あ、うん。最近会ったのこの間の同窓会が最後じゃない? だから、もしよかったら今度の日曜会えないかなーって』
 今日の電話はそれが用件らしかった。特に断る理由もなくニートにまともな予定があるわけもなかったので、カラ松は二つ返事で了承する。カラ松だけではなくおそ松にも久しぶりに会いたいと言われたカラ松は、伝えておくよと兄の顔を思い浮かべながら答えた。
『場所はまた連絡するね』
 その言葉を最後に電話が切れる。ツーツーと会話の終了を告げる音が受話器から聞こえるのを確認すると、がちゃりと元の場所に戻した。
「誰だったー?」
 居間からひょっこりと顔を出したのは兄だった。どんぐりのような目をまあるくしてカラ松に尋ねたおそ松は、立ちあがるのも面倒らしく匍匐前進のような格好でカラ松に顔を見せていた。それが何故か最近テレビのニュースで見たアライグマがぺとっと寝そべっている姿に重なってしまって、くくっと笑いながら「伊藤さんって覚えてるか?」とおそ松に尋ねたのだった。
「んん? 伊藤、いとう……」
「ほら、高校の時ずっと同じクラスだっ
た女子だよ」
「ん? ああ! あの子か!」
 ついこの間同窓会で会っただろうとカラ松が苦言を呈せば女子って化粧したりするからわかんねーんだよとおそ松は口を尖らせた。
「んで、何だって?」
「ああ、最近俺とお前に会ってないから久しぶりに会わないかって。今度の日曜に」
「へー。んで、行くって言ったの?」
「断る理由もなかったからな」
 何だ、予定でもあるのかと聞けば、ねーよと簡単に返されておそ松の体はずるずると居間へと戻っていった。

「おらー! 逃げろ逃げろー!」
 おそ松の声と、きゃははと賑やかに笑う子供の声。夜の公園は街灯と星と月明かりだけが灯火で、子供たちは非日常の園で遊ぶことにとても興奮している様子だった。 
 彼女は今日、子供たちを連れてカラ松とおそ松と共にする夕食の場に現れた。こんな夜で大丈夫かと問えば夫が帰りに迎えに来てくれるらしい。高校卒業と同時に結婚した彼女の子供はつい最近三歳になったばかりだという。あどけない足取りでてとてと走る子供を追いかけるおそ松。きゃーと抱き付かれるたびに見たことのない笑みを彼は浮かべていた。
「かわいいな」
「ふふ、でしょう? 最初は女の子がいいなって思ってたから嬉しくて」
 どんな時が一番楽しいと問えば、お姫様の為に服を選んでいる時かしらとの答え。嫌いな食べ物が出てきた時には軽く感動を覚えたそうだ。紅葉のようにふにふにの、眠っている時に指を添わせばぎゅうっと懸命に握ってくる、小さな小さな手。光に満ち満ちた小さな命がそこにある。
「お、どうしたんだいカラ松リトルガール」
 とてとてと今度は彼女はカラ松の方へと歩いてくる。にぱっと大きく口を開けて笑われると、無意識の内にその体を抱っこしていた。
「かあまちゅ?」
「そうだぞ、カラ松だ」
 かあまちゅ、かあまちゅと少女は必死に手を伸ばして、ぺちぺちとカラ松の頬を叩く。それがくすぐったくて笑っていると、ふいに、少女越しに彼と目があった。
(あ……--)
 笑っていた。夜空の星を全て飲み込んで、その星の光たちが全て目に張った涙の膜で輝いているような顔で、おそ松は笑っていた。
 少女を抱く腕は彼と全く同じ造形をしている。この体を流れる血は彼と全く同じ色、の。
 その少女と母親は、カラ松とおそ松の瞳の中で、いつまでも美しく清く映り続けている。

 帰りたくねぇ。
 そう言ったおそ松にカラ松は何も言わなかった。おそ松の足が向かうがまま、二人はある安っぽいビジネスホテルに来ていた。終電ももうないし、タクシーを使う金も勿体ない。そんな古典的な言い訳だった。
「疲れたぁ」
 ぼすんっとおそ松がベッドに倒れ込む。カラ松は上に着ていた革ジャンだけを脱ぎ捨て、自分も隣のベッドへと寝そべった。
「あの旦那すげーイケメンじゃなかった?」
「フッ……俺の渋い魅力には敵わないんじゃないか?」
「お前自分のこと渋いって思ってんの?」
「えっ」
 この部屋はどこか無機質で、家の賑やかな色合いの寝室が何故だか恋しくなってしまった。でも、あの家に帰ったら自分はもうおそ松と二人ではなくなるのだ。それはちょっと、いや、大分口惜しい。
「カラ松」
「何だ?」
「こっち来いよ」
 ぱちりと大きく瞬きをして、隣のベッドに顔を向ける。すると、何を考えているかわからない表情をした兄と目があった。
 体はこちらを向くように寝そべっていて、体の下敷きになっている左腕も、ベッドに投げ出されている右腕も、何のことはないというのに。その手に引き寄せられたと言い張るのは、やはり無理があるだろうか。
「……--」
 上半身を起こして、足を部屋の床へとつける。一歩、二歩と歩けば、膝はもうおそ松が寝るベッドの縁に触れた。
 どうしよう。
 そう思って立ち尽くしているのを見破られたのか、おそ松にぐいっと勢いよく右腕を引っ張られる。
「うわっ」
 ばふっと音を立てて押し倒されたのは白いシーツが敷かれているベッドの上。
 同時にされた深い口づけにカラ松はどうすることも出来なかった。
「んっ!」
 ぐちゅ、と遠慮なく入って来たぬめりを帯びた舌に思わずがりっと歯を立てた。ぴりっと眉を寄せたおそ松はぱっと唇をカラ松からはなす。
「あ、わ、わるい」
「なぁ、もうよくね?」
 首筋に落とされる、諦めにも似た懇願だった。
「え……?」
「何で、何でさ、俺らばっか我慢しなきゃなんねーの?」
 カラ松は咄嗟に何も言うことが出来なかった。何故か。兄の声が、涙ぐんでいるような気がしたからだ。
「おそま、
「結婚できないから? ニートだから? クズだから? 子供できないから?」
 だから俺ら、こんなに我慢しなきゃなんねーの?
 肩口が濡れていく。カラ松は、こんなにも弱っている兄を、おそ松を見るのは初めてだった。震える背中に手を伸ばしてやれたらどんなによかっただろう。頬を流れる星屑を舐めとってやれたらどんなによかっただろう。この体を流れる血が、同じ色でなければ。
「おそ松、俺が、俺たちが」
 喉がひきつる。言いたくない。言いたくないんだ俺だって。
 欲しい。体が、心が、足の指の先から髪の一本一本が、欲しい欲しいと金切り声を上げているのに。
「きょうだい、だからだよぉ……ッ」
 ぼろぼろと涙が伝っていく。痛い、どこもかしこも痛くてたまらない。
 どうして我慢しなきゃならないんだ。一緒の腹から生まれても、こんなに死にたくなるほどの恋をしているというのに。
「じゃあやめちまえよ兄弟なんか! 何で、何でお前、俺と一緒に生まれてきたんだよ!?」
 手首を掴まれた。ぎり、と痕が付くほどの強さで握りこまれてカラ松は思わず顔を歪める。
「お、おそまつ、いたい」
「カラ松、もういやだ、いやだよ」
「おそまつ、だめだ、だめ、」
「ああ、やっとだ。やっと、カラ松」
 ねぇ、と縋るような瞳をしていた。手首が痛い。力ずくでも抵抗して、またあの何の変哲もない日々に戻らなければならないのに。
 なのに、俺だけを映す瞳が、ああ、こんなにも。
「俺のもんになってよ」
 掴まれた手首から、血が滲むような気がした。
 その色は、真紅の、どす黒いほどの、赤。

 この世界から赤が消えた時、これは罰なんだと、そう思った。
 この世で一番好きな色。あの男が纏う、燃えるようなその色。
「君のお腹の中に蟲がいるダス」
 病院に行っても赤が見えない原因はわからず、たった一縷の望みにかけてかの研究所に足を運ぶと、その言葉を投げられた。
「蟲……?」
「そうダス。その蟲は着実に君から色を奪っていくダス」
「目が、おかしくなっていくんだな」
 それでも最初にこの色を奪うとは、この蟲はなんとも賢い脳を持っているらしい。
 どうして突然この蟲がと問えば、目の前の博士は顔をしかめてぽつりぽつりと話し始めた。
「君に注がれた愛欲で、産まれ、育つ蟲ダス」
 答えは単純明快だった。
 おそ松と、兄と一線を越えたことにより、腹の中の蟲は産まれたらしい。
 きっとカラ松が実の兄に対して肉欲を伴った愛を抱いた時からその卵は棲みついていた。そして、おそ松の愛欲が自らを満たすと、その卵はみるみる孵化し始めた。
「フッ……つまり、俺へと抱くそいつの恋心がこの蟲を孵化させたというわけだな」
「そう言うと聞こえはいいダスが……」
 なぁに、可愛いものじゃないか。人の恋心を養分にして育つ蟲、愛しさだって感じるよ。
 デカパン博士に頼み、その蟲の姿形を見せてもらった。彼は見ないほうがいいとしきりに言っていたけれど、カラ松は見ると言って譲らなかった。
「げぇっ……うっ、ぁ、げほっ、……ッ」
 吐いた。
 家へと帰る道にある小さな公園のトイレで、びしゃびしゃと胃の中のもの全てを吐き出した。
 脳裏に焼き付いた蟲の姿はおぞましかった。無数の足と、カチカチと音を立てそうな歯と、ぐにゃぐにゃと動く柔らかい体。便器のそばでムカデがうぞうぞと這っているのを目にして、カラ松はまた吐いた。
「はぁ、あ、ぅ、……はは、あは、はははっ、あはははっ!」
 笑いすらこみ上げてきた。喉からひきつった笑い声が絶えない。はははははと虚ろに笑えば、瞳から滲むのは水分だった。
「はははっ、はは……は、……う、」
 へたりと床に座り込む。濡れた床が汚いと思う余裕などあるはずもない。
 涙よりも、しゃくりあげる胸が、喉が酷かった。痛い。痛くて堪らない。あの色を想えば想うほど。
「……っ、クソッ!」
 ダンッとトイレのドアに拳を打ちつける。びぃんと痛みが拳から伝わって、カラ松はまたしても笑った。
「は、……隠さなきゃ、なぁ」
 知られてはいけない。知られるわけにはいかなかった。
 おそ松に自分のせいだと思わせてはいけない。あの日、自らの心を引き千切るような目で弟を抱いたあの兄に、この蟲がなんたるかを知られてはいけなかった。完全に抵抗しなかったのは自分だ。カラ松だけを見て、カラ松だけを求めるおそ松に、だめだと中途半端な抵抗をしながら結局はその腕に縋ったのだ。
 嬉しかった。ずっと恋焦がれていたおそ松と繋がることが出来て、自分はこんなにも嬉しいのだ。
「おそ松、おそ松」
 名前を呼ぶと、きゅうっと心臓が音を立てて愛しい愛しいと泣き叫ぶ。
(そうだ、このせいにしよう)
 この蟲は、俺の恋心で育っていることにするんだ。俺の身勝手な兄への想いがこの蟲を孵化させてしまったのだと。そうすればあの兄は傷つかない。どうして我慢しなければならないんだと、死に物狂いで自分を求めてくれたおそ松を、傷つけるわけにはいかなかった。
 おそ松、おそ松。
「好きだよ」
 つう、と頬を伝っていくそれに、床でうごめく蟲が映った。

***

二階の部屋でぼんやりと空を見上げていると、飛行機雲が水色の空を切り裂くようにして駆けていくのが見えた。あの日の雨とは打って変わって、天は澄んだ秋晴れの空だった。
「あーきのゆーうーひーにー」
 てぇるーやーまーもぉみぃじ、か。あの頃は歌詞の意味なんかまったく理解などしていなかった。ただ、秋と言えば夕日。そんな枕詞はこの歌で自らに染みついた気がする。
『知ってたよ』
 その言葉がずっと、カラ松を蝕んでいる。
 知られていた。もうとっくの昔に、いや、もしかしたら一番最初から既に気づかれていたのかもしれない。
(傷つけた、あいつを、傷つけてしまった)
 自分の恋心で育つ蟲だと嘘をついた日。そのすぐ後におそ松は花を探しに行くようになった。
 この世には花吐き病っていう病気があって、その奇病にかかった人が吐いた花を、青色の花を食べればお前、蟲がいなくなるんだってさ。
おそ松がそう言ってカラ松に笑いかけた時、自分は間違えたのだと即座に思った。デカパン博士にもし自分のことを聞きに来る人が現れたら本当のことは言わないでほしいとお願いしていた。その結果この身に降ってきたのは、おそ松の痛いほど優しいカラ松への献身だった。 
 本当は、おそ松が花を探しに行くと告げた時に、事実を伝えるべきだったのだろう。しかしカラ松はとてもじゃないが真実など告げることは出来なかった。お前の俺への恋心が俺の目を殺していく、など、誰が愛する人に言えるものか。
 正直、カラ松は嬉しかったのだ。自らの目が死にゆくことは、おそ松が間違いなくカラ松を愛していることへの証明だった。そして、自分の為だけに花を探してくれることが。おそ松がカラ松に与える「お前だけの為に」、それにカラ松は鬱屈とした歓喜を覚えていたのも事実だった。
 だけど。
(あいつはもう、知っていた)
 自分のカラ松への恋心が、カラ松の腹の中の蟲を育てているということを。
 それを知りながら、あの人はずっと花を探しているのか。あんなにぼろぼろになって、好きだったパチンコ屋にもあまり行かなくなってしまって、弟たちが大好きなはずなのにあいつらのパーカーの色まで自分の世界から奪って。
「なん、で、なんで」
 あの日、何が何でも抵抗するべきだった。自分たちは体を繋げて、想いを交わすべきではなかった。
 お互いに、三途の川を渡るまで、否、渡り終えても閉じ込めておくべき想いだった。
 それでも捨てることが出来ないのなら、自分はもっと確かな嘘をつかなければならなかったのに。こんな時でも自分はあんな陳腐で中途半端な嘘しかつけなくて、結局好きで好きでたまらないおそ松を傷つけるばかりだった。
(ああ、もう、もう)
 右手を伸ばす。床に転がったカッターの柄が指先に触れた。
(この色が、俺を、俺達を)
 この世で一番好きな色。あの男が纏う、燃えるようなその色。
 そして同時に、この世で最も憎い色。
「ああ、お前のせいだよ、いつだって」
 この身を流れる、お前のせいだ。
 つう、と頬を伝うものがある。体内から溢れ出る体液も全て憎らしい。
 カチカチと刃を鳴らし、左腕の青いパーカーを捲る。
(これが、なくなれば)
 お前と一緒に居てもいいのかな。

「カラ松っ!!」
 
 この世界で最も愛しい人の声がして、カラ松はふっと顔を上げた。
 灰色のはずのその色が、光のようだった。
「あ……」
 ばしんっと右腕を叩かれて、カッターがかしゃ、と音を立てて床に落ちる。そして、気が付いたら暖かいものに体を包まれていた。
(あ……--)
 色がわからなくても、煙草の、洗剤の、そして少しの土と太陽の匂いがした。
「ばかやろうッ! 何してんだよお前!?」
「おそ松……--」
「ほんと、ほんっと、ばかだよおめぇは……ッ!」
 抱きしめられて、かつてないほどの力強さで抱きしめられて、カラ松はずっと秋の空を見上げていた目を目の前の肩に移す。相変わらずそこは灰色で、大好きでたまらないはずのその色をこの目は映してくれなかったけれど。
 暖かかった。こんなにも暖かいものを、カラ松は初めて知った。
 おそ松が手のひらでカラ松の頭をかき抱くようにする。肩に鼻をうずめると、おそ松の匂いでいっぱいになった。母の海にも似た胎内の中で眠って居たころから、カラ松はこの温かさを、泣きたくなるような太陽の匂いを知っていた筈だった。
「にいさぁん……っ」
 二人ぼっちだった。兄に、弟に恋をしたその日から、ずっと二人ぼっちだった。
 そしてこの腹の中の蟲だけが、二人の恋を知っている。

***

「すみませーん! ボールとってくださいっ」
 小学生ぐらいの少年が二人に声を掛けて、おそ松は「ほらよっ」と器用にサッカーボールを彼に返してみせる。
「ありがとー!」
 赤やオレンジや黄色、暖色で囲まれた紅葉の中をその少年は去っていく。カラ松はおそ松に右手を握られたまま、少年の背中をぼんやりと見送っていた。
「ここ座る?」
 いつかと同じベンチを指さしておそ松が誘った。カラ松はこくりと頷いて、二人で一緒にそこに腰掛けた。
 最近あいつの様子が変だとおそ松に教えたのは、一松だった。最初にカラ松に目の異常についてつっかかったのもあの弟だった。一番最初に気づくことが出来なかった自分に二度も落ち込んで、そしてどうすればいいかわからず足踏みばかりしている自分への嫌悪感が酷かった。左腕をよく見ていると。そして、パーカーの袖を捲らなくなったと気づいた。嫌な予感がした。そして今日、その嫌な予感が現実のものとなってしまった。
「お前さ、覚えてんの?」
 そう問えば、カラ松はきょと、と首を傾げた。その様子に苦笑して、おそ松はカラ松の左腕を手に取る。下ろされたままだった袖を捲れば、手首には目を凝らすと見えるぐらいの、小さな小さな傷が幾つもついていた。
「これ、いつから?」
「……覚えてない」
「そっか」
 本当に身に覚えがないのだろう。カラ松は、自分の左手首を見て首を傾げるばかりだった。
 カラ松を追い詰めているものが何かをおそ松はよく知っている。でも、
「ごめんな」
「え?」
「俺、それでも手放してやれねぇから」
 酷い男だと自分でも思う。この恋心が着実にカラ松の目を殺しているのに、どうしても、隣で目元を泣き腫らしたせいで赤くしている弟を手放すことが出来なかった。
「ちがう、おそ松」
「ん?」
「お前が、俺を好きじゃなくなることが一番いやだよ」
「うん」
「ごめん、おそ松」
 おそ松の胸の中で泣きじゃくったこの弟は、もういい加減に涙も枯れているのだろう。声だけが震えてひきつっていて、余計に哀れで辛そうだった。
「うそついてごめん」
「俺のためだったんだろ?」
「でもあんなうそをつかなければ、お前はそんなにぼろぼろになってまで花を探しにいくこともなかったんだ」
 ぐっとカラ松の肩を引き寄せる。そして、肩に乗った頭に自分の頬をつけて、願わくば今この時世界で一番優しい声が出ますようにと祈るようにして囁いた。
「結局本当のことを言われても、それ以上の条件を提示されたって、俺は探しに行ってたよ」
「おそ松」
「だってさ、お前の目が俺の色を映さないの、いやなんだもん」
 どうだ、なんて幼稚な理由だって思うだろう? だからさ、笑ってくれよ。しょうがないなぁおそ松はって、眉をへんにゃり下げて朗らかに笑うその顔にさ、惚れてんだよ、どうしようもなく。
「あの日、だめだなんて言うべきじゃなかった」
 カラ松が膝の上で拳を握りしめて、肩を震わせてそう言った。血が滲むほど強く握りしめている両の手のひらをほどいてやりたくて、おそ松は右手をそこに重ねた。
「どうせお前のことが好きで拒否出来ないんだったら、そのまま受け入れるべきだった。俺がお前に手を伸ばすべきだった。それをしなかったから、俺はお前に嫌な罪悪感を持たせて、お前にばかり枷を押し付けて……--」
「カラ松、それは」
「お前に抱かれて、嬉しかったよ」
 もみじが一枚、はらはらとベンチに舞った。震える声も、睫毛も、この目には灰色に映ってしまうけれど、それでもこの上ないほどおそ松にとっては美しいものだ。
「嬉しかった。幸せだった。なのに、強姦紛いのことをお前にさせてしまった。悪かった。ごめん、ごめん」
「何でお前が謝るんだよ、ばかだなぁ」
 お兄ちゃんの方だよ謝らなきゃなんないのは。
 あの夜、一度だけカラ松が「怖い」と言った。そして、そんな言葉を聞いても止まれない自分が恐ろしかった。それをよくおそ松は覚えている。
「ごめんな。怖いよな、兄弟で恋なんて。同じ血が流れてんのにさ。ばれたらどうするんだろうな。……怖いよな」
 そうだ、おそ松だって怖いのだ。崖から底の見えない暗闇を覗いて、いつ落ちるかもわからないそこでただただカラ松と抱き合っている。
「でもさ、好きなんだよなぁ」
 寄り掛かる肩はけっして華奢なんかじゃなくて、守ってやりたいとは思ったこともない。だけど、一緒に墓に入るまでぐらいの間は、隣で寄り添いあっていたいと思うよ。
「……おそ松」
 カラ松が名前を呼んだ。おそ松がそれに答えようとすると、対面に見覚えのある姿が過ぎった。
「あれ?」
 カラ松も気づいたらしく、おそ松の肩から離れ、その姿に目を凝らす。
「あら、この間の双子さん
「ばあちゃん! 久しぶり!」
 春先に一緒にブローチを探した老婦人だった。おそ松もカラ松もぱあっと顔を輝かせて、老婦人はそんな二人を見てくすくす笑う。
「そっくりな顔をするのねぇあなたたち」
「はは、まあね」
「元気かい?」
「ばあちゃんこそ」
 老婦人はあの春の日よりも少しだけ厚着をしていて、深い藍色のストールが彼女によく似合っていた。
「マダム、今日はとても綺麗な格好をしているな」
「あら。ふふ、わかる? 今日はね、デートなのよ」
 そう言って彼女はころころと笑んだ。相変わらず少女のような笑い方をする人だ。そう思っておそ松も口元に笑みを浮かべると、それでも彼女が一人であることに気が付いた。
「あれ、でも旦那さんは?」
「今おさんぽをしているの。あ、ほら、帰ってきたわ」
 こちらへゆっくりと歩いてくる姿があった。腰を曲げて、杖を緩やかに地面につきながら、周りに目をとられながらも確かにこの老婦人の元へとやってくる。
「どう? もみじは綺麗だった?」
「……」
「ふふ、そうでしょう? 私の大好きな場所なのよ」
 しわくちゃの顔をした老婦人の旦那は、彼女の話すことがわかっているのかわかっていないのか、それでもこくりと頷いてみせる。
 おそ松とカラ松は、ひゅるっと喉が鳴るのを感じた。
「あら、くれるの?」
 彼が老婦人におずおずと片手を差し出す。その手には、一枚の真っ赤なもみじが握られていた。
「ありがとう」
 そう言って老婦人が柔らかく笑むと、確かに、確かに旦那も口元を綻ばせた。紅葉を受け取ると、老婦人は黙っている二人を見て柔らかく目を細めた。
「この人ねぇ、もう私の名前もわからないのに、時々こうしてプレゼントをくれるの」
「うん」
「不思議ね、昔は絶対にこんなことしてくれなかったのに」
 おそ松とカラ松は、密やかに手を繋ぐ二人の老夫婦の姿を見つめる。夫は、妻の名前をもう覚えてはいないのだろう。だけど、何十年も二人で育ててきた愛の形は、今確かにここにある。
「名前を呼ぶ代わりにそうして、いっぱいマダムにプレゼントをしているのかもしれないな」
 カラ松がそう呟いて、老婦人は目をまあるくさせる。おそ松は、隣に立つカラ松から目を逸らせなかった。
「きっとそうやって、マダムのことを呼んでいるんだ」
 おそ松は、たまらなかった。
 隣に立つカラ松のことを、今にも抱きしめたくなってたまらなくなった。
 世界中にだって自慢したい。ああ、俺の恋人はこういう男なんだ。素敵だろう? たまんないだろう? 俺の、俺だけの恋人だ!
「……そうねぇ。そうかもしれないわねぇ」
 きらりと、彼女の目元で星屑が光った。すると、妻の手を旦那がきゅっと握ったようだった。
「双子さん、またお会いしましょうね。このご縁は忘れないわ」
「おう! ばあちゃんもじいちゃんも元気でなー!」
 老婦人の胸では、あの瑠璃色のブローチがきらきらと優しく輝いていた。
 妻が夫の手を引いて歩いていく。妻が先に歩き夫が後ろを着いて行っていたのが、いつの間にか二人は隣同士になって歩んでいた。
 二つの腰の曲がった小さな背中が遠ざかっていく。黄金色のイチョウの中を寄り添って帰っていく。
 それは、あの夜の母と少女の姿にも重なる、ただひたすらに愛の形だった。
「……ふ、ぅ」
 すぐ傍で息を詰まらせる声がする。
 ぎょっとして隣を見れば、カラ松がぼろぼろと両の目から涙を流していた。
「え、えー! な、何で泣いてんの?」
「わ、わからん。何か急にぐあっときて」
 ごしごしと右腕で顔を擦っていて、そんなんじゃまた目元が赤くなっちまうとおそ松は苦笑した。
「おそ、おそ松」
「なに?」
「いいな、いいなぁ、ああいうの」
 カラ松は二人の背中が見えなくなっても、ぽろぽろと流れる涙を携えて向こう側を見つめていた。
 この男の目にはあの老夫婦の姿がどのように映ったのだろう。祈ることが許されるのであれば、自分と同じだったらいいなぁとおそ松は思う。
「ふは、んなに泣くなよ」
「す、すまん」
「とりあえず座ろうぜ」
 先ほどのベンチに座り、カラ松は再びごしごしと袖で顔を拭った。おそ松はというと、潤む世界から目を背けるようにして天を仰ぐ。灰色に映る空はきっと眩しいほどの水色をしているのだろう。隣で泣くカラ松が、その空の色を綺麗だと思ってくれてたらいい。
「カラ松」
 おそ松は、そおっと上半身をかがめて、膝枕を請うような形でカラ松の腹に顔を寄せる。家で何度もした仕草だったが、外でこんなことをしたのは初めてだった。
「おそ松……?」
「ここにさ、蟲がいるんだよな」
 カラ松から赤を奪った、おそ松の恋心を養分にして育つ蟲。
「俺のお前への愛とか恋とか、そういうもんが、ここで育ってんのかなぁ」
 カラ松がぴく、と手を震わせた。そして、いつものように、おそ松の頭を撫でようとする。公園には小さな子供たちが、それを見守る親たちが、紅葉を楽しむ大学生たちもいた。それでも、カラ松はおそ松の頭を撫でてくれた。それだけで、おそ松にはもう十分だった。それだけで、一生この手を離さないと決意することが出来るのだ。
「お前らだってさ、生きて―よなぁ」
 カラ松の腹を撫でれば、中で蠢く蟲たちが泣いたようだった。
「おそまつ」
 カラ松が震える両手でおそ松の頭を抱きしめる。ぱたぱたと、涙がおそ松の頭に落ちていく。
 そうだよな、ずっとずっと、好きだったんだもんな。カラ松の中で、生きてみたいよなぁ。
「カラ松、俺、思ったんだ」
 そおっとカラ松の手を離して、上半身を起き上がらせてカラ松の瞳を見つめる。そこに映る世界がいつだって美しく綺麗なものでありますように。何度だって、そう願った。
「その蟲にさ、俺の愛をいっぱいあげて、お前から色を奪わないでくれーってお願いしたらどうかなって」
 カラ松ははく、と小さく口を開けて、おそ松の話していることを理解しようと必死で頭を回転させているようだった。
 おそ松はパーカーのポケットに手を突っ込んで、「それ」を取り出した。
「ずっと、探してたんだ。花の種類とか俺知らねーし、秋に咲いてるんだろうなってことしかわかんなかったから」

 カラ松は、その瞬間に息を呑んだ。
 水色の空が、あの日と同じ夕焼けに変わったのかと、そんな錯覚もして。
「俺さ、あの時からずっと、お前ばっかり見てるんだ」
 右手にススキは持っていない。あの秋の歌も口ずさんでいない。
 それでも、おそ松の手にはあの日と同じ花が。
「これを見つけたら、ずっと言おうと思ってた」
 錦秋の日、天高くうろこ雲が空を漂っていて、さあっと吹いた風に紅葉がさわさわと音を立てる。
 この身に流れる彼と同じ血の色。
 カラ松が一番大好きな、それは。
「これからもずっと、俺の名前、呼んでくれる?」
 
 カラ松の腹の中で育つ、おそ松の愛が優しく囁く。
 紅葉の世界が色付いた気がして、カラ松は目の前の愛しい人が捧げるそれを見る。
 つう、と頬を伝う涙にも、カラ松の瞳にも確かに映っていた。
 その、花の色は。