どうか君は燦爛たる左足であれ (未完)

「やめ!」
 緑が生い茂る中庭に、深いテノールの声が響き渡る。騎士見習いたちはそれぞれ手にしていた剣を構えるのを止め、声の主の方へと姿勢を正す。
「今日の訓練はここまで。怪我をした者、体調を悪くした者は居ないか?」
 その言葉に声を上げる者は居ない。よし、と満足げに頷いた、青いマントを首元に巻いた甲冑を着たその男は次いで顔を綻ばせて皆に言った。
「夕食の時間には遅れないように。では解散!」
 バサッと大げさなほどにマントを翻して彼は去っていく。その青の姿を見届けた騎士見習いたちはぞろぞろと自分の持ち場へと帰っていった。
「はぁ、相変わらずの厳しさだな」
 隣を見ると、五つほど年上の男に話しかけられていた。「ああ」と笑うと、彼も同じように口元を綻ばせる。
「あの甲冑、つい一週間前ぐらいにオーダーして作らせたんだとよ」
「えっまた? 何で」
「鍛え過ぎたから、入らなくなったって」
 けらけらと笑う男だったが、そこに揶揄の意は全く込められていなかった。むしろ親しみを込めての告げ口のようなものであり、その甲冑素敵ですね、と話しかけていたのを実は覚えている。
「カラ松様はどうしていつもあの甲冑なんだ? 訓練の度に身に着けていたら悪くするのも早いのに」
「それがあの方のポリシーだからだろ。マントは確かに動きにくそうではあるけどな」
 ふむ、とカラ松が去っていった方角を見つめる。騎士見習いとしてこの地に配属されてから約一か月ほどが経つが、まだまだ未知なことの方が多い。特に、自分たち騎士見習いを束ね、指導役も務めている「カラ松様」のことは。
「今日の夕飯は大広間か?」
「ああ」
「あれ、でも確か」
「流石に一週間も別々だと城の者たちも動揺するだろってチョロ松様に叱られたらしい」
「なるほど……」
 苦笑する。この城では、王族も、騎士たちも、召使たちも、全て大広間で一緒に夕食を取るのが通例だった。しかしやはり例外はあるというもので、王子と姫が喧嘩をしているときは、王子と召使たち、姫と騎士たち、というように席や時間がバラバラになってしまうのである。現にここ一週間、騎士見習いたちは夕飯の席で王子と顔を合わすことはなかった。しかし王子の実の弟であるチョロ松に二人とも雷を落とされたらしい。一週間ぶりに、夕飯の席に城の者たち全員が集まることとなる。
「まあどうせいつもの痴話喧嘩だろ。犬も食わない」
「ここの姫様はおっかないものなぁ、さっきも……あっ」
 どすんっと足に何か小さなものが激突した。その衝撃にふと下を見下ろすと、小さな茶色く丸いものが跳ね返ってころんと転がっていた。
「あっ、またお前入ってきちゃって」
 隣の男がそれを抱き上げる。するとその茶色いものは、「きゅっ」と不機嫌そうに鳴いた。抱き上げられた腕の中でくしくしと両手で目を擦っている。何とも愛らしいが、初めて見る動物だった。
「これは……?」
「あ、お前初めて見るのか。ここに棲みついてるレッサーパンダだよ」
「レッサーパンダ?」
 その言葉にもう一度「きゅっ」と鳴く。にぱぁっと笑いかけられて、不覚にも胸がきゅんっとしてしまった。
「か、かわいい」
「あー、初めての顔だから愛想振りまいてんな」
「愛想?」
「お前どうせまたりんごやらなんやら拝借してきたんだろー? っていたっ! いたいから!」
 りんご、の言葉でそのレッサーパンダは突然爪を立てて腕の中で暴れだし、男が腕を緩めた瞬間にぴょいっと抜け出してしまった。
「あっ」
 たたたっと駆けていく。その先の木の陰で、何やら黄色いものがちらちらと見え隠れしていた。
「あれは……」
 レッサーパンダがその木に辿りつくと、ぴょこりと黄色いものも顔を出した。黒いしましま模様の体をしている。それは小さなトラだった。
「あいつら仲いいんだよ」
 腕をさすりながら男が言う。その言葉通り、レッサーパンダとトラは二、三度頬ずりをしたあと、一緒に中庭から出て行ってしまった。
「かわいいな」
「かわいいけど結構獰猛だぞ。いたた」
「なんというか、あれだな……」
「王子と姫に似てるって?」
「そう! それだ!」
「お二人が、自分たちに似てるからって連れてきたとか聞いたな。俺もその辺りのことは詳しくないが」
「へえ。はは、あのお二方らしいな」
 王子と姫が一緒にあの二匹を可愛がっている姿を想像すると胸のあたりがあたたかくなる。まあ、今は二人とも喧嘩の真っ最中なわけだが。
「この国らしい城だな」
「ああ。どうだ、ここに来て一週間の騎士見習い君?」
「素晴らしいと思ってるよ」
 空を見上げると、綿菓子のような白い大きな雲がゆるゆると真っ青な空を泳いでいる。
 季節は春。この国が一番活気を持つ時分であった。

 真っ青な海に囲まれた、自然に恵まれている「フジオ島」。フジオ島では四つの国が繁栄しており、その中でも一番小さく様々な種族が共存している国が、この「アカツカ国」である。アカツカ国は小さいながらも港町での貿易が活発であり、城が築かれている山も資源が豊富なため多くの職人たちがそこで毎日を過ごしている。人間、動物、半獣、魔の力を持つ者、そういった様々な種族が国を支え、平和な毎日を過ごしている。二つの軍事国家が繁栄しているフジオ島だが、アカツカ国は島の中でも一番穏やかで、平和な国であった。

「ひっさしぶりだな、この賑やかさは!」
 大広間では既に城に住んでいる全員が集まってガヤガヤと談笑している。昼に話していた男は久しぶりに会う女中たちと話すのが楽しいのか、既に半分出来上がっている状態である。
 ここに来て一週間、大広間で城の者たち全員と夕食をとるのは今日が初めてだった。なんとなく落ち着かなくてそわそわと辺りを見渡してしまう。自分と同じ騎士や騎士見習い、女中、コック、神官やシスター、職人の半獣などなど、見れば見るほど普段は見かけることのない顔がそこにはあった。
「お、」
 ざわざわとしていた大広間がだんだんと波が引いていくように静かになっていく。ギイ、と大広間の両脇の扉が開いた。ガタッと皆が立ち上がる。王子と姫の席から見て右手側からは魔導士の姿をしたチョロ松と半獣の姿をした一松が、左手側からは忍者の格好をした十四松と聖歌隊の格好をしたトド松が入室してくる。夕食の席では特段正装をしてくるようにとの決まりはなかったので、王族であるこの四人も普段と変わらぬ身なりをしていた。
 大広間の正面の扉が静かな音を立てて開かれる。カツ、カツ、と足音が響き渡った。王子と姫が姿を現すと、皆がそれぞれにザッと姿勢を正す。
「あー、いいよいいよ、堅苦しいのは」
 王子がにかっと笑いながら皆にそう言った。いつものことなのか、慣れたように姿勢を崩すものや変わらず背筋を伸ばしたものなど、思い思いの反応をした。
 王子と姫が席に着く。その後に、ガタガタとそれぞれが椅子に腰かけた。
 えんじ色を基調とした服を身に着けている王子は「ひさしぶりだねぇ」と柔らかな調子で近くの家来に話しかけていた。そこで隣の姫に話しかけるかと思いきや、まさかのスルーだ。ちらりと横を見ると、案の定数人が苦笑していた。よくある光景なのだろう。姫は特に気にするでもなくグラスを持ち上げる。青いドレスは豊満な体を彩り、いっそ今すぐ破れてしまうんじゃないかというぐらい、健気に姫を包んでいた。
「フッ……久しぶりだな皆。今日という素晴らしい日にこうしてディナーを楽しむことが出来るのを光栄に思う」
 グラスを持つ指はけして華奢などではない。王子と並んでいると、姫の方が肩幅は広かった。剥き出しの二の腕は素晴らしい筋肉で覆われており、日々の鍛錬の成果を如実に表している。現に、今日の訓練でも素晴らしい剣さばきを披露していた。つい数時間前まで厳しく騎士見習いたちを指導していた指は、今は繊細にグラスを持ち上げている。いや、下手したらバキッと折れてしまう可能性もなきにしもあらずだが。
「アポロンが微笑んでいるようなこの良き日に皆と久しぶりの逢瀬を」
「かんぱーいっ!」
「えっ」
 姫の言葉は王子の乾杯の合図に遮られてしまった。王子の言葉に従って、大広間は乾杯の声に包まれた。隣で姫はむすっとした顔をしている。
「いつもは王子がごめんって宥めてるんだけどな」
 こそっと隣から囁かれた。ちらりと二人の席を見ると、やはり会話はしていないようだった。
「ドレス、ちょっとはちきれそうじゃないか?」
「ああ、甲冑と一緒にオーダーしたらしいぜ。カラ松様もマメだよなぁ」
 昼間は騎士団の指導役として銀色の甲冑に身を包んでいた彼は、今は海の色を思わせる深い青と空の色を思わせる水色のドレスを身に着けて、金色のティアラを輝かせている。
 何を隠そう、彼こそがこのアカツカ国の姫、カラ松だ。
「まだ慣れないだろ?」
「ああ……」
「あのドレスにな、刃が仕込んであるんだ」
「え」
「ハイヒールは十キロって噂だ」
「えっ」
「ティアラはな、この間王子がふざけてつけさせてもらったら首がもげるって騒いでた」
「えっえっ」
「すげぇだろ、ウチの姫様」
 ああ、と感嘆のため息を吐きながら姫を見やる。食事をしている姿は粗野なんて言葉は全く似合わず、むしろこの大広間で一番優雅なんじゃないかというぐらいの振る舞い方だった。それでも、あのドレス姿でも肉体の鍛錬をやめることはない姫に「すごいな」と思わず呟く。強いぞ、この国の姫様は。
「だから夫婦喧嘩もすさまじいんだけど……って、言ってるそばから」
 がっしゃーんっ! と金属がぶつかり合う大きな音がした。驚いた者たちがなんだなんだと音の出所を探る。
 案の定、王子と姫だった。
「お前、お前はまたそうやって」
「あー! ごめん、ごめんってカラ松! だからその靴で踵落としはやめろマジで!」
「問答無用!」
 がつんっ! と音がしたと思ったら、次いでしゅぅ……と微かな煙の音が聞こえる。落とされた踵は寸でのところで避けることのできた王子の十センチほど離れた場所の床に傷をつけ、石造りだから辛うじて凹みはしていないものの何か得体の知れぬ煙が少しだけ立ち上がっていた。
「~~~~っ」
 さすがに石に全力で叩きつけた踵は酷く痛むようで、姫はへにゃへにゃとそこにしゃがみこむ。そしてその隙を逃がすことはしないのが、この国の王子だった。
「あっ!」
 カラ松とチョロ松が同時に声を上げたがそれは無駄に終わってしまった。王子はまさにすたこらさっさと大広間から抜け出していってしまう。
「おそ松っ!」
 姫の怒号が大広間に響き渡る。それにあー……と呆れた様子で、面白がって、微笑を交えてため息をつく者。
「おそ松王子もこりないなぁ。こりゃあ後が大変だぞ」
 アカツカ国の第一王子であるおそ松は、今日も王女のカラ松を怒らせて城の中を逃げ回っているのだった。

「この国の体制は不思議ですよね」
 城の中庭に面している工房で、欠けた剣を直してもらっていた。話しかけられた相手は頭の黒耳をぴくりと動かした後、ぐいっと腕で額の汗をぬぐう。そのせいでまた顔に炭がついてしまっているようだった。
「あんた、最近配属されたんだっけ……? 一週間前のやつ」
「はい。この国に来たのがまだ一か月前なんですけど」
「なるほどね。そりゃあ不思議なはずだ」
 そう言った後、彼は再び作業に集中する。春とは言え火を扱うこの工房は外気温より五度ほど高く、ぱたぱたと思わず手で仰いでいた。
「王族の方とこんな風にお話出来ているのも信じられないことなので」
「ヒヒッ。ま、王族って言っても流れてる血が一緒ってだけだけどね」
 ぴこぴこといわゆる猫耳が動いている。この国の王族の一人である一松は、世界でも数が少ないとされている半獣の一人だった。人間と猫のハーフのような存在。しかし、彼の両親はカラ松と同じなので二人とも人間である。だからこそ滅多に見ない現象だと言って学者たちがこの城を訪れることも多い。彼は王族でありながら、この城の武器職人をしている。繊細な手つきは見ていて惚れ惚れするし、何より寡黙なイメージのある一松が、工房でこうして武器の完成を待っている間は意外にも世間話にのってくれることが楽しかった。だからこの城の騎士や騎士見習いたちは一松のことを慕っているものが多い。
 すると、キイ、と僅かな音を立てて木製の扉が開かれた。緑色の布が見えた瞬間に思わずすくっと立ち上がる。
「ごめん一松、この間頼んだやつなんだけど……あ、先客か」
「チョロ松様」
 ぺこりと頭を下げると、いいよ座ってと笑われた。ここで堅苦しい態度を続けると逆に気を悪くさせることを知っていたので素直に先ほどの椅子に腰かけた。
「何?」
「こっちの材料が足りないから完成遅れる。だから僕のはとりあえず保留って形にしといてくれる?」
「わかった」
チョロ松はつい、と人差し指を机の上でまわした。すると小物たちがカタカタと動き出して自ら整頓されていく。それによし、と頷いたチョロ松は「少しは片付けとけよ」と一松に苦言を呈した。
「おお……」
「ん?」
「あっ、すみません。チョロ松様の魔法を見るのは初めてだったので……」
「ああ、これか。別にそんなに大したものじゃないよ」
 はは、とチョロ松が笑う。半獣ほど珍しいわけではないが、魔の力を生まれつき持つ者というのも、この世界では貴重な存在だ。だからこそ、この国の王族の類い稀さといったら!
 小さな島国の、これまた一番小さな国家。遥か昔にどこかの国に征服されていてもおかしくないアカツカ国だったが、生活を支える種族の多さに支持され、他国では迫害に近いことをされていた者たちもこの国に流れ込んでくることが度々ある。だからこそ他国もうかつに手が出せない。こうして国民たちにたくさんの支持を受けているのも、王族のいっそ奇異なほどの多様さがあってこそだった。
「ねえ、おそ松兄さんまだ帰ってこないの?」
「まだ街ほっつき歩いてるって連絡があった……。あのクソ長男、帰ったら絶対シメる」
 チョロ松の後ろにどす黒いオーラが見えて思わずヒッと小さく悲鳴を上げてしまった。
「あの」
「ん?」
「お聞きしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか?」
 尋ねると、一松は作業の手を休めないままこちらを見て、チョロ松は壁にたてかけてあった椅子を持ち出して一松の隣に座る。
「何?」
「えっと、この国の姫……王女様は、どうしてカラ松様なのでしょうか?」
 ぽかん、と二人が口を開ける。そしてすぐに、ぷっと二人して吹き出した。
「あはは、そっか、そうだよね!」
「あ、す、すみません! 違うんです、カラ松様に不満があるとかそういうわけではなく」
「わかってるよ。カラ松は男だし、騎士団にも入ってるし、何で王女の役割も? ってことでしょ?」
 チョロ松が笑って溢れてきた涙を指で拭って問いかける。それに「ハイ」と頷いた。
「おそ松様とカラ松様が愛し合っている、男同士でということをこの国が全く問題視しないことは存じております。しかし、これだけ自由なアカツカ国ならば、カラ松様は王女という地位でなくても問題はなかったのではないでしょうか?」
「おそ松兄さんがこの国に婿入りするまでは、クソ松がこの国の第一王子だった、から?」
 一松がこちらの言葉を続けるようにして話す。言いたかったこと全てを含むようなそれに恐る恐る頷いた。
「不躾に申し訳ございません」
「いいよ。確かにちょっと特殊だからね、不思議に思うのも無理はない」
 チョロ松がばさりと頭にかぶっていた緑のチェックのマントを外す。そしてずっと手にしていた杖を壁に立てかけるとこちらを向いて微笑んだ。
「どこから聞きたい?」
「え?」
「チョロ松兄さん、もう何十回と話してきてるから慣れたもんだよ。折角だし聞いていったら?」
 チョロ松の言葉に首を傾げていると、一松がヒヒッと笑ってこう言った。チョロ松は何十回は言いすぎだろと苦笑しながら手を組んで指をくるくるとまわす。
「ちょっとずつ質問に答えていくより、話しちゃった方が早いからね。気になるんでしょ?」
 その言葉にこくりと頷く。騎士見習いとは言え、これからこの国に忠誠を誓っていく立場だ。知りたいことはとことん知っておきたい。
「隣のピーノ国のことは知ってるね?」
「はい」
「おそ松兄さんがそこの第一王子だったことも?」
「もちろん、存じております」
「じゃあ、話は早い」
 一松は変わらず刃を打っている。その音で邪魔をされないように、チョロ松がふいっと指をまわした。
「隣同士のアカツカ国とピーノ国は、昔は随分仲が良かったんだ。今のピーノ国のお妃さまが、あそこに嫁いでくる前までは」

 サファイアを思わせる深い青に、波が重なり白い飛沫が舞い上がる。母なる海に浮かぶ小さな孤島、それがフジオ島であった。
 そしてそのフジオ島に、二つの強国に挟まれた小国が存在した。自由と平和を愛するアカツカ国、しきたりと不変に重きを置くピーノ国。小国ゆえに手を取り合って生き抜いてきた二つの国であったが、いつしかその繋がりも薄れていく。時代の流れと言ってしまえばそれまでで、しかし、次第に不穏さを増していく情勢に両国の新たな同盟を望む声があることも確かだった。
 そして、ある日のピーノ国では。
「婚約ぅ?」
 外務大臣からの言伝に、ピーノ国の第一王子であるおそ松は、ここ近年で一番の不機嫌な声を上げた。それを聞いた大臣は困ったように微笑みながらおそ松を宥めようとする。
「王子は既にお父上の跡を継いでいてもおかしくない御歳です。ですのでこの婚約はけして珍しいものなどではなく」
「跡を継ぐって、俺結局婿入りなんだろ!? わかってるよ、厄介払いだってこたぁ」
「王子、そのようなことはけして」
「父さんに言っといてよ。あんたの愛する妻のせいで、息子がこんなにも不幸だってさ!」
 ぐいぐいと大臣の背中を押して部屋から追い出す。バァンッと勢いよく扉を閉めると、説得の声が廊下から聞こえてくるかと思ったが、大臣は諦めて執務室へと帰ったようだった。
おそ松ははあ、と大きなため息を零した後、ずかずかと足音を立てながら綺麗にシーツが整えられたベッドに向かってダイブする。少々埃が舞ったがそんなことを気にするような性格ではない。ごろんと仰向けになって、くそっと悪態をついた。
「あの女、好き勝手やりやがって……」
 あの女、とは、つい三年ほど前にこの国に嫁いできた新しい妃、つまりおそ松の継母のことである。おそ松の実母は十年ほど前に病で亡くなってしまった。父は深い悲しみに暮れ、長いこと妃不在の日々がこの国では続いた。しかしそれも三年前までのこと。今の妃と出会った父は僅か三か月ほどで婚約を決め、夫婦となったのである。 
 しかしその妃とやらが曲者だった。
「あーあ、厄介者の俺が居なくなってせいせいすんだろ」
 気に食わねえと悪態を吐くがそれは誰の耳にも届くことはなかった。
 この国に婿養子として王の座についたからこそ政治に対してあまり明るくない父に代わり、最近ではあの継母が国を牛耳っている。独裁とまではいかないが、その一歩手前のような状況である。そんな継母だからこそ、王と前の妃の間の子供である第一王子のおそ松は目の上のたんこぶでしかない。
 気に入らない、気に入らないが。
「反抗するのもめんどくせーなぁ」
 元々、跡継ぎになんてなるつもりはなかった。次男のチョロ松に次なる王の座は渡すつもりであったし、そもそも元から国の政治ごとに自ら関わっていたわけではない。だから別に、婿として隣の国に足を踏み入れることにあまり文句はないのだが。
「まだ遊んでたいよぉ。ぱいおつかいでーな姉ちゃんと遊んでたいよぉ」
 身をかためることが嫌なのだ。まだ新品であるからこそ、初めての相手は吟味したいというのに。
「そこらへん緩いといいなぁ。自由って謳ってるし、少しの浮気ぐらい……」
 反抗するのも面倒であるから、婿入りした後の未来を考えている。少々の浮気ぐらい、目を瞑ってくれる姫様だといい。少々奔放なぐらいがちょうどいいんだ、国の長ってもんは。
うんうんと頷きながらベッドの上にあぐらをかく。先ほどまでの不機嫌はどこへやら、夜ごと城を抜け出して街に遊びに行くことを想像して顔を緩めていた。
 あそこの国は、確か魚がうまいらしい。しきたりを重んじるこの国とは違って娯楽が充実していると聞く。半獣も多いと聞くから、猫耳やうさ耳のカワイ子ちゃんも多いはず。
 ぐふふとほくそ笑んでいると、はた、と一つのことに思い当たる。
(あれ、でも、確かアカツカ国って)
「王子が三人の国じゃね?」
 姫がいるなんて聞いたことがない、と、おそ松は初めてそこで気がついたのだった。

 カタカタと車輪が小石や枝を踏みつけて音を立てる。おそ松たちをのせた馬車は、隣国へと向かうために深緑の森の中を駆けていく。
「やられたって感じじゃね?」
 おそ松が頬杖をつきながら言うと、一つ下の弟は呆れたようにため息をつき、二つ下の弟は笑顔のままきょとりと首を傾げた。
「わかってたことだろ。驚かないよ今更」
「何々? なんすかにーさん!」
 あの継母が厄介払いをしたいのは自分だけだと思っていた。しかしそれは盛大な思い違いであったらしい。ご丁寧に、第二王子のチョロ松、第三王子の十四松も、アカツカ国で過ごすことが決定していた。名目としては、婿入りするおそ松に着いて隣国であるアカツカ国で教養を身に着けること。しかし成人を迎えたチョロ松と、成人まであと二年、いうような十四松が今更教養を身に着ける、だなんて大分無理がある。わざわざ反論はしなかったものの、継母の思惑は周りにはきっと筒抜けだ。
「ま、これからよろしく頼むわ」
「兄さん、大人しくしててよ。向こうで問題起こしたらまた面倒なんだから」
「へいへい」
 森を向けると、太陽の光で煌めく海が眼下に広がる。自国でも海は毎日眺めたが、場所が違うというだけでこんなにも色が変わって見えるものだろうか。
「おお……」
 思わず声が出た。
 ピーノ国で見る海よりも、青が深かった。漁が盛んだと聞くからここの海はきっと島の中でも段違いに綺麗なのだ。海鳥が空を切る。漁師たちの声が次第に耳に入って来た。物売りの女たちの歌が街を包む。
 アカツカ国に、馬車は足を踏み入れた。
「隣でも全然違うもんだね。ピーノより断然にぎやかだ」
「あ、あそこ! 何か棒みたいなの振ってる! なんだろー?」
 チョロ松と十四松も、やはり興奮が抑えきれないようだった。隣とはいえ、王族に対して縛りが多かったピーノ国では国外に出ることはついぞ敵わなかったのだ。
 厳格な雰囲気の自国とは違い、まず、色が多い街並みを持つ国だった。自分たちがこの国を訪れることは国民たちには知らせていなかったので、特に歓迎があるわけでもない。海に面する街は活気に溢れ、子供たちは石畳の階段を駆け抜けながら高い声を上げて笑っている。
「城は山の上なんだっけ?」
「うん。だから着くのはまだだいぶかかるかな」
「ちっせー国なのに山はたくさんあるんだな」
「だから半獣たちが住みやすいんでしょ」
 そういえば、この国の第二王子は半獣だと聞いた。ピーノ国ではあまり見かけないからこそ、人に生えた耳や尻尾に注目してしまう。
「姫が居るなんて聞いたこともねーのに、婚約ってどうすんだ……」
 浅く腰掛けて天井を見上げる。チョロ松も十四松もこればっかりは首を傾げるのみであった。
 馬車は街を抜けて再び山へと入っていく。城の城壁がだんだんと姿を現してきていた。

「姫様はただいま支度中ですのでもうしばらくお待ちくださいませ」
 隣国の王子が招待されたというのに、通されたのは比較的小さな広間だった。正式な婚約の儀はまだ先で、秘密裏に事を動かしているからであろうか。それに、姫がまだ準備中で招待された側が待たされるというのもピーノ国ではありえないことだ。やはりこの国は諸々が緩く、窮屈さを感じさせない。チョロ松と十四松は別の部屋に通されている。一人なのは何とも心細かったが、何か失敗を仕出かしてもチョロ松に見られることがないと思うと気が楽だった。
 そして、
「姫、いんのか」
 姫はこの国には居ないと聞いていたから驚いた。国民や他国には公にしていない子どもが居るのだろうか。こんなにものどかな国が、そんな闇を抱えているとは到底思えなかったが……国家とはそういうものだ。
「お待たせいたしました。姫様が間もなく参られます」
 その言葉に思わずびしっと背を正す。結婚しても遊んでいたいとは言ったが、姫様が美人で可愛かったらその必要もないのである。童貞を捨てる相手が自分の妻だなんて、ロマンチックでいいじゃないか。初夜は優しく、妻のおっぱいに包み込まれて……夢は膨らむ。多少顔は好みじゃなくてもナイスバディだったら文句はない。
 ギイ、と重厚な音を立てて扉が開かれる。どきっと心臓が音を鳴らした。
「初めまして、おそ松様」
 カツン、とヒールが床を鳴らし、深いテノールの声がした。まさに今日馬車の中から見た、太陽の光で輝く海色のドレスがふわりと舞う。お辞儀をしながらドレスの裾を掴む指は節くれだっていて、僅かに肌を露出している二の腕は筋肉の筋が浮いている。短く切られた黒髪はおそ松と同じぐらいの長さであり、声を発するたびに動く喉仏が垣間見えた。
「え、」
 姫が顔を上げる。凛とした、迷いのない仕草だった。
「アカツカ国の第一王女、カラ松にございます」
 夜の海を思わせる瞳、くっきりとした眉、熟した林檎のような色の唇。はっきりとした顔立ちはおそ松の好みだと言えなくもない。
 しかし……--しかし。
「男?」
 おそ松の気の抜けた声が、部屋にぽつんと落とされた。
「……ばれたか」
「いやいやいや!」
 王女、否、カラ松の言葉におそ松が全力で首を振る。
「ばれるよ! 何その腕! ムキムキだし! 肩幅ひろっ! 絶対俺よりあんじゃん!」
「フッ……俺は日々の鍛錬を怠らない男だからな、肉体の美を追求することにも余念がないんだ」
「ほらもう男って言っちゃってるし!」
「はっ」
 最早何がおかしいのかわからなくなってきた。先ほど優雅な仕草で挨拶をしたカラ松は、今はムキッとした腕を組んで顎に手を当てている。真剣なその様子に、この男は本気でばれないと思っていたのかと頭がくらくらした。
「ふむ……ばれてしまったならば、仕方がないな」
「え?」
 カラ松が、すっと姿勢を屈める。何だ? と思っていると、カラ松はドレスが床を擦ることに何も頓着しないまま、おそ松の正面で跪いた。
「混乱を招いてしまったようで申し訳ありませんでした、おそ松王子」
 右手を胸に当てながら、くっとカラ松がこちらを見上げる。
「アカツカ国第一王女、兼、第一王子のカラ松にございます」
「は……?」
 そのままカラ松はおそ松の左手をとり、ちゅ、と柔らかな唇を落とす。
「生涯の伴侶とこうして巡り合えたことは、これ以上ない幸福です」
 は、ん、りょ、とおそ松は口をぱくぱくとさせた。
 カラ松はそんなおそ松の様子に構わずすくっと立ち上がる。そして、右手を拳銃の形にしておそ松の心臓へと向けた。
「これからよろしく頼むぜ、マイ、ディスティニー」
 バァン、と効果音入りで撃ちぬかれたおそ松は、アバラが、との言葉を最後に、その場で失神したのであった。
 

 婚約とはいっても、とりあえずはおそ松たちがこの国に慣れることが先決だ、とアカツカ国現君主の松造と、王妃の松代に告げられた。この城での生活に慣れる。それだけの期間がおそ松には設けられていた。
「やっぱり似てるね」
「何が?」
「僕たち兄弟と、王女たち兄弟が」
「従妹だからなぁ……俺はまだカラ松にしか会ったことねぇけど」
 主塔の一室で、おそ松とチョロ松は雑談をしていた。カラ松たちの父親である松造王と、おそ松たちの実の母親であるピーノ国の先代の妃は実の兄弟だった。だからおそ松とカラ松は従妹同士にあたり、隣に並ぶとあわや兄弟同士ではないかと見間違えるほどだ。
「それはいい、それはいいんだ」
「うん」
「なんで、なんでこの国の姫は男なの?」
 この国に来て一週間。もう何度繰り返されたかわからない問いにチョロ松はため息を吐いた。
「アカツカ国は男同士の結婚は何の問題もないって」
「子どもは? 跡継ぎは?」
「養子を迎えるなり何でもできるから問題なし」
「この国の体裁とかは!?」
「そういうの全く気にしない国だって知ってるだろ? 諦めなよ、ここはそういうところだ」
 何で―!? とおそ松は再び頭を抱えた。
 ここでの生活には何の不満もない。しかし姫だ。何といってもあの姫だ。
 カラ松はおそ松と初めて対面したあの日以来、ドレスを着ることはなく甲冑に青いマントを羽織っている。何でもカラ松はこの国の王族でありながら騎士団にも所属しているようなのだ。わけがわからない。あまりにも自由すぎる。
「この間なんてさ、あいつの部屋入ったら筋トレの真っ最中で」
「……うん」
「おそ松もやるか! つって一時間ぐらい付き合わされた」
「うわぁ……」
「あいつの背筋やべーぞ? そこらの騎士よりよっぽどいい体してやがる」
「いいことじゃない?」
「いいけど! でも! あれはプリンセスじゃなくてゴリラだよ!」
 わああっと泣きつくがチョロ松は知らぬ存ぜぬの態度を貫く様だった。俺この国よくわかんない怖いとぼやくおそ松を置いて、チョロ松は仕事があるからと部屋を去ろうとする。
「あ、ちょっと待って!」
「僕も仕事があるんだよ。おそ松兄さんも少しは、」
 すると、コンコン、とノックの音がした。
 おそ松の部屋を訪れてノックをする人物など一人しか思い当たらない。チョロ松もそれに気がついたのか、別の扉からひっそりと出て行く。
「じゃあまた夕食時にね」
「おそ松、今日の予定なんだが」
 チョロ松が出て行って、カラ松が入室するのはほぼ同時だった。カラ松は先ほどまでおそ松以外の人物がここに居たのを気配で察したのか、きょろきょろと辺りを見渡す。
「あー、いいよ。何でもない」
「? そうか」
「んで、何? 今日の予定?」
「あ、そうだ。ちょっと聞きたいことがあって」
 カラ松はあまり政治ごとに明るくないからか、手にした紙に一生懸命目を通しておそ松に物事を伝えていく。うんうんと軽く聞き流し気味に返事をしたおそ松は、話が終わったカラ松に机に頬杖をつきながら尋ねかけた。
「あのさ、何でお前がそれ伝えにくんの?」
「え?」
「それ、普通は他のやつが聞いてくるじゃん」
 ああ、とカラ松は合点がいったように頷いた。ぱあっと表情を明るくさせながら言う。
「ついさっきちょうど訓練が終わってな。そしたら大臣を見つけたんだ。お前に用があると言っていたから、じゃあ俺が伝えてやろうと思って」
「何で?」
「フッ、俺はお前の伴侶だからな、少しでも時間を共にしていたいんだ、マイスイートプリンス」
「イタタタッ」
「えっ? だ、大丈夫か?」
 ボキボキと折れていくあばらを庇うようにして腹を抱えると、カラ松がおろおろと慌て始めた。カラ松の芝居がかったイタイ行動はどうやら彼の素らしく、城の者は特にそこに頓着することはない。しかしおそ松にとっては軽く凶器だ。面白くてあまり嫌な気はしないからこそ、なおさら。
「あーイタかった」
「お、おそ松?」
「いや、何でもない。……ねえ、カラ松」
 名前を呼ぶと、カラ松があからさまに表情を明るくさせる。犬のような、それこそ顔が似ているから、弟のような。それに少し気恥ずかしいものを覚えながらもおそ松は話を続けた。
「お前そういう、なんつーの、騎士とか、かっこいい感じの服好きじゃん?」
「ん? そうだな、大好きだ!」
「だからこう、お姫様ーみたいな恰好、いやじゃねぇの?」
 そう尋ねると、カラ松は十秒ほどきょとりとした顔をして、次の瞬間破顔した。
「なんだ、心配してくれていたのか」
「へっ? な、ちが」
「大丈夫だぞ。俺はいやいや姫をしているわけじゃない。シルクで作られた海のドレスも、真珠の輝きを持つ靴も、貝殻が埋め込まれた金のティアラも、俺は大好きだ」
 肩に巻いたマントを脱ぎながらカラ松は誇らしげにそう言った。予想外の返事が返ってきておそ松は戸惑う。
「そ、そうなの?」
「ああ。女性になりたいわけではないから仕草などは徹底していないがな」
 何か深い理由があって姫の格好をしているわけではないらしい。カラ松の口ぶりだと、自ら王子兼姫の役割を担うことを決めたようだった。
 じゃあなぜ、俺と結婚を。姫の格好をするのが趣味の範囲内ならば、別に俺とそういった契りを交わす必要もないのに。
 アカツカ国の王と妃が息子に対して政略結婚を強要するような人柄ではないことをおそ松もこの一週間で察していた。だからこそ、なぜ。
「……おそ松は、覚えているか?」
 ふと、カラ松が少し声を落とし気味に話し始めた。
 机に頬杖をついているおそ松の真横の椅子に腰かけたカラ松は、遠慮がちにこちらを見上げるようにする。いつもではあまり見られないカラ松のしおらしい様子におそ松もつい耳を傾けてしまった。
「なにを?」
「昔、昔な。二、三度お前とこの国で一緒に遊んだことがあるんだ」
 カラ松の言葉に、おそ松は机から肘をずるりと落としてしまった。
「へ? マジ?」
「ああ」
 こくこくとカラ松が嬉しそうに頷く。おそ松はあっけにとられながら少しだけ姿勢を正した。
「え、じゃあ何。俺とお前って初対面じゃないの?」
「そうだぞ」
「は~、おっどろきー」
「まあ、二十年前のことだから覚えていないのも無理はないな」
 カラ松がはにかんだあと、すっと立ち上がる。背筋を伸ばし、銀色の甲冑を煌めかせているその姿は、やはり姫と言われても首を傾げてしまうような逞しさだった。
「夕食、遅れるなよ」
 既に何度か前科があるおそ松にカラ松はそう言って部屋を立ち去ろうとする。何か声をかけるべきかとも思ったが、何も口から出てこない。口は回るが口下手なのがおそ松だった。
 カラ松が出て行った後の部屋で二十年前のことを思い出そうとする。けれど、やはり何も思い出すことはできず「退屈だぁ」と机に突っ伏したのだった。

「ねえ、その腰の短剣、いい加減変えたほうがいいと思うよ」
 それがアカツカ国第二王子、半獣の血を持つ一松と初めて交わした会話だった。
「短剣?」
「それ、もう長いこと使ってないんでしょ? そんなんじゃいざという時に使い物にならないよ」
 じゃあ、とそのまま廊下を歩いていこうとする彼の手を、気がつけばはしっと掴んでいた。一松は閉じがちな瞼を少しだけ見開いて、何、とでも言うようにこちらに視線を寄越す。実の兄弟だから、やはり似ていた。
「俺、お前が……一松が、鍛冶職人の見習いだって聞いたんだけど」
「あ、うん」
「一松が直してくんない?」
 鼻の下を擦りながらそう言うと、一松は少しだけ嬉しそうに猫耳の方をぴょこりと動かした。
 そんな会話を経て、おそ松と一松は城の工房で二人座っているのだった。
「いつもなら絶対許されないんだけど……まあ、ピーノ国の王子直々に頼まれたからにはね」
 ヒヒッと独特な笑い方をする彼に、少しだけ背筋がぶるりと震えてしまった。
 一松は特殊な血を持つゆえに、同じく特殊な魔の力を持つチョロ松と馬が合うようだった。鍛冶と道具職人。そういった仕事方面でも手を組むことが多い二人だ。
「あんたさ、何でクソ松との婚約承諾したの?」
 突然の質問におそ松は狼狽えることなく答える。「反抗すんのもめんどくさかったから」と言うと、一松は刃の切れ味を確かめながらまたしても不気味な笑い声を漏らした。
「ヒヒッ、あんたもクズだね」
「いやぁ照れるね」
「誉めてないよ」
 一松の態度はフラットだ。そういうところがタイプは全く違うが二つ下の弟、十四松と重なる気がして微笑ましくなる。
「男だったのは衝撃だけどね。ま、でもこれなら俺もあいつも気兼ねなく妾囲えるし、逆にばんばんざいかなって」
 カァンッと刃を叩く音が木霊した。一松の腕はまだ見習いと言えど確かなもののようで、この国の騎士団の男たちが楽しそうに話していたのをおそ松も耳にした。
「これもうちょとかかりそうだからさ、代わりにこれ、持っていきなよ」
「え、いいの? あんがと!」
「隣国の王子を丸裸で外に出したらどやされるのは僕だからね」
 一松から代わりの短剣を受け取りいそいそと工房を出ようとする。
 すると、「ねえ」と一言声をかけられた。
「ん?」
 振り向いても、一松は背中を向けて作業を続けるばかりだった。聞き間違いかと思い再び扉に手をかける、が。
「クソ松ってさ、すげーバカなんだよ」
 一松が話を続けた。
「……? うん」
 なんとなくそんな気はする。自分も大概頭のいい方ではないが、カラ松は多分ベクトルの違うバカだ。
「あいつ、何人も妾囲えるほど、器用なやつじゃないから」
 一松はその言葉を最後に、再び作業に集中してしまった。おそ松はイマイチ一松が話したことの真意を掴めぬまま、「ふーん」と相槌を返すことしかできなかった。
 工房を出ると、中庭で剣同士がぶつかり合う音がする。緑がいっぱいのそこで血なまぐさくも思える訓練をしているのは滑稽にも思えたが、ぶつかり合っている騎士たちは何とも楽しそうに訓練に励んでいる。
 すると、ふいに視線が引き寄せられるところがあった。
「カラ松様! ギブ、ギブです!」
「はははっ、そんなんじゃ熊にもやられてしまうぞ?」
「カラ松様、熊も倒せるんすか!? すっげー!」
 熊って……と思いながらも、多分あいつなら倒せるんだろうなぁと苦笑した。
 カラ松と他三人ほどの騎士が草むらの上でじゃれあっている。それは自国ではけしてあり得なかった光景で、王族とその他の身分の者たちが非常に近い距離で日々接しているのをここ最近何度も目にしている。そしてその筆頭たるのが、カラ松だった。
「あれっ、おそ松王子?」
 一人の騎士の言葉で、周りの者たちもざわざわとし始める。やっべ、と思ったものの時すでに遅し、騎士たちは皆姿勢を正しておそ松に跪いてしまった。
「あーあー、いいよいいよ、堅苦しいのは」
 ピーノ国の王子だということで騎士たちも身構えているのか、未だこうしてこの国には似つかわしくない態度をとられている。おそ松自身こういった対応は向こうでは慣れていたものの、この国ではなんだか酷く居心地が悪くなってしまう。
「お前たち、顔を上げろ。大丈夫だから」
 カラ松の言葉で、騎士たちも恐る恐る顔を上げる。カラ松がにこっと微笑むと、それぞれがほっとした様子を見せて立ち上がり再び訓練へと戻っていった。
「すまないな、あいつらはまだお前に慣れていないんだ」
「希少動物扱いか? ま、いーけど」
 おそ松の少し拗ねた様子にクスクスと笑う。先ほどの訓練の名残か、左頬に土がついていた。
「……っ」
「あ、いやだった?」
 思わず指でその汚れを拭うと、カラ松は少しだけ身じろぎをした。その様子にいやだったかと尋ねたものの、カラ松はぶんぶんと首を振った。
「ありがとう」
「うん。ってか、お前ってやっぱり強いんだね」
 おそ松がそう言うと、カラ松はぽっと少しだけ頬を染めて口元をにやけさせた。
「そ、そうだろう? 俺は軍神ヘラクレスに愛されている男だ、剣さばきもなかなかのものだぞ?」
「ぶはっ! それ自分で言っちゃうのかよ」
 相変わらずのカラ松の様子に腹を抱えながら一松の言葉を思い出した。何人も妾を囲える器用なやつじゃない。だからこそ、自分と結婚なんかせず、一人の妃を娶ればよかったのに。
「もーお前さ、国の王子だしおまけに強いしいい体してるし、女には結構モテるだろ?」
 カラ松はフフンと得意げに空を仰いでいたが、ふとおそ松の顔に視線を戻す。
「イイコ居たら言ってね。俺、そういうのには寛大だし」
「おそ松?」とカラ松が首を傾げた。この男は結構鈍い。ポンコツというような言葉が似合うような鈍さだった。
「男同士で結婚するんだからさ、愛人作っても全然問題ねーじゃん。むしろそのための俺たちの結婚なんじゃねぇの?」
 公に聞かれたらまずいので、ぐいっとカラ松の肩を引き寄せて耳元で囁いた。
 男同士でってどうなるかと思ったけど、そう考えると結構頭いい制度だよね。俺もかわい子ちゃんと仲良くしたいしまた今度誰か紹介してよ。
「……」
 カラ松が俯いて、おそ松の言葉に反応しない。
 ありゃ、とおそ松は思った。この男はもしかしたら結構硬派なのかもしれない。愛人との言葉はまずかったか。
「フッ……おそまぁつ、この国のガールズたちがキュートでビューティフルなのは間違いないが、浮気は感心しないぞ?」
 ぱちんっとデコピンをされて、おそ松は「いたっ」と呻いた。
 カラ松は笑ったままだったので、おそ松も「ごめんごめん」と明るく返すことができた。
「でも紹介してほしいのはホントだから! お前のタイプとかも教えてよー」
「また今度な。あ、お前もうすぐ会議の時間じゃなかったか?」
「え? あ、マジだ!」
 行ってくる! と走り出すと「いってらっしゃい」との声が聞こえた。律儀なやつだ。
 城の中を走っても、はしたないと怒るような人はここには居ない。おそ松にとって居心地が良く、過ごしやすい城だった。
 カラ松のことはまだよくわからないことの方が多いけど、「イタイ」と称されるあの言動は、結構好きかもしれないとおそ松は思ったのだった。

 おそ松たち兄弟と、カラ松たち兄弟はとてもよく似た顔立ちをしているので、服装を少し変えると間違えて名前を呼ばれることも度々あった。おそ松とカラ松は身分ゆえに服装が特徴的であまり間違えられたことはなかったが、弟たちはかなりの頻度で違う名を呼ばれると嘆いていた。
「この間ね、おそ松兄さんと間違えられちゃったんだ」
 だからカラ松の二つ下の弟であるトド松に話しかけられた時も特段驚きはしなかった。
 トド松はおそ松のことを「おそ松兄さん」と呼ぶ。カラ松と結婚したらおそ松はトド松の兄になるのでまあおかしなことは言っていないのだが、まだ婚約の儀もすませていないのにそう呼ばれるとなんだか少し居心地が悪かった。兄さんと呼ばれることが嫌かと言われたら、けしてそんなことはないのだけれど。
「王手!」
「あっ! お、オーマイゴッド……」
 ざあざあと雨が降る真昼、カラ松の部屋でトド松と部屋の主が「将棋」というもので遊んでいた。おそ松はというと、午前の会議が終わり自室に戻って昼寝でもするかと廊下を歩いているところをカラ松に見事に連行され、こうして今日初めて知った盤のゲームを椅子の背もたれに抱き付きながら見届けているのだった。
「やっぱりトド松は強いな」
「ふふん。年季が違うからね。どうする? もう一回やる?」
 カラ松は今日、珍しくドレスを着ていた。この国に来て一か月ほどが経つが、なんだかんだ言ってカラ松のドレス姿を見る回数はそれほど多いわけではない。動きにくいからな! とカラ松は言っていたがそれは本末転倒というやつじゃないだろうか。
「んー……あ、そうだ」
 くるりとカラ松が振り返っておそ松を見た
「おそ松、お前もやるか?」
「んん、俺それ知らねーや」
「えっ?」
 おそ松からの返答に、カラ松もトド松も驚いた声を上げる。向こうでは本当に娯楽が少なかったんだ、とここに来て実感するが、こうも信じられないみたいな目で見られるとなんだかむっとしてしまう。
「悪かったなぁ知らなくて」
「あ、いや違うんだ。アカツカでは定番の遊びなんだが……そもそもこれは東洋のゲームだしな、知らないのが当然だ」
 いいよそんなにフォローしなくてもと拗ねていると、カラ松がドレスの裾を上げて立ち上がった。ん? と思っているとこちらへとツカツカ歩いてくる。
「俺が教えてやろうか?」
 差し出された右手は、肘まで真白な手袋で覆われている。教えてやろうか、と言いながら、その目は期待半分、不安半分の色をしている。おそ松が将棋を覚えることを願っているというよりは、おそ松に教えてやりたいという願望の方が色濃く出ている表情に思わず苦笑した。こういうところだ、時折こいつを弟みたいだと思うのは。
「えー、でもカラ松兄さん教えるのヘタじゃん」
 コロコロと笑ったのはトド松だ。弟にそんなことを言われ、うっと微妙な顔をしたカラ松は「そんなことはないさ。手取り足取り俺がじっくり教えてやる」となんだか不穏なことを喋っている。
「必要なのは、そう、情熱だけだ。時に絹のように優しく、時にマグマのように激しく、おそ松に教えてやる……俺!」
「ひぃい! あばらが、あばらが」
「ほんっとイッタイよね! ってか何今日のドレス」
 肋が折れると騒いでいると、トド松がぎゃんっとカラ松に噛みついた。
「何そのスパンコール! 何その羽! どうしてそれを着ようと思った!?」
「イカすだろう?」
「イカすだろう? じゃなくて、ギラギラし過ぎて目に痛いから! 両方の意味でイタイ!」
 怒涛のツッコミに慣れてんなーとおそ松は傍観していた。一松は口数が多いほうでは無いし何しろあの性格だから、日々こいつが頑張って来たんだろうなぁと手を合わせたくなった。
 きょとりとしているカラ松はまだ右手をおそ松に差し出していて、おそ松はそれにぺし、と軽く左手をのせた。
「まぁさ、今度教えてよ。あとお前、もうすぐ行かないとまた松造にどやされるぞ?」
「あっ!」
 おそ松からの言葉にカラ松ははっとする。今日は確か他国の王族との食事会で、松造、松代、カラ松がその場に出席することになっていたはずだ。
「じゃあ俺はそろそろ行くな。あ、そうだおそ松」
「んあ? 何?」
「この間お前んとこの使者が来てたぞ。会わなくてもよかったのか?」
「あー……」
 おそ松は曖昧な返事をし、明確な言葉を発することのないままひらひらと手を振る。軽い拒絶をも思わせる挙動にカラ松は眉を顰めたものの、深く詮索することはせずそのまま部屋を出て行く。
 残ったのは、椅子の背もたれにだらしなくもたれかかるおそ松と、将棋の駒を片付けているトド松のみになった。
「おっもしれーなあいつ」
 おそ松が軽く笑いながら言うと、呆れたようなため息が返ってきた。
「あの好きなものには猪突猛進なところ、どうかとは思うんだけどね」
 あのギンギラギンのドレスで他国の王族に会うつもりなのだろうか。ここの王と王妃はそれに何も言わないだろうけど。
「……なぁんでここの王様とお妃様は俺とあいつを結婚させたがるんだろうな」
 おそ松の言葉に、トド松はふと耳を傾ける。
「つまりさ、ピーノとアカツカの同盟を結ぶことが目的なわけじゃん? でも、ここの二人ならわざわざ息子を男と結婚させなくてもいくらでもやり方はあっただろ」
 手持無沙汰な手を組みくるくると指をまわす。トド松は片付ける手を止め、おそ松に体を向けるようにして青の布で包まれた椅子に腰かけた。「そうだね」と笑う顔から真意を読み取ることは難しいと思った。自分も飄々とした表情をすると自覚しているが、「似ている」とおそ松に間違えられるトド松もそうした顔をすることが多かった。
「あそこがアカツカに目をつけてるって話は、おそ松兄さんも知ってるよね」
 あそこ、とはアカツカ国の東に位置する帝国だった。絶妙なバランスで共存しあってきたフジオ島の四国であったが、その帝国の王が変わると一気にそのバランスが崩れ始めた。雲行きが怪しくなってきた情勢に昔のように同盟を結ぼうと声をあげたのがピーノ国とアカツカ国である。
 その同盟を結ぶのに、わざわざ自分のところの王子を男と結婚させる必要があったのだろうか。以前からの疑問だが、ここの王と王妃がそれを強要する人物には見えなかった。
「あの格好も、別に強要されてんじゃなくて、あいつの趣味なんだろ? よくわかんねーよココ」
 アカツカ国の王族の一人であるトド松にここまで赤裸々に話しているのは、ひとえに彼らへの信頼があるからだ。自分の継母よりもよっぽど信頼できる。それを皮肉だと思わないでもないけれど。
「んー、まぁ、父さんも母さんも色々考えてるんじゃない?」
「適当だな」
「だって詮索するのも面倒だし……僕らは基本、興味ないことには関わらないから、カラ松兄さん筆頭に」
 何だそれ、と脱力する。「僕らも大概、クズだってことだよ」とトド松が笑った。うん、まあ、それならわかる。
「うんにゃ、ま、いーや」
「そう?」
「うん。ちょっと気味が悪かったから色んなやつと話してたけど、そんな陰謀ーみたいなことはないっぽいし」
 おそ松は立ち上がった。この後は十四松でも誘って遊ぼう。最近、この国のやきゅうとやらにハマっているらしいから、それに付き合うのも悪くないかもしれない。
 自分のところよりも物が多く少しゴテゴテしているカラ松の部屋を出ようとすると、トド松が「ねえ」と声をかけてきた。
「何?」
 そう言えば前にも似たようなことがあったなと思い出す。以前は確か、一松に呼び止められて。
 何と言っていたか……そう、あいつは妾を何人も囲えるほど器用じゃない、と言われた。
「一つだけ教えてあげるよ、おそ松兄さん」
 くるりと首だけをこちらに向けたトド松が言った。その口元には面白がるような笑みが広がっている。
「何?」
 もう一度、おそ松が尋ねた。焦らされるのは好きではない。トド松はくふくふと笑いながら口を開く。
「あのね、おそ松兄さんは僕らの父さんと母さんが二人を結婚させたがってるって思ってるみたいだけど」
 トド松が立ち上がり、なぜかカラ松のタンスに近づいて行く。引き出しから何かを取りだしたあと、再びこちらを振り向いてこう言った。
「おそ松兄さんと結婚する、って言い出したの、カラ松兄さんなんだよ」
 おそ松は、「え?」と一言を返すことしかできず、トド松がこちらに近づいてくるのをぽかんとした顔で見つめるだけだった。
「んで、これ、あの人の宝物」
 右手を取られ、その上にころりと何かが渡される。
「多分今日の夜、必死に探してると思うから」
 じゃあね、とトド松が部屋を出て行く。ぱたん、と扉が閉まる音がすると、残されたのは右手に何かを掴んでいるおそ松のみになった。
「宝物だぁ?」
 粗雑な言い方に添わずそおっと手のひらを見る。すると、そこにあったのは、小さな金色の。
「ティアラ……?」
 きらりと部屋の照明でそれが輝く。
 普段カラ松の頭の上で輝いているものよりも幾分か小さいそれがなぜだか懐かしく、おそ松はしばらくその部屋から動くことができなかった。

 標高が高いから、この城では星がとてもきれいに見えるらしい。小塔で見るのが一番お勧めだとトド松に言われた。気にはなるが今はそちらへ向かうことが目的ではなかった。衛兵所で十四松と話していたおそ松は、今は主塔に続く巡回路を空を見上げながら歩いている。吹き抜けのこの通り道は、本来は王子が一人で歩いてはならないところだろう。しかしおそ松は御付きの家来を振り切って歩みを進めていた。何となく、一人で行きたかった。春になったとはいっても夜はまだ肌寒い。澄んだ空気の中で白百合のごとく輝く星たちは、掴むととても冷たそうな気がした。
「おそ松?」
「よっ」
 主塔に向かったが、目的の場所は自室ではなく、五つほどの扉を挟んだカラ松の部屋だった。ノックをして「俺だけど」と呼びかけると、カラ松がゆっくり扉を開けた。不用心だなと思いながらカラ松を観察すると、男性用とも女性用とも言えない、ラピスラズリ色をした部屋着を着て、少し焦ったような表情を見せていた。その服が先ほど見た夜空と重なる。
「急にどうしたんだ?」
「たまにはいいだろ? 廊下、寒いから入らせてよ」
 背後を親指で指しながら頼んだ。廊下は既に薄暗くなっており、衛兵が二人巡回しているのみである。
 カラ松は少しの間思案した後、「ほら」と言っておそ松を迎え入れた。
「さんきゅー」
「散らかってるぞ」
「いいよ、気にしないし」
 背後でパタンと扉が閉まる音がした。昼間もこうして入ったはずなのに、ここは違う顔をしていた。カラ松は散らかっていると言ったが、確かに、昼間よりも物があちこちに散乱している。
「今日は何をやっていたんだ?」
 床に落ちていたものを拾いながらカラ松が話しかけてきた。他国との面会があるから、と今日の夕飯は別々だったのだ。だからお互いに何をしていたかは知ることがなく、そして、こんな風に自分が今日していたことを尋ねられるのも初めてだ。
「十四松と遊んでた」
「そうか。やっぱり野球か?」
「うん。思いっきりボール投げたからすげぇ肩いたい」
 運動不足じゃないのか、なんて笑われたのでむすっとした顔をしてベッドに腰かけた。カラ松は嫌な顔一つせず、相変わらず散らばった物たちを片付けている。
「探し物?」
 卑怯な質問だろうか。
 カラ松はぴくりと肩を動かした後、再び部屋を片付けることに集中する。「ああ」と返された声はいつもより覇気がない気がする。
「大したものじゃないんだ。ただ、昔から寝る前にそれを手にするのが習慣になっていて」
「これのこと?」
 ごそごそと服の中から取り出したのは、昼間トド松からもらった金のティアラだった。
 はっとカラ松がこちらを振り返る。おそ松が手に持つそれを目にした瞬間、ちかりとカラ松の瞳の中で光がはじけた。
「……何で」
 茫然とした声だった。しかし、その瞬間にカラ松はばっと顔を切り替える。
「おそ松が持っていたのか。フッ……水臭いじゃないか、早く言ってくれれば」
「何で俺と結婚するなんて言ったの」
 畳みかけるように問うた。こちらに向かっていた足がぴたりと止まる。
「答えてくれたら返すよ」
 手のひらでティアラを遊ぶ。それを見たカラ松はきゅっと唇を噛みしめて「おそ松」とそれだけ、名前を呼ぶ。
「意地悪しないでくれ」
「ちゃんと返すって、話してくれたら」
「……」
 力づくで取り返されるかと身構えていたが、一向にその気配はなかった。しばらくお互いが無言の時間が流れる。
「どうして、そんなに知りたいんだ」
 立ち止まったまま、そう言った。身に纏っている夜空色の服はシルク製のもので、そういったことに詳しくないおそ松でもこれはいいものだと一目でわかるようなものだった。ちかり、ちかりとカラ松の瞳の中で光がはじける。それは、先ほど見たあの大輪の星たちに似ていた。
「逆によ、何で俺はそれを知らないわけ? わけもわからず隣国の王子と結婚させられたのは俺なんだからさ、理由を聞く権利はあるだろ」
 きつい言い方になった。それでも、自分が言っていることは間違っていないと思う。別に責めたいわけじゃない。ただ、興味があったのだ。
「……」
「言えない理由?」
「違う。違う、が……」
 煮え切らない言い方だった。ベッドに腰かけるおそ松から五歩ほど先の所で、カラ松は立ち尽くしている。
「言ったらお前、引くだろう?」
「は?」
 首を傾げた。目の前の男はぎゅうっと体の横で拳を握りしめている。爪が短いことが幸いしてか、ギリギリと音が出るような力で握りしめていても、血が滲むような様子は見受けられない。なんだかとても痛々しい様子に「カラ松」と名前を呼びそうになるものの、彼は突然ズカズカとこちらに歩み寄ってきた。
「へ?」
 身構える間もないまま距離を詰められて、隣にカラ松がどすんっと座る。そしてずいっと顔を近づけられれば、僅かに後ずさりする他なかった。
「だから、返してくれ」
「は?」
「それ……お前にとったらおもちゃみたいなものかもしれないが、俺にとっては大事なものなんだ。だから」
 吐息がかかるほど近くにいたが、カラ松は相変わらず拳を握ったままだ。覗ける瞳ではちかり、ちかりと相変わらず星が瞬いていて、それに呼応するように両の掌で弄んでいるティアラがほわりとあたたかくなる気がした。まるで、持ち主の元へ帰りたいと言わんばかりに。
 正直に言おう。おそ松は面白くなかった。元より他の物事が自分より優先させられると途端に機嫌を損ねてしまう男であったので、今回も自分の質問に答えずひたすらティアラにばかり意識が向いているカラ松のことが気にいらなかった。
 だから、
「やだ」
 と、顔を背けた。
「え、」
「まだ質問に答えてもらってないもん」
「もんって、だから、そう大した理由じゃないんだ」
「それなら言えばいいじゃん」
 カラ松が言い訳をして、おそ松が一歩も引かない、堂々巡りである。言え、言わない、返せ、返さない。そんな問答が何度も続けば、手段が口だけではなくなるのも必然のことだった。
「何でそうも頑ななんだ!」
「こっちのセリフだわ! いい加減折れろ!」
「くっ……!」
 にゅっとカラ松の腕が伸びてくる。さっと両腕を上に逃すと、ぐらりと視界が動いた。
「あ、」
 バランスを崩して、おそ松は後ろのベッドに倒れ込む。そこにすかさずカラ松が覆いかぶさってきてにやりと笑った。
「おそまぁつ、バッドなボーイだ。さあ、それを大人しく」
 バカなやつ、その自慢の力で俺を抑え込むこともしない。
 おそ松はくっと唇を上げた後、ティアラを持っていない左手を上に伸ばした。
「おそ……っひ!」
 無防備な脇に手を潜り込ませて指を動かす。ここは人間なら誰しもが弱点なはずだ。
「ふはっ! ちょ、やめ、あは、あはは!」
「形成、逆転ッと!」
 力の抜けたカラ松を足払いし、今度はカラ松がベッドに倒れ込んだ。少しだけ学んだ体術で知った、ここを抑えられると動けなくなる、というところを押してみた。するとカラ松は微かに顔を歪める。
「ね、教えてよ」
 くすぐられて息が上がっているカラ松はじろりとこちらを睨み上げた。だけど涙が滲んでいるから迫力なんて毛ほどもない。すっと左手の上にのせたティアラを見せつける。
「返してほしいんでしょ?」
「……言ったら、お前」
「なに、引かねえよ別に。まあ全くそっちの事情は知らないけど」
 意地の悪い言い方ややり方になってしまってはいるが、別に、この男を苛めたいわけじゃなかった。知りたいという好奇心が、おそ松の幼い心ゆえに意地悪な形で出力されてしまっているのは否定できないが、それでも悪意があるわけじゃない。
「ね、カラ松」
 強請るような声色になった。眼下にいるカラ松が下唇を噛む。初めて見る表情だった。
「……わかったから、退いてくれ」
諦めたような、何か決心をしたような声だ。おそ松は素直に上から退き、再び先ほどの位置に腰を落ち着かせる。
 カラ松はゆっくりと体を起こして僅かに乱れた服を整えた。そうした仕草は紛れもなく男のものだったが、どこか優雅だ。きっと、指先の動きがおそ松よりも繊細なのである。
「お前は、覚えていないだろう」
「何を?」
「昔、幼い頃に何度かこの国で遊んだことを」
 ああ、そういえば以前にこいつが言っていた。おそ松は思い出して「うん」と短く返す。
「今思えば……そうだな、自分でもそれだけ? とは思うが」
 ずっと自分の膝を見つめて話していたカラ松がふいにこちらを見上げる。先ほどよりも顔の距離は遠かったが、瞳の奥はより透きとおって見えた。
「初恋だったんだ」
「へあ?」
「誰かに恋をしたのは、お前が初めてだったんだ」
 ずる、と尻がずり落ちる。
 カラ松はいつもはつり上げている凛々しい眉を下げ、目元を柔らかく溶かしていた。また、初めて見る表情だ。
「俺は昔から好きなものは変わっていない。でも、姫の格好をするのも好きになったのは、お前が居たから」
「……」
「昔、四つの時に、城のある部屋で金色のティアラを見つけたんだ。俺はそれがたまらなく輝いて見えて、でもその頃でもそれは女性が身に着けるものだと知っていたから、手持無沙汰にするだけだった」
 その頃だ、隣国の王族がここへ遊びに来たのは。
 カラ松が話を続ける。おそ松が手にしているティアラを見つめ、ふっと口元を綻ばせた。
「お前も俺も長男だったから、二人で一緒に遊ばされて……楽しかった、お前は俺が知らないことをたくさん知っていた。まるで、……まるで」
「まるで……?」
「--いや、何でもない。そう、お前は何でも知っていた。城の抜け穴の場所、森で昼寝をするためのハンモックの作り方、馬を手懐けて街を駆け抜ける夢、お前と遊ぶのは本当に楽しかった。だから……--ティアラも、お前に見せたよ」
 遠い日の話だった。四つの頃、と具体的な年齢を出されてもおそ松は一向にそれらを思い出すことができない。カラ松から聞く昔話は、どこか遠いお伽噺のようだ。
「見せたら、お前、なんて言ったと思う?」
「え、……わかんない」
「お前な、つけてみればいいじゃん! って言ったんだ。そんなに気に入ったなら、つけてみろよって」
 クスクスとカラ松が笑う。その笑い方は、トド松にも似ているし、一松の面影もある。
 ちらりとこちらを見たカラ松がティアラに手を伸ばした。おそ松は今度は何も抵抗はしない。金のそれはカラ松の手に収まり、部屋の僅かな明かりできらきらと輝いている。
「似合うよ、って、お前が言ってくれたから」
ティアラを見つめるカラ松は、青が似合うと思った。そう、それこそ、今のラピスラズリ色の服がとてもよく似合っている。
 おそ松がいつかの昔、似合うよ、と告げたカラ松も、青を見に纏っていたのだろうか。
「似合うよって言われて、それ以来、俺は騎士のようなかっこいい服も、姫の格好をするのも好きになったんだ。おそ松に似合うって言われたティアラが、次会う時はもっと様になっているといいなとも思った」
「カラ松……」
「今回は、本当はお前たちはここに養子に来る手はずだったんだ」
 ぴくりと肩が動いた。養子、と口にすると、カラ松がこくりと頷く。
「でも、俺が……俺が、おそ松と結婚する、させてくれ、って父さんと母さんに頼んだ。それなら、養子にするのとあまり変わりがないだろうと」
 驚きが隠せない表情をしているおそ松を見てカラ松が苦笑する。
「ごめんな」と、カラ松が口にした。
「え?」
「お前が男と結婚することを快く思っていないのは知っている。これは俺のわがままだから、すまない。……こういう昔話をしたら、お前は愛人を作りにくくなるかと思って言わなかったんだが」
 カラ松がぎゅうっとティアラを握りしめた。血が滲む、どころか、その手は白くなっていた。
 ちかり、と、カラ松の瞳の中で一層力強く星が瞬いた気がした。
「カラま」
「おそ松! もう夜もだいぶ更けたぞ!」
 突然の大きな声にびくんっと体を震わせた。え、と驚いていると、カラ松が笑みを浮かべながら立ち上がる。
「さあ、明日も朝から仕事があるぞ。お前は寝坊することが多いから、いい加減チョロ松を安心させてやれ」
 右手を取られて立ち上がることを強要された。そのままぐいぐいと背中を押されてしまう。
「ちょ、カラ松」
「ちゃんと話したから、これは返してもらうぞ?」
 扉を開けられて、廊下へと体が放り出された。そのまま振り返ると、カラ松はいつも通りの凛々しい表情をして、部屋の中に居る。
「素敵な夢へ旅立てることを願ってるぜ、マイスイート」
 ばちんっとウィンクをされて、おそ松が「カラ松」と名前を呼んだ瞬間に、扉は閉じられた。
 ぽつん、とおそ松は部屋の前に立ち尽くすことになり、階段では見張りの衛兵がこっくりこっくりと舟を漕いでいる。
「…………ええぇ」
 おそ松の気の抜けた声は誰にも届くことなく、塔の中ではあのラピスラズリの絨毯に縫い付けられた星たちの輝きもここには届かなかった。

何の変わり映えもしない一日だ。それが七日間続いた。つまり一週間、おそ松は何でもない一日を過ごしていた。それはいつもであれば特筆するようなことでもなかったし、平和だな、の一言で済まされる。
 しかし今は。
「おそ松兄さん、どうしたのー?」
「ちょ、も、ギブギブ」
 ぜえぜえと息を切らしながら十四松に訴えた。もうすでに城の周りを二周している。いくら暇だからってこの弟のトレーニングに付き合うなんて言うんじゃなかった。どうせ、あいつも居なかったのに。
「んーとね、カラ松兄さんはこのあともう一周ここを走って筋トレするんだ。やる?」
「やらない、むり」
 政治ごとに関してはおそ松同様サボることが多いカラ松なのに、こうした肉体の鍛錬は自ら進んで行なっている。それは自分が好む服を着こなすためというのが理由の大部分らしいが、国を護る、俺……と口にしているのも耳にしたので、騎士でもある自分を誇りに思っていることも確かなようだった。
「お、終わったのか二人とも」
 噂をすればなんとやら、今現在おそ松を動揺させている男の声が背後から聞こえる。
「カラ松兄さん!」
 十四松の弾む声に、カラ松が顔を綻ばせる。元より一松やトド松ら弟のことを好いているカラ松は、十四松のこともかなり気に入っているようで毎日トレーニングに付き合ってるらしい。じゃあチョロ松はというと、弟より母さんみたいだと真顔で話していたのを思い出す。世話焼きなところや口うるさいところか、と言ったらその場に居たチョロ松にげんこつを落とされた。
「何だおそ松、もうギブアップか?」
 うるせえよと言いたかったがその声すらも息切れしそうで何も返さなかった。相変わらず、目を合わせられない。
「はは、運動不足なんじゃないかおそ松。これを機に俺と鍛錬を」
「ぜってーやだ」
 そう返したら、しゅんとした顔をされた。いつもならはいはい、で済んだのに、今はそれにもどきっと心臓が音を立ててしまう。
『初恋だったんだ』
 あの時の声が耳奥で木霊した。
 初恋だったんだって。おそ松と結婚するって父さんと母さんに言ったんだって。なあ、それは、初恋だったんだ、って過去形で終わるものじゃないんだろう。
 ぶわりと体の体温が上がった。
「もうすぐ剣の訓練が始まるが、十四松も来るか?」
「あともうちょとしたら行きマッスル!」
 待ってるぞーと言いながらカラ松が去っていく。その後姿を見て十四松はぶんぶんと頭の上で両手を振り、おそ松は居心地悪そうにそこに立ったまま、カラ松が走り去って行く先を見つめたのだった。
「兄さんたち、けんかしてる?」
 十四松からの突然の問いかけに、ぎくりと体をこわばらせた。二つ下の弟は別段いつもと違う顔を見せるでもなく、先ほど「おそ松兄さん、どうしたのー?」と尋ねた時と同じ笑顔をしている。
 正直に昨日のことを話そうとして、やめた。自分でもまだ消化しきれていないことを言葉にするのは難しい。
「けんかとはちょっとちげぇけど……あー、なんつかーか、気まずくはある、か」
 まあそう思ってんのも俺だけだろうだけど。
 ぼりぼりと後頭部をかきながら答えると、十四松は「ふーん」と首を傾けた。
「なんで?」
「えっ。あ、いや、それは色々……」
 十四松はじいっと黒目を大きくして兄を見つめた。別に非難されているわけでもないのに居心地が悪かった。
「おそ松兄さん、最近機嫌悪いね」
 との言葉に、おそ松は目を丸くさせる。そんなことねーよと言いたかったが、この弟の前ではそれも無意味な気がした。
 実際おそ松は機嫌を損ねていた。というより、拗ねていると言ったほうが正しいかもしれない。自分はこの間のカラ松の告白でこんなにも動揺しているのに、当の本人がけろっとしていて、普段と変わらない様子で接してくるのが、なんだか気に入らなかった。
 俺ばっか振り回されてるみてえじゃん。
気まずい、なんて言葉を使ったけど、結局はおそ松の幼心がふつふつと煮えたぎっているだけだった。俺ばっかり振り回されてずりぃ、あいつはいつもと全然変わらないのに。
 考えてみれば、おそ松にとってはついこの間知らされた事実であったから動揺するのは当然だった。そしてカラ松はもう二十年近くそれと向き合ってきているのだから、動じないのも当たり前のことだ、だって、それはカラ松にとっての日常なのである。
 それはわかる。わかるのに、理屈じゃなくて感情がへそを曲げていた。
「兄さんは、結婚がいやなの?」
 訓練の時間に遅れる、とばたばた横を通り過ぎていく騎士たちの足音に混じって、十四松の声が空気へと溶けた。
「え、そりゃ」
 いやに決まってんじゃん、と、続くはずの言の葉は、地面に落ちることなくそのままおそ松の体内へと飲み込まれた。
「……?」
 思わず胸に手を当てた。出てくるはずのいつものそれが、胸の中でせきとめられている。
 おそ松は、言えなかった。
「カラ松兄さんね」
 ふと、十四松がしゃがんだ。木陰に居たはずが、太陽の位置が変わってすっかり日差しが自分たちを差している。十四松が手にしたのは、どこにでも生えているような、赤い小さな花が咲く野草だった。
「赤い花が好きなんだって。どんな草むらでも、いっとう目をひくからって」
「ふぅん」
「それでね、じゃあ、おそ松兄さんの好きな花知ってる? って聞いたら、知らないって言ってた」
 そりゃまあ、教えてないからねとおそ松が返す。十四松の話は結論がなかなか見えてこないから、一つずつ丁寧にほどいていくのが正解だ。
「ねえ、おそ松兄さんは、他にカラ松兄さんの好きな物知ってる?」
 その問いにおそ松は、「あのオザキスタイルってやつじゃねーの」と返して、そしてもう一つ、知っているものがあることに気付いた。
 あの、小さな金色のティアラ。そして、あの姫の格好。
 あとは。
「……あんま知らねえや」
 意外だった。自分はこの一か月でアカツカ国に慣れたつもりだったけど、婚約する相手であるカラ松のことは、実は思っているより何も知らない。
「俺もね、あんまり知らないんだ。おかしいよね、これから家族になるのに」
 十四松が、はい、とおそ松に先ほどの野草を渡す。
「俺、もっとカラ松兄さんのこと知りたいな。もちろん、一松兄さんのことも、トド松のことも」
 チョロ松と十四松。一松とトド松がどのようにして兄弟の順序を決めたのかは知らなかった。一松はチョロ松兄さんと呼び、十四松は一松兄さんと呼び、トド松は十四松兄さんと呼ぶ。自分のあずかり知れぬところで既に兄弟の構図が出来上がっていることがなんだかおかしかった。
 そして自分が、なぜかその輪から一歩外れたところに居る気がして、寂しくなる。
「俺も」
 おそ松が言おうとしたら、十四松を呼ぶ声が中庭から轟いた。呼ばれた本人は慌てて向こうに視線をやり、「おそ松にーさん!」と笑った。
「俺ね、やっぱり、お話することって大事だと思う!」
 十四松はそう言い残して、訓練の場へと走り去ってしまった。
 残されたおそ松は十四松の言葉を反芻しながら、先ほど言い逃した言葉を続ける。
「俺も、知りたいよ」
 だってあいつ、意味わかんねえんだもん。意味わかんねえまま振り回されるのは本望じゃない。
 中庭から男たちの威勢のいい声が聞こえる。その中には確実にカラ松の声も混じっていて、この間「初恋だったんだ」と今にも空気に蕩けてしまうような声で胸の内を明かした姿との乖離に、頭の奥がくらりとするのを感じた。

 今日の夕食は久しぶりにカラ松と一緒だった。お互い食事の時は無言なのが習慣であったので、二人きりで食べる場では食器の音だけが部屋に響き、衛兵二人が扉の傍で立っている。食べ終わった後、カラ松は近くの衛兵たちと会話をしていた。盛り上がっている様子を横目におそ松は、カラ松の服の裾にギリアの花と鍵を一緒に忍ばせた。カラ松はそれにちらりとおそ松のほうへ視線をやったが、それを無視して椅子から立ち上がる。
「んじゃ、俺さき戻ってるね」
「あ、ああ」
「あ、今日の飯もうまかったよーって言っといて」
 最後は衛兵たちに向かって告げた。いつもはふらふらと城の中を物色してまわるのだが、今日はまっすぐ自室へと帰る。
 あの意味がわからないほどカラ松は馬鹿ではないと思うが、賭けをした気分になっていた。元より賭け事が好きなおそ松にとっては、それぐらいカラ松の思考回路がわからないことは楽しいことであったりするのだけれど。

 春の一番星が空のてっぺんに移動したちょうどの頃、コンコン、とノックの音がした。
「はーい」
 返事をすると、少しの間を置いてキイ、と扉が開かれる。ベッドでごろんと横になっていたおそ松は上半身を起こし、来訪者を出迎えた。
「鍵渡してんだから、勝手に入ってこればいいのに」
「それでも礼儀というものがあるだろう」
 部屋に入ったカラ松が後ろ手に扉を閉める。そしてきょろ、と辺りを見渡した。
 うんうん、昼と夜で、誰かの部屋って違うように見えるよなぁ。
「衛兵たちがそこの階段に居なかったが、お前何か知ってるか?」
「あー、なんか今日新しい酒が入るんだとか誰か話してたぜ?」
「……せめて見張り番をつけておくべきだろうに」
 呆れたような声を出すが、カラ松がそういうことに深く頓着する性格ではないということは理解しているつもりだ。
 そんなことを思いながらおそ松は自分のタンスへと向かった。カラ松は部屋に入って先程の会話を交わしたきり、何も話さないし扉のそばから動かなかった。
「ん? どしたの」
「……お」
「お?」
「俺は何か、お前を怒らせてしまっただろうか?」
 おそるおそるこちらを伺うような上目遣いで、滑らかな筋肉のついた体をしおしおとさせて尋ねてくるものだから、おそ松は思わず吹き出してしまった。
「ぶはっ! ち、ちげーよ、別にそれで呼びだしたんじゃねーから」
「そ、そうなのか?」
「ってか俺どう思われてんの。俺滅多なことじゃ怒んないよ」
「あ……お、お前が俺のことを部屋に呼ぶなんて、それぐらいのことしか思い浮かばなくて」
 その言葉に思わずタンスを探る手をぴたりと止めてしまった。
 ああ、そうか。俺もお前のことをあんまり知らないように、こいつも俺のことを全然知らない。部屋へ呼び出されたことで、怒られる、と思ってしまうぐらいには。普通の誘いだとは、こいつは思えなかったんだろう。
(まああれだけお前との結婚いやだって騒いでたらな、そうだよなぁ)
 ぼりぼりと後頭部をかき、人知れずため息をついた。そして再びタンスを探り目的の物を取りだす。
「ま、いーや。取りあえず……」
「ぶふっ」
 適当に取り出したものの内の一つを放り投げると、カラ松の顔面に当たってしまったようだ。間抜けな声を出したカラ松が顔に当たったそれを摘まむ。
「これは」
「サイズは多分大丈夫だと思うよ」
 そう言って、おそ松は上半身の部屋着を脱いだ。
「おわっ!? お、おそまぁつ! 何で脱ぐんだ!?」
「へ? だって脱がないと着替えらんないじゃん」
 脱いだ傍から取り出したものを着る。いつもの王子専用の服よりも軽く、布は安い繊維のものだったがそれ以上に動きやすいのが気に入った。
「これ……」
「騎士さまの普段の服はこれだって教えてもらったよ?」
「それはそうだが、でも何で」
「もういいから早く着ようぜ。時間無くなっちゃうよ」
 下半身を着替えようとしたおそ松を見て、自分も遅れてはいけないと思ったのか慌てて脱ぎ始める。少し薄汚れた服ではあったが、自分たちはなかなかこういうのも似合うんじゃないかと思わず得意げになるおそ松だった。
「着替えたな?」
「あ、ああ」
「よし! んじゃあ行くぞ」
 別の白布を二枚手にとり、もう片方の手でカラ松の手首を掴む。
「え、え?」
 静かに扉を開け周りに誰も居ないことを確認したあと廊下へ出た。そしてかちゃりと鍵をかける。
「お前だな」
「何が?」
「城に新しい酒を届けたの」
 じろりとカラ松が睨んでくる。それに笑いながらおそ松は言った。
「ちげーよ。ピーノから持ってきてそのまんまにしてあった酒をあいつらに渡してみただけ。だから俺は何にも知らない」
「……」
「ま、とりあえずいこーや」
 そのままカラ松の手首を引いて歩きはじめる。カラ松は慌てたように着いてきて、「おそ松」と声を潜めて名前を呼んだ。
「どこに行くんだ」
「とりあえず図書室」
「図書室?」
 とはいっても、別に本を読むわけじゃねーけど。
 主塔を出て吹き抜けの廊下を歩き、再び屋根のある塔の中へと入る。そこはすぐに図書室の扉へと続いておりその中へ入ると、紙特有の据えた匂いがした。
「こっち」
 図書室の一番奥にある本棚の裏、そこに隠し階段があった。迷うことなくそこを見つけたおそ松を驚いた目でカラ松が見る。
「お前、どうして知ってるんだ」
「こういう隠し通路の場所は大体決まってんだよ。ほら、行くぞ」
 暗く埃の匂いのする階段を下り、木で出来た小さな扉を開ける。するとそこは手入れの行き届いていない草たちが生い茂っているところで、足を踏みしめると草の勢いで負けてしまいそうになった。
外へ出たので掴んでいた手を離す。するとカラ松はぽけっと空を見上げて、「すごいな」と呟いた。
「何が?」
「いや、いつもは部屋の中や塔の上で星を見ることが多かったから。こうして地面から見上げるのも、素晴らしいな」
 先ほどのしかめっつらに似た表情ではなく、口元に薄く笑みを携えていた。そしてやっぱりこいつはあの夜空の色が似合うと柄にもなく思ったおそ松は、近くの石壁へと足をかける。
「よ、っと」
「へ? ってうわぁ! 何してるんだおそ松!」
 身長の二倍はある石壁をのぼるおそ松にカラ松が悲鳴を上げた。体力はないが身体能力に関しては自信のあるおそ松だったので、ひょいひょいっと石壁のてっぺんまでのぼっていってしまう。
「へへ、俺も結構やるだろ?」
 鼻の下を擦りながら得意げに言うと、カラ松はぐっと言葉に詰まったようだった。
 ここまで来れば、おそ松が何をしようとしているか、鈍いカラ松でもわかったはずだ。
「なぁカラ松」
「なんだ……?」
「俺、思ってたよりもお前のこと知らねーの」
 ひゅるっと吹いた春の夜風はまだ少し肌寒く、石壁をのぼったことで少し火照ったおそ松の肌を冷ましていく。
「この間ティアラがどーのこーのって聞いたけどさ、それ、結局昔のお前のことだろ?」
「それは」
「んで、お前が初恋だっつったのも昔の俺じゃん」
 カラ松が目を瞬かせる。きらきらと空で輝く星がまあるい宝石の中に映って、そしておそ松もそこに居た。
「今の俺のこと、知りたくない?」
 にっと悪戯めいた顔をするおそ松に、カラ松は微かに目元を赤く染めた。それに気づかないおそ松は向こう側に足を向け、こう言った。
「真夜中のランデブーってのも、しゃれてんだろ?」
 おそ松はそのまま外へと飛び降り、衝撃で少しだけ傾いた体を立て直した。
「いって、結構高さあったな」
 足をさすりながら壁を見上げる。
 さて、向こう側にいるあいつはどう出るだろうか。
 カラ松はああ見えて真面目な性格をしているので、おそ松のようにこちらに抜け出してくることはしないかもしれない。だけど、それを振り切ってこちらに来てくれたら、それは。
「う……」
 なんてことを考えていたら、壁のてっぺんに黒い頭が見えた。腕の力を使ってのぼってきたカラ松は、結構苦労したようだった。額には軽く汗が浮かんでいる。
「お、おそ松、お前凄いな」
 息を荒げているカラ松を見ておそ松は、なんだか今すぐ走り出したい心地になってしまった。
「だろー! ほら」
 そう言って、おそ松は右手を差し出した。
「お手をどうぞ、プリンセス」
 気障ったらしい台詞を舌に乗せて、おそ松は笑んだ。カラ松は差し出された手を見て、自らの足元を眺める。
 そして手を差し出したおそ松が、あ、これやべぇ恥ずかしい、と思った瞬間、どすんっと音がして隣にカラ松が落ちてきた。
「えっ!?」
「……っ! い、いたた」
「ええええ!? そこは手を取るとこじゃねーの!?」
 先程のおそ松とは違い、ものすごい音を立てて落ちてきた。筋肉が重いのだろうか。多分それだ。
 ロマンチックな雰囲気を作ろうとしていた自分が途方もなく恥ずかしく、おそ松はきゃんきゃんと騒ぎ立てる。
「なんで!? 俺すげえばかみたいじゃん!」
「あ、あのな、落ち着けおそ松、すまなかった」
「恥ずかしいじゃん! なんだよ! カラ松のばか!」
「いやあのな、届かなかったんだ。手が届かなかったんだ。ごめんなおそ松。だからあんまり騒がないでくれ、見つかってしまう」
 あわあわとカラ松がおそ松に謝る。見つかってしまう、との言葉にきゅっと口をつぐんだおそ松だったが、恥ずかしさで耳はまだ赤いままだった。
「お前変なとこで現実的だよな」
「そ、そうか?」
 そのまますたすたと歩きはじめると、カラ松も後ろを着いてくる。小屋が見えてくるとカラ松も察したのか、くんっとおそ松の服の裾を引っ張った。
「おそ松」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
 歯切れの悪いカラ松に首を傾げながら鍵を開け中へと入る。鍵はすでに調達済みだった。藁と土の匂いと、動物たちの息遣いの音。
 そこは馬小屋だった。
「ここから街まで結構距離あるだろ? 山下りなきゃだし」
「街……」
「お、こいついいな、こいつにしよ!」
 おそ松が選んだのは毛並が黒々として美しい馬だった。彼もおそ松のことを気に入ったのか、すりすりと手のひらに顔をくっつけている。
「……」
「ん? お前も選べよ。あ、ってかお前の馬がいるか」
 そう言ってもカラ松は居心地悪そうに俯くだけだった。なんだよと首を傾げていると、ぼそぼそと声が聞こえてくる。
「へ、なに」
「……れない」
「れない?」
「俺、馬乗れない」
 カラ松は恥ずかしそうにそう言って、口を閉ざしてしまった。おそ松は「へ?」と驚きを隠せないまま尋ねかける。
「騎士の訓練してるんじゃ」
「してるけど、でもだめなんだ。バランス感覚か何かがだめなのか、昔から全く乗れない」
 ずぅんと肩を落とすカラ松に、おそ松はあららと零してしまった。騎士の訓練をしていなくとも、王族だったら教養として乗馬を習うことが定石だろう。これまで何度も練習の機会はあったはずだが、それでも乗れないということは多分、本当に苦手なのだ。
「じゃあさ、俺の後ろ乗ってよ」
「え?」
「それなら乗れるだろ? 俺結構乗るの上手いからさ、心配ないぜ」
 馬と一緒に小屋を出ると、カラ松もおずおずと着いてきた。
 よっと飛び乗って、馬の頭を撫でる。横を見ると、どうしようとカラ松がおろおろしているのが見えた。
「怖くねぇって。カリスマレジェンドの俺がいるし」
 カリスマレジェンド? とカラ松が不思議そうにしていたがそれはいい。未だ迷っている様子のカラ松にどうしたもんかと思っていたが、あ、と頭の中でひらめくものがあった。
「カラ松」
 再び、手を差し出した。
 その手を見て、カラ松が目を丸くさせる。
「お手をどうぞ、プリンセス」
 今度は決まっただろうか。カラ松はきょとりとした顔をした後、ふはっと柔らかく表情を崩した。
「ありがとう」
 今度こそ、おそ松の左手にカラ松の右手が重なった。おぼつかない足取りでカラ松が馬に乗り、迷った末におそ松の体に腕をまわした。
「おそ松、あのな」
「うん?」
「プリンセスより、カラ松って呼んでくれた方が嬉しいぞ」
「えー! 何それ今更じゃん」
 クスクスと笑うカラ松におそ松はため息をついてしまった。そのまま手綱を握り、外へと駆け始める。スピードはみるみるうちに速くなり、緑の香りを含む風が二人の頬を撫でていく。
「あ、そういえばこの先」
「この先?」
「大きな川があるぞ……って、うわっ!」
 カラ松の言葉を待たずに、馬が空を飛んだ。地面が遠くなり、木々の葉が近くなる。カラ松はあまりのことに強くおそ松の体に抱き付いたので、「ぐえ」と蛙の潰れたような声が聞こえた。
「ちょ、加減して加減」
「あ、わ、わるい」
 ぱっと手を離して後ろを見る。カラ松が指した大きな川は、いつの間にか自分たちの後方にあった。
「な、言っただろ? 心配ないって」
 何よりも行動で馬を扱うのが上手いことを示したおそ松に、カラ松はこくりと頷くばかりだった。ヒヒン、と馬の方も得意げに鳴く。
 街に向かって山を下る、そんな二人を見ているのは、夜空の砂浜でちかちかと生きる星屑だけだった。

「っはー。真夜中なのに元気だねぇ」
 明かりが絶えず辺りを照らし、道端でいくつもの露店が賑わっている。街に着き外に馬を待たせ、二人が今居るのはアカツカでも一番の栄えているところだった。
「ここは昼よりも夜が賑わうみたいだな。俺は初めて見るが」
「え、そうなの?」
「夜にこうして街をぶらつくのは初めてだ」
 へえ、と意外だった。あの城なら何度でもこうして抜け出すことなど容易いだろうに。元々の真面目な性格が起因してかカラ松はこうして街に出かけること自体が珍しいらしく、今も自分の国の街であるのに物珍しそうに周りを見渡している。
 余談であるが、二人は今おそ松が部屋から持ち出した布を頭に巻いていた。騎士の普段着を着ているとはいえ、王族である自分たちが顔をあっぴろげにして真夜中の街を歩くのは流石に問題だろうとのことで、おそ松が用意したものだった。
「どこ行く? つって俺も全然どこに何があるか知らねーけど」
「そうだな、とりあえず何か飯を……あ」
 すると、カラ松の目に何かが留まったようだった。なんだ、とカラ松の視線のほうに目をやると、石畳の階段の近くで屈強な男が一人雄々しげに立っており、その手には。
「力自慢の男共、今こそここで自らの力量を試したくはないか、かっこ女性ももちろん大歓迎……?」
 そう書いてある旗を持っていた。
 まさか、と思い横を見ると、きらきらと目を輝かせたカラ松がそこに居た。
「あー……カラ松?」
 呼ぶと、勢いよくこちらを振り返る。表情は時に言葉よりも正直だ。
「やりたいの?」
「ああ!」
 もちろん! とすがすがしいほどの勢いで頷かれる。そうだよなぁそういうやつだよなぁと苦笑したおそ松は、足取り軽く男の方へ向かっていくカラ松の後を追った。
 場所を聞くと直接その男が案内してくれて、階段を降りて五歩ほど先の所の店で開催されていることを知った。肉料理を主にメインとしている店はやはり男の客が多く、熱気に気圧されるように二人は入口で立ち止まった。
「お、兄ちゃんたち挑戦者かい?」
「そうだ!」
 この場所が気に入ったのか、カラ松は嬉々として店の中へとずんずん進んでいく。おそ松はというと近くのテーブルに一人で腰掛け、あいつ大丈夫かと密かに身を案じるのだった。周りのいわゆる挑戦者と見受けられる者たちは、まず上半身の大きさからして違い過ぎた。二の腕の太さ、胸筋の厚さ、カラ松も十分筋肉ダルマだと思っていたが、ここにいる男共に比べたらかわいい方だった。
「それで、何をすればいいんだ?」
「簡単だ。順にこれを持ち上げていけばいい」
 用意されていたのはいくつもの酒樽である。聞けば、それらは石がつめこまれている重さの違う樽らしい。軽い方から順番に持ち上げていって、より多くの樽を持ち上げられたら優勝という、極めて単純なルールだった。
「片手か?」
「片手でも両手でも、持ち上げられれば次に進める。どうだ、やってみるか?」
「もちろん! フッ、重き呪縛にとらわれた樽たちよ、今この俺がその鎖から解き放ってやろう」
 おそ松は自分の肋骨がバキボキと音を立てるのを聞いた。威勢よく言い放ったカラ松は、さっそく一番軽いものを持ち上げる。
 そこから、カラ松の挑戦が始まった。
「……」
「……」
「……」
「……」
 店の中が沈黙する。
 沈黙させている当の本人は最後の持ち上げた樽を床に下ろした後、ふう、と片手で額を拭った。
「さあ、次はどの樽だ?」
「そ、それで終わりだ……」
 へ? とカラ松が驚きの声を上げる。カラ松が持ち上げた樽の数は全部で二十個あった。十五個目から両手で持ち始めたものの、最後の二十個目まで、カラ松はなんなく頭の上まで持ち上げた。
「え、じゃあ」
「今までの最高記録は十八だったから……お前さんの優勝だ」
 ぽかん、とカラ松が口を開ける。そしてちらりとこちらを見て、ぱあっと顔を輝かせた。
「おそま」
「あーっと!」
 名前を呼ばれそうになり思わず大声を出す。突然のことに店にいる者たちはびくりとし、こちらに注目が集まってしまった。
「あー、えと、なんか優勝したから景品ってあるの?」
 とりあえず場を誤魔化そうとおそ松が聞いた。カラ松は頭にはてなマークを浮かべていたが、景品、との言葉に顔を明るくさせる。
「優勝者にはまたとない経験をしてもらうぞ!」
「……?」
 男はそう言って裏へと出て行ってしまった。何かと思っていると、三人がかりで何かを抱えて帰ってきた。
「これはさっきの一番重い樽より三倍重い樽だ! 優勝者には特別にこれを持ち上げる体験をしてもらう!」
 がたたっと椅子から崩れ落ちたおそ松だった。
 どこまで筋肉バカなんだ! と呆れて物申したくなったが、カラ松は相変わらず顔を輝かせていた。
「これを持ち上げるんだな?」
 そう言って両手で樽を持ち上げようとするが、流石に先程のように簡単にはいかないようだった。
 しかし、
「ふんっ!」
 気合いを入れてカラ松の腕が上がる。おおっと店の中がどよめき、カラ松の樽を掴んだ両手が頭の上にまで上がっていた。
「えええええ!?」
「どうだっ!」
 カラ松を見て、周りから拍手が沸き起こる。それに満足したのか、カラ松はそおっと樽を床に下ろす。
 おそ松はこれから先、何があってもこいつをぶちギレさせてはならないと誓ったのだった。
「す、すげえなお前さん……」
「フッ、俺にかかればこの樽も子猫のようなもの」
 カラ松語についていけないのか、店の者はぽかんとしているのみだった。おそ松は笑いを噛み殺している。
「ま、まあ、せっかく来たんだ。思う存分飲んで食べていってくれ」
 カラ松のおかげで、二人は店に歓迎されたようだった。おそ松のテーブルの元に酒と肉料理が運ばれてくる。金はと聞いたら、おごりだと店員らしい男に耳打ちされた。
「久しぶりにあんな重いものを持ち上げたな」
「お、おかえり。これおごりだってさ」
「えっほんとか!?」
 テーブルにやってきたカラ松が目の前の料理を見て今にもよだれが垂れてきそうな顔をした。夕飯を食べたと言っても食べ盛りの年頃であるので、目の前に肉があればいくらでも腹に入る。
「お前、何の肉が一番好きなの?」
「俺は鶏だな。昔食べた鶏を揚げた料理が忘れられなくて」
「へえ。俺は豚かなあ」
 そんなことを話しながら食べていく。城にいると食事時は無言であるのが常だったので、こうした何気ない会話をするのが新鮮だった。ちらりとカラ松を見ると、酒が一向に減っていなかった。
「ん? お前飲まねーの?」
「あんまり酒は得意じゃなくてな。飲んでいいぞ」
「いいの? やりー!」
 カラ松はとにかく肉を食べるのに必死な様子だった。肉が好きなのは知っていたがこれほどか、とおかしくなってしまう。思わずじっと見ていると、ふとカラ松が動きを止める。
「な、なんだ?」
「んー、うまそーに食うなって」
「うまいからな」
 へにょ、と眉を下げながらそう言うカラ松は、腑抜けた顔にもほどがあった。
 幸せそうな顔しちゃってまぁ。そう笑っていると、ひそひそと隣の男たちの声が耳に入って来た。
「……ーーるか」
「……れは、--国が狙ってんだろ? ここ」
「半獣たちを目の敵にしてるからな、あそこは」
 不穏な会話に思わず耳をすませてしまう。それはカラ松も同じだったようで、食べる手は止めないまま目の色が変わった。
「そうなのか?」
「何だよ、お前知らねーの? 昔一松様があそこに攫われそうになってたじゃねーか」
 え、と思わず小さく口に出していた。カラ松、と名前を呼ぼうとした瞬間、目の前の男はガタッと立ち上がった。
「おそ松、そろそろ出よう」
 皿の上の残りの肉たちを全て頬張ったのか、カラ松の頬はぷくっと膨らんでいる。シリアスなのかなんなのかよくわからない雰囲気のまま、立ち上がって歩き出すカラ松にそのまま着いて行く。
 店の外は未だ明るく賑わっていて、明け方までこれが続くのだろうかといっそ感心を覚えるほどだ。先を歩いていったカラ松は、店から出てきたおそ松の方へくるりと振り向いた。
「歩かないか?」
 先ほどの男たちの話していたことを聞きたかったが、カラ松はまだ話す気はないようだった。おそ松は深く詮索することはせずカラ松の隣に並ぶ。
「城よりあったかいね。やっぱあそこ山の上だから?」
「そうだな。帰省した女中たちが帰って来ると、いつもここは寒いと話しているのをよく聞くから……確かに、これは夏場や冬場は応えるだろうなぁ」
 何か対策を、とカラ松がぶつぶつ呟いているのを横目におそ松は道に並ぶ露店たちを物色していた。食べ物に服、薬や装飾品、様々なものが雑多に並ぶ中で一際目をひいたのは、年配の女性が切り盛りしているらしい露店だった。
「おそ松?」
 ふらふらとそこへ歩き始めたおそ松に、カラ松も歩み寄っていく。おそ松の後ろからひょい、と覗き込んだカラ松は、思わずほう、とため息をついた。
「ばあちゃん、この靴すごいね」
 それはおそ松も同じだったらしい。カラ松の目をひいたものと同じものを指さして女性に話しかけていた。その靴は一件普通のハイヒールのように見えるが、ところどころにいくつもの貝殻と小さな宝石が埋め込まれてた。それは多分、見る人が見ればあまりにも装飾されすぎていて趣がないと一蹴してしまうかもしれないが、カラ松は。
「そうだろう? 兄さんどうかね、おひとつ……と言いたいところだけど」
 そこで女性は言葉を止めてしまった。おそ松は何だ? とその言葉を待ち、カラ松は未だその靴を見つめ続けている。
「その靴、左足のものしかないんだよ。右足は今までいくら探しても見つからなくてねぇ」
「そうなんだ」
 片方しかない靴だなんて、変わった話もあるものだ。ガラスのように透きとおった水色に浮かぶ貝殻や宝石たちは、赤や緑、紫、黄、桃と様々な色彩をしていた。そこで隣を見ると、カラ松がとても熱心にその靴に視線を注いでいる。先ほどの店にいた時のような輝きを持つ瞳に、自分はもしかしたら弱いのかもしれないとおそ松は思った。
「ねえ、その靴いくら?」
おそ松が聞くと、隣の顔がこちらを向く気配がした。それに構わず女性を見たままでいると、彼女はぱちくりと目を瞬かせた後ふいに笑った。
「そうだねえ。片方しかないし、これから先手に取る人も居ないだろうから、お兄さん、もらってくれるかい?」
「えっいいの?」
「これも何かの縁だ。持っていきなさい」
 思わぬ好意に気分が上がる。「さんきゅーばあちゃん!」とおそ松はそれを受け取った。手を振って露店から立ち去る。布で巻かれたその靴は、おそ松が手にしていた。
「お、おそ松」
「カラ松ぅ、俺さ」
「な、なんだ?」
「海見たい」
 おそ松の願いに、カラ松はこくりと頷いた。おそ松は初めてこの国を訪れた時からずっと、この目に飛び込んできたあの鮮やかな青の海が忘れられなかった。

「って言ってもまあ、夜だからな。黒いわ」
 ざあっと響く波の音が夜の闇に溶けていく。青が見たくて来たものの、空の色を映して水面を輝かせる海は、夜は当然の如く黒いのだ。
「夜の海なんて初めて来た」
「あ、そうなの? じゃあ俺と一緒じゃん」
 にかっと笑ったおそ松を見て、カラ松はふいっと顔を逸らしてしまった。何だよ? と怪訝に思ったおそ松は、カラ松の心の内を知ることはできない。
 打ち寄せる白い波が飛沫となって舞い上がる。それが星のように小さく瞬くので、夜でも海は空を映すのだ。そういえばこいつの部屋着は誰が選んだんだろうか。とてもセンスが良くカラ松に良く似合っていたので、彼のことを良く知る人物のはずだ。
「……少し、話がしたい」
 海を前にして立ち尽くしたまま、カラ松がぽつりと呟いた。波の音にかき消されそうなそれをきちんと受け取ったおそ松は口を開く。
「なに、色々教えてくれんの?」
「そうだが……お前のことも、俺は知りたい」
 いつの間にかカラ松はこちらを向いていて、先ほどまでの幼い表情ではなく、年相応の落ち着いた顔を見せていた。
「いいよ」
 二人は砂浜にこしかけた。頭を覆っていた布を、ここは誰も居ないからと外して尻に敷く。
「今日、驚いたんだ」
「驚いた?」
「あの図書室の抜け穴のこと」
「あー、この城来た日だったか? 探索してたら見つけたんだよ」
「あれな、お前が昔ここに遊びに来た時に教えてくれたところだったんだ」
 カラ松の話に今度はおそ松が驚いてみせる。見つけたのはもう二十年近く前。おそ松自身も覚えていないような、昔に。
「本人が覚えていなくても、感覚で知っているんだろうか」
「かもなぁ。動物的勘ってやつ?」
「ふふっ、十四松みたいだ」
「お、わかってんじゃん」
 なんともまあ、この男はよく覚えているものだ。その記憶がそのままカラ松の想いに直結するものだと考えると、少しくすぐったくなるのも事実だったけれど。
「さっきの、男たちが話してたこと」
「うん」
「あれ、本当なんだ」
「だろうなぁ」
 一松が攫われそうになったこと。アカツカ国の東に位置するあの国は、昔から半獣を目の敵にしていると有名だった。そんな国が隣国の半獣の王子を拉致しようとしたと聞いても別に不思議ではない。
「あの時、俺たちはまだ十かそこらだった。用事があって国の外へ馬車で出かけている時に、襲われた」
 昔も今も、ああして奇襲をかけられたことはその一度きりであったらしい。突如その国の兵士たちが馬車を襲い、あっという間に一松を抱え立ち去ってしまった。ケガを負わされることもない、一瞬の出来事だった。
「怖かった」
 あぐらをかいて背筋を伸ばしたカラ松は、海の向こうへと視線を飛ばしていた。怖かったと言うものの、カラ松の顔は落ちていない。
「家族が急に居なくなる恐怖を、俺はあの時初めて味わった。幸い、うちの兵士たちが一日足らずで一松を助けてくれたが……それでも、あいつの命が危ないと思うだけで、体中から力は抜けるし、血だってなくなるんじゃないかと」
 だから、とカラ松は続けた。膝の上に置いている両手を力強く握りしめ、それに負けないぐらいの確かな光をその瞳に宿してみせる。
「強くなりたいと思った」
「……」
「家族を、あの城を、この国を護れるぐらい、強く。王子だからって家族の危機をただ大人しく待っているだけなんて、俺はもう耐えられない。もし次同じようなことが起こったとしたら、この身一つで護れるぐらいに、強くなりたいと思った」
 カラ松がこちらに顔を向ける。申し訳なさそうに笑う隣の男は、やっぱり自分に似てると思ったし、チョロ松、十四松にもとてもよく似ていた。
「すまないな、おそ松」
「何で謝んの?」
「男と結婚ってだけならまだしも、よりにもよってこんなにゴツゴツの体をしたやつじゃなくてもなぁ。せめて白くてたおやかな少年だったらよかったのかもしれないが、俺はそうはなれないから」
 その言葉にカチン、と怒りが湧きそうになったが、一瞬にしてそれは引いていった。謝っているけれど、けして自分を責めるような顔はしていなかったから。
「すまないって言うけどさ、でもお前、全然後悔してないじゃん」
「あ、ばれたか」
「ばれるよ。お前、そんなことで自分が選んだこと悔やむようなやつじゃねぇだろ」
 ごろんと後ろに寝転がると、満天の星空さえもまぶしいほどだった。カラ松は呆けた顔をした後、ぽつぽつとまた話し始める。
「よく知ってるな」
「お前が結構図太いやつってことは知ってるよ」
「誉めてないな……?」
「誉めてるよ。ちょー誉めてる」
 カラ松もごろんと隣に寝転んだ。座っていた時よりも距離が近く、肩が触れ合うほどだ。「だから騎士にもなりたかったの?」と尋ねると、こくりと隣で頷く気配がした。
「強くなりたいならそれが一番手っ取り早いかと思ってな。だから、これからはおそ松たちの家族も護るぞ」
「ははっ。頼もしいねぇ」
 そうか。結婚したら、俺の家族もこいつの家族になるんだ。そう思ったらなんだか奇妙な心地になった。
 あの、継母も。
 久しぶりに思い出して舌打ちしそうになった。もうかれこれ一か月以上顔も合わせてないというのに。
「王子に騎士に姫様か。お前も忙しいな」
「不意打ちヤメテェ!」
「……おそ松の」
「んあ?」
「おそ松のことも、知りたい」
 不意に横を見ると、自分を映した瞳と目が合った。自分と顔を合わせたままなのもどこか気まずく、もう一度空を見上げると見ていた星座の位置が西へと動いていた。
「そんなに話すことないよ?」
「何でもいいんだ。好きな食べ物、嫌いな匂い、初めて覚えた歌とか、チョロ松や十四松のことも聞きたい」
「そんなことでいいの? んー……」
 ぽりぽりと頬をかいて考えるが、どれもこれも話のネタになるようなものは思いつかなかった。おそ松は会話を苦とする男ではないが、いざ話してくれと順番の札が渡されると少しだけ声色を変えるところも持ち合わせている。
「ーー俺んとこもね、似たようなことあったよ」
「似たようなこと?」
「攫われたとはちょっと違うけど、チョロ松がさ」
 そう言ったらカラ松は納得がいったような顔をした。チョロ松も一松と同じように珍しいという目で見られる性質である。今でこそ気にするそぶりは全く見せないが、昔は彼なりに苦労していたようだった。
「ピーノに来る他の国のやつらがさ、結構あいつに向かって言うのよ。まあチョロ松もあれで結構反抗心強いから、そのたびにキレたりしてたけど」
「そうなのか」
「父さんはあんま気が強い方じゃねーから、こっちからガンガン噛みついてかないとって思ってたな。だからあいつが来た時も……」
 おそ松は口をつぐんだ。カラ松は「あいつ?」と復唱して話の続きを待っている。催促してくれたら気も楽だろうに。
「新しいお妃サマ。五年前に嫁いで来てから好き勝手やってくれてるよ」
「今の王妃様か。なんだ、おそ松は今の母君が嫌いなのか?」
「気に入らねえ」
 両腕に頭をのせて吐き出した。それがあまりにも子供染みた響きを含んでいてやってしまったと恥ずかしくなったが、カラ松相手に気にするのももう遅いかと開き直る。
「どうしてだ?」
「全部だよ。性格も、政治のやり方も、俺らへのあたりも」
 思い出すだけで胸の辺りがむかむかしてきた。特にこれといった決定打があったわけではないけれど、日々の積み重なったもののほうが時に人を不快にさせることだってある。
「--嫁いできたときにさ、俺らに向かってなんて言ったと思う」
「……?」
「本当に血が繋がっているのかどうかも怪しいわね、だってさ」
 カラ松が息を呑む。おそ松は、あの時のチョロ松の顔が忘れられなかった。新しい母だから、と反抗する姿勢を見せなかったが、受けた言葉はそのまま侮蔑のナイフと化してチョロ松を刺した。
「笑えるよな、こんなに顔そっくりなのに。昔っからあの国の古い体制は嫌いだったけど、あの女が来てから更に輪をかけて酷くなったし」
「でも、ピーノ国の堅実な姿勢は、それはそれであの国の長所じゃないのか?」
「そう思ってくれてんなら嬉しいけどね。ま、それもどーだか」
 俺はあの国が嫌いだ、とおそ松は全身でそう言っていた。カラ松は浮かない顔をしておそ松から目を逸らす。それを見たおそ松は、あー、と気まずい声を出した。
「あー、別に、自分の国が嫌いだからお前との婚約承諾したわけじゃねーぞ?」
「……?」
「いや、確かに最初はそうだったけど、んん、なんていうかこう、その」
 カラ松はきょとんと不思議な表情をしている。何か言ってくれればいいのに、隣の男は無言のままだった。
「なんか言ってよ……」
「なにか……。すまん、お前の言ってることがよくわからない」
 その言葉にがくっと肩を落としてしまった。俺が婚約を了承した理由を気にしてるわけじゃないんかい! と突っ込みたくなったがこのポンコツにそれは無意味だと悟った。
「ま、いーや、気にしてないなら」
「? そうか?」
 最初は確かに、反抗するのもめんどくさいと、ピーノから離れられるのならと婚約を承諾したが、今それをカラ松に知られるのは嫌だった。なぜだろう。
「あ、そういやさ」
「どうした?」
「この前ティアラのこと話してた時、俺がまるで、みたいなこと言いかけてなかった?」
 おそ松の言葉に、カラ松はぴくりと肩を震わせた。あの時に含みを持った言い方をしたカラ松のことが気になっていた。まるで、の先に彼は何を見ていたのだろう。
「大したことじゃないんだが」
「うん」
「……--兄さんみたいだって、思ったんだ」
 波の音が一際大きく夜空を切る。カラ松の声だけが、波を超えておそ松をとぷりと沈み込ませる。水しぶきが少しだけ足にかかり、ここまで波が満ちていたのかと膝を曲げる。カラ松はゆっくりと上半身を起こした。黒髪からぱらぱらと、まるで星屑のように砂が落ちていった。
「俺の知らないことをたくさん知ってる、兄さんみたいだ。そう思ってから、ずっとーー」
 気がついたら、手を伸ばしていた。自分がいつ上半身を起こしたのかもわからない。右手はいつの間にかカラ松の細いとは言えない首にまわっていて、軽く引き寄せるようにする。鼻の頭を黒い絹のような髪がくすぐった。思ったよりも猫っ気だ。少しだけ、潮の香りがする。おそ松の右肩に寄り掛かる形になったカラ松は息を呑んだ。
「ずっと……?」
 目を閉じると、ここに来て初めて見たあの海の色が広がった。こいつの着る海色のドレスが恋しい。おそ松の吐息に震えるようにしてカラ松が薄く唇を開く。
「……--それは、ずるくないか?」
 肩に手がかけられて、軽く突っぱねられた。綿を押すような力だったが、おそ松は抵抗することなく後ろに退いた。俯いているから表情は見えないが、カラ松の両耳が朱色に染まっている。それを見たおそ松は、ほぼ無意識で再び手を伸ばした。
「……っ」
 ぴくんっと身じろぎをしたカラ松にデジャブを覚える。そしてそこで、おそ松は。
(ああ、だから、あん時も)
 いつか中庭で泥を拭ってやった時。あの時も頬にふれるとこの手から逃げるように体を震わせた。初恋だったんだ、とカラ松の声がリフレインする。兄さんみたいだって思った時から、ずっと……--ねえ、お前、そんなに俺のこと。
「くつ」
「え?」
「さっき貰った靴、お前にあげる」
 カラ松が顔を上げた。耳どころかもう全身真っ赤に染まっていて、思わずこちらまでそれが伝染しそうになる。
「い、いいのか?」
「まだ左足しかないけど……右足見つけたらさ、また、お前にやる」
 傍らに置いていた靴をカラ松に渡す。靴をくるむようにしてある布をカラ松がおそるおそるほどいていった。星明かりのもとで見るそれは、さっきよりもいっとう燦爛に輝いている。とてもカラ松の足が入る大きさのものではなかったけど。
「似合うよ」
 おそ松の言葉に、カラ松の瞳はうっすらと膜を張り、そして花がほころぶように笑った。
 男で、筋肉がムキムキで、ばかでポンコツで、イタイ奴なのに。おそ松の言葉一つでこんなにも色んな顔を見せるカラ松の、もっとたくさんの表情が見てみたい。
 自分の中で何かが音を立てて始まっていく。それはこの、夜の海の波音に似ていた。

「そおっとな、そおっと……」
 城壁をのぼり、行きよりも軽やかに地面に足をつく。月はすっかり西へ傾き、もうすぐ太陽が東から顔を覗かせようとしていた。
「見つかったらどうなんのかな?」
「特に何もないだろうが、大臣に二時間ぐらいは説教されるかもな」
「げっまじかよ」
 ひそひそ声で話しながら馬小屋へと戻る。そして、扉を開けた瞬間。
「どうも。お楽しみだったようで」
「うわっ!」
 高めの特徴的なその声に、二人して飛び上がってしまった。その声の主は眠たそうにあくびをして、二人を出迎えた。
「ちょ、チョロ松」
「僕だけじゃないけどね」
「え?」
 するとチョロ松の後ろから、のそのそと人影が三つ出てきた。
「うおっ! お前らもいたのかよ!?」
「心配だったの! 衛兵たちが二人を図書室あたりで見たって言うし」
「もしかしたらって思ってたけど……ビンゴだったね」
「すごいっすね兄さんたち! あそこ脱出ゲームみたいだった!」
 トド松、一松、十四松が小鳥のさえずりのように二人に話しかける。思わぬ出来事に二人してぽかんと口を開けたままで、チョロ松がそれを見かねて大きくため息をついた。
「抜け出すことはもうぐちぐち言わないけどさ。せめて一言僕らに言ってくれない? 心配するよ」
 おそ松はぱくりと開いていた口を閉じる。そして、きょろ、と四人を、そしてカラ松を見回した。
「心配すんの?」
「え? うん」
「なんで?」
「なんでって。曲がりなりにも、あんたら僕たちの兄でしょ」
 チョロ松に、あとの三人もこくりと頷いていた。
 おそ松は、チョロ松たちがすでに兄弟の構図を築いていることに疎外感を覚えた昼間のことを思い出した。疎外感、それはむしろ当たり前だった。おそ松はこの四人の、いや、「兄さんみたいだ」と零したカラ松も居た。俺は、この五人の。
「……へへっ。そうだな。俺、お前らの兄ちゃんだもんな!」
 鼻の下を擦り急に得意げにそう言ったおそ松に、五人はきょとんとした顔をする。おそ松は馬を元の位置に戻してやった後、そのまま機嫌よく馬小屋を出て行く。
「あっちょ、まだ話終わってないから!」
 その後をチョロ松と十四松が追っていく。続いて一松とトド松がゆっくり着いて行った。おそ松は隣にカラ松が居ないことに気付いて後ろを振り返る。
「カラ松!」
 名前を呼ぶと、立ち止まったままのカラ松が「ああ」と笑った。もうすぐ朝日が昇る。その下でこいつの顔を見てみたいからと、おそ松はカラ松を急かした。
 カラ松は両の手で靴を抱きしめながら、そして、「兄さん」と、誰の耳にも届かない小さな小さな声で呟いた。

to be continued…