干からびた、水槽にいる (未完)

 ざあ、ざあ、と波の音が冬の晴天の下を流れていく。勢いを失っている波は白い飛沫をあげることなく港に浮かんでいる小船にぶつかっていた。
 そんないつもと変わらない海岸沿いを歩きながら、ふと、ここからだと人差し指ほどの長さに見える人影を目にする。淡いブラウンのトレンチコートの裾が風に揺れて波の飛沫に濡れていた。近づくたびにわかる濡羽色の髪としっかりとした体つきに、男かと目星をつける。顔が見えるぐらいに近づくと、彼もまたこちらに視線を寄越し、そして、ぺこりと軽く会釈してみせた。
「こんにちは」
 挨拶をすれば、同じ言葉が返ってくる。島に新しく来た人間は挨拶もろくにしやしないと老人たちがよく嘆いているのを耳にするが、この男性は見たところ物腰も柔らかで、顔つきも愛嬌のあるとっつきやすいものだった。その中できりりと吊り上がる眉が、彼の本質を表しているのかもしれない。
「旅行ですか?」
 尋ねると、少しだけ眉を顰めて考える素振りをした。トレンチコートは年季の入ったものに見えて少しだけ色褪せているようだったが、柔らかくしなった布が体を包んでいる様子が彼に似合っていると思った。
「はい」
 時間を置いて与えられた答えに釣竿を持ち直した。観光目的で訪れる人は、最近はめっきり減ってしまった。だから旅行だと頷いてみせた男が珍しく、つい饒舌になる。
「あそこの坂を上がった所に食事処があるんですけど、そこ、僕の親が経営してるとこなんで、よかったらぜひ」
 つい口を出た宣伝文句にありがとうと返される。微笑むと眉が角度をゆるめ、いっそう柔らかな雰囲気を纏う男だった。
 彼の顔が逸らされる。先ほど見ていた海の向こう、視線をそちらにやり男は静かに問いかけてきた。
「あそこは崖ですか?」
 削られた岩肌が波に打たれて轟音をあげている。その音はここでは聞こえないが、遠目からでもわかる飛沫の激しさに耳元で波音が反射しているようだった。それを見て密かに目を細める。あれに興味を持つ島の外の人間は多い。
「そうですね……あそこにはあまり近づかないほうがいい」
 そう言うと、男は不思議そうな顔をした。特に表情で語るわけではなかったが、目の色で感情を訴える、そんな男なのだろう。
「危ないですもんね」
「それもありますけどーーあそこ、巷じゃ心中スポット、なんて言われてるんですよ」
 その言葉に男が目を丸くする。ついさっき旅行に来たと話した人間に何を言うのかと自分で思わないわけでもなかったが、何も知らずに近寄られるよりましだった。
「ネットかな? なんか、そういうところで噂というか口コミが広がってるっぽくて。だからあまり近寄るなって島全体で注意してまわってるんです」
「それは……大変ですね」
「ほんとですよ! 勝手に噂流されたりして、こっちとしてはとんだ迷惑だ」
 憤った様子を見せると彼は苦笑した。初対面でこんな話をして迷惑だっただろうかと様子を伺うと、別段機嫌を悪くしたわけでもなさそうだった。
 目を伏せて、彼はアスファルトの地面を見つめた。海に囲まれているが、砂浜があるのはこの島の反対側だ。そしてその反対側に行くには山を一つ越えなければならないので結構苦労したりする。この季節に海水浴に来たわけでもあるまいと、荷物一つ持たない男に尋ねた。
「宿は決まってるんですか?」
「あ……まだです、一件、船場の近くに見つけはしたんですけど」
「そっか。三件ぐらい他の民宿もありますし、部屋がなくなることもないと思うのでゆっくり探してくださいね」
 もう一度、ありがとうとお礼を言われた。自分より少し年齢は上だろうか。若く見えたが笑うと目尻に少しだけ皺が寄る。
「それじゃあ」
 ぺこりと頭を下げて男の傍を通り過ぎる。この後は嫁の実家の手伝いを言い渡されていた。
「あの!」
 その時、男の声に呼び止められた。振り返ると、風にコートの裾をはためかせながら彼はこちらを見ていた。
「いい天気、ですね」
 言われた言葉をとっさに咀嚼できなくて、口をうっすらと開けてしまった。呼び止めて話したかったことがそれかと思わずおかしくなった。
「ええ。この時期は曇り空の方が多いから、こんな晴天は珍しいんですよ。あなた、もしかしたら晴れ男かもしれない」
 先程よりも遠のいた距離に男の表情を察することはできなかったが、微かに笑った気がした。
「そうだったら、嬉しいです」
 今度こそ踵を返してその場を去る。今日は一匹も釣れなかったが、代わりに人の縁が巡って来たのでよしとしよう。ちらりと後ろを見ると、男は先ほどの場所で相変わらず佇んでいた。何をしているかなんて、深く考えなくてもわかる。
 その男はひたすらに、波の産声をあげる海を見ていた。

 

 ◆

二月に燕、乾き咽

 真っ白な雪を溶かしてあたたかな色の土を生み出してしまうような、そんな冬の太陽のような人だった
 彼は僕の叔父で、生まれた時からずっとそばにいる人だ。母さんは旅行会社で働いていて家にいることの方が少なく、父さんは作家で家にいることが多いけど家事については全くの無能と言ってもいいような男だった。そんな両親を持つ僕の世話をしてくれたのは、件の叔父である。僕は彼を叔父さんと呼んだことはなく、名前をそのまま「カラ松」と呼んでいたので、ここでも「カラ松」と呼ばせてもらおう。
 カラ松は決まった仕事に就いていなかった。僕ら家族は父さんの実家に住んでいて、カラ松はその実家から歩いて十五分ほどかかるところにあるアパートに一室を借りて住んでいた。それでも一週間に五日は実家に通い詰めている彼だった。朝ごはんを作ってくれて、学校に行く僕を見送る。洗濯をして軽く家の中を掃除して、僕が帰って来る頃にはおやつまで用意されていた。夕飯は僕とカラ松の二人でとることが多くて、書いているものの調子がいい時は父さんも一緒に三人で夕飯を食べた。母さんの休みは不規則だったけど、流石に日曜日にカラ松が訪れることは少なく、それでもそれ以外の曜日は家の中にカラ松がいることが当たり前だった。カラ松の一番の得意料理は焼きそばで、次点がチャーハン、からあげだ。基本的にカラ松はボリュームの多い料理を作ってくれるので、それも僕には好都合だった。
 僕が小学三年生の時、一度だけ迷子になったことがある。あの日は確かカラ松と二人で電車で約三十分ほどの距離にある街で開催していた夏祭りに遊びに行っていた。僕が強請った食べ物を買いに行ったカラ松はその場で待っているようにと僕に言いつけたのだけど、初めて見る人ごみや遠くで鳴る花火の音が気になってしょうがなくて、結局その場からふらりと離れてしまった。気づいた時には全く知らない場所にいて泣きそうになった。一時間ぐらい後に必死に走ってくる音が聞こえて、振り向いたらカラ松が右足を引きずりながら必死の形相で僕に抱き付いてきたのだ。
「お前、動くなって言っただろう!」
 僕に対して叱ったことなど無いカラ松の初めての怒鳴り声だった。それに泣きそうになったけど、僕を見下ろすカラ松の顔の方がよっぽどくしゃりと歪んでいて。
「よかった……っ」
 そう言って、抱きしめられた時に仄かに香ったあの人の汗の匂いを、今も覚えている。
 僕にとって父のような、母のような人だった。僕の両親は紛れもなく父さんと母さんなのだけど、それとはまた別の位置で「カラ松」という家族がいた。母さんより優しくて、父さんよりちょっと厳しい。学校から帰ってきたときに、カラ松の靴が玄関にあると鞄を放って居間に駆け込んだものだ。
 カラ松は、不思議な人だ。先述した通り決まった職には就いておらず、ほぼ毎日と言っていいほど僕の家に、彼からすれば実家に通い詰めている。もうそれならこの家に住めばいいのにと言ったら、ぽかんと口をあけた後、今までに見たことがない顔で笑われた。
「そうだな」
 そう返事をしたカラ松だったけど、結局この家に住むことはなかった。
 実は僕はカラ松のアパートに足を踏み入れたことはない。カラ松が実家にいる時間の方が長いからアパートを訪れてみようなんていう考えが浮かばなかったこともあるけど、一度だけ「行ってみたい」と強請ったら、「また今度な」と遠回しに拒否されてしまったのだ。
 僕の大好きな、不思議でたまらない人であるカラ松は、母がいる時に実家に長く居座ることはなかった。家を訪れて母の姿を目にすると、凛々しい眉を下げて黒曜石のような黒目を伏せながら「今日は帰るな」と言って簡単な土産を置いて自分のアパートに帰ってしまう。そんな時、必ずカラ松を玄関先で見送るのは、父さんだった。二人が何を話しているのかは直接聞いたことがない。ただ、カラ松の「兄さん」と呼ぶ声だけは、いつもはっきりと耳に残るのだ。
 僕の父である松野おそ松は、カラ松のただ一人の兄だ。といっても二人兄弟というわけではなく、同じ顔があと四つはある。父さんたちは世にも珍しい六つ子で、おそ松が長男、カラ松が次男だった。僕は六人全員に会ったことがあるけど、ものの見事にそっくりでそう簡単に見分けることなんてできなかった。同じ服を着て「だ~れだ?」と小さい頃に何度もからかわれたし、そのたびに父さんもカラ松も見分けることができなかったのが酷く悔しくていつも泣いてしまっていたのを覚えている。一人っ子の僕にはほかに五人も兄弟がいるなんて想像のつかないことだったし、それ以上に自分と全く同じ顔が五つあるなんて、嫌になったりしないんだろうかと思っていた。
 でも、
「お前は父さんにそっくりだなぁ」
 と、カラ松に飽きるほど言われたので僕も大人になったらあの六人みたいな顔になるんだろう。
 どうしてカラ松は、僕たち家族にこんなにも良くしてくれるんだろうと考えていた。父さんたち兄弟は二十四、五になるまで無職、ニートだったと聞いている。それはどうなんだと子どもの立場から思わないでもなかったが、その実態については見ることはなかったのであまりそのことに言及したことはない。チョロ松叔父さんは派遣の会社、一松叔父さんは猫カフェ経営、十四松叔父さんは妻の実家で農業、トド松叔父さんは母さんと同じ旅行関係の仕事をしている。そして、父さんは所謂作家である。それも、児童文学を主に書いている、らしい。らしいというのは、僕は父さんが書いたものを一度も読んだことがないからだ。読みたいと思わないでもなかったけど、素直にそう言うのも恥ずかしく、父さんも僕に積極的に作品を見せようとはしなかった。父さんの作品が世に出る前に、それを読むのは絶対にカラ松だった。
 そう、カラ松だ。カラ松は仕事をしていない。やってアルバイトかパートだし、特に就職活動をしているような、そんな面も見られなかった。どうやって生活しているんだろう。段々と歳を重ねて、考えたことはそれだった。
「カラ松」
 父さんがそれを渡す時の声は、普段よりも少しだけ甘い気がする。
 僕がそれを初めて目撃したのは中学に入った頃だ。やっぱり母さんはまだ帰っていなくて、居間ではパジャマ姿の父さんとカラ松が卓袱台に向き合うようにして座っていた。昼間とは違って濃い煙草の匂いが漂っている。物の位置やら何かが特に変わっているわけでもないのに、その夜中の居間はいつもと全く違う景色に見えた。子どもが入る空間ではない、大人が見せる、大人だけの世界だった。
「カラ松」
 父さんがそう言って渡したのは、オーソドックスな茶封筒だ。丁寧に封をしてあるわけでもなかったので比較的視力が良かった僕は少しだけ開いていた襖の隙間からその中身を目にすることができた。
 それは、何枚もの紙幣だった。
 今ならわかる。あれは、父さんが毎月に稼いでいるだけの金額だ。あの頃はそれだけのことを察することはできなかったけど、金をカラ松に渡してその使い道がどうなるかなんてことは、まだまだ幼い僕の頭でもわかった。
 僕らの生活費は、カラ松が握っていた。生活費と言っても、母さんが稼いだ分の金はカラ松にはまわってこない。カラ松が手にしているのは、父さんが稼いだ金額のみだ。その金で僕らのごはんを作ったり、生活用品を買ってきたり、そしてそのうちのいくらかが彼の生活費にもなっているのだろう。
 不思議な関係だった。僕の父とカラ松は、あの兄と弟は不思議な関係を築いていた。どうして、父さんはカラ松にあれだけの金を預けているのだろう。信頼していると言えば聞こえはいいが、それでもやっぱりどこか気味が悪いと思ってしまうのはもうしょうがないことだろう。母さんはそれを容認しているのだろうか。そのことを知っているのか、知らないのか、そのことすらわからなかった。
 一番印象的なカラ松の表情。それは、父さんと母さんの背中を見つめているときのもの。平日の夜はカラ松もこの家に泊まることが多い。二階では僕とカラ松が。一階の寝室では父さんと母さんが寝ていた。僕がまだ小学校に入ったばかりの頃、夜中にトイレに行くのが怖くてカラ松に着いてきてもらうことがよくあった。夜の廊下は闇が足をつきながら這っているようで、昔見た絵本の化け物の姿が未だ忘れられなかった。一階へと階段をおりていった先で、玄関が勢い良く開いた。開けた人物は仕事を終えた母さんで、どこかで飲んできたのかべろんべろんに酔った状態で「たらいま」と僕らに告げた。僕は初めて見る母さんにどうすればいいのかわからずおろおろしていて、カラ松が介抱しようと駆け寄ろうとする。すると、寝室の扉が開いた。
「なに、どしたの?」
 父さんは目をこすりながら僕らに尋ね、玄関先を見てああ、と小さくため息を吐いた。
「おそ、……兄貴」
「あー、いいよ、俺やっとくから」
 そう言って父さんは母さんの体を支えながら寝室に戻っていく。よかった、とひとまず安堵した僕は、何気なくふと隣のカラ松を見上げた。
 人は、あんな笑顔を見せることができるんだと、僕は初めて知った。
 口元を仄かに綻ばせて、いつもは上がっている眉尻を下げて、まるで花開く蕾を唇にのせているかのような、そんな笑い方だった。なのに、その目だけが酷く色が違うような気がして。移ろいゆく波を目尻に満たして、零さないようにと必死に壁を打ち立てているような。矛盾を帯びたそんな表情を見ても、あの時の僕は「カラ松?」と名を呼ぶことしかできなかったけれど。
 カラ松のそんな顔を、今まで見てきた回数はそれほど多いわけじゃない。ただ、父さんと母さんが一緒にいるときにカラ松が傍にいると、無意識に彼の方を伺う癖がついていた。心配だったとか、どうしてと理由が気になったからだとか、そういうことではなくただ、あの顔を見たかっただけなのだ。カラ松は僕のその様子に気づいていたのか気づいていなかったのか、僕が顔を伺うたびにぐしゃりと頭を撫でてきた。
「フッ、そんなに見つめたら火傷するぞ?」
 バーンと銃の形を作った指で撃たれて、父さんの真似をしてイタイイタイと笑い転げた。そんな僕たちを見て、父さんはゲラゲラと笑うのだ。
「お前、俺に似てきたねぇ」
 そう、言いながら。
 中学二年生になったころ、一冊の小説に出会った。父が文字を書く仕事をしているのに息子の僕が全く本を読まないと知った五十代の担任が薦めてきたものだった。父さんは僕に本を読めと強要してきたことなどなかったし、どちらかというとパチンコや競馬に勤しんでいる姿の方がなじみ深かったから、勧められても僕としては違和感が拭えなかった。
 それでも、結局僕はその小説に魅了されてしまった。ただの文字の羅列にこんなに心を奪われるだなんて知らなかった。青々と茂った林の中を掻き分けていくような、陽の光が溶ける海の中を漂っているような、青空を反射する水たまりを上からのぞいてみるような、そんな体験をするのが小説を読むということなのだと、十四歳にして僕は初めて知った。そして、父さんが、僕の父親がそうした小説を書く作家なのだと思うと、初めて誇らしい気持ちが胸の内に溢れてきた。どこか飄々としているつかめない部分があって、幼いながらも男として少々の畏怖を覚えるような人であったから、小説を読むという体験をしたことで、父さんに近づけた気がした。
「ねえ、父さんの書いた本、読んでみたい」
 担任から勧められた小説を読み終えたその夜に、僕は夕飯の席で父さんにそう言った。父さんはやきそばを口に運ぶ手を止めて、いつもよりも瞳を丸くさせる。父さんの隣で食べていたカラ松は、一瞬きょとりとしたあと、ぱあっとみるみるその表情を明るくさせる。
「そうか! お前もついにかー。最初は何を読みたい? やっぱりデビュー作か? なあ兄貴」
「ちょ、お前な」
 父さんの歯切れが悪い。そんな様子が珍しくて首を傾げていると、カラ松が僕と父さんを交互に見てふはっとふきだした。
「お前の父さんは照れ屋だからなぁ」
 僕がぽろりと箸を落としそうになったのと、父さんがカラ松の頭を片手で乱暴に撫で繰りまわしたのはほぼ同時だった。
「いた、兄さん痛いぞ!」
「うるせぇ」
 カラ松が慌てて手を振り払おうとするが、父さんは意地でも離そうとしなかった。父さんと、バチリと目が合う。
「……俺の部屋にいくらでもあるから、持ってけ」
 いつもよりぶっきらぼうで乱暴な言い草に、僕は箸を持ち直しながらうずうずと笑う。
「うん!」
 ついに父さんの手から抜け出したカラ松は、珍しいぐらいの満面の笑みをしていた。僕が父さんの本を読むと言ったことがそんなに嬉しかったのか、その日の食卓はカラ松がひたすらに喋っていた。父さんは居心地が悪そうにしていたけど、でも、耳が真っ赤だったし左手の指の動きが忙しなかった。それは父さんが照れている証なのだと、いつかカラ松に教えてもらったから。にへらっと笑いながらやきそばを頬張る。濃い目のソースの味が僕は大好きだ。
 父さんの小説で初めて読んだものは、デビュー作だった。父さんは確かに児童文学を書いている人だったけど、世に作品を出したときは特に子供向けに話を書いていたわけではなかった。そして僕は、父さんのデビュー作である小説にこれでもかというほどのめり込んだ。
 兄の妻に恋をした、男の話だった。
 ガツン、と頭を金槌で殴られたような心地がした。哀れで、悲しくて、可哀想な男の話だった。幼馴染に兄弟そろって恋をして、弟はその想いをずっと秘めていた。兄とその幼馴染の結婚式のシーンは何度読んでもこみ上げる涙を抑えることができない。まともに人に恋をしたことなど無かったはずなのに、兄の隣で満開の花が咲き誇るように笑ってみせる彼女を見て、泣きそうになりながら自分も最高の笑顔をしてみせる、男の顔が思い浮かぶようだった。
 似てる。そう思った。
 脳裏に浮かんだのはあるひとりの男の姿で、それは言うまでもなくカラ松の形をしていた。これは、カラ松だと思った。これは、僕の叔父の話なのだと思った。父さんが紡いでいたのは己の弟の物語だったのだと、僕はブラックブルーのハードカバーを指で撫でながら、「カラ松」とひとりでに呟いた。
「燕って言うんだって」
 席がすぐ前の女子が友だちとそう話しているのを耳にした。燕? と気になって聞き耳をたてた理由は、父さんの書いた小説にそんな描写があったからだった。長い黒髪を指先でくるくるとしながら、得意げにその女子は友だちに向かってまるで演説をするかのように話を続ける。
「年上の女の人に養われてる男の人のこと、燕って言ったりするの」
「え、何? ヒモってこと?」
「そうなのかな? この前お姉ちゃんが話してたから」
 あの小説の中で、兄の妻に恋をした主人公を若い燕だと評していた一文があった。その意味がよくわからなかったが僕はこの時初めてそれを理解した。そして、燕、との言葉で思い出したのはやっぱり例にもれずカラ松のことだった。
 だけど。じくりと胸の内で柘榴が握りつぶされたような音がする。
 その日はたまたま部活が早く終わって、家に帰るとちょうどカラ松が夕飯の支度をしているところだった。
「おう、おかえり。フッ、サンセットが遠き地平線の向こうへとかき消える前に帰宅だなんて珍しいな」
「よく噛まないね。うん、部活早く終わったんだ。ただいま」
 今日の夕飯を聞きながら鞄を居間へと置きに行く。父さんはまだ寝室にいるらしく(父さんと母さんの寝室は、昼はそのまま父さんの仕事部屋となっていた)居間にはその姿は見られない。
「兄貴を呼んできてくれないか?」
 カラ松に頼まれたので寝室の前に立ち父さんを呼ぶ。なんとなく、両親の寝室に入るのは気まずかった。幼い頃は何も気にせずそこで遊んでいたのに、いつからだろう、その部屋の中を見ることさえままならなくなってしまった。
 父さんの「わかったぁ」との返事を聞いたので居間へと戻る。カラ松はすでに卓袱台に料理を並べていた。
「今日はどうしたんだ?」
「え?」
「少し元気がないように見えたが、俺の勘違いだろうか?」
 カラ松の左側に置く皿たちは僕が準備する。僕たち家族三人の食器はお揃いのものだったけど、カラ松のものはデザインが違う。いっそ四人とも揃えてしまえばいいのに、以前はそう言えたけど、今はどうにもそれを口にする気にはなれなかった。
「カラ松は」
「ん?」
 どうして僕たち家族に、こんなにも尽くしてくれるの?
 その問いはついぞこの口から出てくることはなかった。
 この家に住んでしまえばいいのに。今まで何度も零してきた願いにも似た提案は、カラ松にとってはきっと勘弁してくれと泣きたくなるようなものだったのだろう。想い人と兄が仲睦まじく夫婦の道を歩んでいるのを、他でもないこの家で見つめるなど。そんなの、耐えられるわけがない。
 そして僕はこの時から父さんに対してある種の不信感のようなものを抱くようになった。父さんは、カラ松の気持ちに気づいているんじゃないのか。あの本は、弟のことを書いたものだったんだろう? 自分の妻に恋をしている弟を近くに侍らせるようにして、あの人は、いったい何がしたいんだ。
 あの幼い頃の夜に盗み見た、封筒が手渡される光景。あの時に覚えたじっとりとした気味悪さも相まって、僕は少しずつ父さんを避けるようになった。

 あれは、夏だった。
 午前中で部活が終わり、昼飯を求めてぎゅうぎゅうと鳴るお腹の虫を携えて僕は帰宅した。持っていた鍵で玄関の扉を開けようとするが、手をかけるとそれはがらりと開いた。ああ、カラ松が来ているのだな、と何となしに思って靴を脱ぎあがる。台所にも居間にもその姿は無かった。じゃあ二階かと階段をのぼると、少しだけ衣擦れの音がしてその存在を知る。夜は寝室に使っている自室に入ると、ソファーで誰かが横になっているのを見つけた。
「カラ松?」
 尋ねるまでもなく、その人だった。起こさないようにそおっと近づいていくと、すうすうと小さな寝息が聞こえてくる。
 カラ松の寝顔をこんなに近くで見るのは初めてだった。一緒の部屋で寝ているとは言っても、こんな風にじっくりと見つめたりはしない。カラ松が寝ているソファーの近くに座って手を伸ばす。人差し指が頬にふれた。
「……っ」
 柔らかい。人の頬にふれる機会など皆無に等しかった僕にとって、指の先でふれる体温はどくどくと胸の内を浸食していった。指だけではなく、手のひらで包んでみる。それでもカラ松が起きる気配はなかった。柔らかさの次に感じたのは体温だ。あたたかい。眠っているからだろうか、僕の体温よりも熱い気がした。指に生暖かい風がふれる。びくっと身じろぎしたが、それはカラ松の吐息だった。濡れているようにも感じて、どくん、どくん、とひたすら胸の鼓動が早くなっていく。ここからだと睫毛の影が一本一本見えて、薄く開いた唇からのぞく舌が真っ赤なことにも気がついた。すうすうと吐息が僕の指を撫でていく。そして、何気なく投げ出されている右足に視線をやる。ごくりと喉が鳴った。
 爆発しそうだ。どこが? もう、何もかも全部。
「ん……」
 寝起き特有の掠れた声がした。カラ松がむずがるようにして身じろぎをする。僕ははっとしてソファーから飛び退いた。
「……ッあ」
 はあ、はあ、と自分の息がうるさかった。ばくばくと鳴る心臓もうるさい。カラ松がもぞもぞと動いて僕に背中を向ける。目を覚ましてはいないようだった。立ち上がろうとして、僕は初めて、それに気づく。
「は……?」
 気づいた瞬間、僕は部屋を出て階段を駆け下り、勢いよく扉を開けてトイレに閉じこもる。
「うそだろ」
 股間がすっかり膨らんでいて、僕は慣れ親しんだその重みに信じられないと息を吐くばかりだった。落ち着け、落ち着けとどれだけ自分に言い聞かせても、そこはけして元に戻りはしない。かえって血液がじくじくと集まっていく。そおっと手を伸ばした。制服の上からふれると、熱を持ったそこはどくんっとさらに大きさを増したようだった。
「ふ……」
 それからはもうひたすらに擦るばかりだった。カチャカチャと性急にベルトを外して下着ごと制服を下ろす。無我夢中で扱いて、脳裏に浮かぶのは先ほどのカラ松の寝顔だ。指先に当たった吐息が湿っていて、その指で自分の性器を擦っているんだと思ったらすぐに精を吐き出してしまった。それでもまだ収まらない。自慰をするのはけして初めてなんかじゃなかったのに、こんなにも興奮するのは初めてだった。手のひらにぶちまけられた白いもの。僕の中のカラ松がそれで塗りつぶされていく。最後に妄想したのは、精液塗れの僕の手のひらを、血液が流れていることを思い出させるあの真っ赤な舌先で舐める彼の姿だった。
 それが僕の……----俺の、カラ松を頭の中で犯した最初の記憶だ。

 初めは単なる性欲の衝動だと思った。だけど、それが恋というものに起因するものだと気づくのに長い時間はかからなかった。俺はカラ松が好きだった。たった一人の叔父に恋をしている。気がついた事実に困惑はしたものの、どうしようと途方に暮れることはなかった。男同士であることは正直そんなに問題ではない。血縁者だとは言ってもカラ松にとって俺は甥だしそれも問題にはならなかった。月日を重ねるたびに、カラ松への思慕が強くなる。昔は単なる親代わりでしかなかったカラ松の色んな面を見つけるようになった。意外に寝起きが悪く、俺の前では毅然と振る舞ってみせるけど本調子になるのは起きて三十分が経った頃。服の趣味が変わってるのは知っていたけど、俺が好きそうな服をたまに選んで買ってきてくれていることは知らなかった。服を着るのは下から、脱ぐのは上から。考え事をしているときは唇を指で遊んでいることが多い。睫毛はそんなに長くないけど、量は結構多い方。髪は俺よりも少し硬い。「そういう目」でカラ松を見ることに最初は罪悪感を覚えていたものだけど、それが一年、二年となればそんなものは微塵も意味を持たなくなる。
「俺、あっちの部屋で寝るから」
 そう宣言したのは確か中三の時だ。恋を自覚した相手と毎晩同じ部屋で眠るのは、十代の俺にとってほぼ拷問と言っても差支えのないものだった。悲しそうな顔をしたカラ松だったが、受験が近いやら体もでかくなったからだとか最もらしい理由をつらつら述べればカラ松はこくりと頷いた。
 複雑だったのは、そう宣言した次の日の夜だ。夜中にトイレに起きると、一階の居間の電気がついていた。何だ、と思い中を覗き、そういえば前も似たようなことがあったのを思い出す。卓袱台に肘をつく父の背中が見えた。そして、その父の胡坐をかいた膝の二十センチほどの距離の所に黒い頭がある。確かめるまでもなくカラ松だ。
「まだ寝ないの?」
 突然声をかけられてびくっと体を震わせる。父さんがこっちを向いて笑っていた。
「トイレだよ」
「ふぅん」
 思わずぶっきらぼうな言い方になってしまった。父さんを避けてはいたけど、面と向かって反抗する気にはなれない。体が成長するほど、この父親と自分が酷く似通っているのだと実感する。随分前に迎えた声変わりで、喉から出るものさえもそっくりだ。
「カラ松は?」
「うん? ああ、一人で寝るのが落ち着かないってさ」
「子どもかよ」
「ははっ、そう言ってやんなよ。俺たちも、昔はずっと六人一緒の布団で寝てたんだ」
 あり得ないと思う。成人を迎えた男たち六人が一緒の布団で寝るなんて。それも毎日。仲がいい兄弟だということはわかっている。それでも自分に鑑みて考えるとやっぱり異常なことなのだ。
 ふと眠っているカラ松に視線をやって、そして、息を呑んだ。
「それ」
「んあ?」
 カラ松の体には落ち着いたワインレッドの薄い毛布がかけられていて、それは母さんが持っているブラウンの毛布と模様が一緒だった。
「どした?」
 父さんが問いかけてくるが俺は何も言わない。カラ松と母さんが同じ毛布を使っていること、そしていつだったか、母さんがこの毛布は父さんにもらったんだと話していたのを思い出した。父さんが何を考えているのかわからなかった。カラ松にかけられている毛布が父さんが贈ったものなのかは知らない。だけど、もし仮にそうだったとしたら、父さんのしていることは。
「……寝るわ。おやすみ」
 父さんの返事も聞かずに階段をあがる。本当は駆け上がりたい気持ちでいっぱいだったけど、父さんに俺の動揺が伝わってしまうのも癪だった。布団に入り頭までもぐる。思い出したのは、父さんと母さんのふたりの背中を見て微笑むカラ松の顔だった。
 父さんはカラ松の気持ちを知っているはずだ。じゃあ何で、ああいうことを平気でしてみせる。妻と、その妻のことを好きな弟に同じものを使わせて。
 ぶるりと体が震えた。年齢の割に若い顔立ちの父さんが見せる笑顔に確かな恐怖を感じた。あれは、父さんの母さんへの独占欲の表れなのだろうか。それに付き合わされているカラ松が酷くかわいそうだった。哀れだった。ああ、せめて俺が母さんにそっくりな容姿だったらよかった。そしたらあの人を癒すことができたかもしれないのに。鏡に映る自身のように、俺と父は瓜二つだった。
 救ってあげたい。そう思いながらも、足の間のそれは熱を灯し始めていた。かわいそうなカラ松。哀れなカラ松。先ほどの毛布をかぶって眠るカラ松を思い出しながら精を吐く。終わった後の気だるさに身を任せたまま、俺も眠りについた。

「彼女でもできたのか?」
 高校に入学して一年ほど経った頃カラ松にそう尋ねられた。縁側で二人、春の夜風にあたりながらカラ松と俺は麦茶片手に枝豆をつまんでいた。そこはビールじゃないのかと言ってくれるな。俺は未成年。そしてカラ松は極端に酒に弱いのだ。
「何で?」
「お前、高校では部活に入っていないだろう? でも最近は帰りが遅いから、てっきりそうなのかと」
「そんなんじゃないよ。友達んとこに遊びに行ってるだけ」
「フッ……恥ずかしがらなくてもいいんだぞ。ガールズたちと戯れるのも輝かしい青春の一部分となりお前を」
「麦茶とってくる」
「えっ」
 笑いながら冷蔵庫に向かうと、中には数本のビールが蓄えられていた。俺たちは飲まないけど、どうせ後から父さんも来るだろうとビールも一本手に取る。春とはいえ、長袖のシャツ一枚だけじゃやっぱり少し肌寒い。そう思って二階に上がろうとすると、寝室から父さんが出てきた。
「お、ちょうどいいや。これ持ってけ」
「なに?」
「上着。あいつどうせ半袖一枚なんだろ?」
 俺と一緒のことを考えていたのかと、ぐっと喉が鳴った。仕方なくそれを受け取って縁側へと戻る。枝豆残しといてねーと後ろから声をかけられたけど、カラ松がとっくに補充しているはずだ。
「カラ松」
 声をかけて、上着を放った。振り返ったカラ松が慌ててそれを受け取る。
「取ってきてくれたのか? ありがとう」
 微笑まれて、父さんがとの本当のことは言わずに無言で隣に座った。嘘はついていない。硬めの皮にかぶりつきながら豆を舌に乗せる。塩がきつめの味は、俺とカラ松と父さんの好みだ。ちらりと横を盗み見る。室温の麦茶に口をつけながら、カラ松は月を見上げていた。ここであの有名な文豪のような言葉を言えたら、俺はこんなにも初恋をこじらせたりしていない。彼女ができたこともあった。でも結局、何もしないまま一か月足らずで別れてしまう。十七歳になった俺の心には、相変わらずこの男が棲むばかりだ。
「母さんとは、いつ知り合ったの?」
 どうしてここで聞いてしまったのかはわからなかった。それは多分、麦茶を飲み干すカラ松の喉仏に目が釘付けになってしまっただとか、月明かりに照らされる指先が骨ばった男のものであることに熱を覚えただとか、俺を映さない瞳に嫉妬しただとか、色々理由はあったのかもしれないけど、つまるところそれはただの衝動だったんじゃないだろうか。
「いつ?」
 カラ松がきょとんとした顔をする。今までこんなことを尋ねたことはなかったから意外だったのかもしれない。どくどくと緊張する鼓動を無視しながら話を続けた。
「そういえば聞いたことなかったなって。父さんと母さん、デキ婚だったんでしょ?」
 ああ、そうだったなとカラ松が頷く。未だ夜空を見上げるばかりのカラ松の顔には、何の陰りも浮かんではいない。
「いつ……そうだなぁ。兄貴が結婚するってお前の母さんを連れて来た時だったと思うぞ」
「えっ?」
 思わず驚きの声を上げてしまって、慌てて口をおさえた。カラ松は俺のそんな様子には気づかず枝豆の皿に手を伸ばしている。
 意外だった。カラ松と母さんは、もっと前から知り合いなんだと勝手に思い込んでいたから。
「どうかしたか?」
「……カラ松は」
「ん?」
 首を傾げて、口角を上げながら優しくこちらを見るカラ松に聞いてしまいたかった。
 母さんのことが好きなんだろ? いつから? どこが好きなの? この家に通い詰めるのは辛くないの? もう諦めたからあの二人を見ていられるの?
 父さんとそっくりな俺が憎い?
「……? 顔色が悪いぞ。どうし」
「あー! もう枝豆すくねーじゃん!」
 俺に手を伸ばそうとしたカラ松がはっとした。俺も予想だにしなかった声に思わず姿勢を正す。
「兄貴」
 すぐ後ろに父さんが立っていた。枝豆が少ないと文句を言う声とは反して、表情は頗るにこやかだ。
「あれ、ビールあんじゃん。用意いいねぇ」
「枝豆ならまだ冷蔵庫にあるぞ。とってくるか?」
「えっそうなの? わり、あんがと」
 カラ松が台所へと歩いていく。俺はというと、尋ねられなかったことが悔しいのか、逆にほっとしているのか、複雑な心境で動けずにいた。
「ど? 最近」
 俺の隣に腰かけた父さんは、ビールを開けながら話しかけてきた。ごくごくと飲みっぷりの良い音を聞きながら「別に普通だよ」と返す。会話を続ける気のないような声に気づかないのか、父さんはそのまま話を続けた。
「高校って授業参観みてーなのないの?」
「ないよ。っていうか、父さん一度も見に来たことないだろ」
「ははっ。それもそうだなー」
 俺の学校の行事に顔を出すのはいつだってカラ松だった。運動会はたまに父さんと母さんが見に来てはいたけど、学校行事の大半はいつもカラ松が傍に居た。それに不満を覚えたことはない。だけど、父さんにそんなことを聞かれれば多少なりとも腹が立つ。
「ま、高校生活も残り二年? 思う存分遊んどけよ」
 二つ目の缶に手を付けながら父さんが言う。勉強しろとは一言も言われたことがない。俺も勉強はあまり好きではないので、そんなところもこの父親とよく似ていると思う。
 台所を見ると、カラ松はまだそこにいた。ふいっと庭に視線を戻して父さんに尋ねる。
「カラ松の右足って、何で動かないの?」
 ひらひらと花びらが庭の草むらに落ちていく。あれは梅だろうか。生憎、花の種類には詳しくない。父さんは黙っている。ただ静かに缶に口をつけていた。もう何度、それを尋ねたことだろう。カラ松の右足は動かないとまではいかないが、いわゆる健常者と呼ばれる俺たちよりも不自由な動きをする。小さいころの俺はそんなカラ松の右足が動かないように見えて、「何で動かないの?」と尋ねていた。その名残で今も一字一句変えることなく訊いてしまう。俺の疑問に、父さんが答えたことは一度もない。
「……」
 眉一つ動かさずただただ俺のことを無視する父さんに苛立ちを覚える。俺に聞く権利はないって? 関係ないことだって? ふざけんな、俺は。
「また今度な」
 俺が憤っていることに気がついたのか、宥めるようにして父さんが背中を叩いてくる。こんな誤魔化し方ももう通用しない。
「俺は……ッ」
「お前が知らなくていいことも、たくさんあるんだよ」
 父さんの言葉に俺は口をつぐんでしまった。父さんが初めてこちらを見て苦笑する。
「知らなくてもいいんだ」
 だめだった。俺が何を言っても、今日は絶対話してはくれない。そんな確信を得るほど、父さんの言葉は断定的だ。知らなくていいなんて言われたら、知りたい知りたいと尋ねる俺が、ただワガママを言うだけの子どもに思えてしまう。
「枝豆もってきたぞー!」
 後ろから機嫌のいい声が聞こえてびくっと大きく肩を震わせた。ああ、なんかデジャブだ。カラ松は父さんと反対側の俺の隣に座って一つ皿をこちらに寄越してくる。
「おー、さんきゅ」
「オレにもビールくれ」
「飲めんの?」
「飲めなくなったらやる」
 俺を挟んで会話をする父さんとカラ松にため息をついた。今日この話をするのは無理そうだ。次こそは全て聞いてやると思いながら、もう何年経ったことだろう。
「どうした、浮かない顔だな」
 カラ松がぐしゃっと頭を撫でてくる。子供扱いされているのが気に入らなくて軽く振り払うと悲しそうな顔をされた。
「進路のこととか聞かれたか? なんかイライラしてね?」
「えっそうなのか?」
「違うよ。何でもない」
 はぐらかされているだけの子どもだ。そう思えてしまうのが悔しくて辛い。縁側から投げ出されているカラ松の右足を視界に入れる。俺たちと見た目は全く変わらないのに、その足は地に着いている時間が俺たちより幾倍も長い。でも、その衣服を剥ぎ取ってしまえば、その右足には生々しい傷痕が残っていることを俺は知ってる。
「課題やってくる」
 俺はそのまま立ち上がった。二人がまじめだなと笑っているのに適当に返事をして、居間を抜け寝室に飛び込む。真っ暗な部屋の中、ひたすら苛立っている胸の奥が熱かった。
 恋とは等しくこんなにも人を苛立たせるのだろうか。胸の奥だけじゃなく、頭の中まで熱かった。そしてそれは簡単に、性欲へと衝動を変える。

 二月。俺は十七歳だった。
 どうしてその日、体がだるいと保健室に行ったのかわからない。そこで体温計が微熱を伝えたのも全くの偶然だった。高校は近いし今日は父さんが編集と打ち合わせで帰ってこないと聞いていたから歩いて帰ったら、家の鍵が開いていた。居るのだな、と、そう思うのはもう当たり前の習慣だ。いつも通り階段を上がって、いつも通り襖を開けて、いつも通り部屋に入った。そこのソファーでカラ松が寝ているのもいつも通りだった。
 いつも通りだったはずなのに、違ったのは、左足をソファーの上に投げ出して、右足を抱きしめるようにして膝に頭を預けながらカラ松が眠っていたことだ。
 初めて彼に劣情を覚えたあの夏の日のようだった。キン、と冷えた空気の中、場違いな蝉の鳴き声が聞こえる。ふらふらとソファーに近づいて、カラ松の正面に立つ。ソファーの四角い形が、カラ松を閉じ込める何かに思えてしまった。檻でもない、箱でもない、それは多分。
(干からびた水槽だ)
 何かがトスン、と落ちてきた。ずっと前から感じていたのはこれだったのかと、俺は酷く頭を打たれたかのように足をふらつかせた。
 カラ松はまるで、飼い殺しにされている魚だ。水も与えられない水槽の中、餌だけ落とされて息をする魚。愛する女の傍にいながら、自らの兄と幸せそうにする姿を見つめることを強制されている。
 湧いてきたものが怒りなのか、哀しみなのか、憐憫なのか、劣情なのかさえ、もうよくわからない。
「……--ッ」
 気がついたら、ソファーに体を横たえるカラ松の体の上にいた。自分がカラ松を押し倒したのだと気づくのと、カラ松が目を開けるのはほぼ同時だった。
「……?」
 寝起きの悪いカラ松は、眠りの淵から戻ってくるのに大分時間を要してしまう。そしてはっきりと目覚めた後、不思議そうに俺の名前を呼んだ。
「どうした? 学校は?」
「……」
「早退したのか? 熱でも……少しあるな」
 こんな体勢だと言うのに、カラ松は俺の額に手を当てて心配するだけだ。俺の体の奥で燻っている熱とは対照的に、カラ松の肌は冷たい。話すたびに唇の隙間から真っ赤な舌がのぞく。ちろちろと動き回るその舌がなんだか蛇のそれに見えてしまってくらりとする。捕まえなければだめだ、これは、俺が。
「っ!?」
 ぢりっと嫌な音がした。思わず勢いよく頭を退けると、口の中で血の味がする。
「あ……」
 カラ松が少し青ざめた顔をしていた。血は、俺の舌から出ているらしい。
「す、すまない! 痛かったか?」
 こんな時にも俺の心配をするカラ松の唇には、俺の赤い血がついている。それにぐあっと脳みそが沸騰した。気がつけば、もう一度己の唇とカラ松の唇を重ねていた。
「んっ!?」
 ぐぐっと遠慮なく舌を入れれば、今度は噛まれなかった。やり方なんてわからない。ただがむしゃらに舌を暴れ回すだけだ。その中で時々ふれあう舌の熱さに股間が確かに熱を灯しだす。熱い。熱くて熱くて死にそうだ。
「ん、ぐ、……っ!」
 肩に両手をかけられて、思い切り体を離された。何本も糸を引く唾液がぷつぷつと途切れていく。カラ松は息を荒げながら、顔を赤くしたり青くしたり、忙しなかった。
「お前、なんで」
「好きだよ」
 その四文字だけ伝えると、カラ松はぴたりと動きを止めた。
「好きだよ、カラ松。好き。ずっと好き」
 必死だった。気の利いた言葉なんか俺に言えるはずもない。ただただ好きだと伝えれば、カラ松はどんどんと顔を青くした。
「何言って……冗談だろう? 熱があるんだ、早く寝よ、」
「冗談でこんなことしねぇよ!」
 叫んで、カラ松の体を抱きしめた。びくりと震えたカラ松に構わず圧し掛かるようにする。足の間の熱もばれていることだろう。でも、今はそんなことに構う余裕はなかった。
「わかんだろ? 俺、もう何回もカラ松で抜いたよ。色んなこと想像した。カラ松、俺の頭ん中で、俺に泣かされてたよ」
 泣きそうな声だったけど、かえってこれはよかったのかもしれない。カラ松は、俺を振り払わなかった。
「好きだよ。もうずっと、カラ松のことだけ好き」
「……勘違いだ。お前はまだ若い、だから」
「勘違いだったらよかったよ! そしたら、そしたらどれだけ」
 ぽた、とソファーの色が変わった。同時に俺の目元がとんでもなく熱くなって、落ちたのが涙だったのだと数秒遅れて理解した。
「ねえ、何でカラ松は俺たちの家に来てくれるの?」
 泣いていることを知られたくなくて抱きしめる腕の力を強めた。ぴくりと動いたカラ松は、でも話そうとしなかった。
「母さんのことが好きだから? だから、俺たちの面倒見てくれるの?」
 ゆっくりと体を起こした。カラ松は目を丸くして俺を見上げる。いつもとは全く違う視点に、またしてもぐっと腰が重くなる。
「何言って、」
「辛くないの? 母さんが父さんと一緒に居るの見て。好きな女が自分の兄貴と夫婦なんだよ」
「……」
「好きな人と兄貴の子どもがいてさ、そんで、その子どもが兄貴とそっくりなんだよ、そんなの」
 ふと、口を手で押さえられた。押しのけられるかと思ったら、それはとても優しい力だった。下にいるカラ松を見る。カラ松は、今までに見たことがない顔をしていた。
「辛いさ」
 泣きそうな顔をして、そして目を細めて微笑んだ。そんなカラ松に場違いに見惚れる。親のような顔しか俺に見せてこなかった、カラ松の一人の男としての顔だった。
「そうだな……お前は、父さんによく似ている」
 口に当てられていた手が、優しく頬を撫でた。その手つきすら親愛の情のもので、俺はまた泣きそうになる。俺はこの手に、どうしようもないほど欲情するのだから。
「……せめて俺が、母さん似だったらよかったのにね」
 くしゃくしゃの顔で、俺はそう言った。カラ松はそのまま、俺の頭を撫でていく。
「そしたら、母さんの代わりにしてよとか、言えたのに」
「そんなの、言わなくてもいいんだ」
「言いたいよ。俺、カラ松のこと抱きたいもん」
 頭を撫でていたカラ松の右手を取る。ぎゅうっと掴んで、俺はそれをどうするか、手段すらよく知らない。
「ねえ、一回だけ。一回だけでいいから」
 ぼろぼろと、またしても涙が溢れてくる。かっこ悪いと思ったけど、俺の泣き顔にカラ松が弱いことをよく知っているから。子どものこうしたずるさなんて、大人からしたらかわいいもんだろう?
「そしたら、忘れるから」
「……」
「だから、お願い、カラ松」
 目を見て名前を呼んだ。
 カラ松は、静かに目を閉じた。そして、瞼をあけるとゆっくりと俺の頭の後ろに手を伸ばした。
「お前、今いくつだ?」
「……? 十七だよ」
「----そうか」
 優しく引き寄せられて、ぽふんっともう一度カラ松の体の上にのりかかる形になる。
「他の子に、こんなことしたらだめだぞ」
 え、と思った。するりと両腕が俺の頭にまわる。優しく撫でられて、俺はそれを、カラ松の了承の意だと解釈した。
「カラ松」
「なんだ?」
「母さんと、似てなくてごめんね」
 謝ると、カラ松が耳元でふはっと笑った。かかる息がくすぐったくて、あたたかくて、たまらない。
「ああ」
 お前は、そっくりだなぁ。
 その言葉を最後に耳にして、俺はカラ松にもう一度口づけた。

「お前はオレがかわいそうなんだろう?」
 カラ松の右足を撫でていると、笑いながらそう言われた。
「……?」
「憐みの感情は……そうだな、恋に似た愛情と間違えてしまうこともよくあるんだ」
 全てが終わって、俺たちは布団の上で横になっていた。熱を吐き出した後の倦怠感で俺はまともに頭が働かない。だから、カラ松の言うことはよくわからなかった。もうなんだか頭も胸もいっぱいで、時折ぼおっと視界が霞む。
「だからきっと、時間が経てば大丈夫だ」
 優しい手つきで頭を撫でられて、とろとろと瞼が降りてくる。このまま寝てしまいたい。
 その時、下から扉が勢いよく開く音がした。
「っ!?」
 その音に、ばちっと目が覚める。それはカラ松も同じようだった。この家に帰って来るのは、俺とカラ松を除けばもう二人しか居ない。
「お、帰ってきてんじゃん」
 大きめのその声は、父さんのものだった。俺はさあっと顔が青くなっていくのを自覚した。
 なぜ。今日は帰ってこないんじゃなかったのか。
「熱大丈夫かー? 学校から電話あったから父ちゃん帰ってきちゃった」
 世界は俺の味方にならなかった。焦りを通り越して、俺はもう諦めの感情に支配されてしまっていた。
 ばれたらもうその時だ。一発では済まないだろうが、殴られるぐらいのことは覚悟している。家を出てけとまでは流石に言われないと思う。言われたら、カラ松と母さんのことに言及してとことんやりあおう。
「カラま、」
 とりあえず下着だけでも、と言おうとしたら、カラ松は顔の色を失くしていた。そのあまりにもな表情に、俺は言葉を呑んでしまう。
 すると、微かに震えている手が俺の頭を撫でた。
「大丈夫だ」
 それが、俺に向けてなのか、カラ松自身に向けて放ったものなのかはわからなかった。
 襖が開く。先ほどのカラ松の顔を見たら、それが処刑の音にも等しいものに聞こえた。
「なんだ、寝てんのか……-----ー」
 布団を目にして、次に、その視線は裸の俺たちへと向いた。
「……は?」
 父さんの顔から表情が消える。俺は、父さんがどれだけ怒りの感情を露わにしていても一度も見たことがないそれに、ひゅるっと喉から息が漏れた。
 すうっと視線がカラ松だけに伸びる。父さんが小さく口を開いた。
「何してんの」
 地の底を這うような声というのは、比喩ではないと知ったのはこの時だった。
「……--おそ松」
 カラ松が父さんの名前を呼んだ。そして俺は、生まれてこのかた、カラ松が父さんの名前を呼んだのを初めて耳にしたのだ。
 カラ松がそのまま、崩れた笑みを浮かべる。頬には、つう、と涙が伝っていた。
 ああ、そこで俺は、愚かにも自らがとんでもない勘違いをしていたのだと思い知らされたのだ。
 俺は、父さんによく似ている。

 

 ◆

 本日は、お忙しい中を割いて、父松造、母松代の葬儀にご参列賜りありがとうございました。
 父は、とにかく母の手料理が好きな人でした。どれだけ帰りが遅くても、日付をまたごうと、外泊はせずに必ず私たちの家に帰ってきました。私たち息子に会いたいからかと尋ねれば、母さんの手料理が食べたいだけだと小突かれたのを今でもしっかりと覚えております。
 そんな父もかなり偏屈で頑固なところがあり、何度も何度も震えあがるほどの大声で叱られました。六人の同い年の息子を育てるということがどれだけ難しいことだったのか、私は今になってそれを痛感しているのです。
 母は、のんびりとした人でした。けして素直ではない父を、しょうがないわねぇと、何があっても笑いながら受け止めて支えていた母でした。結婚記念日には必ず一本のバラをくれるのよと、嬉しそうに話してくれた姿はこれからもけして忘れることはありません。
 六人の赤ん坊を産むという決意は、どれほどのものだったのでしょう。何度も何度も考えても、母の決意の大きさにはきっと一生敵わないのだと思います。
 両親の仲睦まじい姿を、私たちは胸に抱いて、未熟ではありますが、精進していく所存です。父と母に対して寄せられた皆様のご厚情に、心よりお礼を申し上げます。
 本日は誠にありがとうございました。

凝り固まった昔に蹲っていたいの

 全てが終わった後、意外にあっけなかったなと抜けるような青空を見上げて思った。顔を見て花を捧げるお別れも、火葬場で上がる煙もなかった。今まで冠婚葬祭などの行事に、自分はあまり参加したことがなかった。だから特にそう思うのかもしれない。
「あ、いた」
 その声に振り返ると、一松と十四松がこちらに向かって歩いてきていた。火葬場の近くの公園のベンチにトド松は座っていた。トド松の隣に十四松は座り、一松はベンチにもたれかかるようにする。ここに来たのが上の三人だったら、煙草の一本や二本取り出していることだろう。一松は猫に嫌われるから、十四松はまずいから、トド松は匂いが嫌だからとの理由で吸わなかった。
「骨って、あんなに軽いんだね」
 気づくと、ぼそりと地面の土に向かって呟いていた。その声に一松と十四松がこちらを見る。
「ボク、葬式とか出るの初めてでさ。こんなにあっけないんだ」
 すると、ぽふ、と頭に手がのせられた。その正体は確かめるまでもなく一つ上の兄で、ただただまっすぐ前に視線をやっていた。
「ぼくも初めてだよ」
「おれも、一回ぐらいしか参列したことない」
 そっか、と思う。こうした行事に連れ出される回数は、下から上に行くにつれて多くなる。そしてその回数に比例して、こうした場での振る舞い方に慣れが出てくるのだ。
「おそ松兄さん、あんなにしっかりできるんだね。普段からああしてればいいのに」
「できないからおそ松兄さんなんだよ」
 一松の返しに軽く笑う。今日の喪主であるおそ松は、普段の家での振る舞いが嘘のように背筋を伸ばしていた。あんなおそ松兄さんの姿、初めて見た。トド松は今日一日で何度そう思ったことだろう。
「親戚もあんなにいたんだね。半分は顔も知らない人たちだったけど」
「おれたちの名前も知ってたかどうか怪しいな」
「礼服用意しておいてよかったよ。まだ全然使う機会なんかないって思ってたけどさ」
「備えあれば憂いなしってね」
 今日は、一松がよく話してくれる。いつもはこうして会話をぽんぽん弾ませるのはどちらかというと十四松のほうだ。十四松は、トド松の頭に手をのせたまま唇を噛んでいる。
 太陽の光が眩しくて目が痛かった。空を見上げているわけでもないのに目の奥がひりひりしている。冬の太陽の光は地面で照り返してはいないのに。
「ハンカチいる?」
 一松が尋ねてきた。その声にいらない、と返事をしようとしたが、トド松のものではない手が横からにゅっと伸びてくる。
「うん」
 十四松がハンカチを受け取った。一松の弟はトド松だけではない。トド松は兄弟の中で一番下であるから、そのことを忘れがちであるが。
「あ、ここにいたんだ」
 デジャブを感じた。火葬場から一人でこちらへ歩いてきたのは、チョロ松だった。
「チョロ松兄さん」
「先に向こうに行ってろって。車は僕が出すけど、タクシーのほうがいい?」
 ベンチの前にやって来たチョロ松は三人に尋ねる。車、と聞いて少し身じろぎをしたトド松に気がついたのか、チョロ松はふっと笑う。
「タクシーにするか」
 こくりと頷くと、チョロ松は空を仰いだ。
「終わったな」
 チョロ松のその声に、ふつりと糸が切れた気がした。足元の地面の色が変わる。濃くなった土の色を見て、水が零れ落ちたのだと理解するのに数秒かかった。
「はい」
 十四松の手が伸びてきた。その手には一松のハンカチがあって、トド松はぼろぼろと頬を伝っていたものに気づく。
「あ……」
 十四松はトド松の兄だった。結局こうした場で一番甘やかされるのは自分なのだと悔しくも思ったが、やっぱり安心してしまうのだ。
「ごめ、」
 受け取ったハンカチに零れ落ちたものを染みこませていく。泣くのが下手な十四松にこそハンカチが必要なのに、弟の前ではいい顔をしてみせようとする一松を兄のそばにおかなければならないのに、まだ泣こうとしないチョロ松をゆっくりさせてあげたいのに。トド松はこの空間で安心して泣けてしまう。
「ほら、泣け泣け」
 一番最初に泣くのは末っ子の役割なのかもしれない。背中を撫でてきたチョロ松の手のひらの体温を感じてそう思った。
「おそ松兄さんは?」
「まだやることあるってさ。どうする、もう向かう?」
「もうちょっと落ち着いてから……」
 鼻水をずびずびすすってハンカチをポケットにしまう。自分の分は別に持ってるから、後でそれを一松に返せばいい。
「……カラ松兄さんは?」
 十四松がチョロ松に尋ねた。一松がぴくりと体を硬くして、トド松も膝の上でぎゅっと拳を握った。チョロ松はスーツのパンツのポケットに両手を突っ込みながら言う。
「まだ目覚めてない。でも、手術は無事に終わったらしい」
 その言葉にほっとするのも束の間、まだ目覚めないとの言葉の重みを実感して胸の辺りがずんと重くなる。先程の涙の重みとはまた違ったものが自分たちを襲っていた。
「カラ松兄さん」
 昨夜の通夜にも、今日の葬式にも顔を見せることができなかったあの兄は、目覚めた時どれほどの重責を抱えることになるのだろう。それを考えると再び重く濁った涙が、奥から奥から溢れてくるような気がした。

 交通事故だった。思わず笑ってしまうぐらい、出来過ぎた交通事故だった。
 電話がけたたましく家の中に鳴り響いた時のことをトド松は鮮明に覚えている。その日は朝からおそ松とカラ松、父と母が四人そろって車でどこかへ出かけていた。二人がバイトで稼いだ金で旅行に連れていってくれるらしいと、母がつい三日前に嬉しそうに話していた。電話に出たのは、夜中のトド松のトイレに付き添っていたチョロ松だ。
「……--え?」
 家の中は暗闇で覆われていたというのに、チョロ松の顔がまるで冷水を被ったかのように真っ青になっていくのがわかった。何かがおかしい。そう思ったのも束の間、チョロ松が受話器を震える手で元の場所に戻す。
「一松と十四松、起こしてきて」
 それから先のことはよく覚えていない。気づいたら、喪服を着て部屋の中で佇んでいた。
 病院で、泥まみれのぐしゃぐしゃな服を着たおそ松と再会したこと。病室へと運び込まれる一瞬の間に見たカラ松の血まみれの顔。遺体をご覧になられますか、と聞かれたまるで機械のような声。そのどれもが全て夢の中の出来事のようだった。
 落石だったのだと言う。四人は星空を見るために車で山道を走っていた、その途中の出来事。その時に運転していたおそ松がハンドルを切っても遅かった。運転席のおそ松は軽傷。助手席に座っていたカラ松の右足は落石の下敷きになっていて、頭を打ったのか未だ目覚めてはいない。後頭部座席に座っていた父と母は、全身が石に潰された。
 二人の遺体を直接見たのはおそ松のみだった。「見るな」と、ぽつりとそれだけ抜け殻のように呟かれた声に、残された四人は何も言えなかった。
 最後の別れもままならない。あの時おそ松を振り切ってでも会いに行けばよかったのかもしれない。しかし、自分の記憶の中の両親が五体満足の溌剌とした姿であることを、拒絶したくないのも本当だった。
 自分は両親の最期の姿を見ることのできない臆病者だったのか。それでも、五人の兄であるおそ松がそうであることを許したのだ。

「おそ松兄さん?」
 はっと、一松の声に意識が戻った。とっさに顔を上げるとまたしてもこちらに向かってくる人影がある。いつもの赤い色ではなく黒を纏った彼が軽い足取りでやって来た。
「何だ、お前らまだいたの?」
「うん」
「先行ってろよ。俺まだ行けねーからさ」
 そう話すおそ松はいつもの様子とまるで変わりがない。ずっと、ずっとこんな感じだった。おそ松が唯一取り乱した様子を見せたのは「見るな」とトド松たちに告げた時ぐらいだ。通夜も葬式もそのほかの段取りもいつの間にかおそ松がテキパキと進めてしまっていた。チョロ松も手伝っていたとはいえ、その手際の良さにトド松は少し置いてきぼりにされたような心地がする。
「カラ松兄さんは?」
 気がつけば口から漏れていた。トド松の声に他の三人もおそ松の方を見る。連絡をもらっているのはきっとこの兄だ。手術は無事に終わった。だけど、その後は?
「夜、俺が行く。だから先帰ってろ」
 また「先」だ。何も頭の中で整理しないまま口を開きかけたが、チョロ松の「わかった」との返事にぐっと喉に声を押しとどめた。
 全部この人任せなのが歯痒かった。一人で進めてしまうことに不満を持っているんじゃない。己が歯痒いのだ。
「そろそろ行こうか」
 チョロ松の言葉に、一松も姿勢を正す。十四松も立ち上がり、トド松が最後にベンチから腰を上げた。そんな四人を見届けたおそ松が再び火葬場へ戻ろうとする。そんな兄の姿をトド松は名前を呼ぶことで引きとめた。
「おそ松兄さん」
 振り返ったおそ松に、問いたいことは山ほどあった。
 何でそんなに落ち着いてるの? 泣かないの? 泣けないの? カラ松兄さんにどうやって話すの? その役割を僕たちに任せたりはできないの?
 それでも、実際に口から出てきたのは当たり障りのないありふれたものだった。
「……カラ松兄さんのこと、よろしくね」
 おそ松は、うん、と頷いて火葬場へと戻っていった。その背中を見送って、トド松たちもタクシー乗り場へと歩きはじめる。まだ上にコートを着込むほどの寒さではなかった。しかし、風が吹けばやはり肌寒い。
「自分のせいだって思ってるのかな」
 だめだとわかっていても、問いかけずにはいられなかった。三人の兄たちは立ち止まることこそしなかったものの、静かにトド松の言葉に耳を傾けている。
「そう思ってるから、だから一人で全部やろうとするの?」
「わからない」
 きっぱりと言い放ったのはチョロ松だった。一番前を歩くチョロ松の背中を見て、なぜだかとてもやるせない気持ちになる。
「責任を感じてるとしても、僕たちからはお前のせいじゃないよなんて言えない。違う理由があったとしても、僕たちにはわからない」
「そんなの、冷たいじゃん」
「あいつに聞くなって言ってるわけじゃない。今はとにかく任せるしかないんだよ」
「どうして」
「動いてないと、あいつはだめなんだ」
 だから今は、とチョロ松が言葉を切った。知ってる。自分だけじゃなく、チョロ松も一松も十四松も歯痒く思っていることを知っていた。でも、そこでおそ松に全てを聞こうとしないのはーーきっと、おそ松という人間をよく知っているからだ。
 でも、それでも。
「おそ松兄さん、カラ松兄さんにどうやって話すの……?」
 兄たちは無言だった。きっと誰も、その答えを知らない。眠っている間に、親の葬式が終わったよ。交通事故でお前は助かったけど、父さんと母さんは死んだんだ。それをあの兄が話すのか。その役割だけでもせめて自分たちが担うことができたら。だけど、おそ松は自らカラ松に全てを明かす場へと飛び込んでいく。
 そして、お前の右足はこれから先動くことはないのだと。両親の訃報と自らの身体の欠損を聞かされて、あの兄は。
「わからない」
 今度は唇を噛みしめるようにして、チョロ松がそう言った。
 末っ子が一番最初に泣くのであれば、兄たちはいつどこで泣いてみせるのだろう。これほどまでに、六つ子の兄や弟なんてくそくらえだと思ったことはなかった。
 空は目が痛くなるほど青く澄んでいる。せめて煙が立ち上れば天へと昇っていったのだと思えるのに、雲一つない、抜けるような冬空が憎らしかった。

***

「結婚?」
 それは、春一番のように家の中を荒らした。
「おう。籍入れるだけで式とかはとくにしねーけど」
 にしし、と鼻の下を擦りながらおそ松が得意げに言う。夕飯時に突然もたらされた知らせに思わず後ろを振り返ると、チョロ松が呆れたようにため息をつく。
「らしいよ」
「らしいって……えっ、ほんとなの?」
「お兄ちゃんうそつきませーん」
 ぽかんと口を開けていると、チョロ松が着替えに行こうとして腰を上げていた。仕事帰りだったので、未だスーツ姿のままだ。
「ま、これで母さんたちも一つ心配事がなくなったんじゃない」
 笑いながらチョロ松が居間を出て行った。トド松はもう一度おそ松へと顔を向ける。
「本当なんだ」
「うん」
 頷いたおそ松は、肩の力が抜けたように顔を綻ばせた。その顔を見て、やっと何かが進み始めたのだとトド松の肩も軽くなったようだった。
 父と母が亡くなったあの事故からもう一年になる。その間にチョロ松と一松と十四松はなんとか就職を果たし、トド松はまだ無職といえど、働く先は見つかっている現状だった。親の貯金を見るに、このまま六人が過ごしていくのは一年が限界だとわかった。このままのたれ死ぬわけにもいかなくて、とりあえず金がもらえる先を必死に探していた。
「どういう人なの?」
「んー、年は三つ上」
「年上なんだ!?」
 そのまま話を聞いていると、相手は三つ年上で、旅行会社に働いている、それはもうバリバリのキャリアウーマンらしい。おそ松が好むタイプとは違う気がして驚いたが、そもそも今までおそ松に彼女ができたとの話も聞いたことがなかったのでこの男は案外甘えることのできる年上が好きなのかもしれない。
「でも、突然だね、結婚って」
「ああ、子どもできちゃってさ」
「はあ!?」
 思わず大声を出してしまって、おそ松の体がびくっとはねた。子ども、と口に出すとより色んなものが生々しくなる。
「子どもって、は、マジで?」
「うん」
「ちょ、何やってんのおそ松兄さん!」
「チョロ松にもすげー怒られた……」
「当たり前でしょ! え……何か月なの?」
「予定日は一応一か月後……」
 あんまりにもな現実に、口をあんぐりと開けるしかなかった。色々頭をめぐることはあったが、一番考えなければならないことはやはり金だった。何しろつい最近まで自分たちの金は無一文と言ってもいいようなニートだったのだ。それがいきなり結婚だの子どもだのと。
「金ならあるから、結婚しろって言われたんだ」
「え、兄さんクズじゃん。どうせ行きずりの関係とかそんなでしょ?」
 トド松の言葉におそ松は黙っている。図星だ。トド松は全てを察してため息をついた。クズだなんだと騒いでも、それはもう今更なことでどうしようもない。おろせと女性に言うような真の人間の屑じゃなくてよかった。
 一か月後、ということは、出会ったのは一年ほど前だろう。その時期のことを考えると、仕方がなかったのかもしれない。弟たちの前では泣かなかったこの長男も、その女性の前では涙を見せたりしたのだろうか。そう思うと、少しだけジェラシーにも似た何かがちりっと胸を焼く。あんなにも兄弟、家族第一だったこの長男が、血も繋がらない他人の前で。
「もうすぐ夕飯だぞー」
 その時、ひょこりと顔を見せたのはカラ松だった。その後ろから皿を持った十四松と一松が居間にやってくる。カラ松の顔を見ると、トド松は思わず「おそ松兄さんが」と告げ口をするような口調になってしまった。
「ああ。兄貴、結婚おめでとう」
「さんきゅー!」
「いやまだ早くない? っていうか、もしかしてボク以外皆知ってたの?」
「お前昨日居なかったじゃん」
「そういうこと? もう、何事かと思うじゃん、突然さぁ」
 他の兄たちはもうこの話題は終わったとばかりに夕飯を食べる準備を始めている。よくわからないことだらけだが、とりあえず空腹を訴える腹を黙らせるために自分も準備に加わった。

 夕飯を食べ終わったあとの今日の皿洗い当番はトド松と一松だった。洗剤を洗い流しながら、ちらりと居間の方を見る。テレビや水音に紛れて、こちらの台所の声は向こうには聞こえない様子だった。
「ねえ、どうして突然結婚なわけ?」
 でも、やはり小声にはなってしまう。一松はタオルで食器を拭きながら「さあね」とそれだけ短く返す。
「今まで恋人がいるとかそんな話、ひとっこともしなかったじゃん」
「恋人じゃなかったんじゃない? それかただ単におれたちには言わなかっただけかもしれないし」
「あのおそ松兄さんが? ボクたちに言わない?」
「あの人、言わないことは言わないでしょ」
 それもそうだけど、と言葉に詰まる。一松はそんなトド松のやるせなさそうな様子を察したのか、ぽつりと口を開く。
「おれたち、親戚? に色々言われてるみたいだしね」
 ぴたりと手を止めてしまった。。水道の水の音が激しくなって、慌てて勢いを緩めた。一松は食器を片付けながらそれ以上口を開こうとしない。
「まさか、それを気にして?」
「さあ。どうなんだろうね」
 そんな殊勝なことをあの男がするだろうか。一松の言葉は投げやりにも聞こえたが、その実あの長男の最近の態度を気にしているのもトド松は察していた。
 一年だ。その月日は今まで生きてきた年月の中で一番早かった気もするし遅かった気もする。あの電話がかかってきた日から朝が来て夜が来ることすら信じられなかったというのに、いつの間にか季節は一巡りして再び冬が訪れようとしていた。

 結局、おそ松は泣き顔を弟たちにはけして見せなかった。いや、これはトド松が見たことがないというだけで、他の兄たちは知っていたのかもしれないが。十四松は、葬式が終わった日の夜布団には帰ってこず屋根の上で一人泣いていた。一松は、遺品や形見を整理している時に部屋から抜け出して廊下で蹲っていた。チョロ松は、つい最近、就職が決まったことを墓の前で報告しているときに全てを溢れさせた。カラ松は、……--カラ松は。
「結局、あの一回きりだったね」
「何がだ?」
「カラ松兄さんが泣いたの。おそ松兄さんに車いす押されてさ、家に帰ってきてボクたちの顔見た瞬間、ぼろって」
 カラ松は、あの葬式の日の夜に目を覚ましたのだった。手術が終わった後すぐ退院、とはいかなかったが、その日だけはせめて家に一度帰れるようにと病院側も手配してくれた。あの日の夜、玄関が開いた音が聞こえて、父と母の姿がとっさに思い浮かんだのはトド松だけではあるまい。帰ってきたのは、車いすに乗ったカラ松と、その車いすを押すおそ松だった。
「おかえり」
 そう言ったのは誰だっただろう。自分だったかもしれないし、兄の誰かだったかもしれない。迎えの声を聞いて、カラ松は一筋、涙をその頬につるりと流したのだ。
「ただいま」
 二人だけでごめん。四人で帰って来ることができなくてごめん。そんな声が、聞こえた気がした。謝ってほしいなんて微塵も思ってなかったから、それを実際に声に出されていたらきっと殴り飛ばしていたんだろうけど。
「怒るかと思ったんだ」
「怒る?」
「葬式、カラ松兄さんがいない間に終わらせたから」
 あんなに早くカラ松が目覚めるとわかっていたら、もう少し待つこともできていた。とにかく動いていないと抜け殻になってしまいそうだったおそ松を、休ませることができたかもしれない。それは結局今となってはどうしようもない後悔の話でしかないけれど、振り返ることで楽になる後悔だってある。
「オレは逆に感謝したぞ」
「何で?」
「父さんと母さんを早く向こうにいかせてやれて。あの体のまま、ここに居続けるのは二人とも辛かっただろうからな」
 きゅっと唇を引き結んで、膝を抱える。ベランダと言うには少し小さいそこで二人は夜風に当たっていた。右足が冷える、と先ほど渡したワインレッドのブランケットは、いつの間にかカラ松が私物として持っていた。カラ松の右足はもう以前のように動くことはないけれど、だからといって無下にするわけにはいかないのだ。一年間のリハビリで日常生活には困らないぐらいには歩けるようになった。階段などでまだひやひやすることはあるけれど。
「あれ、お前らまだいたの?」
 自分たち以外の声がして振り向くと、おそ松が煙草片手に部屋の向こうから窓を開けていた。
「おそ松兄さん」
「さむくねえの? もう一月だよぉ」
 そんなことを言いながら、おそ松も「よっ」とベランダにやって来た。煙草を消しながら窓を閉める。おそ松はカラ松の隣に胡坐をかくと、ふわぁと大きなあくびをしてみせた。
「寝ればいいのに」
「お前らがいないと布団さみぃんだもん」
「ここにいたら本末転倒じゃない?」
 クスクスと笑うとまだ寝る気分じゃねーの、とはぐらかされた。カラ松はブランケットをおそ松に渡そうとして断られている。上二人と自分だけの空間になって、トド松はふいに尋ねたくなった。
「どうして急に、結婚なんてするの?」
 その尋ね方が思わぬ非難の影を携えていて、トド松は言った瞬間後悔した。カラ松の向こう側で、おそ松はどんな顔をしただろう。トド松が顔を上げると同時、おそ松が屋根の向こう側を見上げながら言った。
「俺、デビューできそうなんだよね」
 でびゅー、と、オウム返しをしてしまった。カラ松越しにおそ松を見ると、一つ荷物を下ろしたような顔をして彼は話を続けようとしていた。
「ま、これで俺も一応金の出所はあるわけだ。だからまあ、結婚すんのもちょうどいいタイミングかなって。まだまだ嫁さんのスネ齧り続けるとは思うけどね」
 鼻の下を擦りながらおそ松がこちらを見て笑った。そして、トド松は再び膝に顔を埋めたくなった。
 きっと、一松が言ったことは間違いでは無くて。おそ松が今一番欲しているものは金だった。それは多分、おそ松が弟たちに寄り掛からないようにとするための。
「これで俺は金に困らないし、お前らも心配しなくていいよ」
 あんた、そんな殊勝な性格してなかっただろうと、どうしようもなくやるせない気持ちになった。そうだ、両親が亡くなってから一番考えなければならなかったことは金銭面だった。生きていくために必要で、目を逸らすにはあまりにも大きすぎるもの。
「式とかはできねーけど、お兄ちゃん、お祝い待ってるね」
 そのおちゃらけた声に、お祝儀ぐらいなら包んでやるよ、と返すのが精いっぱいだった。

***

 おそ松が密かに小説を執筆していたのは家族誰もが知っていた。あの男にあまりにも似合わない趣味過ぎて、初めて知った時の衝撃が忘れられないのだ。本屋の棚に兄の書いたものが並べられているのを見た時は、感動して思わず写真を撮り兄弟全員に連絡した。今まで頑なに家族には自分の書いたものを見せなかったおそ松であるから、これで白昼堂々と読むことができるのだと兄弟全員が面白がっていたのも事実だ。
 いや、もしかしたら、カラ松だけはあの話を世に出る前に目にしていたかもしれない。おそ松が小説を書くようになったきっかけは、カラ松が演劇部に入ったからだと記憶している。それも曖昧なものになってしまって、確かめようとしても身にならない砂が覚束なく零れ落ちるばかりだが。
 おそ松が結婚してからちょうど一か月後に子どもは生まれた。予定日より二週間ほど遅れたが、非の打ち所のない健康優良児だった。いつまでたっても悪ガキから抜け出せない自分たちが子どもを可愛がるなんてできるだろうかと思っていたが、それは杞憂だったらしい。赤ん坊は可愛かった。成長していくにつれ、顔つきが自分たちそっくりになっていくのが面白かった。この子どもはとにかく父親似らしい。六つ子じゃなくて七つ子になるなぁ、なんて皆で話していた。
 チョロ松以下の兄弟は全員実家を出て行った。だから必然的に、松野家にはおそ松たち家族が住むこととなる。そんな中であの家におそ松たち家族と残ったのは、カラ松だった。
「最近どう?」
「授業参観があったな。六年生になって少しは落ち着いたかもしれない」
 たまに実家に遊びに行くと、カラ松は兄の子どものことばかりを話したがる。近況を聞きたいのはカラ松自身のことだったが、あの子どもの話をしているカラ松は頗る楽しそうだったのでトド松もあまり苦言を呈したりはしない。
 定職につくことなくいくつかの仕事を転々としているカラ松は、アパートを借りながら実家でおそ松の子どもを世話しているような現状だった。その姿に何も思わないわけではない。カラ松は、それなりに一人で生きていく足を六人の中でも培っていた方だと思う。それが今では、六人の中で一番、あの兄に寄りかかっているようにも見える。
 実家を出て行かないのかと尋ねたこともある。しかし、カラ松からは「兄貴が養ってくれるしな」との答えしか得ることができなかった。家を出たいならカラ松一人ぐらい住める部屋はある。たとえ足が不自由でも今のご時世働く先は見渡せば山ほどあるのだ。
 正直、おそ松とカラ松を見ていると不安定な気持ちになる。その原因は父と母が亡くなったからなのか、六人で一緒だった形が二人に縮小されてしまったからなのか、おそ松の妻と子どもという他人が現れたからなのか。
(ああ、そうだ、他人だ)
 自らの兄の妻と子どもを他人と言い切ってしまえる自分がいる。そのことに別段驚きはしなかった。そしてこれはきっと他の兄弟も同じだ。兄の妻のことは好いているし、子どももとてもかわいいと思う。でも、トド松たちにとって彼らは結局血のつながった「他人」なのだ。
 だからーーおそ松とカラ松を見て不安になる気持ちは、自分が六つ子の輪から外れて一人で地に足を着いたから沸き上がったものなのかもしれない。不安定なのは、あの二人ではなく自分たち四人なのか? --わからなかった。
「兄さんに似てきたな」
 これが、カラ松の口癖だ。あの子どもがおそ松に生き写しなことに覚えるものは、悦びに似た欠乏だった。六つ子というのは減っても増えてもだめらしい。あの六人の中で一番自立しているのは自分だと誇っていただけに、こんなことを考えるのがとてつもなく皮肉に感じた。
「ほんと、そっくりだよ」
 居間で二人で話していると、ただいまーと元気よく玄関を開ける音がした。カラ松が腰を上げ、玄関まで子どもを迎えに行く。
 おそ松は自室で仕事をしているらしかった。父親は姿を見せないまま、カラ松と子どもが居間にやって来る。
「おかえり」
 そう言うと、ただいまと子どもは父親そっくりの顔で笑った。
 ランドセルを放って二階へと駆け上がっていく。その様子に、この家はもう自分の住む場所ではないのだと改めて実感した。
「そろそろ帰ろっかな」
「もう行くのか?」
「うん、明日も仕事だし。おそ松兄さんにもよろしくね」
「ああ」
「……ねえ」
 立ち上がって、天井を見上げる。染みの数は変わらないけど、確かに自分が記憶していたものと色が違っている。
 ボクが知ってる家は、もっともっと、鮮やかな色をしていた。
「また来てもいい?」
 尋ねると、目の前の兄は「もちろんだ!」と嬉しそうに顔を綻ばせた。

 この家には、凝り固まった過去がずっとずっと我が物顔で居座っている。そこでずっと蹲っていたいのは、きっと。

 

 ◆

お前が歩けなくてよかった

「あっ!」
 自分のものとは思えない潰れた蛙のような、媚びを売る娼婦のような声が空気を裂いた。どろりと溢れた精液はシーツと自らの腹を繋ぎ、二つの白が混濁したそこにべしゃりと体を落とす。
「っは、ぁ、」
 うつ伏せに倒れ込んで、見えたのは自分の震える右手だった。ぐっと拳を握ろうとして、するりと別の手に指を絡めとられる。
「まだイケるだろ?」
 それに首を振ろうとした、しかし、後ろから再びずんっと重く中を突かれる。
「ひっ」
 ぐちゅぐちゅ鳴る水音から必死に逃げようと頭を振るも、耳を塞ぐことすら許されない。はあはあと上から聞こえる呼吸は、誰のものだったか。
「あ、あ、」
 挿入が深くなって、耳元に唇を寄せられる。
「カラ松」
 その声は、やっぱり似ていた。今、自分の右手を掴み、目の前で口元を歪ませているこの男と。
「……ッ」
 名前を呼ぼうとして、どちらを呼べばいいのかわからなくなってしまった。今、誰が自分を抱いていて誰が自分の上にいて、誰が手を握って誰が目の前にいるのかも曖昧だ。
 だけど。
「おそまつーーっ」
 零れたものは、ただ一つ、それだけだった。

 もう、二十年近く前になるだろうか。目を覚ますと白い天井がうっすらと視界に飛び込んできて、ここはどこかと疑問に思う前に右手を包む体温に気づいた。その先に視線を映す。そこに居たのは、想像に違わずただ一人の兄だった。
「おそ松」
 反射的に名前を呼ぶ。するとおそ松は、感情も何も映していなかった顔を眉からぐしゃりと歪め、ただ一つ、ぽつりと呟いた。
「ごめん」
 次いで頬に降ってきたのは、涙だった。ぽた、ぽた、と一つずつ零れ落ちてくるたびに、ぽろぽろとした記憶の残滓が頭の奥でちかちかと光を携え始める。
 それはきっと、あの落石の欠片に似ていた。
「……--っ」
 波が押し寄せるようにして戻って来た記憶に、体中が痛みの悲鳴を上げた。起き上がろうとしても叶わなくて、それに気づいたおそ松に体を支えてもらう。
「ごめん、ごめんなぁ」
 ただひたすらそれを繰り返すおそ松に、ああ、と全てを察したのだ。六つ子を侮ることなかれ。今まで数多くの人間に放ってきた言葉が、今は自分へと突き刺さるようだ。
 父さんと母さんが亡くなった。オレはなんとか生き延びたけど、右足はきっとこれからも動かない。
 シンプルだ。おそ松から途切れ途切れに聞かされた事実は至って単純なことだ。そしてその事実が、己をがむしゃらに縛り付ける。
「おそ松」
 頭を撫でることも、抱きしめてやることすらできなかった。父さんと母さん、俺とお前で旅行に行こうと、あんなに楽しそうに笑っていたおそ松がつい昨日のことだなんて、ありきたりな言葉だけど信じられなかった。一晩足らずで失ったものの喪失感に押しつぶされそうになる。そしてそれは、目の前で一つ下の弟に縋るようにして泣くこの男も同じだ。
 ----違う。おそ松は、泣いてなんかなかった。涙を流したのは最初の一粒、二粒だけ。あとはひきつった声でごめんごめんと呟くばかりだった。これも人は泣いていると言うのだろうか。それでも、カラ松は涙を流さないこの行為を「泣いている」だなんてとても言えなかった。
 泣かないのか、泣けないのか。それすらもわからなくて、ただただ名前を呼ぶことしかできない。痛々しい声をあげる兄弟を宥めることができない自分たちは、どうしようもない子どもだった。
(とうさん、かあさん)
 どうかこの男を、兄を、おそ松を、泣かせてやってはくれないか。六つ子の王様をしていた子どもは、いつの間にかこんなにも泣くことが下手になってしまった。それでも父と母の前では、安心するように目元を綻ばせていたのを知っている。
 ああ、でも、あなたたちはもういない。おそ松が身も蓋もなく縋って甘えることのできるあなたたちは、いつまでたっても大人になれない六人の子どもたちを残して、いってしまった。

「ひ、ぅ、……ッあ!」
 腹に熱いものがぶちまけられて、もう何度目だろうかと考えることすら億劫になってしまった。ちゅ、ちゅ、とうなじから背中にかけて唇を落とされる。その羽のような刺激にも、何度も達して敏感になった体はびくびくと反応を返した。
「カラ松、カラまつ」
 己の体に覆いかぶさるこの子どもは、何を思っているのだろう。名前を呼ぶ声はまるで親鳥を探して鳴く雛鳥のようだ。それに答えを返してやることもできない。十七だ、とあどけなく自らの歳をさらした子どもの精液が、腹の中で逆流している気がする。
 気持ち悪い。そう思った瞬間に、口の中に何かが突っ込まれた。
「うぶっ! う、あぅ」
 それが目の前の兄の性器だとわかるまで些かの時間を要した。こちらのことなど考えずに喉奥まで突き刺されるかと思ったが、ぬろぉ、と次いで引き抜かれて、再びぐぷりと口の中に埋められる動作はとても優しい。
 ずるい、ずるい、ずるいずるいずるい。
 じわりと瞳の奥から湧き上がった熱は、そのまま頬を伝って頬張っている性器のはみ出た部分に漏れていく。それにすら感じるのか、口の中のそれがぴくりと震えた。それすら愛おしく、自嘲の笑いがにじみ出そうだった。
 再び後ろから腰を掴まれる。だけど、意識は己の後頭部を片手で掴み、快感に震えて目を細める目の前の男に奪われていた。

  ある日の夕方、酷く酔って帰宅したおそ松からは、嗅ぎ慣れない香水の甘ったるい匂いがした。
「おそ松、大丈夫か」
「んえ? あ~、だいじょぶだいじょぶぅ」
 とてもじゃないが大丈夫そうではない。おそ松の腕を肩にまわしてとりあえず玄関から居間まで運ぶ。卓袱台のそばに一緒に腰を下ろすと、おそ松はぐでっと卓袱台の上に突っ伏した。
 今日は弟たちは皆出かけていて家には自分とおそ松の二人だけだ。おそ松が粗相をしてもとりあえず自分が片付ければいい。
「とりあえず水……」
 台所で水をくんで、でろりと力の抜けているおそ松にコップを差し出した。大人しくそれを受け取ったおそ松はちびりちびりと水を喉に伝わせていく。
 昨日の夜、おそ松はこの家に帰ってこなかった。こんなあくる日の夕方までどこで何をしてたんだ。尋ねようとして再びおそ松の隣に座ると、ぐいっと右腕を掴まれた。
「うわ、」
 右手はおそ松の腿の上に着いた。バランスを崩した体を立て直そうとして、迫ってきたのはおそ松の顔だった。
 キス。そう思った瞬間に胸を突いたのは、とろんとした顔の中意志を持って歪む瞳ではなく、甘い香水の匂いと首筋のひっかき傷だ。
「ッ!」
 どんっと胸を押しておそ松の体から抜け出す。突然の衝撃におそ松はくらりと体を揺らした。
 久しぶりに感じたおそ松の体温に跳ねる心臓と、紛れもない女の香りに混乱する脳みそと。痛むのであろう頭に左手を添えてこちらを見たおそ松の瞳は、確かに「寂しい」と訴えかけていた。
「昨日、何してた?」
 思っていたよりも温度のない声が出た。嫉妬のような怒りのような声に聞こえて舌打ちを零したくなる。浮気かと言えるような、そんな関係じゃなかったのに。
「カラ松」
 縋る様に手を伸ばされて、だけど、こちらから抱きしめにいくようなことはできなかった。おそ松が寂しさを紛らわせるように、どうしようもない喪失感を埋めるために女を抱いてきたのだとしたら、似たような行為を自分はとてもじゃないがおそ松に対してできなかった。
 おそ松は諦めたようで、でももう一度「カラ松」と迷子の子どものような声で名前を呼ぶ。その声に応えようとする喉は、まるで綿が詰まったように音を出してはくれなかった。
 あれはおそ松なりのSOSだったのかもしれない。家族八人、この家で皆で住むことを一番の喜びとしていた、この男の救難信号。しかしカラ松はそこに全く血の繋がらない他人の影を見い出してしまって、寄り添うことはできなかった。
 そんな、誰ともわからないような他人と自分を同列に扱うな。子供染みた独占欲と、男のプライドと。どうしても好きだというやるせなさ。
 一年後、おそ松が「結婚する」と言い出した時、聞くまでもなくあの時の相手なんだろうなとぼんやり思った。子どもがいる、なんて、流石に思いもしなかったけど。

 どくっと青臭くて苦いものが口の中をいっぱいにした。吐き出そうとして、でも、おそ松が飲んでほしそうに見つめていたからこくこくと喉を動かす。カラ松はおそ松の味しか知らなかった。どろりと喉を這う精液に、ずくりと腹の奥が疼いた。
「きもちーの?」
 おそ松が言った。息子の肩を押して、カラ松の体から楔を抜かせる。その感触にう、う、と呻いていると、するりとうなじを撫でられた。この手はどちらのものだろう。とてもあったかい。
 おそ松が背後に回った。そして、うつぶせだったカラ松の体を肩を引き仰向けにさせる。部屋の明かりなどついてはいないのに、眩しくて目を細めた。籠った空気が部屋を重くする。外はもう、夜だろうか。
 ずぷりと尻に硬いものが入ってくる。先ほどまで受け入れていたものと形が違う。そのことに混乱した。
「あ、あ」
 くらくらと視界が覚束なくなる。腹に入ってくるものが熱くて熱くて、深くなるたびに真っ暗な穴に突き落とされるような心地がした。
「やだ、やだ、おそま」
 必死に姿を探す。いない。どこにもいない。やだ、やだよ。おそ松。
「カラ松」
 ぐっと、手を握られた。その手にざあっと引き上げられて、ばちりと視界が明るくなる。
 カラ松の顔を逆さまに見つめる、その男は。
「おそまつ」
 あの日のおそ松だ。真っ黒な海と、突き刺すような冷たい風と、心もとない小さな星屑たち。一気に押し寄せてきた懐かしい記憶にぼろぼろと涙が流れる。あの日、カラ松の手を引いてくれた、そうだ、十七歳のおそ松。
「おそまつ、おそまつ」
 自分の手を握るおそ松の左手に必死に擦り寄る。涙が落ちる目をぎゅうぎゅう押し付けると、腹の奥からじんわりと快感が滲んでくる。
「あ、あぅ、ん……ッ」
 腰のあたりで、含んだ低い笑い声が聞こえた。そして、目の前の逆さまのおそ松の顔が歪む。

 いつからだったのだろう。この子どもが自分にそういった意味の劣情を抱えているなど、露ほどにも考えなかった。
「カラ松」
 そう言って後ろを着いてくる様子が、たまらなくかわいかった。そんな感情に他意があったかと聞かれたら、なかったとカラ松は自信を持って答えられる。生き写しの姿に重ねていたかと問われても、違うと胸を張って言えるだろう。そのはずだった。
 高校に入学した時だろうか。いつも通り夕飯を作り、その日はおそ松が仕事で家を空けていたから卓袱台の上の皿は二人分だった。運ぶの手伝ってくれと声をかけようとして、居間のふすまから……--。
 おそ松、と、頭の中で無意識に呼んでいた。
 実際に口から出てきたのはちゃんと子どもの名前で、ぱっと振り向いた顔は確かに父親にそっくりだったけど形作る表情は全く別のものだった。特にそれを気に病むこともカラ松はしなかった。それだけこの子どもが成長している証だと、喜ばしくも思っていたのだ。
 だけど、後姿を見るたびにおそ松と呼びかけたくなることが増えた。制服を着ていると、もうだめだった。あのころの甘酸っぱい、何も考えず恋というものに浸っていた時を思い出して駄目だった。
 この子どもが成長して、大人になって、自らの手を離れていけば、自分も前に進めると思った。懺悔にも似たそれは、皮肉なことに子どもが成長していくにつれて綻びを生み出し始めていた。
 影が濃くなる。カラ松のたった一人の兄の影が濃くなっていく。おそ松は生涯を共にする人を見つけて、未来を掴む子を授かったというのに。
 カラ松が、カラ松だけが、ずっとずっと前に進めないでいる。

 腰を掴む手が強くなった。その手にふるりと反応を返すと、嬉しそうな吐息が返ってきた。
「ひぐ、んあ……」
 ぐうっと腹の中のものが大きくなる。前立腺もその奥も擦られすぎて、ひいひいと鳴いた喉が痛んだ。今までで一番奥を突かれて、ぶるりと背中を丸める。そして一気に腹の奥が熱くなり、自身もとろとろと白いものを垂らした。
「カラ松、からまつ」
 逆さまじゃない顔が近づいてくる。必死にしがみついていた誰かの左手は、目の前のおそ松によって引き剥がされる。そして、唇に触れた温度に、またしても涙を流した。
(おそ松)
 頭の中にずっとかかっていた靄がすうっと引いていく。今まで自分が何をして何をされていたのか、パズルのピースがはまるようにして明るくなっていく。
 おそ松は、一人しかいなかった。必死に縋りついた十七歳のおそ松など、もうどこにもいないのだ。
 くちゅ、と口の中をかき混ぜられて、もう何年ぶりだろうかと考える。父さんと母さんが死んで十八年。それだけの月日、カラ松は、一度もおそ松の体温にふれてきたことがなかった。自分の頭の上で途方に暮れている子どもに声をかけてやらなければならないのに。今日のことは忘れろと言ってやらなければならないのに。甘えるように、甘やかすように絡められる舌から離れられなかった。
 妻と子どもに捧げられてきたこの体が、今だけは自分のものなのだ。「おそ松」と最後に名前を呼ぶと、「うん」と震えた声が返ってきた。
「ごめんな」

***

 乳白色の光が瞼を貫いて、まぶしいと目を開けると、そこは見慣れたいつもの寝室だった。
「……?」
 起き上がると、ずきりと腰が痛む。それでも動けないほどじゃない。どちらかというとガンガン鳴る頭痛の方が酷かった。
 水が飲みたい、と腰を浮かせる。すると、ふすまが静かな音を立てて開いた。
「起きた?」
 おそ松がペットボトルの水を持って部屋に入って来た。そして、カーテンを開けようと窓に行き、少し考えた後やっぱりやめたようだった。乳白色の光は、カーテンで濾された日の光だったらしい。
「飲む?」
 そう聞かれてこくりと頷く。蓋を開けようとしたおそ松に「いい」と首を振りそのまま受け取る。力の入り切らない指で蓋を開け喉奥に流し込んだ水は、どこか甘い味を舌に残した。半分ほど中身が減ったペットボトルをおそ松が受け取ろうとするが、それも無視して枕元に置く。ふは、と静かに笑うとおそ松が怪訝そうな顔をした。
「変わってないな」
「え?」
「後ろめたいときに、優しくなるの」
 ぴたりとおそ松が動きを止める。カラ松は自らの下半身を覆う掛布団に目をやったまま、自嘲染みてはなかったかと再び笑いそうになる。
 その、優しさにもなっていない不器用な振る舞いも、図星をつかれて居心地悪そうに視線を床に逸らすのも、全部全部この男の癖で、憎らしいほどかわいかった。
「あいつは?」
「学校行ったよ。熱も下がったみたいだし」
「そうか」
 自分はいつの間にかパジャマを着ていて、多分、兄が着替えさせてくれたのだろう。もぞもぞと動くが尻は特に痛まない。あれだけの行為をしても、幸い切れてはいなかったようだ。
「いい天気だな」
 カーテンを閉め切った部屋で、そう呟いた。外はきっと青空が広がっていて、雲に囲まれた太陽が冬の街をさんさんと照らしている。それらを薄く遮断した埃っぽいこの部屋は、まるで街の全てから置き去りにされたみたいだ。
「久しぶりに呼んだな、おそ松って」
 窓の方に視線を向けて話す。おそ松は再び顔を上げた。
「やっぱり、兄さんや兄貴なんかより呼びやすい」
 なんかって何だよとおそ松が薄く笑う。その笑い声にも、心臓が悲鳴を上げた。
「何が間違ってたんだろうな」
 おそ松は返事をしなかった。ぎゅっと掛布団を握りしめて、カラ松は声が震えないようにと力を込めるのに必死だった。
「謝るなよ」
 おそ松はこちらに手を伸ばさない。動けずにいたのは、二人とも同じだ。
「抜け出さなかったのは、オレの方だ」
 今は昼の三時ごろだろうか。小学生たちの賑やかな声が家の前を通り過ぎていく。じくり、じくりと膿のような静けさが肌からにじみ出る。昨夜、掴まれた腰骨の辺りが甘い痛みを訴えていた。
「おそ松、オレ、アパート帰って服取ってくるな」
「……俺の服貸すよ」
「その服着てあいつのこと迎えられないだろう?」
 苦笑しながら立ち上がる。パジャマから青いパーカーとジーンズに着替えて、鏡を見て少し髪を整える。目尻が赤くなっており、情事の痕は思っていたよりも色濃いものだった。
 階段を降りていくと、おそ松も後ろを着いてくる。玄関を開けると、カーテン越しじゃない日の光が全身を照らした。
「いってらっしゃい」
 おそ松のその声に振り向く。こみ上げるものを耐える表情が笑顔に見えて、きっと、自分も同じ顔をした。
 いってきますとは、言わなかった。

 アパートまでの道のりをいつもより数段ゆっくり歩く。普段この時間に外に出ることはないから、公園で遊ぶ幼い子どもや、散歩をする老人や、デートをする学生とすれ違うのが新鮮だった。
 そして思い出す。おそ松たち家族と過ごした毎日は、きっとこの昼下がりの街のように平和だった。
 結婚する、とおそ松が話した時、オレもいずれは出て行かないとな、と何気なく言った一言に、おそ松がこの世の終わりのような顔をした。それに絆されたと言ってしまえばそうなのだろう。あんなにも家族が離れることを怖がっていた兄が、自ら生きていかないとと腰を上げた。そのことを祝福していたかどうか、カラ松はもう覚えてはいない。だけど、おそ松がまるで「行かないで」というような顔を見せたことにーー歓喜したのだ、きっと。おそ松がたとえ妻子を持っても、愛し愛されているのは自分だとでも思っていたのか。一番あいつの心に棲んでいるのは自分だとでも自惚れていたのか。
 ばかばかしい。縋りついて、動けなかっただけじゃないか。おそ松にそっくりな子どもを愛して育てて、結局それが自己満足の自己愛でなかったと誰が言えるだろう。
 太陽が夕日に姿を変え始めている。足を止めたら、もうだめだった。
「あれ、おーい!」
 その時、前から高めの弾んだ声が聞こえた。顔を上げると、見慣れた姿が走ってくる。
「え、チビ太?」
「やっぱり! カラ松じゃねーか!」
 全力で走って来たのか、チビ太は息を切らして「久しぶりだなぁ!」とバシバシカラ松の背中を叩いてくる。こうして会うのはもう五年振りぐらいだろうか。あまりに懐かしい顔にぽかんとしていると、「ちょっと話さねーか?」と誘われた。
「つっても、今屋台ねーからな……あ、あそこの公園行こうぜ!」
 そこは、昔チビ太がおでん屋を開いていた場所のすぐ近くにあった公園だった。自販機で適当に飲み物を押し、二人でベンチに座った。カラ松が座ったことを確認して隣に座るチビ太は、やっぱり優しい。そのことにふっと笑うと、チビ太は缶を開けながら話し始めた。
「足、どうなんだ?」
「もう普通に歩けるぞ。走ったりするのはちょっと難しいが」
「へえ。最後に会った時はまだぎこちなかったのになぁ」
 リハビリは一生のもの。医者に言われた一言はやっぱり間違っていなかった。チビ太の声が懐かしく、缶コーヒーを掴む手があたたかくなる。
「元気か?」
 チビ太が何気なく聞いた。元気だ、と返そうとして、ぐっと唇を噛む。
「雨が降って地が固まるように……そう、人は時に俯くことも大切な生き物だからな」
「は? つまりへこんでんのか?」
「うーん……どうだろうなぁ」
 何だそれと呆れた声を返されるが、正直、自分でもよくわかっていなかった。
(へこんでる……へこんでるかぁ)
「もう少し、甘えることにも、甘やかすことにも、寛容だったらよかった」
 ぐいっと中身を一気に煽る。ブラックの苦味が昨日口の中に吐き出されたものを思い出させて、胸の辺りが焼け付く様だ。
「なんだそれ?」
 チビ太がよくわからないというように首を傾げる。カラ松は空になった缶を手持無沙汰に弄り、足元に視線を落とす。
 父と母が亡くなって日も経たない頃。おそ松が知らない女の香りを携えて帰ってきたあの日、縋る様に伸ばされた手に応えていたら、もっと違う未来が待っていたのだろうか。もう少し、甘やかすことにも甘えることにも寛容であったのなら。世間の恋人のように、自らを曲げて寄り掛かることができる自分たちであったら。男同士、そして、兄弟。それは自分たちが思っているより大きな枷になっていた。心の弱い部分にふれて寄り掛かって崩れることを、許容できなかったのだ。
(でも、結局、今がそれでないとどうして言えるだろう)
 家庭を持つのだと、それでもカラ松に手を伸ばしたおそ松に、自分は結局応えてしまったではないか。早いか遅いかだけの違いだった。拒めないなら、拒みたくないなら、最初からその手を取ればよかったのだ。
「家族仲良く暮らしていきたい」
 ぴく、と肩が震える。隣から聞こえてきた声に顔を上げると、チビ太は夕日を見て懐かしそうに笑っていた。
「お前、昔履歴書に書いてただろ? ふざけてんなって思ったけど、やっぱりおめぇらしいなぁ」
 夕日がどんどん赤色を濃くしていく。空は六つの色をしていると言ったのは、誰だっただろう。
「父さんと母さんの墓参り、ちゃんと行ってんのか?」
「……ああ」
「おめぇらが仲良かったの知ってるからな、あの六つ子が今はバラバラに過ごしてるなんて、やっぱり信じらんねーや」
 チビ太がよっと腰を上げる。空になった缶を取られて、思わずそちらを見る。
「ま、ほどほどにやれよ。おでんぐらいなら作ってやっから、またあいつら連れて来い」
 ぽかんとして、それからゆっくり頷くと、チビ太は「じゃあな」と背中を向けて去ってしまった。
 チビ太の背中が見えなくなったあともぽつん、と一人でベンチから動けずにいた。夕日が月に居場所を明け渡そうとする。無意識の内に腰を上げると、賑やかな子どもたちの声がした。
「ほら! もう帰るわよ!」
「母さんが怒らない内に早く来いよー」
 続けて聞こえてきた声は、きっとその子どもたちの両親のものだろう。砂場の方を見ると、二人の夫婦の元に三人の子どもたちが駆け寄っていく。
 その姿が、何よりも答えだった。
「あ……--」
 つう、と伝うものは涙だった。昔、迎えに来てくれた父と母と、兄弟六人で手を繋いで帰った。泥だらけの服を家で着替えなきゃと、小走りになりながら八人で家に帰った。
 あの日の自分たちが隣を通り過ぎていく。振り返っても、そこには自分一人しかいない。
『家族仲良く暮らしていきたい』
 四人でさ、旅行行こうぜ。父さんと母さん誘って、そこで、ちゃんと話したい。
(オレは、オレたちはただ)
 赤色が沈む。
 もう、戻れなかった。
(幸せになりたかっただけなんだ)

 

 ◆

 咄嗟に掴んだ手は、泣きじゃくっていたせいか酷く熱かった。肌がふれあえば涙さえも伝わってしまうのだろうか。だんだんと熱くなる目元にくそっと舌打ちをする。ポケットにある金はたかが知れている、だけど、辿りついた駅の切符売り場で一番遠い場所の駅名を押そうと、ただただ黒に染まる道を歩いていた。
 太陽が沈んで、空が夕日の赤色を失わせていく。月も星も、何も出ていない夜だった。
「おそ松」
 どうしようもない暗闇の中、自分の名前を呼んでくれるその声だけが道しるべで。逃げよう逃げようと叫ぶ心がほんのひとかけらの明かりをともす。
 ただひたすらに真っ暗な夜が迫ってくる。色も何も携えることのない、すべてを呑み込んでいく黒。
 世界中の全てに、拒絶されている気がした。

イッツアスモールワールド

 ガッシャーン、と心臓が冷たくなる音と、怒髪冠を衝く怒りの声。その二つにびくんっと体を震わせたのは六人とも同じだ。
「ど、どうするんだよ」
「僕やってない」
「やきゅうやってたのは一緒だろ!」
「お前行けよ!」
「やだよお前が行けって!」
 ぎゃあぎゃあ騒いでいると、ぬっと塀の向こうから頭が見えた。それに気づいて、六人全員ばっと姿勢を正す。野球ボールを手にした「頑固おやじ」は、六人の顔を見て息を吸った。
「誰の仕業だ?」
 その声に皆が皆ばっと指をさす。左側にいたチョロ松と十四松はおそ松を指さし、右側にいたトド松と一松はカラ松を指さした。おそ松とカラ松はというとーーお互いを指さしている。
「はあ!?」
「お前たちか」
「ちが、ちがうって!」
 なんでだよ! と二人して騒ぎ始めるも、がしっと襟首をつかまれてずりずり引きずられていってしまう。
「てめぇら覚えとけよ!」
 その言葉を最後に叫ぶと、四人の姿は見えなくなった。
 そしてはっと目を覚ますと、飛び込んできたのは教室の机たちだった。
「……え?」
 すぐにここがどこかを理解できなくて、きょときょとと周りを見渡す。すると、ぽん、と頭に何かが乗った。
「起きたのかおそ松」
 声変わりを終えた低い声に視線を上げる。一つ下の弟が、前の席に座っていた。頭に乗ったのはこいつの手かと好きなようにさせていると、思いのほかすぐにその手は離れていった。
「んあ……まだ終わんねーの?」
「ん、もうちょっとだ。暇なら帰っててもいいぞ」
 その言葉に素直に変えるのもなんだか気に入らない。再び机に突っ伏すと、カラ松は再び手にしていた台本に顔を戻した。
 そう、台本だ。おそ松はカラ松が台詞を覚えるのに付き合って教室にいた。先ほどまで居眠りをしてしまったが、借りてきた猫のようにおそ松は大人しくカラ松を待っていたのである。
「さっき、夢見た」
「夢?」
「小5? 6? の時にさ、野球ボールでガラス割って、隣のおっちゃんに怒られたじゃん」
「……? そうだったか?」
「なんだよ覚えてねぇの?」
「うーん、あったようななかったような」
 覚えてねぇじゃんと笑って、カラ松の台本を奪う。「あっ!」と声を上げたカラ松のことは無視して立ち上がった。
「もう帰ろうぜ。ここでやんのも家でやんのも一緒じゃん」
「家だと大人しく覚えさせてくれないじゃないか……」
 はあ、とため息をつきながらもカラ松は鞄を肩にかけて立ち上がる。教室を出ようとすると、後ろからカラ松に声をかけられた。
「家に帰ったら、チョロ松に謝るんだぞ」
 ぴたりと立ち止まって、ジト目で振り返ると、ぶはっと笑われた。
「だからここで待ってたんだろう?」
 図星をつかれて視線を床に落とす。気まずくて家に帰りづらかったのは本当だ。
 でも。
(それだけじゃねーよ、ばぁか)
 二年二組の教室を出る。中学生になって、カラ松と同じクラスになったことは一度もなかった。演劇部に入ったカラ松の帰りをここで待つこともよくあるから、自分としては馴染みのある教室なのだけど。
 どうしてカラ松の帰りを待っているんだということは聞いてくれるな。そこには色々な事情があるんだ。色々。
「でも、何で喧嘩なんかしたんだ?」
「あ? お前に学級委員長とか無理だからって言ったらキレられた」
「それはお前が悪いな」
 即答されてうっと言葉に詰まる。何もそこまではっきり言わなくてもいいのに。
「だってあいつ、前に先公にお前は素行が悪すぎるってボロクソ言われてんだぜ?」
「じゃあそれを言えばよかっただろう。その言い方じゃチョロ松だって煽られてるとしか思わない」
 下駄箱から靴を取り出してむうっと唇を突き出す。くそ、こいつ、正論ばっか言いやがって。
「寂しいなら寂しいと言えばいいのに」
「は!? そんなんじゃねーし!」
「チョロ松、最近陸上部で忙しそうだしな」
「だから違うって!」
 先を歩こうとするカラ松の背中をどつく。部活部活と忙しそうにする弟たちが気に食わないのは本当だが、寂しいなんて思ってない、断じて。
「とにかく、帰ったらすぐ謝るんだぞ。オレは台詞を覚えたいんだ、昨日みたいに家が騒がしくなるのはごめんだからな」
「ちぇ、わかったよ!」
 もう少し甘やかしてくれたっていいのに。そうぶすくれていると、またしてもぽすっと頭の上に何かが乗った。それは案の定カラ松の手で、よしよしと乱暴に撫でられる。
「……ガキ扱いしないでくれますかぁ」
 そう言うと、ふふっと笑われた。
 厳しいんだか甘いんだか、よくわかんねぇやつ。

 皆で銭湯に行って布団に入った後、おそ松は部屋を抜け出して居間にいた。普段より明かりを一段階暗くして、持ってきた本の表紙をぱらりとめくる。この間読み終えてしまった小説と同じ作家だ。あらすじもまともに読んでいないが、きっと面白い。
「何読んでるんだ?」
 背後からかかってきた声に特に驚きはしなかった。来るだろうな、と予想していたから、お茶が入った湯呑は二つ用意してある。
「これ」
「ん……ああ、この間読んでた人と同じか?」
「うん」
 おそ松の隣に座ったカラ松が、手にしていた台本を開く。これも、最近では慣れ親しんだ光景だった。
「まさか、お前が本読むようになるなんてなぁ」
「進めたのお前じゃん」
「それはそうだが……こんなにもはまるだなんて、思ってなかったから」
 ふふっと嬉しそうにするカラ松をかわいいと思って、慌てて首を振る。この時間帯にその思考は結構危ない。
 中学に入って最初に部活に入ったのは、このすぐ下の弟だった。突然上の兄弟を「兄さん」と呼び始めた弟たち、カラ松を皮切りに部活に委員会にと外に世界を広げていった弟たち。おそ松はやるせなかった。急に視界が開けて、手を繋いでいた兄弟たちがどんどん背中を向けて離れはじめる。そのことに耐えられない、と爆発しそうになったとき、手を伸ばしてきたのはカラ松だった。
『おそ松、オレが部活終わるまで待っててくれないか?』
『は? 何で』
『母さんに帰りにおつかいを頼まれてな。一緒に来てくれ』
『えー、めんどくさい』
『オレ一人じゃ持ち切れない量なんだ』
『待ってる間暇だし』
『うーん……あ、そうだ。暇なら、これでも読んでみてくれ』
 そこで渡された一冊の小説。それが、おそ松の新しい世界を開いていった。カラ松が渡した小説は、演劇部が二か月後に公演する台本の原作らしい。本なんて漫画や雑誌しか読んだことがなく、挿絵がない恐ろしい厚さの小説は正直パラパラとめくるだけで鳥肌が立った。だけど、弟が自分に渡したものを読めなかったと言って返すのはなんだか悔しかった。実際、おそ松は一人で学校からの帰り道を歩くことにほとほと飽きていたので教室でしぶしぶ本の表紙をめくったのだった。
 そして、今に至る。結局おそ松はそれ以来カラ松以上に本を読むようになり、読む速度はそれほど速くないものの、兄弟の中で一番の本の虫となったのだった。しかしそれを兄弟に知られるのは恥ずかしく、本を読む姿は未だカラ松にしか見せていない。一松もそれなりに読む方であるから話してみてはどうだとカラ松に提案されたが、なんだかむず痒くなってしまって実行に移せないでいる。
「面白いか?」
「んーわかんね、まだ読み始めたばっかだし」
 といっても、一ページ目を読んで読みにくかったり面白くなかったらすぐに別の小説に手を伸ばすおそ松であったから、今手にしている小説はきっとおそ松のお気に入りになる。カラ松がそんなことを思いながら笑ったのを察したのか、おそ松はすぐ隣の弟のわき腹を小突いた。
「……なあ、おそ松」
「何?」
「少し頼みたいことがあるんだが」
 カラ松がこういう言い方をするのは、ちょっと弟としての顔を見せている時。下の四人が「おそ松兄さん」と呼び始めても頑なに「おそ松」と呼び続けているカラ松が、ちょっぴり弟になりたい時。ずるいよなぁと思いながらも、おそ松はその話に耳を傾けざるを得なくなる。
 だって、こいつの兄は俺だけなんだと思ったら、小さくはない独占欲がなみなみと満たされるじゃないか。
「頼み? 何だよ」
「……次の劇の台本を、書いてはくれないだろうか?」
 ぱちり、と大きく目を瞬かせてしまった。ぱちぱちと瞬きを繰り返しても、目の前の真剣なカラ松の表情は変わらない。
「……何言ってんの?」
「そのままの意味だ」
「い、いやいや、無理だよそんなの。書いたことないしめんどくさいし。……うん、めんどくさい」
「お前なら書けると思うんだ!」
 ずいっと迫られて後ずさる。普段は見ない熱が目の奥で揺らめいており、見たことのないその目の理由が演劇によるものだと思ったら、場違いな嫉妬が胸で渦巻いた。
「何で急に」
「お前、前に台本の台詞がおかしいんじゃないかと指摘してくれたことがあっただろう?」
 ああ、そんなこともあったっけかと三週間ぐらい前の記憶を引っ張り出す。気まぐれに台本を見せてもらって、その話の展開に少し違和感を覚えて何気なくカラ松に言ってみたのだ。深く考えることなく、ただ直感で話してみただけ。
「あの時おそ松が言ってくれたように台本を改善したら、話の流れがすごくスムーズになったんだ。次に公演する劇の台本はまだ決まっていない。既成のものでもいいんだが、もし、もしおそ松が書いてくれたら」
「やだよ」
「ホワイッ! どうしてだブラザー!」
「めんどくさいもん! っていうかあいつらに文句言われるから!」
 騒ぎ始めたカラ松の口を覆う。もごもごとカラ松はまだ話したそうだったが、うるさいと弟たちに叱られるのも嫌だったので手は離さない。
「ってか、俺以外にもいるだろ、書けそうなやつ」
 もごもごとカラ松が口を動かすが、さっきよりは大人しい。しぶしぶ手を離すと、ぷはっと息継ぎをしたカラ松が目をキラキラさせてこう言った。
「お前の書いた話が読んでみたい」
 あんまりにも無邪気にそう言われてしまって、おそ松はうぐ、とたじろぐことしかできなかった。めんどくさいと言い募っても、カラ松は「おそ松のが読みたい」と言うばかりで全く取り合おうとしない。中学に入ってなぜかナルシスト気味の性格を助長しはじめたカラ松は、時としておそ松がたじろぐほどの我の強さを見せる。
「台本とか、ぜってーめんどくさいやつじゃん! 小遣いとかでねぇだろ、やだよ!」
「なんでもするから!」
 むぐ、とおそ松は文句を言っていた口を閉じた。なんでも、との言葉が頭をリフレインする。
「なんでも?」
「なんでも」
「ほんとになんでも?」
「ほんとになんでも」
 ただただオウム返しをするカラ松に頭を抱えそうになる。ここで「なんでも」とか、軽率に言うなよな~とおそ松はしかめっつらになるが、カラ松はどこ吹く風だ。むしろ、おそ松が反応を返したことで満足そうににんまりと口の端を上げている。
 そういうこと言ってるといつか痛い目にあうぞ、と忠告したかったが、それもそれで面白くない。カラ松が「なんでもする」と言う動悸の根本は演劇にあるわけで、それもまた面白くない。むう、と口を尖らせたおそ松は、もうなんでもいいやと投げやりに口を開いた。
「じゃあさ、ちゅーしてよ」
 今度は、ぽかんとカラ松が口を開けた。「ちゅー」とオウム返しをして、きょろきょろと辺りを見渡している。いや、残念だけどここにはお前しかいないよ。
「……オレと?」
「うん」
 こくりと頷くと、カラ松は再びきょとりと口を開けた。太く吊り上がった眉はそのまま、口だけが間抜けに丸くぽかりとしているのがなんともおかしかった。
「……ま、そんぐらいやりたくないってこと。お前もさ、なんでもするとかそういうこと」
 言うのやめろよな、と続けたかった唇は、むに、と押し付けられたものに塞がれてしまった。
「…………へ?」
 離れていくのはカラ松の顔だ。呆気に取られてカラ松を見ると、満足げな顔で笑われた。
「これでいいのか?」
 そのあまりにも毒気のない顔に、こくりと頷く。ふんすふんすと前のめりになったカラ松は続けておそ松に強請ってくる。
「オレはなんでもしたからな! だから、書いてくれ!」
 最近、妙にかたくるしい話し方を覚えたカラ松が、今、おそ松の前でひまわりのようににぱっと笑ってみせる。
(う、ばか、このやろう)
 降参だ、と赤く火照り始める顔を両手で隠す。なんでもしたぞ、と得意げなカラ松に一矢報いたくなって、パジャマの胸元を片手で掴んで引き寄せる。
「うおっ!?」
「一回だけ、なんて言わないよな?」
 上目遣いでそう尋ねれば、にやぁとカラ松が口元を緩める。
「フッ、オレも罪なギルドガイだ。マイブラザーをここまで魅了してしまうとは」
「イテテ、な、なんかアバラが」
「だ、大丈夫かおそ松? あー、んんっ、キス、キスだな。お前がしたい時に、いつでもしてやるぞ」
 なんて魅力的な言葉だろう。そこまで言われて頷かない男がいるだろうか。男と言うにはおそ松はまだ幼すぎたが、これでも声変わりを迎えているし、毛もちゃんと生えているし、精通だって済ませた。
「……わかった。やる、やるよ」
「本当か!?」
「でも、どんなやつができても文句言うなよ! っていうか書けるかもまだわかんねーし!」
「大丈夫だ、出来が悪かったら別の台本を使う」
「え、シビアじゃね?」
 そこで妥協はしたくないからなと話すカラ松を殴ってやりたかったが、でも、「おそ松の書くものを読みたい」とキラキラした目で訴えてきた顔を思い出してぐうっと唸る。
「楽しみにしてるぞ、おそ松」
 所詮、惚れたもん負けなんだ。おそ松ははいはいと軽く受け流しながら再び小説の表紙をめくった。カラ松はおそ松の隣に座って台本を覚えようと姿勢を正す。なんで隣なんだと思ったが、微かにふれあう肩のぬくもりに高鳴る胸が、それを言葉にさせてくれない。
 そう、いつだって惚れたほうの負けなのだ。
 松野おそ松は、一つ下の同じ顔をした弟、松野カラ松に、恋をしている。

***

「そんなこともあったなー、と……」
 窓の外、校庭を見下ろしておそ松はため息をついた。土曜日の真昼。教室には誰もいない、校庭にいるのは陸上部の面々。ぐうう、と鳴る腹をなんとかごまかそうとしてぽかりと叩いてみたが、それに憤慨したのか腹の虫は更に大きな大合唱を始めてしまった。
「カラ松ぅ、はやくきてよ~」
 情けなく呼んでも一人きりの教室に声は消えていくばかりだ。高校に入学しても、カラ松は演劇部を選んだ。チョロ松は陸上部には入らなかったし、中学の頃は委員会に入っていた一松も、高校に入学してからは授業が終わればふらっと帰るようになっていた。十四松は中学のころよりも盛んに外にでかけるようになり、トド松は友だちや女子とカラオケだのショッピングだのと放課後を満喫していた。
「お兄ちゃんさびしがってるよぉ……」
「そうか、遅れてすまない」
 頭上から降ってきた声にばっと顔を上げると、制服のシャツのボタンを二個ほど開けているカラ松が覗き込んでいた。
「カラ松! おそいよぉ、お兄ちゃんお腹と背中がくっつきそう」
「だから先に食べてていいと言ったのに」
「ぼっちめしは好きじゃないんですー」
 土曜日に部活があるカラ松についてきたのはおそ松のほうだった。家にいても誰もいないので、カラ松が部活に行っている間、教室で待つと言って母に弁当を二つ強請ったのだ。こうしたことは今までにも何度かあったので母も「はいはい」と笑いながら作ってくれた。弁当は一人分を作るよりもいっそ二、三人作っちゃった方が楽なのよと笑う母は、毎日八人分の(そのうちの六人は食べ盛りの男子高校生だ)食事を作る貫録を漂わせていた。
「ん、」
「どした?」
「オレ、そっちにすればよかった?」
「へ、なんで」
「からあげ、そっちの方が多い」
 むぐむぐと頬を膨らませながら不満気にするカラ松に「やんねーよ」とからあげを一つ口に含んだ。「あっ」と残念そうな顔をしたカラ松に笑いそうになる。本当にこいつはからあげが好きだな、と思いながら口にするからあげはうまい。
「ひまじゃなかったか?」
「ひまだったよー。漫画も本も持ってくんの忘れたし。だから寝てた」
「じゃあ家にいればよかったんじゃ……」
 食べ終わった弁当箱を片付けながら雑談をする。ぺろりと唇を舐めるカラ松の舌が、教室の窓から差し込んでくる太陽に照らされていつもと違う色をしている気がした。
 衝動に突き動かされるままに動く理由は、そんな一つの小さなきっかけでよかった。ちゅ、とカラ松の舌に自分の唇を押し付けるとカラ松は目をぱちぱちと瞬かせた。
「今は何も頼んでないぞ?」
「ん、そだね」
 こうしてキスをするのはもう何度目だろうか。カラ松が何か一つ頼みごとをするたびにキスをして、強請って、そして何でもない時もおそ松は不意にカラ松の唇を奪う。中学生の頃に染みついた習慣をおそ松はもちろん変えようとはしなかったし、なぜかカラ松も疑問の声を上げようとしない。そのまま、ここまで来てしまったが。
「続き、まだ読ませてくれないのか?」
 カラ松がうずうずと手を彷徨わせておそ松に尋ねる。あー……とぼりぼり頭をかいて、「まだ」とそれだけ告げる。
「続きが気になってしょうがないんだ。早く書いてくれないと夜しか眠れない」
「お前昼もよくぐーすか寝てんじゃねーか」
 続きねぇ、と教室の天井を見上げる。元々の性格として急かされるのはあまり好きではなかったが、カラ松に「気になる」と言われてしまうと嫌だと言えない自分がいる。
 中学の頃初めて書いた台本は、無事演劇部によって上映された。台本が完成されるまでにカラ松が何回おそ松にキスをすることになったのかはここでは触れないでおく。カラ松は公演が終わるともっと台本を書いてみないかとおそ松に持ちかけたが、それが叶うことはなかった。
『俺、小説書いてみたい……かも』
 驚いたのはカラ松だけではなく、おそ松もだ。言った瞬間「何言ってんだ?」と自分で首を傾げてしまった。しかし、カラ松は絵を描くことも裁縫も演劇も物語も好きな、創作を楽しむことのできる男であったので、おそ松のその言葉を聞いて歓喜したのだ。
『書いたらオレに読ませてくれ!』
 おそ松は自分でも、今していることがらしくないと思っている。基本、好きなものは大量の漫画とかわいくてきれいな女の子と少々の喧嘩と思う存分ぐうたらすることなのだ。そこにカラ松の手によって小説がぽとりと落とされて、その波紋に後押しされるようにおそ松は「らしくない」趣味をこうして続けている。らしくない、けど、楽しかった。
「素人の書いたやつ読んでてさ、つまんねーとか思わない?」
「思わないぞ? お前の書く話は好きだ」
 にぱっと真正面からそう言われてぐっと言葉に詰まる。なんというか、色々と正直すぎる弟だ。
「なんか俺は恥ずかしいなー」
「恥ずかしい? なぜだ?」
「うーん、なんか、オナニー見られてるみてぇ」
 明け透けな言葉にたじろいだのは、今度はカラ松のほうだった。
「な、何言ってるんだお前は」
「キスは平気なのにこれはだめなの? よくわかんねーな」
「フッ、ベーゼは親愛の情を交わす儀式でもあるんだ……だからその、お、オナニー……」
 えっと、と下を向いてしまったカラ松に熱くなったのは、顔ではなく股間だ。普段、兄弟や友達と猥談だってするだろうし実際に一緒にしていたのに。こんなところで言葉を詰まらせて顔も耳も首も真っ赤にしてしまうのは、ちょっと、卑怯じゃないか?
 ぐいっとカラ松の左手を掴む。上半身が傾いたカラ松の顔を覗き込んで言ってやった。
「……でもさ、読んでくれんだろ?」
 キスをする前の、吐息が唇に触れる距離。その距離で、カラ松の左手はおそ松の股間の上、ぎりぎり触れないあたりで止まっていた。
「……ッ!」
 ぶああっとりんごも真っ青なほど顔を赤くさせたカラ松に、おそ松は吹き出しそうになる。しかし、
「カラま、」
「あ、ア、あほ!」
 ずがんっと脳天にとんでもない衝撃が落ちてきた。
「い、いってぇぇええ!」
 椅子から崩れ落ちておそ松が頭を抱えて蹲っていると、カラ松は脱兎のごとく教室を出て行ってしまう。
「あっばか! おい!」
「部活だ!」
 廊下に向かって叫ぶと、カラ松はそう言って走り去ってしまった。一人残された教室で床に尻を突きながら「ちぇー」と唇を尖らせる。
「……--今まであんなに恥ずかしがったことねーくせに」
 ぼそっと呟くと、拗ねた口ぶりとは反して口角が上がる。
 そう、今まであれだけの言葉で恥ずかしがったことはなかった。それに、最近カラ松にキスを仕掛けると、少し戸惑ったように目を泳がせるのを知っている。
 ついさっきも、耳はキスした時から赤かった。
(……へへっ)
「脈アリってやつ?」
 塵も積もれば山となる。キスも積もれば恋になる、ってね。
 我ながら寒いと思いながらも、おそ松は大人しく部活終わりまでカラ松を待つことにしたのだった。

「オレは雨男だから」
 と、うなだれながら寄って来た時はまた一松やトド松辺りに何か言われたのかと思った。ところが聞いてみるとそうではないらしい。クラスメイトと話している時にお前は雨男だとからかわれたらしく、それを気にして弟たちと七夕まつりには行けないとカラ松は言うのだ。
「お前は何でまたそういうの気にしちゃうかねぇ」
「去年もその前も確か雨だっただろう? それで今年もまた雨だと、ブラザーたちがかわいそうだ」
 地元の商店街の七夕祭り。旧暦で日程を設定しているのか、ここの七夕祭りは八月に行われる。いつもはシャッター街になってしまっている商店街も、夏は色とりどりの飾りをまとって昔の活気とした姿を取り戻す。
 カラ松は弟を思って七夕祭りに行くことをためらうような、そんな殊勝な男ではなかった。なのに今日はどうしたことだろうか。
「いってきまーす!」
 仲の良い女友達と一緒に七夕祭りに行く、とばれたトド松は兄弟たちからリンチのような目に合わされても、めげずについ先程玄関を出て行った。父と母も二人で祭りにでかけてしまった。チョロ松はアイドルの趣味が合うクラスメイトと、一松と十四松は二人で既に家を出た。
 つまり、家にいるのはおそ松とカラ松の二人のみであるわけだが。
「ま、とりあえず」
 冷蔵庫から二本コーラを取り出してそのうちの一つをカラ松に放る。不真面目な六つ子であったが、お前たちがはたちになった時に一緒に酒を飲むのが楽しみだ、と缶ビールを開ける父の姿を知っていたので、誰一人として酒には手を出していなかった。
「かんぱーいっ!」
 ガチッと荒々しく缶をぶつける。居間で二人でコーラを煽っていると、七夕祭りが外であるなんて思えない、夏休みの夕方であった。缶に口をつけるカラ松の顔はやっぱりどこか暗い。辛気染みてんなぁと天井を見上げていると、ふと、隣に自分の物ではない体温を感じた。
「カラ松?」
 人一人分空けて座っていたが、カラ松はいつの間にかすぐ近くに寄ってきていた。パーソナルスペースが六人の中では広い方である弟が珍しいこともあるもんだと、おそ松は残りのコーラを一気に飲み干す。
「なんか最近、らしくねーじゃん」
 少し迷ったが、正直に聞くことにする。
 少し迷ったが、正直に聞くことにする。目星がつけばそれとなく自然に察することもできたのだろうが、今はとりあえず手がかりゼロだ。雨男だというクラスメイトの言葉をそんなに引きずっているわけでもあるまい。引きずっていたらおそ松の中の嫉妬の炎が軽く燃え上がってしまう。
「らしくない、か?」
「別に雨降ったからってあいつらもそこまで気にしねーよ」
「……なあ」
「んあ?」
 左肩に手を置かれて、つい反射的にそちらを向く。すると、ぷちゅ、とかわいらしい音を立ててキスをされた。
「んむ?」
 唇がくっついたままはてなマークを頭に浮かべる。するとカラ松は、大人しく顔を離し床に目を背けた。
「……珍しいね」
 というか、初めてだ。カラ松から自発的にこんな風にキスをされるなど。呆気にとられていると、カラ松が自分の胸に拳を当てた。
「やっぱりおかしい」
「何が?」
「ーー以前は、何ともなかったんだ。でも今は、こうしておそ松とベーゼを交わすと、心臓が痛くなってしまう」
 ベーゼとの言葉に軽くあばらを痛めたが、カラ松の真剣な顔に息を呑む。
「なあ、おそ松、お前は何ともないのか? 平気なのか? オレとこんなことして、お前の」
 カラ松の右手を握って、ぐっと自分の左胸に当てる。頭で考えたんじゃない、本能のままに動いていた。
「……っ」
「平気だよ」
 どくん、どくん、と心臓は悲鳴を上げるように鼓動を大きくしていた。平気だよ、とのおそ松の言葉が霞となってカラ松の肌を撫でていく。お前はうそばっかりだと言いたげなカラ松の顔におそ松は苦笑する。
「そうだよ、俺、うそばっかつくの。知ってんだろ?」
 顔を真っ赤にさせたカラ松がこくりと頷く。うそつくのが上手くなかったら、小説なんてそもそも書いちゃいないんだ。
「オレは、うそをつくのはあまり上手くない」
「うん」
「だから……--おそ松と、ブラザーたちと出かけたら、全部ばれてしまう気がして」
 何が? と聞いてもカラ松はまだ口を開こうとしなかった。おそ松はため息をついて、カラ松が手にしていたコーラを優しく奪い取る。
「あいつら結構鈍感だし、わかんないんじゃね?」
 何のことかわかんないけど、と付け足す。それもきっと、カラ松には白々しく聞こえているんだろうけど。
「罪悪感の方が、正しいのかもしれないな」
 隣の弟が呟く。カラ松のコーラを卓袱台に置くと、缶を伝う汗がおそ松の親指を濡らした。
「お前たちの兄貴を、って、最近ずっといたたまれない気持ちになるんだ」
「そんなん、俺の方がなってるし」
 カラ松がふいっと顔を上げる。「俺にとっちゃあ今更だよ」と続けると、顔を歪めて「いつからだ」と尋ねてきた。
「覚えてねぇよ。気づいたら、キスしたかった」
 そう言うと、パーカーの襟ぐりを掴まれて唇を押し付けられていた。ふに、ふに、と押し付けるだけのそれ。今まではそうだった。でも、もう、その向こう側も知っている年齢になってしまった。
 どちらからともなく唇をうっすら開ける。反射的にそこに舌を滑り込ませると、カラ松の肩がびくりと震えた。
(や、べぇ)
 人の体内は、こんなにも熱いものなのか。ぬるぬると動くカラ松の舌をなんとかとらえる。びくりと震えたようだった。それにたまらなくなって、襟ぐりを掴んでいるカラ松の両手をその上から掴む。舌の先は敏感過ぎて、二人ともが中腹辺りをすりあわせながら唾液を交換していた。それをこく、と飲んだようなカラ松の喉の動きに頭が沸騰しそうになる。もう三年近くもカラ松とキスをしてるのに、唇の向こう側はこんなにも濡れてぐっしょりしているだなんて、知らなかった。
「ん、んぅ」
 まるで、カラ松の舌を食べてるみたいだ。そう思ったら、腰の辺りがずん、と重くなる。それはカラ松も同じなのか、目を開けて必死に何かをおそ松に訴えている。
「う、ンん、お、おそ、おそまつ」
 これ以上は、と必死に自分の熱を宥める。このまま続けていたら、どこまで進んでしまうかわからない。暑いだの疲れただの言って弟たちがいつ帰って来るのかもわからないのだ。
 ぷは、と唇を離して、つう、と何本も伝った銀の糸を舌で切る。先ほどの赤面なんか目じゃないぐらい赤く上気した顔にくらりとくるが、きっと自分も似たような顔をしているのだろう。カラ松の瞳が微かにぎらついている。そして自分も、おなじ瞳をしているはずだ。
「はは、すっげぇね」
 照れ隠しのようにそう言うと、カラ松も「ああ」と頷いた。今までかわしてきたいくつものキスなんて、文字通り子どものままごとでしかなかった。
「おそ松はすごいな」
「何が?」
「オレは、怖かったから。認めるのが」
 どちらともわからない涎を親指で拭いながらカラ松が言う。認める、との言葉におそ松は首を傾げた。
「んー、俺は気づいたらそうだったもんなぁ。怖いとかそんなん、もう遅かったわ」
「……そうか」
「あれ? カラ松照れてんの?」
 うりうり~と頭を撫でまわすと、うわやめろと拒否の声が上がる。
「--そりゃ、照れるさ」
 ぼそっとカラ松が言う。素直な声に少し調子を崩されたおそ松は、天井を見ながら鼻の下を擦った。
「ま、強いて言うならあん時かな。ガキのころ、頑固親父に一緒に怒られた時」
「え?」
「結局あのじいさん、最後は俺たちにケーキ食べさせてくれたんだよな」
 うーんうーんとカラ松が必死に記憶の糸を辿ろうとする。しかし、結局思い出すことはできなかったようだ。
「すまん、思い出せない」
「えー。ま、お前バカだししかたねーか」
「バカとはなんだバカとは」
 あの時確か、「お前たちはいい兄貴をしているな」と言われたんだ。そして、隣で一緒にケーキを食べてたカラ松がこちらを見て、にひっと笑ったのを覚えている。
『オレたちが兄貴でよかったな! 得したぞ!』
 なんとも六つ子らしい現金な言い様に、おそ松もげらげら笑ってケーキを食べつくした。
 それから中学に入って兄貴だ長男だと外から言われることが増えたけど、あの時のカラ松を思い出したら、兄であるからこそ得していることも多いということにちゃんと気づくことができた。
「お前が雨男でよかったぁ」
 カラ松の肩に頭をのせると、戸惑ったようにあたふたしてみせる。織姫と彦星は会えるし、俺とカラ松は二人っきりで家でいちゃいちゃできるし、願ったりかなったりだ。
「おそ松」
「ん?」
「……--もう一回」
 それが再びキスを強請るものだったのだと理解するのに、約一分ほどかかってしまった。

***

 蜜月、とでも呼ぶのだろうか。夏休みが終わって学校が始まってからは、校内のいたるところで色んなことをした。家族が必ず一人はいる家でそういうことをするよりも、校内の誰もいない教室や資料室でコトに及ぶ方がよっぽどリスクが少なかったのだ。キス、それから、それ以上のこと。初めてカラ松とさわり合いをしたのは、普段授業を受けている教室だった。テスト週間で部活がない日、夕焼けで真っ赤に染まった教室で、カーテンに隠れながらふれあった。さわるだけで熱くて熱くてたまらなくなって、セックスなんかしたらどうなってしまうのだろう。終わった後に二人して笑った。甘くて幸せでふわふわした毎日だった。そんな日々に、自分たちに、酔っていたと言われればそうなのだろう。
「最近、おそ松兄さんとカラ松兄さん仲いいよね」
 そう言ったのはトド松だった。居間にいた他の五人は突然のトド松の言葉に耳を傾ける。当の本人たちはきょとんとしていた。
「え、そう?」
「うん。学校の帰りとか毎日一緒じゃん」
 確かにと頷いたのはチョロ松だ。一松は猫と戯れることに集中を戻したらしく、十四松は卓袱台に顎を預けておそ松とカラ松を見ている。
「だって家に居てもお前ら構ってくんねーじゃん」
「え、もしかしてカラ松兄さんが部活終わるまで待ってんの? 健気だねー」
 トド松に笑いながら言われておそ松はむっとする。カラ松は未だぱちくりと目を瞬かせるだけだった。
「仲良しでなんか悪いかよ」
「別にー。ただ、クラスの子が上の二人仲いいねーって話してたから」
 おそ松がぴく、と肩を動かす。今、六つ子ではおそ松とトド松、カラ松と一松、チョロ松と十四松が同じクラスだった。トド松と仲がいいクラスの子(恐らく女子だ)を思い浮かべる。噂好きのグループだった気がする。
「……へえ」
 おそ松のその返事を最後にトド松も他の兄弟も興味を失くしたのか、それぞれやりたいことに興味を移していく。
 おそ松はといえば、胸にざわざわしたものを覚えていた。ちらりと隣のカラ松を見ると、おそ松の顔が鏡に映ってしまったようだった。自分たちはもっと注意しなければならない。
 ……--なんで?

 体育館裏で、二人はぼおっと空を見上げていた。
「仲いい、ね」
 耳を澄ますと近くの教室から授業の声が聞こえてくる。おそ松とカラ松は授業をさぼり少し早目の昼食を食べていた。
「見られていたか?」
「それはねーと思うけど、ま、見られてても不思議じゃねぇわな」
 焼きそばパンをもそもそと頬張る。カラ松は弁当の唐揚げを箸で摘みながら浮かない顔をしていた。
「そんな気にすることないって! これから周りに注意しとけばいい話だし!」
「……そうか」
「お前だっていちゃいちゃできねーのいやだろ?」
 ずいっと顔を覗き込むと、びくっとカラ松が肩を跳ねさせる。
「--ああ」
 そして、ちゅ、と軽くキスされた。おそ松が目を丸くさせると、「いやだな」とカラ松が笑った。
「珍しくかわいいことすんじゃん」
「フッ、お前がいつもしていることを返しただけだ」
 なぜかかっこつけているカラ松に笑っていると、遠くから「おーい」と声が聞こえた。
「ん?」
「あ、やっぱりここにいた」
 ぞろぞろと二人の元にやって来たのは、四人の弟たちだった。
「あれ、お前らどうしたの?」
「僕と十四松がさぼって外出てきたら、一松とトド松に会ったんだよ」
「おそ松兄さんだけさぼってんのずるいし」
「クソ松、お前のせいでおれが色々言われたんだけど」
「そんで、おそ松兄さんとカラ松兄さんどこにいんのかなーって探してた!」
 四人がそれぞれ好き勝手に話しだす。二人は顔を見合わせて、そして感慨深げに呟いた。
「シンクロ……」
 四人はおそ松とカラ松の間のパンに手を出し袋を破いて食べ始める。
「あ、それ俺らの!」
「いいじゃん、弁当持ってくるの忘れたしお腹減ったの」
「っていうか、お前ら僕たちの小遣いスっただろ」
 チョロ松の言葉にぎくっと二人は体を強張らせた。それに他の三人が「はあ?」と顔を歪ませた。
「え、何それ聞いてないんだけど」
「言ってないから」
「クソかよ。ってことでそれ僕たちがもらうから」
 ばくばくと食べ始める弟たちに二人はしょぼんとした顔を見せた。何であのパンがないんだとかこのパン美味しくないとか、二人のパンのチョイスに散々な言い様である。
「ちぇー、なんか損した」
「ブラザーたちの懐から神秘なるマネーを拝借するにはまだ修行が足りなかったようだ……腹へった」
「お前弁当まるまる食べてんじゃん!」
 空腹を訴えるカラ松におそ松はげらげら笑う。すると、四人がこちらに視線を寄越してきた。
「な、なんだよ」
「んー、やっぱり仲いいっすね!」
 十四松がにぱっと笑い、他の三人も苦笑するような表情を見せる。
「……そうか?」
 複雑な気分だったが、それでも機嫌は良い。弟たちが乱入したことに少し寂しさを覚えたものの、二人きりでさぼるよりも六人でバカ騒ぎをしているほうが楽しかった。隣のカラ松を見ると、同じように屈託のない笑顔を見せて一口ずつパンをかじらせてもらっている。
(結局、六人で一つってね)
 雲が流れる青空を見ておそ松はひとりごちる。
 このあと、それぞれのクラスの担任に見つかって満腹の腹のまま追いかけっこをした。

***

「子どもが産まれたんだ」
 興奮気味にそう言った父の姿を、おそ松はじっと見上げていた。
「子ども?」
「ああ。お前のいとこのーーだ」
 いとこの女性の名前を言われて思い出す。父はおそ松の真正面に座り、卓袱台の上の湯呑に手を伸ばした。居間はおそ松と父親の二人きりで、日曜日のこの日、家族はみんな家を出ていた。
 そのいとこの父親は、確か父さんの弟だ。
 親戚に全く興味がないおそ松は「ふうん」と茶をすする。
「あいつもついに孫ができるのかぁ。うらやましいな」
 ふと、父の方に視線を向ける。感慨深そうに、湯呑を手にしてそれを見つめていた。
「お前たち六人を育ててたからもういいかと思ってたけどな。やっぱり孫って聞くとこう、羨ましくなるもんだ」
 冷め始めている茶をすすり続ける。それが喉を伝って腹に落ちていくたびに、すうっと体が冷えていくようだ。
「孫、ほしいんだ?」
「そりゃあもちろん」
 ぐっと湯呑をつかみなおす。「あのさ、」と話しかけようとしたその時、ガラッと玄関の開く音がした。
「ただいま。って、あら、カラ松?」
 母が帰ってきたんだと、そして続いた言葉にぎくっと体を強張らせる。振り向くと同時、居間に二人が入って来た。
「カラ松ったら、そこでぼおっと立ってたのよ」
「え、えっと……フッ、ブラザーとダディの親睦の場を邪魔してはいけないと思ったんだ」
「カラ松、あんたもお茶でいい?」
「あ、うん」
 立ったままのカラ松とばちりと視線が合う。カラ松は居心地悪そうに視線を逸らした。先ほどの父との会話を聞いていたのだろうことはその態度から明白だ。おそ松は無言で尻の位置を移動すると、カラ松がその隣に座る。そして母が湯呑を二つ手にしながらやってきて、父の隣に座った。
「珍しいわね、お父さんとおそ松が二人そろって」
「いやな、--が子どもを産んだらしいんだ
 あら、と母も嬉しそうな顔を見せる。元々親戚づきあいに活発な方ではない松野家だったが、母は息子たちが生まれる前はそれなりに交流があったのか、「子どもねぇ」とにこやかな顔をしてみせる。
「それで、兄さんたちも病院に顔を見せてくれよって頼まれてな。母さんも行くだろう?」
「ええ。赤ん坊を見るのなんてもう何年ぶりかしら」
 目を細めて微笑む母の目尻にしわが寄る。そのことにおそ松はどきっとした。
「どうだ、お前たちも行くか?」
 突然尋ねられて、おそ松とカラ松はぴくりと動く。深く考える前に、おそ松は口を開いていた。
「や、俺はいいや。生まれたばっかってサルみたいでしょ? もうちょっとかわいくなってから会いに行くわ」
「お前はそう言うと思ってた。どうだ、カラ松は?」
「あー、オレも遠慮しておく。最近部活が忙しくてな」
「あら、もったいない」
 ほう、とおそ松はため息をついた。そのため息の理由は、自分でよくわかっている。
(孫、ねぇ)
 自嘲したくなる。なんとかそれを抑えて湯呑に残っていた茶を全て飲み干すと、そういえば、と母が声を弾ませた。
「おそ松、あんた小説書いてるらしいじゃない。今度母さんたちにも見せてほしいわ」
「ンブッ!」
 思わず吹き出してしまった。ごほっごほっと咳き込むとカラ松が慌てたように背中を叩いてくる。バカ力気味でちょっと痛い。
「え、な、なんで知ってんの?」
「あんたたちの部屋掃除してたらノートが出てきたのよ。そこに色々、」
「あー! あー! わかったからやめて!」
 うううと顔を覆って俯く。は、恥ずかしい。
「いいじゃない。あんたにそんな趣味があるなんて知らなかったわ」
「あいつらには言わないで……」
「もうばれてると思うけどねぇ」
 知りたくない現実だった。カラ松は笑いをこらえて俯いている。あとで覚えとけよ。
「なんでもいいわ、好きにやりなさい」
「そうだぞ。これから先何があるかなんてわからないからな」
 両親にそう言われて、へえへえとおそ松は返事をする。カラ松はというと、まだにやけた口元はそのままに頷いていた。

「見に行かないのか?」
「え?」
 台所の蛇口を使っているカラ松の隣で湯呑を拭いていると、そう尋ねられた。
「何が?」
「子ども」
「ああ、なに、行きたかった?」
「そういうわけじゃない」
 歯切れの悪い言い方に首を傾げる。カラ松も多分、うまく言葉にできないんだろうけど。
「----孫か」
 ざああと水の流れる音が耳にこびりつく。ふいに浮かんだのは、羨ましいなぁと語る父親の顔だった。
「ま、あいつらがなんとかしてくれるっしょ! 俺らは俺らで好き勝手やろうぜ~」
「ふはっ、そうだな」
 カラ松が笑ってくれると嬉しい。単純だと思うけど、素直な気持ちだ。カラ松もそう思ってくれてるだろうか。そうだったら、なんか、すげぇ幸せだなぁ。

***

 その噂がクラスに届いた時、教室中が震撼した気がした。
「ねえねえ、五組のーー君がホモってほんと?」
 いや、震撼したのはおそ松だけだったのかもしれない。その女子の言葉が聞こえた時、とっさにそちらに顔を向けてしまった。
「告白したんだって? 勇気あるよねぇ」
「相手はなんて言ってたの?」
「このありさまでしょ。無理だから~って言いふらしてるわよ」
 どくどくと体中の血液が心臓に集まってくるようだ。甲高い女子の声が煩わしく、面白そうにはやし立てる男子の声が頭に響く。
(気分わりぃ)
 おそ松は誰にも気づかれないようにそっと教室を出た。昼休み、廊下も教室も生徒の声で賑わっていておそ松はそれから逃げるように階段を降りた。
「あー、らしくねぇっつの」
 どことなく足を運ぶ。先ほどのああした噂など、別に初めて聞くわけじゃない。今でも他人の生活を消費して楽しむ噂や話は日常茶飯事だ。だけど、それが少しでも自分と重なるところがあると不意に足元が覚束なる心地になるのはどうしてだろう。
「……ん?」
 不意に聞きなれた声がした。おそ松の足はいつの間にか体育館に向かっていて、無意識の内の自分の行動に苦笑した。別に、体育館に特に思い入れがあるというわけでもないのに。
「--だから……けって!」
 ぴた、と足を止める。聞こえてきたのは純然たる怒号だった。
「すまなーー……お前が」
「松野には……--んねえだろ!」
(カラ松?)
 耳にするともうすっかり胸が甘い疼きで満たされてしまう声が、必死に何かを弁明している。

to be continued…