ふってきたのは、唇だった

あなたに恋する哀れな私を誰が愛してくれるでしょう。

「カラ松―、今ヒマ?」
 低くもなく高くもない、強いて言うなら少し癖があるだろう声が二人きりの居間に響く。ちゃぶ台の傍に座り鏡を覗きながら今日のヘアスタイルを確認していた俺はその声の主の方へと振り向いた。
「フッ……俺はまだ見ぬ女神との邂逅を果たすためのビジョンを描いている最中で」
「えー! 居もしないカラ松ガールより俺の方が大事じゃない?」
 カラ松ガールズに会うための身なりを整えていると解釈した俺の兄は、どすんと対面に腰を下ろす。
「居もしないとは何だ。彼女たちはまだ恥ずかしがっているだけで」
「はいはい、そうでしたねー」
 話しかけてきたのはお前の癖にと、適当にあしらわれた俺は少しだけ、ほんの少しだけ眉を顰めた。その姿を見て目の前の兄は笑う。
「ごめんて。で、ヒマなの? ヒマじゃないの?」
「……ヒマではないと言ったら嘘になるが、ヒマだと素直に言うのは少々躊躇する」
「んだよそれ」
「俺はどこに連れていかされるんだ?」
「お馬さんかなー」
「それならパチンコがいい」
 わかったよ、と笑みを浮かべた兄はよっこらせと立ちあがり、俺を一瞥した後ふすまに手を掛けた。
「どうする? 着替えてくる?」
「いや、このままでいい」
「そっか」
 おなじみの赤いパーカーを着た兄と、グレーのパーカーを着た自分。いつもは革ジャンにスキニーを着て外出することが多いが、パチンコならパーカーでいいだろうと兄の後ろを着いて行った。
「おそ松」
「んあ?」
「……兄貴」
「んだよー」
「…………兄さん」
「ふはっ。どうしたんだよ」
 どんな呼び名で呼んでも応えてくれる。おそ松のその声が、カラ松にとってはとても心地が良かったのだ。

 この世に生まれて初めて耳にしたもの。それは俺にとっての唯一の兄、おそ松の産声だったのだろう。母の暖かく泣きたくなるような優しい胎内から、冷たく胸を押し潰すような空気を吸い込み外へと飛び出した時、おぎゃあおぎゃあと、身も蓋もなく生命の息吹を主張する兄の泣き声を自分は耳にしたのだと思う。そして、自分も泣いたのだろう。兄をお手本とするように、空気を吸って吐いて、生きようとしたのだろう。だから今でもおそ松の声は俺にとっては心地がいいもので、じんわりと、全身に染みわたっていくようにすら感じるのだ。おそ松は、生まれた時から紛うことなく俺の兄だった。

「ちぇー! 負けた負けた!」
「勝利の女神、それはいつでもこのシックな輝きを放つ俺へと」
「パチンコ警察出動させんぞ」
「……何が欲しいんだ」
 朝からパチンコ屋に赴き、二人が外へと出た時はもう既に太陽は沈みかかっていた。負けたおそ松は少ないながらも勝った俺をじろりと睨み、しかし何が欲しいと尋ねられた瞬間にぱあっとその顔色を変える。表情が秒でコロコロ変わる男であるおそ松は、誰といる時でもその豊かな表情筋を遺憾なく発揮させた。
「えーっとねぇ、お兄ちゃん居酒屋行きたい!」
「いや、そんなに持ち分ないから無理だぞ」
「ちぇっ、じゃあコンビニ行く」
 口を尖らせたおそ松はすたすたとコンビニへと歩いていく。家の近くのコンビニではなく馴染みのパチンコ屋から歩いて数分のコンビニへと向かうのは、きっとそういうことだ。家から歩いて一分のコンビニは知り合いや兄弟と鉢合わせる可能性がある。肉まんが食べたいなぁと考えていると、俺肉まん食べたいとおそ松が振り返った。
「奇遇だな兄貴、俺もそう考えていたところだ」
「お、シンクロ? さっすが六つ子ー」
「フッ……この世に生まれし時から同じ闇を生きる俺たちは、その欲を昇華させることすら」
「いたたたっ! 兄ちゃんあばら折れそうだから煙草も買えよー」
「えっ」
 どういう理屈なんだと問いかけようとするが、おそ松はお菓子コーナーへと姿を消してしまう。そういえば一松のポテチを食べてしまったから弁償を要求されたのだと話していた。食べ物の恨みは怖い。男兄弟六人となったら尚更だ。いやしかしそれを俺の金で払わせるのはどうなんだ? はてと首をかしげていると、おそ松が手に持っているものを俺に押し付けてきた。
「俺先外出てるわ。肉まんと煙草買っといてー」
「いつものやつか?」
「ん」
 おそ松が外に出ていくのを見送ると、やはりその中にはゴムがあった。同じ顔した男二人がゴムを買いに来ているのは結構異様な光景なので、兄は一足先に外へ出ていってしまったのだろう。正直店員がそれを気にするとは思えないが、何が起きて兄弟にばれるかわかったものではないので、そうすることは得策なのだと思う。まあ、この後行く場所に比べたら全く大したことではないのだが。
 要求通り肉まんと煙草を買いコンビニを後にすると、おそ松は煙草を吸いながら退屈そうに待っていた。一人でいたのはほんの数分だというのに、それでも退屈だと感じてしまうのだろう兄に思わず笑ってしまった。可愛い。
「お、来た来た」
「これ、たばこ」
「さんきゅー」
 「吸う?」と差し出されるが遠慮する。おそ松のは重いのだ。おそ松はそれをポケットに突っ込み吸っていた煙草を消した。俺が煙草を初めて吸ったのは高校の頃。ひっそりと河原で吸っていた兄の姿を目撃し、興味本位で吸わせてもらった。あまりに苦く喉や肺を直接襲う煙は演劇部に所属している自分にとって害でしかないと判断した俺は、結局未成年の内に煙草を吸ったのはその一度きりだった。ただ、同い年の癖に妙にこなれた様子で煙草を手にする兄の姿を見てかっこいいと思ったのは本当だ。まあ今になればあれは弟にかっこいいと思われたかったおそ松の、微弱ながらの兄心だったのだと微笑ましいのだが。とにもかくにも、俺が初めて煙草に手を出したのは、この兄がきっかけだった。
「んじゃー行くか!」
「今から行って夕飯間に合うのか?」
「んー、マッハでヤればいけんじゃね?」
 左手の人差し指と親指で輪を作り、その中に右手の人差し指を何度か挿入するというなんとも下品で直球な仄めかし(仄めかしというレベルではないのだが)にごつんと頭を殴った。
「いってー!」
「下品だぞおそ松」
「どうせヤることは同じじゃん」
 涙目のおそ松を無視してすたすたと歩きはじめると、慌てたようにおそ松が後ろを着いてくる。目的地は月に二回ほどお世話になっている場所だ。少々遠く、顔なじみと鉢合わせる可能性はゼロ。人気もあまりなく、俺たちみたいに誰かに見られると困るというような者たちが御用達の所だった。
「ねーねー、今日入れていい?」
「いいぞ」
「ほんと?」
「今日の夕飯はからあげらしいから、早めに済ませてくれ」
「へいへいっと」
 ご機嫌な様子で鼻歌を歌う兄の隣を歩く。夕方と言うにはまだ早いこの時間、ただ、それでも太陽がにっこりと顔を見せているわけでもない今、お天道様の照らす道を歩く気分ではない俺は、ちょうどいい時間だなと目を瞑った。

「んっ……は、ぁ」
「きついか?」
「いや、だいじょうぶだ」
 異物が入ってくる瞬間は何度経験しても慣れないもので、腕に鳥肌が立ちそうになる。そんな俺にも慣れたものなのか、俺に覆いかぶさっている兄は、優しく腕をさすってくる。ラブホの部屋に着いた途端、性急に服を脱ぎ行為を始めた俺たちは前戯もそこそこに繋がろうとしている。
 二人でパチンコや競馬に行った日にどちらかが勝つと、こうしてラブホに来ることが定番となっていた。家でする勇気などないし、だからといって親の金でラブホに来る図太さはさすがの俺たちといえど備わっていなかった。そう、なんとパチンコや競馬で使う資金は俺たち二人がちょこちょこバイトをして貯めた金なのだ。クズはクズでも、なけなしの羞恥心はあるんだぜ。
(あつい)
 兄の顔から汗が滴ってくる。舐めたいと何度も思うものの、未だかつてそれは実行に移せていない。
「ん、くっ……」
「……ッ」
 ずぷんっと中に全てが入ったことを悟る。自分と寸分変わらない兄の性器が自らの腹の中にあるのを感じながら、はあっと熱い息を吐くと、その性器の持ち主はひっそりと眉を顰めた。
「……にいさん?」
「なんか、随分すんなり入るね」
 そんなに丁寧に解したわけじゃないのに、前にヤったの一か月前なのに、と不思議そうにする兄に、ああ、と頷いた。
「俺、昨日オナったばっかだ」
「え?」
「……うしろさわってたんだよ」
 言わせるなという意味をこめてふい、と顔を逸らすと、腹の中の圧迫感が増す。
「うっ……」
 入っている最中にちんこでかくするのはやめてほしい。ちんこが膨らむことによりきゅうっと中が締まり、兄のそれの形が腹の中から脳へとダイレクトに伝わりちょっとばかし頭がばかになってしまう気がする。
「お前、それ反則だわー」
 なんとも軽い口振りに反して、ずんっと重く奥を突かれる。反射で上ずった声が出てしまうが、今更取り繕ってもしょうがない。それでも男の喘ぎ声なんて言うものはいくら自分でも耳にするのは恥ずかしいもので、ついシーツを噛んでしまう。
「うあ、あ、……っくぅ」
「はぁ、う……っ」
 歯を食いしばって眉を顰める兄はとても雄臭い顔をしていて、思わず胸の奥と腹の奥がきゅうんとしてしまう。これは兄を見ている反応としては間違っているものだ。腰を掴む手に頭を撫でてほしいとか、その背中に腕をまわしたいとか、そんなことを思ってはいけないししてはいけないのだ。わかっている、わかっているのだが、いかんせんこうして汗ばんでいる肌と肌を密着させていると、普段はちゃんと我慢することが出来ている欲が浮き彫りになってきてしまう。
(だめだよなぁ、これ)
 兄は最近、前立腺だけではなく、そのもっと奥の奥を突いたり擦ったりすることがお気に入りのようで、これがまたいけないのだ。腹側の前にある快感の印とはまた別の種類の気持ちよさ、言うなればまるで波が段々と自分を追い上げていくような、そんな気持ちよさだった。前立腺を擦られて身も蓋もなく快感の衝動に突き上げられる類の物ではない、奥を擦られるたびに切なくなり、どうしようもなく目の前の男が恋しくなってしまうのだ。男に掘られているといえど、即物的な快感にはどうしても逆らえないのが自分だ。だから、前立腺で気持ちよくなれた時は、まあすごい気持ちいいからいいかと楽観的でいられたのだが、そのずっと奥を擦られてしまうと自分の男としての部分がへにゃへにゃになっていってしまうようで、俺はどうしてもそれが苦手だった。
「にい、さ、……んあっ!」
「兄ちゃんだよー、ほら、どした?」
「お、くぅ、おくやめ……っ! ぅあ、」
「なんで? きもちくない?」
 ぐりぐりと抉られるようにされて軽く殺意が湧く。わざとだ、絶対これわざとだ。今日は快感でぼへっとなってはいけない日なのだ。ちゃんとその足で帰宅しなければならない。
「ゆう、はん……ッ、たべる……ぅ」
「ああ……からあげだっけ、今日」
「んっ、んんッ」
 こくこくと頷くと「俺はからあげに負けるの」とふてくされた声が降ってくる。しょうがないじゃないか、からあげはこの世で一番美味な果実と言っても過言ではない、まさしく闇夜に生きる俺にふさわしい
「なーに考えてんの」
「ふあっ」
 前でふるふる震えているものを握られて強制的に意識が戻される。ようやく俺をせめるばかりではなく自分も快感を追うことに集中し始めたのか、先程よりも余裕がない様子で腰を揺さぶられる。
「な、カラ松ぅ……っ」
「んあ……?」
「キスしていい?」
 承諾など求めなくてもいいのに、こういう時だけ強請ってくるあたりが本当にずるいのだ、うちの長男は。返事の代わりにぱかりと口を開けると、嬉しそうに舌にむしゃぶりついてきた。キスが大好きで夢中になっている兄さんはかわいいと思う。幾ら俺の尻の中で乱暴に暴れまわっていようと、ちゅうちゅうと舌にすいついてくる兄さんはかわいかった。
 ゴム越しに叩きつけられた精液を感じながら俺も射精する。今回も兄さんの背中にしがみついたりなどせず、ちゃんとシーツを握りしめてイった。俺はどんな時でも理性が働く男なんだぜと変な満足感に浸るが、ずるりと兄さんのが抜けていく感覚にぶるりと震えてしまった。兄さんのイったあとの気だるげな顔はかっこいい。
 何で今日に限ってからあげなのだろう。明日だったらよかったなぁ。

「ううん……んあ?」
 ぱちりと目を覚ますと、六人一列になって寝ているはずの布団には既に俺しか寝ていなかった。時計を見ると十一時半をさしていて、寝すぎたなぁとのそりと起き上がった。寝起きの顔のまま居間に顔を出すと、そこには一つ下の弟がちゃぶ台に向かって何かを書いている。
「あれ? カラ松起きたんだ」
「グッモーニンブラザー。さしずめ俺は楽園へと誘われたまま帰還の術を失っていたというところか」
「何言ってるか全然わかんないけど……朝ごはんはもうないからね」
 この時間なら朝昼兼用で済ませようと台所へ赴き冷蔵庫を開ける。思ったより食材は詰め込まれていて、今日の夕飯は何なのだろうと考えているとチョロ松が思い出したように声を掛けてきた。
「あ、そういえばカラ松、今日母さん夜いないらしいから夕飯適当に作っておいてだって」
「え、そうなのか」
「ちなみにトド松は遊んでくるから夕飯ぎりぎりに帰ってくるって。一松は十四松に連行されてたからあいつも帰るの遅いと思う」
「おお……」
 この家でまともに料理が出来るのは、昔から家事手伝いは主に料理をしていた俺とトド松、元来の真面目な性格が吉とはたらく一松だ。だからその二人が帰宅するのが遅いということは、イコール今日の夕飯を作るのは俺だということ。面倒くさいが、俺が作らなければ夕飯なしということも普通にあり得るし、父も含めた男七人分の出前を取ったりするのもばかげている。幸運なことに食材は沢山あるので買い物には出掛けなくてもいいだろう。もしかしたら母さんはそれを見越して昨日の内に買い物を済ませてくれていたのかもしれない。まったく、いつまでたっても母親には頭が上がらないものだ。
「んーそうだな、豚肉もあるし鍋でいいか?」
「おそ松兄さんが鍋はやだってさ」
「あいつ、作るのが俺だからって……」
「まあ鍋でいいんじゃないの? 別にあいつに合わせなくてもいいだろ」
「作ったら作ったで文句言われるのもむかつく」
「ああ……確かにね」
「生姜焼きにでもするか。キャベツが少し足りないが」
 夕飯のレシピを決めると、昼飯を作ろうかと何個か野菜を出す。チョロ松に昼はチャーハンでいいかと聞くと了承を得られたので炊飯器にあった残りの白米を取りだす。チョロ松と二人で食べるのは久々だなと少し嬉しくなっていると、そういえば二人で食べるの久しぶりだねと笑いかけられた。六つ子ゆえのシンクロはここでもいかんなく発揮される。
 俺たちが中学に上がるころ、家事手伝いを母親にするように命じられた。六人いれば得意不得意は家事ひとつとっても現れるもので、その中でもおそ松の料理センスは壊滅的だった。よくもまあここまで不得意なものだと俺たちは感心したものである。だから、自然と料理は俺が手伝うことが多くなっていった。おそ松の作った飯はとてもじゃないけど食べられない、俺は危機感を覚えたのである。俺がうまくならないと痛い目を見るのは俺たちだ、と。俺とよく一緒にいたトド松も料理をする機会は多く、一松も家事の中では料理は結構好きなほうだったのだと思う。俺は料理より断然裁縫のが好きだし得意だったが、正直家事で裁縫が必要とされる場面はあまりなかった。ちらりとチョロ松を見ると熱心に履歴書を書いている。昔を思い出している時にチョロ松のああした姿を見るとどうしても口角があがってしまう。あの悪童のかたわれがこうなるとはなぁと、自然と笑みがこぼれてしまうのだ。チョロ松は家事は掃除以外はあまり得意ではない。何しろ、おそ松とチョロ松は自分達の家事当番が回ってくると、あの手この手を使ってさぼることに全力を尽くしていたのだから。チョロ松のそうした根っこの部分は変わってはいないだろうが、やはり昔と今のギャップはとても大きい。
 チャーハンを作り終わり二人でなんでもない会話をしながら食べていると、そういえばキャベツが少なかったなと思いだした。
「チョロ松、今日でかける予定あるか?」
「うん。ハロワ行こうと思ってるけど」
「そうか。俺が行こうかと思ったんだが、少し体調が優れなくてな。もしよかったらキャベツを一玉買ってきてほしいんだが」
「いいよ。何、風邪?」
「いや、そんなに大したものではないぞ」
「そう? ならいいけど」
 風邪ならちゃんと薬飲んどけよーとチョロ松が皿を片付ける。皿洗いは弟に任せ俺は二階へと足を運ぶ。家を出る時は勝手に出ていくだろう。

ふう、と一息つきながら窓を開け窓際に座る。体調が優れないというのは嘘ではなく、少し頭がぼんやりとしている。それに加え腰が鈍く痛い。原因は間違いなく昨日の兄とのセックスだ。久しぶりだったというのもあり、昨日の熱を上手く発散することが出来ていない。後日にまで引きずるのはよくない、一か月に一回のペースでも、俺はおそ松に触れられるとコンディションが狂ってしまう。そっと唇に触れると少しかさついている。兄のキスは丁寧とは言い難いが、それでも俺はキスされた後にその感触をなぞるように指で唇を撫でることを止められない。ここに、あの唇がふってこればいいのに。
 初めて兄とキスをしたのは中学二年生の頃だったように思う。その時の衝撃は今になってもとても忘れられたものではないが、そのくせ正確な時期を覚えていないというのも不思議な話だ。その頃の俺たちは男女間の接触について大いに興味を持っていて、まあいわゆる思春期という奴を存分に謳歌していた。おそ松は好奇心旺盛な男で、それは昔も今もけして変わらぬ彼の性格だ。俺はあいつのその性格を宝石のようだと思っているから、磨けば磨くほど輝くんだろうなと楽観的に思うこと半分、悲観的に思うこと半分、とにかくあいつの好奇心の豊かさは歳をとっても廃れることなどけしてなく、俺たちが遥かな海の波に呑まれるがごとくぐるりと囲んで巻き込んで、俺たちを新しき地へと引きずり出してしまうのだ。そうだ、あの頃の兄の好奇心なんて今に比べれば朝の雀のさえずりのようにささやかで微笑ましいものだった。
 それでも、確かにあの兄はその好奇心でもってして、俺の人生をがらりと変えた。
「お前、キスしたことある?」
 俺とおそ松は、実は中学、高校と一度も同じクラスになったことが無い。だから中学二年生のころも当然あいつとは同じ教室で授業を受けたことはないわけで、それでも、俺が記憶をたどるといつも夕日に照らされる教室の中、窓際の俺の席の前に座ったおそ松がカーテンで手遊びしながら、「お前、キスしたことある?」と、幼すぎる瞳で尋ねてくるのだ。
(あれは多分、教室で台本を覚えていた俺を待っていたんだろう)
 その記憶すら曖昧でうっすら瞼を閉じる。キスをしたことがあるかとの問いに、俺は首を横に振った。したことない、と他の兄弟だったらちゃんと口に出したのだろうが、俺は昔から頭の回転とやらがてんで遅かったので、その時も兄に突然問われた質問を咀嚼することに精いっぱいで、正直に体で伝えるしかなかったのだ。俺と兄さんは、言葉という橋を架けることに積極的ではない。
 俺の無口の返答に、おそ松もまた無言の返答をした。
 ふってきたのは、唇だった。
 まるで喜劇だ。俺と、そして兄のファーストキスは、花が咲き乱れる庭園でもない、星が煌めく夜道でもない、ただ太陽が色を変えて染めただけの、煤けた教室で散ったのだ。学生がキスをする場所が夕焼けに照らされる教室なんて格好のシチュエーションじゃないかと反論されるかもしれないが、考えてもみてほしい、そこでキスをしているのは同じ顔をした男二人だ。せめて兄さんが手で弄んでいるカーテンで俺たちを隠してくれていたらロマンチックのロの字も喜んで俺たちを祝福しただろうが、あの兄がそんな殊勝なことを思いつくだろうか。否、結局俺と兄さんは机越しに上唇をふんわりと、無骨になんの技巧もなくただただくっつけただけだった。大体本当に唇と唇が合わさっていたのかも怪しい。
 それでも、あの頃の俺にとっては紛うことなきファーストキスだった。男兄弟で、一卵性の六つ子の兄となんだからそれはノーカンだろうって? そうだな、確かにそうかもしれない。それでも俺は目の前の兄とのキスが、確かにキスだと認識してしまったのだ。
「……キス、してみたくて」
 俺のファーストキスを奪ってみせた兄さんは、ごにょりとらしくもなく顔を少し下げてそう呟いた。兄さんも初めてだったのだろうなと思っていたが、その言葉で確信に変わる。そして、俺たち六人の中で、二人は一番早くファーストキスを済ませたのだろうということも悟った。だって、何をやるにしても一番に済ませてしまうのはおそ松だった。それこそまだ俺たちがお互いを兄だ弟だと意識し始める前から、おそ松が、この男だけが、喧嘩もさぼりも、それこそ酒や煙草だって、初めて手をつけていたのだった。だから、キスだって一番初めに済ませてしまいたかったのだろう。しかしキスをする相手など早々に見つかるわけでもない。兄さんは学生の間、一度として彼女を作ったことは無かった。だから、身近な存在で済ませてしまおうと、俺があいつであいつが俺な兄弟で済ませてしまおうとあいつが考えたのは想像に難くない。その相手として選ばれたのが昔からよくつるんでいたチョロではなく俺だったのは、ひとえにあいつが長男で俺が次男だからだろう。そもそもあの頃は、おそ松とチョロ松は少し距離を置いていたのだから尚更だ。長男の初めてを共にする相手が次男とは、ある意味理に適っているのではないだろうか。
「そうか」
 俺がその一言を返し、衝撃の、それにしては穏やか過ぎたファーストキスの記憶は幕を閉じる。そしてそれが一度きりの公演だったかと言われればそうではない。アンコールは何度も行われた。兄さんは、それから隙あらば俺にキスを仕掛けてくるようになった。学校のトイレ、中庭、屋上、帰り道、家の廊下、便所、台所、居間、押し入れ、あいつとキスをしたことがない場所なんかなくなってしまった。それぐらい、俺と兄さんは至る所でキスをした。その頃からだろうか、俺が初めておそ松を「兄さん」と呼び始めたのは。今までみんながみんな呼び捨てだったからこそ、俺がたった一人の兄を「兄さん」と呼ぶようになったことは、他の弟たちにも衝撃を与えたのだと思う。それから他の兄弟たちも、「兄さん」という呼称をもって上の兄弟を呼ぶことが多くなっていった。おそ松は、「兄さん」と呼ばれ悪い気はしていなかったのだと思う。以前から俺たちを先頭で引っ張っていく立場だったからこそ、みんなから兄と呼ばれ慕われることは願ったりかなったりだったのだろう。
 触れるだけのキス、舌で唇を舐めてみたキス、お互いの舌と舌を振れ合わせてみたキス、舌と舌を絡ませて、これでもかと咥内を蹂躙しあったキス。あいつとのキスの思い出は様々だ。初めて兄さんの舌と触れ合った時は、腰が砕けてしまうと比喩でもなんでもなくそう感じた。その頃にはもうこのキスは性的欲求を呼び覚ますためのものなのだとちゃんと頭で理解していた。それでも、止めることなんか出来なかった。兄さんとのキスは気持ちよかった。たかが中学生の幼染みたキスだったし技巧などあったものではなかったが、それでも手放せなかったのだ。
 俺が何故あいつと初めてキスをした後に「兄さん」と呼び始めたのか、明確な答えがあるわけではない。だけどおかしいとは思っていた。このキスは、兄弟以上の関係を、感情を持ち出してするものではないと無意識下でわかっていた。兄弟の戯れなら許されるのだと、何故かあの時の俺は思っていたのだ。なんと滑稽な話だろう。それがそのすぐ数年後に自らの首を絞めるとも知らずに。あの時の俺は「兄さん」とキスをすることを、遊びだから許されるのだと、求めてもいいのだと本気で思っていたのだ。

この胸を引き裂くような、業火が自らを焼き尽くすようなこの想いに気が付いたのは、中学を卒業する間近のことだった。
 その頃にはもう深すぎるキスを何度も何度も隠れてしていて、兄さんと呼ぶたびにもっと深くまで舐めたいと全身が叫んでいた。
「高校、もしかしたら俺たち別々になるかもね」
 チョロ松のその言葉に、持っていた台本をするりと手放しそうになった。え、と不思議そうにする俺を見てチョロ松は話し始めた。
「お前らは多分第一志望受かると思うけど、俺とおそ松が正直怪しいんだよ」
「そ、そうなのか?」
「俺は内申がやばいだけだからなんとかなりそうな気もするけど……おそ松はどうかなぁ」
 この頃のチョロ松はまだ、おそ松を「兄さん」と呼んではいなかった。そしてこの頃にはもう真面目になろうと努力していたチョロ松だったが、今までの二年間はけして真白に出来る筈はなく、教師からの悪童時代の印象を引きずっていた。
「あいつだけ高校違ったらすごい駄々こねそうだよな」
「あ、ああ……」
 そうか、中学と違って、高校は俺たちが別々になる可能性があるのか。というかむしろそっちの可能性の方がでかいのではないか。おそ松とチョロ松以外は学力も内申もそう大した違いは無かったので、同じ地元の公立の高校を第一志望としていた。それだけでもなかなか珍しいことなのだ。じゃあ、尚更六人全員同じ高校に通うなんて、実現することなのだろうか。
(もし、高校が違ったら)
 学校で隠れて兄さんとキスが出来なくなる。
「……ッ」
 ずくん、と胸が突きさすように痛んだ。
(何だ、これ)
 ずくんずくんと、胸の痛みは止まる兆しを見せない。もし、兄さんと高校が違ったら。廊下ですれ違うたびに名前を呼ばれることは無いのだ。体育で抜群の活躍を見せている兄さんを密かに窓際の席で見ることも出来ない。部活をしている俺を待っている兄さんと一緒に帰ることはなくなる。すっかり太陽が沈んだ後で、帰り道の途中にある河原でキスをすることなんて、もうしなくなるのだ。
「いや、だ」
 不意に、言葉が口を突いて出た。
「へ?」
「あ、」
 チョロ松が不思議そうにこちらを見る。上手いこと取り繕うことは俺には出来そうになかったのでどうしようとあたふたしていると、チョロ松は勝手に自分で解釈をしてくれたようだった。
「まあ仕方ないよ。俺たち六人だし。みんな同じ高校ってちょっと無理があるだろ」
「あ、ああ、そうだな……」
「でも、カラ松がそういうこと言うの珍しいね?」
「そ、そうか?」
「うん。おそ松は皆一緒がいいとか言いそうだけど、あんまりお前がそう思ってるイメージはないかな」
 まあ、みんなこれからやりたいことはあるだろうしそこまで六人一緒にすべきだとは欠片ほども思ってはいないが、今はチョロ松がそう思ってくれた方が都合が良かったので特に弁明はしなかった。
「はあ……どうなるかなぁ。気が重いや」
「心配するな、なるようになる」
「ポジティブだなーお前」
 みんなと高校が離れることは特に自分の中で問題ではない。だけど、兄さんとキスをする機会が減るということを考えると、胸が痛むことも確かだった。
 結局なんの因果か六人全員同じ高校に入ることになったのだが。六つ子の腐れ縁は並大抵のものではなかった。
 俺が確信をもっておそ松への気持ちに気づいたのは、高校の部活で初めて役を貰った時だった。
「あれは、僕が初めてあなたの声を聞いた時でした」
 主役では無かったが、そこそこ出番のある役をもらえて俺は少なからず舞い上がっていた。そして来る日も来る日も台本を読み続けたのである。
「黒髪が好きだったけど、少し茶色がかっている髪に、触れたいと思った」
 その役は至極平凡な、クラスの一人の女子に片思いをしている男子生徒だった。コメディ色の強い劇だったが、俺の役柄はとても真っ直ぐに恋にむきあっている、真摯な少年だったのである。
「知らなかったんだ、胸を焦がすというのがけして比喩なんかじゃないってこと」
 俺は今まで演じる役柄に共感というものをしたことがなかった。あくまで役は役で、舞台上のみで命を燃やす、俺とは違う一人の人間を演じていたのだ。
 だから、この役の台詞を読んでいて自らの胸の内にするすると入っていくものが奇妙で仕方なかった。
(胸を焦がす)
 俺は知っている、胸どころか頭のてっぺんから足の先まで焦がしてしまうものを。
(触れたいと思った)
 いつだって思っている。唇だけじゃなくて、願わくば。
(初めてあなたの声を聞いた時) 
 俺が生まれて初めて耳にしたのは、あの、たった一人の、
「カーラまつっ!」
「うわあああ!」
がばあっと後ろから不意に抱き付かれこの世の終わりのような叫び声を上げた俺に、仕掛けた男も十分に驚いたようだった。
「な、な」
「お、お前声でかい……」
「背後から近づくのやめろって言ってるだろ!」
 ぽかっと軽く頭を殴るとちぇーと口を尖らせた兄さんは、俺の持つ台本に興味を持ったようだった。
「最近ずっとそれ見てんなー」
「あ、ああ。高校での初めての舞台だからな。気合いも入るさ」
「ふーん。絶対演劇なんかより兄ちゃんと遊んでる方が楽しいのに」
「なんかとはなんだ。兄さんもやってみればいいのに。楽しいぞ?」
「うへえ。遠慮させていただきまーす」
 こんなことを言いながらも、兄さんは一度だって俺の舞台を見に来なかったことなどなかった。俺が今まで演じてきた役を兄さんは全て覚えてくれている。それは俺に限った話ではなく、十四松の野球の試合もいつも応援しに行ってたし、トド松が絵で表彰されて美術館に展示されていた時は二回ほど足を運んでいた。俺たち弟の晴れ舞台を、いつも密かに見に来てくれる。そういう、人だった。
「今度はどういう役なの?」
「うーん……恋に身を焦がす哀れな子羊といったところか」
「子羊? お前羊役なの?」
「いや、高校生だ」
「ぶはっ。わかりにくいよお前ー」
 けたけたと笑う顔が憎らしくも可愛いと思ってしまったので鼻をぎゅっとつまむと「ふがっ」となんとも形容しがたい声を出した。
「恋ねー……。あ、恋といえばさ、『月がきれいですね』ってやつ知ってる?」
「夏目漱石か?」
「あら、やっぱ知ってたか。なんかさー遠回し過ぎると思わね? 俺ばかだからそういうの絶対スルーしちゃうわ」
「なかなかロマンチックでいいと思うぞ?」
「お前はそういうやつだよねー」
 兄さんにしては随分と色っぽい話題をだしてきたもんだと珍しく思っていると、不意にちゅっと軽いキスをされた。不意打ちに弱い俺はじろりと兄さんを睨むが、そんな反抗が兄さんに効くとも思えない。
「カラ松はさ」
「何だ?」
「あるの? なんか、そーいうやつ」
 そういうやつとは、と首を傾げていると、兄さんは困ったように鼻の下を擦る。
「『月がきれいですね』って、お前ならなんて言うのかなーって」 
 ぱちくりと瞬きをすると、またキスがふってきた。今日はどうしたんだろうと思いながら今度は自分からも軽く唇を吸ってみせると先ほどよりも嬉しそうな顔が目の前にあった。そしてそんな兄の顔を見ると、思い浮かんだのは我が家の食卓だ。
「そうだな……」
「うん」
「……からあげ、食べたい」
 ぱちくりと瞬きをしたのは、今度は俺ではなくおそ松のほうだった。
「へ?」
「うん、そうだな。俺だったらそう言う」
「やべえ、全然わかんねえよ俺」
 何でからあげなの、としかめっ面をする兄さんに、何でと聞かれても俺の好物だからなと返答するとますます頭を抱えられた。
「俺は一人でからあげを食べるより、誰かと食べたほうがもっと美味しいと思っている」
「うん。で?」
「その誰かが自分の愛する人だったら、最高だなって思ったんだ」
 おそ松が、目をまん丸く見開いている。その瞳がどんぐりのようで、自分もこれとまったく同じ目をしているのだなと思うと、それがまるで嘘のように思えてしまった。こんなにも愛らしい目を自分が持っているとは到底思えなかった。
「あー……、そっか」
「うん」
「……カラ松」
 二度あれば三度ある。おそ松はもう一度、俺にキスをした。キスをしながら、俺は今日の夕ご飯は何かなと考えていて、からあげがいいなと思って、おそ松と一緒に食べることが出来たら言うことなしだとキスを深めた。
(ああ、そうか)
 俺、好きだ、おそ松のこと。

ぱちりと閉じた瞼を開け、遠い昔に思いを馳せていた思考を現実に引き戻す。おそ松を好きだと自覚したころを思い出すのはしんどいものがある。気づかなければよかったのに、あの時、おそ松があんな話をするから。唇をさわりながらどうしようもない責任転嫁をする。あれから俺はもう一度、おそ松のことを「おそ松」と呼び始めた。キスをする時には「兄さん」と呼ぶしかなかったし、そうしなければならなかった。しかし普段も「兄さん」と、他の弟たちと同じ呼称であいつを呼ぶことは自分の中の微かな独占欲が許さなくて、次男だからいいだろうと、俺はもう一度あいつを「おそ松」と呼び始めたのだ。その頃だ、チョロ松がおそ松のことを「おそ松兄さん」と呼び始めたのは。兄さんと呼ばれることを気に入っていたあの男でも、かつての相棒と言っても差し支えなかったチョロ松に「兄さん」と呼ばれることに、少しの寂しさを感じているようだった。そんな寂しさにつけこむようなタイミングで「おそ松」と呼び始めた俺はずるいだろうか。ずるいのかもしれない。そもそも、初めてあいつとキスをした後に「兄さん」と俺が呼び始めなければこんな葛藤も生まれなかったわけで、つまるところ全て自分が蒔いた種だった。
(好きだなぁ)
 それでも、好きだった。俺はどうしようもないくらい、あの兄に恋い焦がれていた。昔から俺の初めてを全て奪っていくようなあの男に、俺は刷り込みレベルで恋い焦がれている。
 あのどんぐりのような、ビー玉のようなまんまるな目を覆う瞼に唇で触れたい、俺よりも断然柔らかそうに見える頬を撫でてやりたい、あの俺と変わらない大きさの、それでも俺より大きく感じてしまう手のひらに愛されたい。欲求は時が経ち薄れることなどけしてなく、日を追うごとに自らを圧迫していくばかりだった。
 兄を慕う気持ちとしては間違っているどころじゃない、地獄に突き落とされるような想いを俺はあの兄に抱いている。
 おそ松が、好きなのだ。
(夕飯……)
 時間は既に夕方をさしており、そろそろ夕飯を作らなければならないと俺は重い腰を持ち上げた。今日はからあげではなく生姜焼きだが、おそ松と毎日ご飯を一緒に食べられるということは、やはりこの上なく幸福だと泣きたくなるような心地すらして。

「ただいまー!」
 結局帰宅が一番遅かったのは、外で遊んでいたおそ松と会社帰りに鉢合わせた父だった。
「おっ生姜焼きじゃん! うまそー!」
「お前が鍋は嫌だって言うから」
「えー、お前も生姜焼き好きじゃん」
 チョロ松とおそ松が言いあっているがまあ見慣れた光景なので何事もなく夕飯を食べ終える。すると、父が手に持っていた袋をちゃぶ台の上にのせた。
「ん? 父さん何これ?」
 トド松が聞くと父さんは袋から中身を取り出した。
「酒だ。同僚にもらったが父さん明日も仕事だからな。飲んでいいぞ」
「マジで!? やっりー!」
 父さんニートに甘すぎとチョロ松が苦言を漏らすが、六つ子全員酒は大好きなので今日は宅飲みだーとテンションはだだ上がりだ。それは比較的酒に弱い俺も一松も同じだ。なんだかんだいって、六人で飲むのはとても楽しい。つまみと何本か映画やゲームを居間に持ち込み、六人のニートたちによる酒宴が始まった。
酒の数はそれほど多くなかったが、俺たちは特別酒に強いわけではない。いつの間にか一松、十四松、トド松は二階へ上がってしまって、今でグダグダと飲んでいるのは上三人のみになってしまった。
「いやぁ飲んだねー」
「一松たちもう寝たかな?」
「あいつら酒飲むとすぐ寝ちゃうしなー。おねんねしてんじゃない?」
「おねんねって……」
 おそ松とチョロ松はまだ幾分か元気なようだが、俺はぐらんぐらんと酔いが回っていてちゃぶ台に突っ伏している。おそ松とチョロ松の前でなら特に気を使わなくてもいいかとそのまま楽な姿勢で休んでいると、左隣に座っていたおそ松が床に無造作に放り投げていた俺の左手の中指をちょん、と触った。
(なんだ……?)
 おそ松のそんな様子は体面にいるチョロ松は知る由もないだろう。それにいい気になったのか、おそ松は右手の人差し指と親指でつつーっと俺の中指の先から指の付け根までなぞってくる。
「……っ」
 ぞわ、とよろしくない感触をおぼえ少し身じろぎするが、おそ松はそんなの知ったこっちゃないというように何度も何度も上下に中指をなぞってくる。まるでアレみたいだと頬が火照ってくる。突っ伏しているから二人には見えないだろうが、耳やうなじは赤くなってしまっていることだろう。酔っていてよかった、赤くなっていてもそう不思議がられない。
「カラ松寝てんの?」
「寝てんじゃね? こいつ酒飲んでても飲んでなくても夜更かし苦手じゃん」
(いや絶対起きてるってわかってるだろ)
 しれっと嘯いたおそ松に抗議するように左手を引っ込めようとするが、おそ松はそれを見越したようにぎゅうっと更に強く左手を握りしめてくる。またしても再開した指への愛撫に俺はもう好きにさせようとあきらめのため息を吐いた。
「おそ松兄さんまだ寝ないの?」
「俺はまだ飲んでるわ。チョロちゃん寝ちゃうの?」
「あー、どうしよっかな。明日もハロワ行こうと思ってたけど……」
「えーまだそんな悪あがきしてんのぉ? いいじゃんお兄ちゃんと飲んでようよー」
「おそ松兄さんも就活しろ! 明日意地でも連れてくからな!」 
 ぎゃいぎゃいといつもの様子でじゃれあっているが、そんなに大声を出すと弟たちが起きてしまう。なのでのっそりと起きて静かにと言おうとしたが、僅かに身じろぎをした俺に気が付いたのかおそ松がチョロ松に何かを言ったようだった。
「しー、あいつら起きちまう」
「騒いでたのは一緒だろ」
 そう言いながらもチョロ松も声を落としてくれた。チョロ松だって弟たちを起こしてしまうのは本望ではないのだろう。
「あー……おそ松『兄さん』かー」
「何、いきなり」
「いやあ、チョロ松が俺のこと兄さんって呼ぶなんて昔は思わなかったなーって」
「呼び始めたのはカラ松だろ。僕だってカラ松がお前のこと兄さんって呼ぶなんて思わなかったよ」
「最近は兄貴だけどなー。かわいくねーの」
 兄貴呼びかっこいいだろうと二人にばれないように口をとがらせるが、当たり前のように二人はそんな俺には気づかなかった。俺が寝ているふりをしている横で俺の名前が出てくることが居心地悪くなんとか起きようとしたが、酔いが回ってぼおっとしているので労力を使って頭を上げようとの意志は湧いてこなかった。
「なんか……世話になったよなぁ」
「どしたのチョロちゃん」
「いや……中学のころとかさ、僕とおそ松兄さん無駄にとげとげしてたから、真ん中のこいつ大変だったろうなーって」
「お前今でも俺にそんな感じじゃね?」
「そうだけど」
「否定はしないのね」
 ああ、そうだ。中学の頃おそ松とチョロ松はなぜかピリピリしていて、真ん中の俺は少しばかり大変だったんだぞ。少しだけだけど。
「どうしたんだよ突然」
「今日の昼飯カラ松と二人でさ、カラ松が料理手伝い始めたの中学の時だったじゃん? あのころとにかく家事手伝いさぼりまくってたの僕とお前二人だったから、なんか思い出しちゃった」
 でも、チョロ松は昔から綺麗好きだったから掃除は進んでやっていただろう? 正真正銘のサボり魔は俺の隣にいるこいつだ。
「まあねぇ。こいつ、貧乏くじひいちゃうから」
 そう言っておそ松が俺の中指と薬指の間に指を突き立ててくる。やめろ、そこには入らない。というか見えてないとはいえ弟の前でなんてことをおっぱじめるんだこいつは。ぐりぐりすんのやめろ。
「おそ松兄さんは」
「何だよ?」
「兄さんって呼ばれるの、どうだった?」
 チョロ松が何気なく聞いた質問に、俺は少しだけ自分の顔の舌にある右手をぴくりと動かした。
「どうって……そうだなー」
「うん」
「…………俺にはこんな弟が五人もいるのかーって、うんざりしたよ」
 とても優しく、柔らかく、暖かく、愛おしそうにそんなことをいうものだから、俺はじんわりと目の内が熱くなってしまった。それはチョロ松も同じだったのか、ふわりと笑った気配がしてチョロ松は立ちあがったようだった。
「僕もう寝るから。おそ松兄さん、カラ松兄さん起こしといてね」
「おうよー」
「早く寝ろよ」
 そう言ってチョロ松が居間を出ていく。階段を上る音が消えると、隣の気配が濃くなった。
「カラ松ー」
「……」
「かーらーまーつー」
「……」
「カラ松ってばぁ」
 返事の代わりに左手を引っ込めると、おそ松は笑った。
「この狸寝入りやろーめ」
「……眠かったんだ」
 涙目と熱くなっている顔を見られてくなくて突っ伏したままでいると、おそ松が無理矢理覗き込んできた。取り繕うのもむだかと早々に諦めて僅かに顔をおそ松のほうへと向けると、予想通りおそ松は俺の顔に笑った。
「なんつー顔してんだよ」
「お前が悪い」
「えーお兄ちゃんのせい?」
 そうだよ、と答えようとしたがその言葉は降りてきた唇に吸い込まれた。
「ん……」
 逃したはずの左手が再び捕まえられる。先ほどよりも大胆に指を愛撫してくるおそ松に、入ってくる舌を拒むことで抗議した。
「なんだよー」
「弟の前で、ああいうことするな」
「ごめんて。でも絶対気づいてないよ」
「そういう問題じゃ」
 ない、と続けようとしたがまたしてもそれは言わせてもらえなかった。今度は有無を言わさない口づけに俺も着いていくのがやっとになる。本気の兄さんは俺の弱い上顎と舌の歯の付け根ばかり狙ってくるのでわかりやすい。じゅ、と唾液をすする音が淫靡で思わず腰がぞくりと震えた。
「にい、さ」
兄さんには弟が五人いる。俺には、弟が四人いる。兄というのは不思議なもので、いくら同い年と言えど弟というものはとても可愛い存在だった。六つ子はイコール五人の敵がいるということだが、それでも弟というのは可愛い。先ほどの兄の優しすぎる声色を思い出す。おそ松は、弟が大好きだ。兄さんと呼ばれることが実はすっげー嬉しいんだぜと、いつかの二人きりの時に教えてもらった。鼻の下を擦りながらそう言う兄さんが、おそ松が好きで、俺もまた同じ質問をされたら同じように返したと思うのだ。
 そうだ、だからあの日から、俺がおそ松のことを「兄さん」と呼び始めたのはけして間違いなんかじゃなかったのだ。間違っているのは、実の兄に対してこんな想いを抱く俺だけ。兄を兄と慕って何がおかしい。おかしいのは、俺の方だ。
「ふ、ぁ……んぅ」
 じゅくじゅくと舌をこすり合わせながら、おそ松の手が俺の下腹部へと下ってくる。おそ松の癖で、キスをしている時にそこを撫でてくるのはセックスしたいという合図だ。俺をここに入れさせろという本能のまま、おそ松はそこを撫でて少しだけぎゅうっと押してくる。その度にそこがきゅうんと疼く気がするのだから、俺はもう末期だ。
「ぅ、あ、まて、……って」
「ん、んむ……」
 もう既に俺と兄さんのソコは膨らんでいる。したい、俺だってしたいよ。だけど。
「にい、さん……ッ」
 そう切羽詰まった声で呼ぶとようやくキスが終わった。兄としての性なのか、兄さんと呼ぶとおそ松は大体言うことを聞いてくれる。それでもおそ松は俺の首筋に顔をうずめながら、捨てられた仔犬のような瞳で俺を見上げた。
「カラ松、したい。ヤろうよ」
「だ、めだ」
「何で? お前もたってんじゃん」
 ふわりと軽くそこを撫でられぴくりと思わず小さく跳ねてしまった。尻を撫でられかぷりと鎖骨を齧られるのに俺が弱いと知っていて、この男は俺を追い詰めようとする。
「家ではしない、て、言ったろ」
「からまつ……」
「……そんな顔してもだめだ」
 おそ松が盛り上がっている股間を擦りつけてきて強請ってくるが、ここで頷くわけにはいかない。兄と弟は家でセックスしてはいけない。
「じゃあ、いつすんの?」
「金ができたら、ホテルで……」
「やらせてくれんの?」
 こくりと頷くとまたしても唇が触れてきた。セックスできない代わりにと、セックスは駄目だと言った俺を叱るようなそんな激しいキスに思わず背中に手を伸ばしそうになる。ぎゅうっと自分のパジャマの袖口を握りしめてその衝動を耐えるが、最近はその衝動を抑えることが日に日に難しくなっている。この背にしがみついて、思う存分キスがしたい。セックスがしたい。やりたいと幼くすら見える顔で強請ってくるこいつに、何も考えず全部あげることが出来たら。
 兄さんはどうして今でも俺とセックスをしたがるのだろう。そんな疑問ははなから答えが出ていることだ。俺が弟だから、おそ松は俺とセックスをする。
 それだけだ。
 
俺はおそ松が好きだ。
そして、兄弟を愛している。

「で? 何でそんなしけた面してんの?」
弟ってすごい。トド松を見ていると俺は素直に感動する。それはトド松にショッピングの同行をお願いされそのお礼にとカフェで一休みしている時も例外ではない。トド松は、俺たちのことをよく見ている。長男に対してもそう思うが、末弟も五人の兄がいるという面で長男と少し立場が似ているのか、この弟は観察眼が特に優れていた。
「しけた面?」
「最近元気なくない? 僕の気のせい?」
「フッ……そうだな、季節が廻り太陽が珍しく俺たちを照らしているからか、ブラザーの瞳に映る俺も」
「イタイイタイイタイ!」
「えっ……」
「なんにも伝わらなかったよ……なんなのもう!」
「あ、それ俺の……」
 ぷりぷりと怒ったトド松は俺のエスプレッソをずぞぞーと飲み干してしまった。ぷはっと満足げに空の容器が返されるが、俺が飲む分は残っていない。
「言う気がないならいいけど! 今更隠し事とかなんのメリットもないからね!」
 確かに隠していてもメリットはないが、ばらした時のデメリットが大きすぎる。それでも、俺に洗いざらい吐かせるというよりは元気が無さそうに見えた俺を外に連れ出そうとショッピングに誘ってくれたのだと思うと、何かを話してしまいたいと少しだけ枷が外れてしまう。
「トド松は、兄さんのこと好きか?」
「へ、兄さんって誰のこと? 僕兄さん五人もいるんだけど……」
「あ、ああ、そうだな。誰というよりかは……その、弟とは、兄を好きなものなのだろうか」
「何それ急に……」
「俺は、弟たちを可愛いと思う。兄が弟を可愛いと思うのはおかしくないことだと思っているが、逆はどうなのかなと」
「兄さんが弟のこと大好きなのは当たり前だけど、弟はどうなのかってこと?」
「あ、ああ。そういうことだ」
「ええ……これってすっごい恥ずかしいこと言わされる感じ? っていうか皆同い年だし今更」
 じいっとトド松を見ると、しょうがないなあというようにため息をつかれる。ブラザーを困らせてしまっただろうか。
「うっとうしいって思うし、というかそう思うことの方が多いけど、ちゃんと好きだよ」
「ほ、本当か!?」
「うん。っていうかそんなに喜ばないでよ、恥ずかしいなぁもう」
 ぱあっと顔を輝かせて喜ぶと、少し照れたようにトド松が笑う。弟に好きと言われればやはり嬉しいものだ。この間トド松に一番だよと言われた時と同じくらい嬉しかった。
「だから、カラ松兄さんがおそ松兄さんを好きって言うのも普通なんじゃないの?」
「え?」
 ぎくりと体がこわばる。
「弟が兄さんを慕ってても別に普通でしょ? カラ松兄さん、弟やるの慣れてなさすぎだけど、僕にも言えないならおそ松兄さんに相談してみれば?」
「あ、ああ」
 好きってそういうことかと胸を撫で下ろす。しかし全ての原因がその兄に寄るものなのだとはとても言えない。
 しかし、そうか。俺は弟だから兄さんに相談することは何もおかしなことではない。
「そうだな……ありがとう、トド松」
「どういたしまして」
 次はあそこの店行こうよとトド松が席を立つ。やっぱり弟は偉大だ。

「ただいま」
 家に誰も居ないことは鍵を開けた時点でわかっているが、つい習慣として家に帰ってくるときはただいまと言ってしまう。これは俺たち兄弟も、母さんも父さんも同じらしいので家族共通の癖なわけだ。トド松は他に約束があるらしいので俺だけ先に帰ってきてしまったが、夕飯までまだ時間があるので二階で少し寝るかと階段をのぼった。タンクトップとパンツ一枚のみになりソファーに寝転ぶ。毛布をとってこようかと思ったがそれもめんどくさくなってしまった。気温が暖かくなり風邪をひくこともないだろうと眠気に逆らわず瞼を閉じる。太陽の光が、とても暖かかった。
「カラ松、セックスしたい」
 家の押し入れでぐちゃぐちゃのキスをしていた。あれは高校三年生の時だ。ディープにもほどがあるキスを俺たちは何度もしながら、それでもその先に進むことはけしてしなかった。しかし誰も居ない家の押し入れの中で粘膜と粘膜を擦りつけ合ってお互いの唾液を飲み込んでいると、ついに欲が爆発してしまったのだ。
 俺はこくりと頷いて、その次の日、再び俺たちは押し入れの中でキスをした。ゴムなんて買ってなくて、あったのはなけなしのローションだけ。あらかじめ俺は抱かれる方なのだろうなと覚悟していたから洗浄はあらかじめすませていたものの、初めてだったから綺麗に洗浄したとはいえない腸内に兄さんもよく突っ込もうと思ったものだ。若さと勢いって怖い。
 兄さんは、童貞を捨てるのも兄弟の中で一番初めに済ませたかったのだろうか。その相手として今まで数えきれないぐらいキスをしていた俺は格好の相手だったわけだ。
 結論から言うと、初めてのセックスは成功したとはとても言えない。俺はとても痛かったし血だって出た。兄さんは中に出すつもりなどなかっただろうに、抜くのが間に合わず俺の胎内にぶちまけた。初セックスで生ハメ中出しとはなんともレベルが高い。今でこそこうしておちゃらけて思い出せるが、当時は痛くて痛くて比喩でもなんでもなく死ぬと思ったし、兄に殺されると思った。それでも、今自分は好きな人とセックスをしているのだと思うとこの上ない多幸感に包まれたのも本当だ。
それから俺たちは何度も何度もセックスをした。学生じゃなくなり立派なニートになってもセックスをした。俺は普段はおそ松と呼ぶことが不通になったが、セックスしている時は今でもずっと兄貴、兄さんと呼んでいる。これは自分に強いた枷だった。遺体ばかりじゃなくなって、俺はセックスがどんどん気持ちよくなっていった。最近は終わった後に意識が無くなっていることも少なくない。セックスが気持ちよくなるたびに、俺はますますおそ松のことを好きになってしまう。この気持ちを解放させてくれと我慢が効かなくなってしまう。このままではだめだとわかっているのに、兄さんが、おそ松が与えてくれる快感を、俺は手放すことが出来なかった。
「ん……」
 眠りの淵から目を覚ます。すると、ふわりと何かが自分の頬を擽った。
(なんだ……?)
 体が暖かい。そして、なんだか安心する匂いがする。寝起きが良くない頭をなんとか動かして自分の体を見ると一枚毛布がかけてあった。己の頬を擽ったのはこの毛布らしい。安心する匂いは、馴染みのある煙草の匂い。横を見ると、そこには見慣れ過ぎた丸い後頭部があって、思わず手を伸ばしてしまった。
「お、起きたか」
「……」
「寝ぼけてんなぁ。ぶっさいくな顔しやがって」
 確認するように目の前の後頭部をぐりぐりする。そんな俺に構わず後頭部はこちらを振り向き手触りの良い髪はどこかへ行ってしまった。手持無沙汰だと目の前の頬を撫でると、すりすりとくっついてきた。相変わらずもちもちのほっぺをしている。
「お前さー、おっさんくせーよ? 風邪ひくしちゃんと服着て寝ろ」
「んん……」
「あ、聞いてないなお前」
 おそ松の頬をぐりぐりしていると段々頭が覚醒してくる。
「ありがとう……」
「ん?」
「毛布」
「ああ、うん」
 ゆったりと上半身を起こす。一時間ほど眠っていただろうか。煙草の匂いがするのにおそ松は煙草を手にしていない。不思議に思って灰皿を見ると、随分長く残った煙草がそこにあった。吸いたくなってそれに手を伸ばすと、おそ松が顔をしかめた。
「シケモク吸うなってお前……」
「ん……でも新しいのもってない」
「ったく」
 ほら、と新しいものを一本渡される。火がほしいと顔をうろうろさせるとおそ松がライターで火をつけてくれた。
「寝起きのポンコツカラ松くーん」
「おれはぽんこつじゃない」
 起き上がった上半身におそ松が顔をぐりぐり擦りつけてくる。ソファーの傍で床に座っているが、いつからここに居たのだろう。尻は痛くなってないだろうか。
「さっきまでハロワいたんだよ。んでやっとチョロ松まいてきてさー。お兄ちゃん疲れたぁ」
「そうか……そこにいると灰落ちるぞ」
「お前が吸うのやめればいいだろー」
 なんとも自分勝手な言い分だ。しかしおそ松に灰を落とすことは本望では無かったし一口吸って満足してしまったので勿体ないが手元の煙草は灰皿に追いやった。
「カラ松ー」
「なんだ」
「からまつー」
 おそ松を一言で説明してくださいと言われたら、兄弟や周りの者たちはなんと答えるのだろう。
 かまってちゃん、長男、ニート、甘えた、寂しがり屋、小学六年生、色々出てくると思うが、俺はきっと、愛らしい人だと答えるのだろう。
 末っ子のトド松は人との関わり方が上手で、甘え方もよく知っている。それは末っ子由来のものと本来の性格由来のものと両方から来ていると思う。おそ松はトド松とはタイプが違うが、構ってもらいたがりで甘えたで、そしてとんでもない寂しがり屋だ。六人でいるとおそ松が末っ子に間違われることも少なくないのは、そういうところからきているのだろう。
 この長男は、贔屓目で見なくても可愛いのだと思う。人の懐にするりと入ってしまって、寂しいから構え構えと袖を引っ張るどころか腹に抱き付いてくるのだ。うっとうしいと思うことも何度もあるが、俺は正直おそ松のそういうところをとんでもなく可愛いと思ってしまっている。母性本能か父性本能かは定かでないが、構ってと腹にぐりぐり頭を擦りつけられると俺はどうしてもいやだと言えないのだ。
「大変だったな。それで、パチンコは勝ったのか?」
「お馬さんだもんね。せっかくチョロ松まいて行ったのにさー! ぼろ負けだよ……」
 ぶすっと唇を尖らせるおそ松は本当に幼い表情をする。そういえば、昔母さんが買ってきた動物のパジャマを思い出した。六人の男がそれを着て寝るのはどうかと一、二回ほどしか着たことはなかったが、あの時のおそ松は本当に可愛くて愛くるしかった。おそ松はレッサーパンダだったのだが、ぽってりとした尻尾を座りにくいからと股に挟んでよっこいせと座るのが愛らしくて、その尻尾に抱き付いて寝てる姿は実は今でも携帯に写真として残してある。
(もう一回着てくれないかな)
抱き付いてくる頭を撫でていると、おそ松が顔を上げた。あ、と思う間もないまま下から口づけられる。俺もお前も、もうすっかりキスすることに慣れてしまった。
「今日、な」
「うん」
「トド松と買い物に行ったんだ」
「あー荷物持ち?」
「そんなに買ってないぞ。……そこで、トド松が弟も兄さんが好きだと言ってくれた」
「はあ? 何だそれ」
「俺は弟たちが大好きだが、弟は兄をどう思うのだろうと気になって。……でも、弟も、兄のことはちゃんと好きなんだって」
「ふーん……そっか」
「ああ。だから……」
 じいっと兄さんの目を見ると、兄さんはワンテンポ遅れて頬を染めた。
「え、え、」
「兄さん?」
「ああ……あーーーそういう……っ」
 不意打ちだよーと兄さんが顔を手のひらで覆う。珍しい反応に首を傾げるが、兄さんはそんな俺を見て無自覚かよ、とぼそりと呟いた。
「兄貴」
「なんだよ」
「兄貴は……弟のことが好きだろう」
「おうよ」
「俺も、弟のことが好きだ。……それで、兄貴も、兄さんのことも好きだ。俺は、おそ松の弟だから」
「……おう」
「だから……だから、」
 兄さんが、おそ松がじいっと俺を見つめてくる。言いたくない。だけど、言わなければならない。俺はもう、抑えられないと悟ってしまったから。
「だから」
「うん」
「セックスするの、やめよう」
 その瞬間、この部屋に落ちたのは、静寂と言う名の恐ろしいほどの寒さだった。
「……は?」
 ぽかん、と口を開けるおそ松の顔を見たくなくて、重い体をなんとか持ち上げてソファーから立ちあがる。結論だけ告げて部屋から逃げていくなど卑怯者のすることだと思ったが、これ以上は俺が何を口走ってしまうかわからなかった。
 後ろを振り返る勇気もない。俺は今、世界中で一番かっこ悪い男だった。

俺の頭は基本的に、考え事をするのに向いていない。それはおそ松も、そして以外にもチョロ松も、難しい考え事をするのは苦手だった。昔から真面目で頭の良かった一松と、あれでも結構哲学的な方面に興味があるらしい十四松は普段からちょこちょこ難しい話をしている何が言いたいかって、俺は難しいことを考えたくない。気楽に生きていたいのだ。
 俺はおそ松が好きだ。大好きだ。愛している。それは兄弟と言う垣根を飛び越えてしまうものだともうずっと前から理解している。だからこそ、この想いが溢れた瞬間に失ってしまうものも十分理解できている。俺は生まれた時からおそ松の弟なので、「兄さん」を失うことは嫌だ。兄さんへの恋は俺が生まれてから十年以上たって生まれたものだけど、兄さんの弟としての立場は生まれた時からずっとこの手にあるものだ。だからこそ、それを失う道など俺が選べるはずがない。何度も言うが俺は難しいことを長く考えるのは苦手だ。そんな俺にしては随分長いこと板挟みの状態で向き合ったものだと思う。それでも結局出てくる結論は同じだった。
 兄さんを失うぐらいなら、後から生まれた恋心を殺すほうがよっぽど理に適っている。
 とうの昔からそのことに気が付いていたのに今日の今日まで実行に移せなかったのは、ひとえに俺が臆病だったのと、あの温もりが手放せなかった俺の弱さがあったから。でも、トド松が俺の背中を押してくれた。弟は兄のことが好きである。だから、それを手放さないために自分の気持ちを殺すことなど簡単だろうと、俺はそう決意することが出来た。
「カラ松にいさーん!」
「うおっ!」
 どすんっと勢いよく抱き付かれるが何とか踏ん張ってみせると、後ろの十四松はすげーとけたけたと笑ってみせた。
「カラ松兄さん! やきゅー行かない?」
「野球か……」
 最近体を動かしてないから久しぶりに外で思い切り十四松と遊ぶのもいいかもしれない。
「よし、行こう!」
「マジすか!? やったー!」
 やきゅーやきゅーと準備をしに行った十四松が階段を駆け上がっていく。特に準備するものがなかった俺は、先に玄関へ赴き靴を履こうとしゃがむ。すると、後ろから「カラ松」と呼び止められた。
「おそ松……」
「ちょっと話、あんだけど」
 確認するまでもなく昨日の話だろう。一日経って俺も冷静になったので、ちゃんと説明しようと腰をあげる。
「ああ、俺も」
「にいさーん! 準備できたよー!」
 途端、十四松がだだだっと勢いよく降りてきた。おそ松は予想外だったのかびくりと驚いてみせる。十四松が俺とおそ松の二人を見て不思議そうに首をかしげた。
「あ、おそま」
「うんにゃ。帰って来てからでいいわ。お前らどっか行くんだろ?」
「あ、ああ」
「うす! にーさんとやきゅーしてきマッスル!」
「はいはい。ケガすんなよー」
 ひらひらと片手をあげておそ松は居間へと戻っていった。不機嫌なわけではなさそうだが、帰ってきたら逃げることなくちゃんと話さないと後が怖い。
「にーさん?」
「ん、なんでもないぞ。よし、俺たちを待つ広大な大地へと繰り出そう!」
「おっすおっす!」

 中学から部活をしていたのは俺と十四松で、俺は今は演劇に手を出してはいないが、十四松は今でも野球が大好きでこうして時に兄弟を誘って野球に興じている。好きなものがあるというのはいいことだ。それだけで目の前の人生が輝いて見える。
「ねーねーカラ松兄さん」
「どうした?」
「おそ松兄さん、ちょっと怒ってた?」
 キャッチボールをしながら十四松がそう尋ねてきた。きっと今朝のことだろう。十四松は豪快な振る舞いを普段はしているが、昔からどこか繊細な一面を持つやつだ。俺は十四松の前で嘘をつくことがすこぶる苦手である。
「怒ってはないぞ。ただ、俺が少しブラザーの機嫌を損ねてしまったんだ」
「そうなんだー! 仲直りしてねー!」
「ははっ、そうだな。ちゃんと仲直りするよ」
 ボールを投げると吸い込まれるように十四松のグローブの中へと飛び込んでいく。十四松はどんな球だって受け止めるのが抜群にうまい。なので今もにこにこと俺とおそ松の話をしてみせるのだ。
「そういえばね、この前バイトしてるおそ松兄さん見たよ!」
「え?」
「なにしてんのーって聞いたら、派遣のバイトだって。兄さん時々バイトしてるけど俺見たことなかったから、珍しくてすげー話しちゃった!」
「そうか……俺もおそ松がバイトしてるところを直接見たことはないな」
おそ松がバイトで稼ぐ金は大部分がラブホへと消えていく。弟が嬉しげに話すことに少し後ろめたさを覚え目を逸らすが、十四松はそんなことちっとも気にしていないようだった。
「俺ねー、兄さんになんか欲しいものあるのって聞いたんだ!」
「うん」
「そしたら、こう、いつもみたいに鼻の下こすこすってして、内緒だぞって! ってあれ!? 俺言っちゃった!」
「ははっ。言っちゃったなー」
「にいさーん。このことナイショナイショで! たのんます!」
「わかってるぞ。まかせておけ」
「やりー! さっすがカラ松兄さん!」
 十四松の愛嬌のある笑顔は見てて心がスカッとする。おそ松と話すことに緊張していたが、この弟は見事に俺の心の霧を晴らしてくれた。太陽みたいだなぁ。だから、寒がりな一松が十四松のそばでよく日向ぼっこをしてるんだ。
「十四松ー!」
「なーにー?」
「今度一松も誘って野球しようか!」
「マジですかいにーさん! 楽しみでんなぁ!」

家に帰ると、そこには靴が一つしか残っていなかった。考えるまでもなくおそ松のものであることは一目瞭然なのでそのまま二階に上がる。十四松は帰る途中で一松を探してくると言ってどこかへ走り出してしまった。弟にもらった暖かさを胸に部屋に入ると、おそ松は煙草をふかしていた。
「おかえり」
「ただいま」
「お前だけ?」
「ああ」
 すたすたと歩きおそ松の前に腰を下ろす。昨日みたいにかっこ悪く背中を向けることはしたくなかった。おそ松は真っ直ぐに自分の元に来た俺に少々驚いたのか、きゅっと目を細めた。
「あのさ」
「うん」
「昨日の話なんだけど」
「うん」
「あれってさ、本気なの?」
 余分な言葉など俺たちには必要なかった。おそ松は濁りのない瞳で俺を見つめ、いや、睨みながら尋ねてきた。
「ああ、本気だ」
「……そうかよ」
 ぐりっとおそ松が苛立たしげに煙草を消した。久しぶりにこの兄が怖いと思ったが、ここで怖気づくのは何か違う、とばかな俺でもわかっている。
「確認しとくけどさ、したくないのはセックスだけ?」
「いや……」
「何、体くっつけるのも? キスするのもやめたいの?」
「……ああ」
 沈黙が部屋に訪れて、俺は重苦しい空気に押しつぶされてしまいそうだった。セックス以外もやめたいと、俺の口からではなくおそ松に言わせてしまったことで酷く自己嫌悪が増した。
「……何で?」
「え?」
「何でだよ」
「おそま」
「俺、なんかした?」
 おそ松が俺から目を背けぽつりと零した。いつもより小さく見える肩に手を伸ばしてしまいそうになるがすんでのところで思いとどまる。ああ、だからこうやって我慢が効かなくなっているのが駄目だというのに。
(抱きしめたい)
 この腕の中に、包んでしまいたかった。
「違う、お前のせいじゃない」
「じゃあ何? セックス気持ちよくなかった? 痛かった?」
「違う」
「キス、いやだった? しつこかったから? 俺のこと嫌いになったから?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
「じゃあ何なんだよ!」
 初めて聞く、声だった。
 震えて、必死で虚勢を張ろうとしていて、それでも全然隠すことなんて出来てなかった。
 俺は兄さんを拒否したのだ。誰よりも弟が大好きな兄さんを、弟の自分が拒否してしまった。兄さんは弟の俺と過ごす時間をとても大切にしてくれて、色々な初めてを俺にくれたけど。俺も、兄さんにいっぱいあげたけど。
(だけど、だけど)
 もう。
「げん、かい、なんだよぉ」
 ぼろりと、一粒だけ涙が零れ落ちたのは俺の方だった。
「え……?」
「も、もう、無理なんだ、おそ松……っ」
 泣くのは必死で耐えたが、こみ上げそうになる嗚咽を耐えるとどうしてもどもってしまってつたない言葉になってしまう。それでも、取り繕うことなんてもう無理だ。俺には無理なんだ。
「が、がまんできないんだよ。ずっとだめだってわかってたのに、でも、もう無理なんだ」
 おそ松に触れられるのが、これ以上ないくらい幸せだった。男にしては薄い体毛、ニートだから結構白目の肌、もちもちの頬に厚めの唇。全部、全部が宝物だった。
 その体に触れて、触れられて、俺は何度もここが天国なんだなあと思った。
 そして、俺もまた全く同じ体をしているのだと、奈落の底に突き落とされた。
 触れ合うたびに思うのだ。俺とこの愛しい男は遺伝子が全く同じの、もとはただの一つの細胞でしかないのだと。俺と違う体だから、別々の生き物だから愛したはずなのに、俺とおそ松は血液どころか遺伝子まで全て同一なのだ。愛する人と一つになりたい? そんなの俺にとってはただの地獄だ。どうか俺をこの男と全く別の存在にしてくれ。せめて性別が逆ならよかった。ただ血液が同じだけならよかった。なぜ、俺とお前はこんなにも同じなんだ。こんなにも恋い焦がれるのに、結局お前は自分を形作る細胞に恋をしているだけの異常者だよと、神にさえ告げられた気がした。
「ごめ、ん、おそまつ、ごめん……ッ」
 好きになって、ごめん。
 零した涙は二粒だった。そして二つとも唇にふってきて、どうせ触れるならおそ松の唇がいいとこの期に及んで性懲りもなく望んでしまった。
「……」
「ごめん、ごめん」
「…………それは、お前の中で謝らなきゃいけないことなんだ」
「……」
 頷くと、おそ松はそっかぁと俯いた。
「もう、無理なんだ?」
「ああ」
「我慢、できないんだ?」
「……ああ」
「…………そっかぁ」
 ぼりぼりとおそ松が頭をかいた。おそ松の顔は俺には見えなかった。
「……うん、いいよ」
「え……」
「お前の言うこと、わかったよ」
 え、と再び声にならない声を出すと、おそ松が勢いよく俺の方へと顔を上げた。
「俺、お前の兄貴だからな。お前の言うこと、聞いてやるよ」
 その時のおそ松はどんな顔をしてただろうか。俺はこんなにも近くで見ていた筈なのに、きっと思い出せる時が来ることはないのだろう。
 気づけばおそ松は部屋を出ていっていて、俺は一ミリもその場から動けないまま、ずっと虚空を見つめていた。
(あ……)
 終わったんだ。全部。
 キスもしない、抱きしめあうこともない、セックスもしない。
(よかった)
 これで俺は正しくおそ松を愛することが出来るんだ。おそ松から気軽にセックスする相手を俺自ら奪ってしまったけれど、俺の気持ちが溢れておそ松を襲うよりは、こっちの方が断然いい。
「俺は、いついかなる時でもパーフェクトだからな。選択を誤ったりなんかしないのさ」
 フッと誰も居ない部屋に向かって笑いかけるが当然ながら何も反応は返ってこない。そんなことには慣れているはずなのに、心にはぽっかり穴が空いていた。
 それでも俺は両手を上げて舞台から笑顔を振りまいてみせるべきだった。初めてのキスから今まで続いていたアンコールは、今やっと終幕を迎えたのだから。

「なあ、痛いの?」
「いた、く、ない」
「ええ……」
「も、いい、から、動けってぇ」
「いやだってお前辛そうじゃん。痛いんだろ? 強がんなって」
「ちが、う、いたくない、いたくな、からぁ、うごけよぉ……ッ」
「うごけって……でも動いたらもっと辛いんじゃねぇの?」
「ちが、そこ、だめ、だめだから」
「え?」
「そこに、ある、の、やだぁ」
「え、え、」
「ひぐ、で、でかくするな……て、うぁ」
「ね、え」
「う、うう」
「……きもちーの?」
「う、あ、ぇう」
「ねえ、カラ松」
「うご、うごいて」
「きもちーの? なぁ、カラ松」
「やだ、やだ……ッあ」
「……顔ぐっしょぐしょじゃん」
「ァ、に、にいさ」
「な、俺もう少しこのまんまでいたいんだけど」
「え、なんでぇ、やだって、そこ、だめだ」
「だめなの?」
「あぅ、ひ、だ、だめ、だめぇ……ッ」
「うんうん。きもちーなーカラまつ」
「きもちくないぃ……ッ、にいさ、にいさん……!」
「は、ァ……俺も、きもちいい」
「にいさん、にいさん……ッ」
「……お前、もう聞こえてないかもしんねーけどさ。兄ちゃん……俺、お前とこうしてひっついてるだけで、溶けちゃいそうなぐらい、きもちいいよ」

「クソ松、そこ邪魔」
 げしっと思い切り足で背中を蹴られたが、片足で蹴られたぐらいじゃ俺の体は動かない。そのことに苛ついたのか、一松は再度俺の背中を蹴ってくる。弟に蹴られて喜ぶ趣味はないのでしぶしぶ横にスライドすると、一松は俺のいた場所ではなく俺の対面に座ってしまった。俺が蹴られた意味は何だったんだ。
「なぁ」
「何だ?」
「お前、昨日なんか夢見てた?」
「え?」
 珍しく一松が話しかけてきたかと思えば、夢の話だった。俺は普段滅多に夢を見ないし見たとしても起きたら忘れてしまう脳をしているので上手いこと一松に返答することが出来なかった。
「覚えてないが見たかもしれないな……寝言とか言ってたか?」
「いや、便所に起きた時お前がすごい笑顔だったから気味悪かっただけ」
「お、おう……」
 確かにそれはちょっとした恐怖だな。
 一松は俺との会話に飽きたのか膝に擦り寄ってきた猫の相手をすることにしたのか、俺からは顔を背けてしまった。
(夢、か)
 おそ松と件の会話をしてからは、悪夢を見て夜な夜なうなされることを覚悟していた。しかし予想に反して俺はまったく悪夢など見なかったしうなされてなどいなかった。
 その代わりに、俺は満ち足りた幸福感で目覚めることが多くなった。見ていた夢を覚えていたことはないのだが、起きたあの感じだと、俺はほぼ毎日おそ松の夢を見ている。それも、俺とおそ松が二人きりで過ごしている夢。幸せで、甘くて、少し腰にくる夢。実は今朝起きた時、体が火照っていた。全く思い出せないがきっとそういう夢を見たんだろう。
 しかし、 幸せな夢でいいじゃないかと言われれば、けしてそんなことはない。夢の中と目覚めた現実とのギャップに、俺はもうズタズタだ。きっと夢の中ではおそ松が俺に手を伸ばして愛してくれているのだろう。俺もまた、そんなおそ松を抱きしめて愛を囁いているんじゃないだろうか。夢を覚えていないということが一握りの救いで、きっと夢を洗いざらい覚えていたら目覚めることを体が拒否していたかもしれない。未練がましいなと自分でも呆れるが、無意識の内の深層心理だけはもうどうしようもなかったんだ。
「雨、すごいな」
「……午後はもっと酷くなるって」
「十四松はこんな時でも野球か?」
「いやそこまでばかじゃないでしょ。多分適当なとこでてきとーに遊んでるよ」
 今日は、十四松が遊びに行ってチョロ松はライブに出かけて、おそ松とトド松はパチンコに繰り出していた。こんな雨の中よくも出かけたものだと思ったが、新台の入荷の誘惑には雨すら勝てないようだった。カラ松も一緒にどう、とおそ松に誘われたがこの雨なので丁重にお断りした。気まずいからとかではなく、ただただ俺はこの土砂降りが嫌だった。
 あれから俺とおそ松が気まずくなったかと言われればけしてそんなことはない。はた目から見れば全く変わっていないだろう。生まれてから二十余年共に過ごしてきた時間は伊達じゃない、体の関係がなくなるごときで六つ子の繋がりは途切れたりしないのだ。
そう、俺らは正しく兄弟へと戻っていた。いや、おそ松自身は俺との関係を兄弟としか思っていなかっただろうから俺の心の持ちようの話ではあるのだが。パチンコに誘われれば着いて行くし、六人全員の乱闘になったら参加する。銭湯だって一緒に行くし寝る順番だって変わらない。俺とおそ松がセックスをしなくなっても世界は何も変わらない。そういうことだ。
 大きな雨粒が窓ガラスを叩く。責められているわけでもないのにその雨音が酷く不快だった。外へと足を運んだ兄弟たちは濡れていないだろうか。もし帰ってきた時に濡れていたら大きなバスタオルで包んでやろう。
「あ、」
「どうした一松」
「トド松からライン」
 兄弟からラインがくるのは珍しいので俺もどうしたのだろうと一松の様子をうかがっていると、一松がマジかよと小さく呟き顔をしかめた。
「なんだって?」
「あー……なんか、おそ松兄さんの傘が盗まれたっぽくて帰れないんだって」
「盗まれた?」
「トド松の傘に入って帰って来いよって言ったけど、土砂降りだから無理だってさ。っていうかトド松、おそ松兄さん置いて帰ってるし」
「つまり……?」
「おそ松兄さんの傘持って迎えに来い」
「なるほど……」
 おそ松なら盗まれたからと言って自分も誰かの傘をパクって帰ろうとするかと思ったが、お気に入りの店でそういうことをする気は起きなかったらしい。一松はめんどくさそうに俺の方を見て「行ってきてよ」と口を動かした。
「俺が?」
「うん。俺こんな雨の中出ていくのやだよ」
「別にいいが……店はいつもの所だよな?」
「そうらしいよ」
 じゃあ行ってくるかと重い腰を上げると一松ものそりと立ちあがった。
「二階行くのか?」
「うん」
「そうか。ゆっくり寝てろよ」
「……」
 一松は俺の言葉に返答はせず階段をのぼっていった。雨の中出ていくのやだ、と言った一松は本当のところは頭痛が酷くて動く気にならなかったからなのだろう。一松は気圧の変化にとても弱く、こうして天気が悪い時はいつもだるそうにしている。俺を迎えに行かせようとした先ほどの一松の言葉ははたから聞いていればただのわがままに聞こえるかもしれないが、俺からすれば頭が痛いことを悟られたくない一松の意地っ張りと、そしてほんの少しの俺への気遣いなのだ。
 俺の分とおそ松の分の二本の傘を持って外へと出る。するとぴんと張った冷たい空気が顔面を襲い思わず俺は顔を手で拭った。おそ松は、この雨の中一人で傘を待っているのだろうか。一人が苦手な寂しがり屋は、冷たい雨も嫌いだった。

「実際さー、許されない恋とかってそういいものでもなくない?」
 雑多なものに囲まれながら、部員全員で部室で昼食をとるのにも慣れたものだった。八人ばかしの部員の中で男子は俺だけだったので、昼食をとるのも部活の休憩時間を共にするのも俺はこの七人の女子たちであった。
「まぁフィクションの世界だからいいかなって思うよね」
「正直できない、無理」
「自分じゃなかったら話のネタにもなるだろうけどねー」
 俺はむぐむぐとコンビニで買った菓子パンを食べていた。食べている時に話すという二つの動作を並行にすることが俺は苦手だしそれは部員もわかっていたので特に俺を気遣おうとはしない。女子って凄い。何で食べている時にこんなにマシンガントークが出来るのだろう。不思議だ。
「んーでも、このご時世許されないって何だろうね」
「どういう意味?」
「お家柄ーとか、今でも少しはあるんだろうけど、そんなのしれてるじゃん? 同性愛も今じゃ許されないってほどじゃあないと思うし、不倫もまあ許されないだろうけど、ぶっちゃけ離婚って制度があるわけで、なんか決定打に欠けるなーと」
 不倫で離婚か……。母さんと父さんがそんなことになったら俺たち六人は路頭に迷ってしまうので、出来れば不倫は許されないという概念を持ったままでいてほしい。二つ目のパンを食べ終えて三つ目のコロッケパンに手を出すとよく食べるねーと隣の女子に笑われた。最近は何をしていても腹がすいてしまうので仕方ない。
「種族の違いとか……まあ、漫画の中の話だしね。何だろう、許されない恋かー」
「ヤクザとかだったらありそうだね。あんま詳しくないけど」
「ちょっと世界が遠くて想像しにくいかなー……あ、」
「なんか思いついた?」
「近親相姦!」
 得意げに大きな声で単語を発した女子に向けられたのは、かなり冷ややかな視線だった。
「そんな大きな声で言うもんじゃないよ……」
「ごめん……でも、究極これだよね?」
「確かにねー。許されないわそれは」
 正直、俺は今まで提案されたものとその近親相姦の間に何か差異があるとも思えず首を傾げる。俺はこの時にはもうすでにおそ松への想いに気が付いていたけれど、許されないものだろうなということはちゃんとわかっていた。それでも、今ほどの罪悪感と己への嫌悪感は抱いていなかったが。あの時の俺は、まだ恋をすることは美しいのだと思っている、いわば自分に酔っている、思春期の高校生だった。
「何で? 子供が遺伝子異常とかになっちゃうんだっけ?」
「それもあるけどさぁ、想像してみてよ、ぶっちゃけ鳥肌立つことない?」
「あー」
 想像したのか周りは腕をさすっている。想像してみてよと言われても俺はおそ松の顔が思い浮かぶので、心がほかっとあったかくなるだけだった。
「いやー、ないわ」
「ムリ……」
「父親とか? 兄ちゃんとか?」
「いやいややめて! 想像したくないわ!」
「でしょ? しかももし近親相姦してるって周りに知られたらおっそろしいよ。迫害だよ、迫害」
「怖すぎ」
 迫害、と言われて食べていた三分の一残っていたコロッケパンを落としてしまった。
「ちょ、松野何やってんの」
「す、すまない」
「ここ汚いからあんま落とさないほうがいいよー」
「じゃあ何でここで食べてんだって話だよね」
「確かに」
 けらけらと女子が話し続けるが、俺は先ほど聞いた迫害との言葉が頭から離れなかった。
(そっか……) 
 なるほど、近親者に想いを抱くということは俺の想像している以上におかしなことであったらしい。近親相姦は迫害されるのだ。しかも、俺が好きなのは一卵性の六つ子の兄だった。顔が似ているどころの騒ぎじゃない、俺は遺伝子レベルで自分と同一な兄に恋をしていた。
(あ、) 
 すとんと、心に灼熱の石が放り投げられた。
(あ、だめだ、これ)
 じくじくと放り投げられたところから胸が焼けて皮がめくれていく。痛い。痛い。
 おそ松の、兄弟といる時のあの無邪気な顔を思い出した。もし俺が、俺がおそ松に抱いているものを知られたら。そしてそれが周りに知られてしまったら。俺は、あいつのあの笑顔を殺してしまう。あいつの宝物を、あいつから全て奪ってしまう。
(なん、で、気づかなかった)
 俺はあいつに恋をしているんだと、まるで舞台の主人公になった気分でいた。なんとばかばかしい、なんと酷く滑稽な話だろう。俺はあいつに恋した瞬間から、舞台の主役などではない、あいつをじわじわと蝕むただの澱になり果てたのだ。
(俺は、あいつを殺すのか)
 俺のあいつへの恋が、確実にあいつを殺す。
 そのことに気が付いた時、俺は初めて死んでしまいたいと思った。

雨は嫌いだ。世界をシャットアウトするような銀糸の幕は、手で触れられないくせに俺を囲ってしまうから。
 雨のせいで歩幅は小さくなり、店に着くのにいつもより時間はかかってしまったが、俺は無事にパチンコ屋へと辿りつくことが出来た。そして店の軒下を見るが目当ての姿は無い。店の中にまだいるのかと入ろうとするが、くぅんと、小さな小さな鳴き声が聞こえた。
(犬……?)
 何故か気になって店の角の方に赴くと、そこでは見慣れた赤いパーカーがしゃがんでいた。まさかあの鳴き声、と思いもしたが、まあそんなことはあるはずもなく、赤いパーカーから伸びる手は、茶色の小さなふわふわの毛玉に見えるものを撫でていた。
「なんだよー。お前どっから来たの?」
「きゅーん……」
「きゅーんじゃわかんねーよ。お前、ここにいると濡れちゃうぞ?」
 ばか、濡れてるのはそれを撫でてるお前の右手だよ。
 屋根はそう広いわけではなかったので、毛玉とそれを撫でている右手は冷たい雨に降られてしまっていた。
「おそ松」
 呼んで、傘をおそ松と仔犬にかたむけると、一人と一匹がこちらを見上げた。
「カラ松」
「迎えに来た。帰るぞ」
「あ、マジで? さんきゅー! 俺困ってたんだよー」
 こちらをじいっと見つめる仔犬はまんまるで真っ黒な瞳をしていて、確かにこの愛くるしさは放っておけないなと俺も手を伸ばす。濡れてしまっているが普段はふわっふわな毛並をしているのだろう。そう考えると今こうしてずぶ濡れなこの仔犬がなんだか可哀想に思えてしまって、家の暖かいバスタオルで包んでやりたくなった。
「なぁなぁ、こいつ家に連れて帰ったら一松怒るかな」
「俺もそう考えていた。猫に近づかないように見張っていれば一松も何も言わないだろう」
「そっか! んじゃ連れて帰ろう!」
 嬉々としてそいつを抱き上げたおそ松に、仔犬は少し驚いたようだったが人の暖かさに安心したのか大人しくおそ松の腕に収まった。
おそ松は片手で仔犬を抱き片手で傘をさしながら俺の隣を歩いた。帰路に着きながら、俺とおそ松は六人でいる時は隣で歩くことはあまりないが二人の時は必ず隣を歩くなぁと当たり前のことを考えていた。そりゃあそうだ、二人だったら隣を歩くに決まってるだろう。それはセックスしてようがしてなかろうが変わらないのだから。俺はおそ松とキスもセックスをしなくても、おそ松の隣を歩けるんだ。
(いつから間違ったんだろう)
 初めてセックスをした時には、この気持ちは墓までしまっておかないといけないとわかっていた。それでも、俺はおそ松を好きでいることを止められなかった。じゃあ、初めてキスをした時か? あの一回きりでやめておけば、俺はこんな想いをおそ松に抱かなくても済んだのだろうか。それとも、生まれて初めておそ松の声を聞いた時から? 一つの細胞から分かれた時から? 俺はおそ松と別々に生まれた時から、既に間違っていたのか?
「こいつ、ずっとあの店の角に居たみたいでさ」
「ああ」
「ずっときゅんきゅん鳴いてるから腹でも減ってんのかと思ってなんかやろうかと思ったんだけど、俺、わんころの食べるモン知らねーし、そもそも俺なんにも持ってなかった」
「フッ……この天使にとっては兄貴に出会えたこと、それだけで天から与えられた恵みの」
「イタイイタイイタイあばらがやられる」
「え、え、大丈夫か」
俺はこんな時でも兄弟を痛がらせてしまうのかとおろおろしていると、そうだよ痛くてたまんないよーと笑われた。その笑い方に、頭を撫でてくれるかなと期待したが、生憎兄貴の両手は仔犬と傘でふさがっていた。
「いたいよー、ったく……」
「すまん……」
「……ま、いいや」
 雨はだめだ。いつもはしないざあざあとした音が、まるで俺たちを世界から隠してくれているようで、俺は性懲りもなく自分の気持ちに押しつぶされそうになってしまう。一人の時はあんなに雨が嫌いだと思ったのに、おそ松と二人で歩いているとこのままずっと雨が降りつづければいいのにと願ってしまう。セックスはしなくなったのに、俺はまだこんなにもおそ松が好きなままだ。
「こいつ見た時にさ」
「うん?」
「なんか、似てんなーって思ったんだよ」
 誰に、と首を傾げると、おそ松は見慣れない穏やかな顔で笑う。仔犬はおそ松の体温に抱かれて、うつらうつらと舟を漕いでいた。
「お前らにさ、似てるなーって」
「俺たちに?」
「うん。目とかさ、俺にくっついてくるところとかさ、あったかいと安心して眠くなっちゃうのとか」
「俺たちにくっついてるのはお前のほうじゃないか?」
「お前らもくっついてるんですー。でも、なんか似てね?」
 そう言われると、確かに似ている気がしないでもない。まあでも俺たちに似ているということはおそ松にも似ているということで。このどんぐりみたいな目はおそ松にそっくりだった。仔犬を撫でてやるときゅうんと小さく鼻を鳴らした。
「かわいいだろーこいつ」
「ああ、かわいい」
「でもさ、俺、お前に一番似てるって思ったんだよ」
 ぴたりと撫でる手が止まった。
「え、」
「この眉毛とかさー、すっげー似てね?」
「そ、そうか?」
「うん。お前もすぐ眠くなんじゃん? そっくり」
 そう言っておそ松が仔犬の頭を撫でる。俺に一番似ていると言った仔犬を愛しそうにぐりぐり撫でている。その手が、俺にとっては馴染みがあり過ぎるもので。ただただ頭を撫でてくるとき、キスする時に顔に添えてくるとき、ベッドで俺の体を暴いているときと、全く同じ手で、俺に一番似ているらしい、この生き物を。
(あ、) 
 それでももう、おそ松がその手で俺に触れてくることはないのだ。
(あ、あ)
 だめだ、泣きそう。
「カラ松?」
 急に黙った俺を怪訝に思ったのか、おそ松が俺を視界の端に捕える。
 俺は、おそ松を好きになってどうしたかったのだろう。ただただ好きで、好きで好きでたまらなくて、それだけでいっぱいいっぱいだったけど、でも、でも、俺はおそ松に。
「……悪い、用事を思い出した」
「へ、今?」
「夕飯までには帰るから」
「わかったけど、すげー雨降ってんぞ、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
 そう言って、俺は駆け足気味にその場を離れた。おそ松は不審に思ったかもしれないが、俺は一刻も早くその場を立ち去らないと何を口走るかわからなかった。
「は、あ、……ッ」
 駆け足気味だった足はいつの間にか全力で走っていて、土砂降りの中を俺は走った。行くあてなんかどこにもない。それでも俺は少しでもあいつから離れたいと、走っては知って走り続けた。
「……っ、なん、で……!」
 気づかなければよかったのに。気づくべきじゃなかったのに。どうして俺は何度も同じ過ちを犯すんだ。もう、もういいだろう。許してくれよ。
 好きだ。おそ松が好きだ。それだけだったはずなのに、俺は、俺は。
(あいつに)
 愛されたいと、思ってしまった。
「はあ、はあ……っ」
 周りの景色がどんどん過ぎ去っていく。顔に降りかかる雨は冷たくて重い。靴は水たまりを幾つも踏みつけて何倍にも重たくなった。
 足が限界で、俺はとうとう立ち止まってしまった。傘は役割を果たさなくなって、俺の体は全身びしょ濡れだった。寒さでかじかんだ手が傘を手放す。とん、と傘が地面に落ちる音がして、空から降る雨が俺を痛いほどに叩く。
「おそまつ」
 空を見上げながら救いを求めるように名前を呼ぶと、キスの代わりに雨が流れ込んできた。俺が今欲しいものはこんな冷たい何かじゃない。熱くて、柔らかくて、俺を幸せな気持ちにさせるものだ。
「おそまつ、おそまつ」
 許されない恋だと、何故人は謳うのだ。俺が兄に恋をしていても、自分と全く同じ顔の男に恋をしていても、世界は少しも変わらないじゃないか。なのに何で指をさす。どうして異常だと笑ってみせる。放っておいてくれよ。ニートで親の脛を齧って日々だらけて過ごしている男の滑稽な恋なんぞ神様は興味ないだろう。だから、俺を許さないと責める俺の中の倫理を、道義を、とっぱらってくれよ。
「おそまつ」
 こんな時に、おそ松が傍にいてくれればいいのに。生まれた時から紛うことなく俺の兄だったおそ松は、いつだって俺を光ある道へと手を引いてくれたのに。頬を幾筋も流れる涙を拭ってくれたのに。あいつに恋した瞬間から、俺はその手を手放したのだ。
「好きだぁ…………っ」
 それでも大好きだった。失くすことなんて出来なかった。
 ふってきたのは、唇ではなく、ただただ俺を濡らす冷たい雨だった。