笑ってくれよ、朝が怖い

愛しているよ。きっとお前が思いもつかない昔から、ずっと、お前だけを。

いつだって世界は俺を中心にして動いているし、俺たち六つ子に不可能なんてないと本気で信じていたのは、真っ青な空に浮かぶ太陽を掴もうと小さな手でもがいていたあの頃までだった。
同い年の男六人って、冷静に考えて一つ屋根の下で一緒に暮らすべきじゃない。だけど俺たちは過ごさざるをえなかった。だって俺たちは、生まれた時からずーっと一緒の六つ子だった。いつも六人一緒が当たり前。服もおもちゃも食べるものだってぜーんぶおんなじだった。横を見れば同じ顔。後ろを見ても同じ顔。隣に手を差し出せば、自分とまったくおんなじ手のひらが俺のてのひらを握ってくる。俺が笑えば、他の五人も同じ顔をして笑った。
それは生まれた時から俺にとって当たり前のものだったし、六つ子じゃない他のやつらは自分と同じ顔をしたやつが周りに居ないなんて、寂しさで死んじゃわないのだろうかと本気で思っていた。
「おそ松ー! 遅刻するよー!」
「今行くってー!」
 ぱきっとした制服を着て、いってきまーすと挨拶をして家を飛び出した。慣れない制服もようやく馴染んできて、思いっきり走っても違和感は覚えなかった。
「おそ松急いでー」
「あれ、チョロ松は?」
「十四松と先行っちゃったぞ」
「えーあいつ朝早いのに! チョロ松すげーなー」
 俺と今一緒に走っているのは一松とトド松だ。朝練がある十四松とカラ松(演劇部の朝練って何やってんだろ)以外の四人はいつも一緒に登校していたが、今日はチョロ松は先に行ってしまったようだった。
「……」
「おそ松?」
「んん……なんでもねー!」
 一番遅く学校に着いたやつ、帰りにアイス奢りなーと言いながら全速力で走り始めると、一松とトド松がずるいぞーと後を追ってきた。雀がちゅんちゅん鳴いていて、朝露が太陽でキラキラと輝いている、何の代わり映えもしない朝だった。
 六人も居たら、いつも六人全員で行動するなんて物理的に不可能だ。願うことならいつも六人全員で遊んだり、悪戯を仕掛けたかったけど、それはやっぱり難しいことだった。だから俺たちはいつしか自然に二人組が出来ていた。
 一松と十四松。
 カラ松とトド松。
 そして俺、おそ松とチョロ松。
 中でも俺とチョロ松の二人はとんでもなく悪戯が好きだったので、六つ子の中でも先陣を切ってトラブルに飛び込んでいくことが多かった。足も頭の回転もはやかったチョロ松は、とにかく悪戯がしたくて、大人には参ったと言わせたい、同世代のやつの上に立ちたいといつも野心を燃やしていた俺の最高の相棒だった。別に他の四人と仲が悪かったわけではなかったしチョロ松のことが飛びぬけて好きだったわけでもない。ただ、俺とチョロ松はとんでもなく馬が合ったのだ。
 だから、いつしかチョロ松に避けられていることに気づいた時は本当に意味が分からなかった。
「チョロ松はー?」
「なんかクラスの友達と遊んでくるって」

「あれ、いない」
「チョロ松なら先に行っちゃったよ」

「なあ、チョロ松知らね?」
「えー知らないよ。おそ松探してこれば?」
 普通に俺は寂しかった。今までチョロ松が横にいないことってあまりなかったことだから、中学に入って一気に距離が遠のいてしまった気がして俺は寂しさを感じることが増えていった。

「なーなー、どう思うカラ松?」
 椅子に座った俺は机に顎をのっけて足をぶらぶらさせながら、目の前の一つ下の弟を見上げた。その手には一つの台本が握られていて、多いとは言えないマーカーを引いた部分をカラ松はひたすら声に出している。それが面白くなくてどう思う、と不意に問いかけると想像通りカラ松はきょとんとした顔を俺に向けた。
「どう思う、とは……?」
「チョロ松だよチョロ松! あいつまた今朝俺らのこと置いて先行っちまったんだぜ!?」
「そうなのか」
「つめてーやつ! なんだよ!」
 ぷりぷりと俺は怒っているぞアピールをしたが、カラカラカラッポカラ松がそのアピールに気づくはずもなく、再び台本に顔を戻した。
「なーカラ松。それそんなに面白い?」
「それ?」
「演劇だよ演劇。お前、今までそんなのまったく興味なかったくせに」
カラ松は昔から短気で飽きやすい性格をしていた。それは俺たち他の五人にも同じことが言えたがカラ松は輪をかけて酷かった。駄々をこねて買ってもらったおもちゃは三日後にはトド松のおもちゃになっていたし、六人で遊んでいてももう飽きた―と初めに言いだすのはいつだってこいつだった。だから、俺はカラ松が中学に入って部活というものに入ったことにまず驚いたのだ。こいつ三年間も同じこと出来るのかよ。俺はもって一か月、よくて三カ月だろうと賭けていたが、なんとカラ松は半年たった今でもこうして熱心に台本に目を注いでいるのだった。
「面白いぞ。おそ松もやってみればいいのに」
「えー、あんな大人数の前でそんな恥ずかしい台詞言えないよ」
「そうか? 結構爽快だぞ、あの場から観客を見渡すのは」
 カラ松は、少し話し方が変わった。多分意図的に変えているんだとは思うけど、別にカラ松がどう話そうが俺たちには関係なかったので特にそのことについて言及することはしなかった。が、それによって大きく変化したこともある。俺たち六つ子が揃った時に、カラ松だけが一番に見分けられるようになった。俺たち六人が並んでピーチクパーチク喋っても周りの大人は見分けることなんて絶対に出来なかったけど、最近はカラ松が少しだけ変わった話し方をするのでこいつはカラ松だ、と特定されることが増えていった。だから何だという話ではなかったけど、チョロ松のこともあってか、六人全員で悪戯を仕掛けに行ったりする機会は減っていった。
「ふーん……なんかわかんねーや」
 たん、と机の脚につま先をぶつけると、カラ松が「どうしたんだ?」と机に台本を置いた。
「なんもねーよ」
「そうか? ならいいんだ」
 そう言ってカラ松は再び台本を手に取ろうとする。不機嫌ですと俺の顔にははっきりと書いてあるはずなのに、目の前のこいつはあろうことかまさかのスルーだ。
「何で!? 聞かねーの!?」
「え? 何もないんじゃなかったのか?」
「言ったけど! でも聞いてよ! 察してよ!」
「なんなんだ、よくわからないぞ」
 いくら話し方を変えようと演劇に夢中になっていようと結局こいつはカラカラカラッポカラ松のまんまだ。わざとらしく俺さびしーと机に突っ伏すと、カラ松は更に混乱したようだった。
「俺で相談相手にならないんだったら、他のやつのところに行ってきたらどうだ?」
「……だって、チョロ松、俺のこと避けるし」
 別に相談したりただ雑談がしたいだけならチョロ松じゃなくてもよかった。でも、俺がこれだけ拗ねて構ってアピールをしてるのに平気で台本を覚えることを優先するカラ松に腹が立って、チョロ松のことを持ち出して困らせてしまおうと、ちょっとだけ打算した。
「チョロ松も、別に悪気があるわけじゃないと思うぞ」
「いやでも避けてるし」
「お前とチョロ松だ。大丈夫だよ」
 カラ松にチョロ松のことを何度話しても、こうして「大丈夫だよ」と笑って言われるばかりだ。何の根拠もなかったけど、目の前のカラ松がいつも能天気そうに大丈夫だ、なんて言うので、俺はそうなのかなぁと口をつぐんでしまうのだ。

 俺は誰を見ているんだろう。それが、舞台に立っているカラ松を見た時に落とされた最初の寂寞だった。
 十月に行われた演劇部の発表会に、俺は足を運んでいた。すっかり景色が秋模様となった今、体育館はひんやりと肌寒く一緒に来ていたトド松は上着持ってこればよかったと腕をさすっている。パイプいすが幾つも並んでいて俺はどこに座ればいいのだろうと迷っていたが、せっかくだし前行こうよ前、とトド松は俺の手を引いて、なんと一番前の真ん中の座席を陣取った。
「えーここ?」
「いいじゃん。あんまりお客さんいないし、おそ松いつもこういう時前に行きたがるでしょ?」
「んー……」
 この時の俺は、身内の、兄弟の演劇を見に来ることにちょっとした恥ずかしさを覚えていた。思春期特有の、身内といる自分を見られたくない、家族と仲いいなんてださいなどという観念を俺はいっちょ前に抱いていた。今でも変わらずチョロ松に避けられ気味の俺は、チョロ松も自分と似たような思いを抱いているのだとこの時にはもう既に察していたし、少しだけあいつの気持ちはわかっていたのだ。
「あ、そろそろ始まるね」
「台詞とちったら笑ってやろーぜ」
「洒落にならないからそれ」
 まばらな客席に、開演を告げるブザーが鳴る。
 幕が開いた。
 それが、舞台に立つカラ松と最初に邂逅した瞬間だった。
 
 結論で言えば、俺は演劇の面白さなんてまったくわからなかった。一時間弱の話の中で、俺たちと背丈の変わらない中学生が作られた台詞をしゃべるだけ。話もありきたりなハッピーな感じのやつだったし、これなら俺たち六人が送っている毎日の方がよっぽど刺激的だった。
 それでもこの公演を機に、俺はカラ松が出ている舞台に足しげく通うようになるのである。
舞台に立つカラ松が、誰かわからなかったから。
 演技が特にうまかったわけではない。所詮新入生だし上級生に比べれば大根役者と言ってもおかしくない演技だった。だけど、カラ松は確かに舞台では「松野カラ松」ではなかったのである。演技が上手いとか役になりきっているとかそういうことではなく、そもそもカラ松がカラ松自身でない「何か」であるのが、俺はもう衝撃だった。自分じゃない「何か」を演じるのが演技なのだからそんなことは当たり前だったが、生まれて十数年ずっと毎日を過ごしてきたカラ松が、自分の内から生まれたわけじゃない言葉を発することに、名付けられた名前ではない別の名前で呼ばれることに、俺はとてつもない焦燥感を覚えた。後からそれは己に初めて生まれた嫉妬と独占欲だと気づくのだが、ガキの俺はただただ雷に打たれたように舞台のカラ松を、カラ松だけを見つめていたのだった。

「はー。結構面白かったね。カラ松まだ全然下手だったけど」
「……」
「おそ松? どうかした?」
 緞帳が下りた舞台を、俺は今でも穴が空くほどに見つめていた。カラ松はどこかと探すが、幕が下りた舞台にカラ松はいない。 酷く焦って思わず席を立とうとした。
 すると、再び緞帳がするすると上がったのである。
(あ……)
 そこには、公演を終えた役者たちが横並びになって頭を下げていた。カーテンコールである。
 カラ松は俺から見て左から三番目で一生懸命頭を下げていて、きっと皆で練習したのであろうタイミングで頭を上げた。
「あ、カラ松気づいたよ」
 トド松が俺の袖を引っ張り、その言葉通りカラ松は舞台の真正面の最前列に座る俺たちの方に視線を寄越した。照明で汗が光る顔を、眉をきりりと上げていた表情を、俺たち二人を見てふにゃりと崩した。
(あ、)
 カラ松だ。
 さっきまで確かに別人だったあいつが、俺たちを見てカラ松になった。六つ子の一人の松野カラ松に戻った。
 俺の先ほどまでの焦燥感はどこへやら、今度は不思議な高揚感が俺を浸した。
 舞台に立つあいつを、俺たちがカラ松に戻した。さっきまであの舞台に立っていた他の誰かは、俺たちの兄弟なんだぞと道行く人に自慢して廻りたくなった。
 拍手が体育館に響き渡る。俺は、その拍手が耳をつんざくようだとも思った。そして、異常だともいえる使命感を胸に秘めたのである。
 舞台に立つあいつを、松野カラ松に戻すこと。観客席から、あいつを俺たちの兄弟に戻すこと。
それは俺の知らない所で松野カラ松ではない誰かになってほしくないと、そう叫ぶ幼い独占欲だとは、やはり俺は気づかなかった。
 皆が皆横並びで、俺があいつであいつが俺ではなくなったのは、カラ松が一番最初だった。

俺はイライラしていた。学年が上がりますます俺とチョロ松の仲は良好とは言えなくなってきていた。険悪と呼ぶ一歩手前なそんな二人に、他の四人は特に気をつかうことはしなかった。腐っても六つ子。同い年の二人の僅かな関係のこじれなど、いちいち気にしていられないのだろう。イライラの原因は別にチョロ松とのことだけじゃなく、色々なところで芽吹いていた。まず、制服の着方が六人が六人ともバラバラになってきた。休みの日に六人で行動することは少なくなっていった。俺が何かをしようぜと号令をかけても、実行することは少なくなっていった。
 別に六人が六人全員が四六時中ひっついていてほしいわけではない。いつもいつも兄弟と遊んでいたいわけではない。だけど、例えば新しい遊びを見つけた時。今までは何よりも早く他の五人に伝えていたことが告げられなくなっていった。失敗したりどこかでヘマをやらかしたらフォローしあったりなすりつけあって足を引っ張っていたのが、一人で解決しろよと背中を向けられることが多くなった。それは五人だけではなく俺も同じだったし、成長すれば兄弟なんてこんなもんだと思っていたけれど、どうしても、何でだよ、とどうしようもない苛立ちを俺は常に抱えていた。
 爆発するきっかけは、本当に些細なことだった。
「あーあ、つまんねーの」
 日曜日の夕方、俺は一人で家へ帰ろうと夕焼けの染まった道をとぼとぼと歩いていた。他の五人は部活やら友達と遊ぶやらで全員家にいなくて、それなら俺もとクラスのやつらを誘って一日中遊びほうけていたが、何分歯車が合わない。遊ぶのは楽しいけど、如何せん刺激が足りなさ過ぎた。これなら家で一人で漫画読んでた方がよかったなーとふてくされていると、道の向こう側から俺と似たような背丈のやつが歩いてきた。
(あれ……?)
 今朝も、おはようとお互いに挨拶したのみだった。学校の廊下で会っても目を合わせることすらあまりなく、名前を呼ぶのだって毎日ではなくなってしまった。
「チョロ松……?」
 俺がぼそりと呟くと、相手は気づいたのかぴくりと顔を上げた。
「え?」
 え、と声を上げたのは、チョロ松と俺、両方だ。チョロ松は、何で俺がここにいるんだという顔をしていて、俺はチョロ松の左頬を凝視してしまう。
「お、まえ」
 はっとしたチョロ松がふい、と顔を逸らす。しまったという表情をしたのを見逃しはしなかった。
「なんだよそれ」
 チョロ松の左頬は赤く腫れあがっていて、ただぶつけただけではないというのは一目瞭然だった。
「……」
「誰にやられたんだよ!」
「誰にも」
「殴られてんじゃん!」
 チョロ松は歯を食いしばっている。俺と鉢合わせてしまったことを悔いているのかとも思ったが、痛みに耐えていると言った方が正しそうだ。
 今までなら、だっせーと笑い飛ばして更に小突くことだってした。でも、チョロ松は今までに見たことがないくらい悔しそうな顔をしていて、そして、けっして俺にそのケガを見せようとはしない。
「どこでやられたんだよ」
「ゲーセン……」
「誰に?」
「知らないよ。急にたかられて、断ったらこれ」
 俺が知らない所でチョロ松が殴られるなんて初めてだった。そして、こんな風に悔しそうに帰ってくるのも。チョロ松は家の方角から歩いてきていた。このケガのまま家には入れないと思ったのだろうか。全身泥まみれでケガをしまくりの体で帰ってくるなんて、俺たちは日常茶飯事だったのに、チョロ松は家に帰ろうとしなかった。
「……っんだよ、仕返ししに行こうぜ!」
「いいよ」
「何でだよ! 悔しいんだろ、行こうって」
「いいって言ってる」
「俺も行くよ! 俺たちならそんなやつら」
「お前に関係ないだろ!」
 チョロ松が、久しぶりに俺を見た。俺と全く変わらない顔が俺を睨んでいる。
 関係ない、と一刀両断にされた俺は、ガツンと頭が殴られたようだった。
「んだ、よ、それ……」
「……」
「……ッ、お前なんかもう知らねーよ!」
 幼稚すぎる台詞を吐いて、チョロ松に背を向け俺は来た道を走っていった。
 関係ないと、その言葉がくっきり頭にこびりついてしまって、俺はそれを振り払うようにオレンジ色の道を走り続けた。
(くっそ、何だよ……っ!)
 俺たちなら、そんなやつらぼっこぼこに仕返しできるのに。何だよ、お前、昔なら真っ先に俺の所に来て仕返しだって意気込んでたじゃん。お前一人を殴ったやつがいたら、俺たち二人が、六人が殴り返しに行ってたじゃん。何で、
(何で、関係ないなんて言うんだよ)
 俺たち六つ子なのに。
 前も見ずにただただわき目もふらず走っていたので、突然目の前に黒い物体が現れたことにも気づかなかった。
「え?」
「あっ」
 どすんっと大きな音がして、俺とそいつは地面に尻もちをつく。地面がアスファルトだったので両手を擦ってしまい、皮がめくれてしまった感触がした。
「いってー……」
「おそ松……?」
 怪訝そうな声に、ばっと勢いよく顔を上げた。
そこには、心配そうに俺に手を伸ばすカラ松がいた。
「どうした?」
「え?」
「泣いてるのか?」
 尋ねられ、ばっと自分の顔を手で拭う。泣いているのかと、同い年の兄弟に聞かれるのは至極恥ずかしいことであったし、あんなことで涙が出てくる自分を呪った。
「泣いてねえ」
「そうか」
 明らかに俺は涙を流していたのに、カラ松は何も言って来なかった。俺はなんだか居心地が悪く、ちょうど目の前に広がっていた河原へと足を運ぶ。すると何を思ったか、カラ松が後ろを着いてきた。何でだ。
「何だよ。着いてくんなって」
「えっ。いつもスルーするな聞けよって言うじゃないか」
「それは……あーもう!」
 突然大声を出した俺にびくりと肩を震わせたカラ松は、構わずどかりと草むらに腰を落とした俺の隣に座り込んだ。少しは空気読んでくれよ。
「どうしたんだ?」
「……」
「おそ松」
「何でもない」
「でも、泣いてたんじゃないのか」
 お願いだから泣いてたことを突っ込まないでくれ。俺だって年頃の男の子なんだ。
「……」
「……チョロ松?」
 空気が読めないなら、察しが悪いお前でいてくれよ。こいつは、当たり前のようにその名前を出してきた。
「また何かあったのか?」
「……あいつ、関係ないって」
「え?」
「あいつ、殴られてたから仕返ししに行こうぜって言ったら、お前に関係ないだろって」
 膝を立てて座り、そこに顔をうずめる。まるで子供のわがままだ。俺がチョロ松のすることなすことに干渉する権利なんてなかった。それでも、
「そうなのか」
「……」
「まあ、確かにお前は関係ないだろうなぁ」
 わかっていたけど、他人に言われるとぐさりと刺さる。それでも俺は認めたくなくて、でも、何を認めたくないのかも最早わからなくなっていた。
「大丈夫だ」
「何がだよ」
「チョロ松も今はあんな感じだけど、大丈夫だ」
「だから何がだって」
「チョロ松も、おそ松も、大丈夫だ」
「何が大丈夫なんだよ!」
 俺が大きな声を出すと、カラ松は目をまんまるにした。西日が眩しく目を開けていられない。景色が滲んでいるのはそのせいだ。川が夕日を反射して、あまりにもきらきら輝いているせいだ。だから、ぼろりと目から水が零れ落ちるのは俺のせいなんかじゃない。
「大丈夫ってお前、いっつもそう言うけど、全然わかんねーよ! チョロ松、いつまで経っても俺と遊んでくんねーし、一松は俺と会っても喋ってくんねーし、十四松は野球ばっかだし、トド松は友達友達って、全然、」
 ぜんぜん、と声がしぼんでいく。なんかもう、惨めだった。中学生にもなって、兄弟が構ってくれないからといじけて、拗ねて、泣いて。それでも癇癪は収まんなくて、俺はぼろぼろと泣きながら歯を食いしばった。
「お、お前だって、あんな風に」
「……」
「よく、わかんねーやつに、なって」
 一番初めに遠いと思ったのは、カラ松だった。俺の次に生まれた癖に、一番初めに俺に背中を向けたのは、こいつだった。演劇に手を伸ばしいつしか舞台で全然俺の知らねーやつになっていた。そんなカラ松に、俺がチョロ松がどうのこうの言っても伝わるはずがない。わかっていた、そんなことわかっていたけど、俺は何でと喚くことしか出来なかった。
「おそ松……」
「……」
「……俺は、難しいことはわからないけど」
 ぽつりと、カラ松が音を紡いだ。顔を上げる気にならず未だ眩しい川を見つめていると、ぐい、と俺ではない手が俺の頬を拭った。
「……っ」
 考えるまでもなく、カラ松の手だ。
「わからないけど、でも、大丈夫だ」
「だから、わかんねーって」
「だって……だって、俺も、俺たちも、おそ松のことが好きだろう?」
思わず、右にあるカラ松の顔の方へと視線を向けてしまった。
 ちょうど夕日がカラ松の背中にあって、橙が目を覆ってしまったけど俺は目を逸らすことが出来なかった。
「だろう、って、知らねーよ」
「え? あ、そうか。俺たちはおそ松のことが好きだ」 
「いや、何回も言わなくていいけど」
「だから、大丈夫なんだ」 
 だからって何だよ。全く前後の関係がわからなくて、国語のテストは赤点ばかりな俺にはちょっと難題すぎやしないかと思う。
「あと、お前もチョロ松のこと、俺たちのことが大好きだろう?」
「へ……」
「だから、大丈夫だよ」
 夕日を背負って、満面の笑みでそう言ったカラ松のことが、俺には本当にわからなかった。
 何だよその理屈、とか、だから大丈夫じゃねえんだって、とか、色々言いたいことはあったけど、俺は涙を携えた眦でカラ松を見つめるだけだった。
 だから、夕日に照らされた水面とか、一足先に空へと昇ってきた星よりも、カラ松がきらきらしていたことも俺にはわけがわからなかった。
「……ん、だよ、それぇ」
 次々と頬を濡らすものはとめどない。カラ松は、ずっと隣で俺の頬を袖口で拭っていた。
 夕日が地平線へと沈んでいく。星が瞬き月が太陽の代わりに光を携え始めていた。

 家に帰ると、服をぼろぼろにして、顔も身体もケガまみれの四人がいた。そう、チョロ松だけじゃなくて、一松も、十四松も、トド松も、ぼろぼろだった。俺たちがぽかんとしていると、三人がピースをしてにっかり笑った。チョロ松を見やると、またしてもふい、と顔を逸らされる。でも、「ごめん」と、小さな声が聴こえた。
 俺はなんだかどうしようもなく何かがこみ上げてきてしまって、それを誤魔化すように、俺も行きたかったと駄々をこねた。
 そんな俺を呆れた目で見る五人の中に、カラ松もしっかりといる。なんだか、カラ松の周りがきらきらしているような気がして、夕日も星もこの家には無いのにと、首を傾げたのだった。

それが、ひこばえが樹木の命を紡いでいく麗らかな春の出来事だった。
 あれ以来俺とチョロ松の仲が好転したかと言えばそういうわけでもない。今まで通り、チョロ松は俺を避け気味だったし六つ子は全員べったりな関係ではなく、外へ外へとその足を伸ばしていた。それでも、俺はあの時ほど苛立ちを覚えてはいなかった。というのも、チョロ松が俺と距離を置くようになった背景を理解し始めたからである。例えば、近所に住んでいる幼馴染がいるとして、その二人が幼稚園に通う前から仲が良かったとしよう。その二人が時を経て成長していったとき、自分のほぼすべてを知っているような相手と距離を取りたくなるのは特におかしなことではない。俺とチョロ松も、言ってしまえばそれと同じだった。親離れ、なんて言葉があるけど、それに近いんじゃないとトド松に言われた。俺はチョロ松の親じゃないけど、まあなんとなく言いたいことはわかる。
 チョロ松のことは時間が解決してくれるだろうし、俺の中でもひと段落着いたのでその件については心穏やかだった。
 しかし、俺の心を波立たせるものが一つあった。一つ、と言うか、人、と言った方が正しいのか。
 夕日がなくても、星がなくても、太陽が空に昇らなくても、水面が光を受けて輝いていなくても、相変わらずカラ松の周りはきらきらしているばかりだ。おかしいなとぱちぱち瞬きをしても相変わらずそのきらきらはカラ松の周りを待っている。舞台の照明を浴びているわけでもないのに、どうしてあいつはあんなにきらきらしているのだろう。
 カラ松は、部活がない日でも教室に残って台本を黙々と読んで放課後を過ごすことが多かった。そんなに同じ話を何度も読んで飽きないのかと一度あいつの教室に突撃して以来、俺はそんなカラ松と一緒にあいつの教室で放課後を過ごすことを好んだ。他の兄弟は他の友達と遊んだり、勉強したいと図書館に行ってしまったり、非常につれなかったからだ。寂しがり屋だと笑うなら笑え。俺はあの日から、寂しい時は素直に誰かに構ってもらうって決めたんだ。カラ松はアホだからそんな俺を深く考えず好きにさせていたし、邪魔をしなければ俺が教室で何をしていようとあいつは文句を言わなかった。
声変りは、一松が一番早かった。朝起きると一松の声がガッスガスに掠れていて、俺たちは暫く一松の声に笑ってたんだけど、続けてカラ松、十四松が同じ状況になりこれはあれだ、声変わりだと皆で手を叩いたものだ。声変わりをして、カラ松の声は格段に低くなった。中学生にしては深みがある渋い声が演劇では光るらしく、最近では色々な役に挑戦させてもらっているらしい。カラ松の声が好きか嫌いかと聞かれたら、俺はわからないと答える。こうやって放課後に二人きりの時、カラ松が小さな声で台詞を音読しているのを机でうつらうつらとしながら聞くのは好きだ。その声に眠りの世界へと誘われてしまって、肩を揺さぶられて起きたことが何度もある。しかし、その声を寝る直前に聞いたり思いだしたりすると、なんだかぞわりとしたものが背中を辿っていくようだった。それが嫌悪なのかなんなのかはわからなかったけど、そう思うとあいつの声を一口に好きか嫌いかなんてとてもじゃないけど言えない。
 そして今日も、俺は変わらず教室でカラ松を見ていた。
「だから説明してくれ。俺はもう何もわからないままここで死んでいくのか?」
 台詞だけ聞いてもいまいちどういう話かはわからない。今度は何やるのと聞いても、カラ松は一度も答えてくれたことはなかった。「言ってしまったら、おそ松は来てくれなくなるだろう?」と笑われて、そんなことはないと憤慨してもやっぱりカラ松は教えてくれない。劇が始まるはいつだって、幕が上がった瞬間だ。だからその前に観客に手の内をばらすのはナンセンスだろう、と言っていた。最近のカラ松言葉選びがちょっと複雑で、俺はちょっと混乱している。演劇部ってロミオとジュリエットとかやらないんだなーって言ったら、ごってごての演劇部のイメージ持ってるんだなと残念そうな目で見られた。いやでも世の中の大半の人は演劇ってそういうのイメージしてると思うよ。
 窓際の席に座り、手持無沙汰だったのでクリーム色のカーテンを弄ぶ。家に無い色のカーテンはどこか新鮮だった。
「喉が渇く。鉄格子の向こうの空を見て、雲を駆ける雲雀に手を伸ばすだけの日々」
 カラ松が、人差し指で唇に触れる。
 どくん、と俺の心臓は高鳴った。
 これはカラ松のくせで、台本を読んでいたり何か考え事をしていると、指を唇に持っていくのだ。乾燥が気になるのか、ただ口寂しいだけなのか、あいつの指は絹をなぞるように赤い唇の上を這う。俺はもう何度もそれを目にしていて、そのたびに思うのだ。
 触れてみたいと。
 何度も思ってそれでも手は伸ばさないでいたけれど、今日は何故か駄目だった。
 いつもより夕日がさしこんでいて、教室が普段とは違う色を見せていたのが駄目だったのかもしれない。いつもより集中していたカラ松が、うっすらと口をあけていたのが駄目だったのかもしれない。いつもより疲れていた自分が、脳髄を溶かすような甘い声に惹きつけられたのが駄目だったのかもしれない。
「お前、キスしたことある?」
 いくら原因を思い浮かべても、それは後の祭りだった。
 気づけば俺はそう質問していて、カラ松は不思議そうに首を振るだけ。
 俺もお前も幾分言葉を紡ぐことが下手な分、二人の間には言葉の橋が架かることは少ない。
 俺がふらせたのは、唇だった。
「……え?」
 息が抜けたように目をまあるく見開いたカラ松を見て、その瞳に映るのは俺だけで、心臓はばっくんばっくんと破裂しそうだ。
「……キス、してみたくて」
 お前と。
「……」
 カラ松はぽかんと呆けているばかりで、いまいち自分の身に何が起こったのかわかっていないような様子だった。
(ああ、俺、こいつとキスしてみたかったのか)
 初めて口にして、言葉にして、俺はようやく自分の内に燻っていたものの正体を知ったのだ。
上唇を重ねただけの、ささやかすぎるキス。しかし俺にとっては何物にも代えられないファーストキスだ。それは俺だけじゃなくカラ松にとってもそうなのだが、カラ松は「そうか」と一言返したのみだった。
 白みがかっている使い古された黒板、ガタガタと不安定な机、二年前に替えたばかりだというクリーム色のカーテン。それら全てが俺のファーストキスの記憶であり、一生忘れることなく俺の心に住み続けることになる。
 俺だけを映すカラ松の二対の瞳が、酷く愛おしかった。
 それが答えだ。

カラ松が俺を「おそ松兄さん」と呼んだ時、朝ごはんを食べていた俺たちはうっかり箸を床に落としてしまった。
 最初に我に返ったトド松が、カラ松どうしたんだよと尋ねると、カラ松はいつもと変わらない顔で「だって、兄さんだろ?」とのたまいやがった。つい先日こいつに不意打ちのキスをかまし、後付けのように自分がカラ松へと抱く気持ちに気づいた俺は、どうしようもなく動揺してみそ汁を音を立てて啜ることしか出来なかった。でも、
「おそ松兄さん」
 そう言って笑うカラ松は、何故だかとんでもなく可愛く思えて。以前から見えていたきらきらが割増しで輝いているようだった。
 所詮恋する男子中学生だ。夢見がちなのは許してほしい。そして正直、俺を兄さんと呼ぶカラ松に、よくないところがハッスルしそうになって危険だった。おかしい、特に妹萌え属性とかなかったのに。
 兄さんと呼び始めたからカラ松は俺とのキスが嫌だったのかとも思ったが、結局俺とカラ松はあれから数えきれない程のキスをした。
 二回目は、初めての時と同じく教室だった。三回目は屋上に繋がっている階段の影で。四回目は夜中の家の廊下で、その後はいちいち場所など覚えていない。上唇だけじゃなく下唇までしっかり触れ合わせたのは六回目。舌で唇を舐めたり遊び始めたのは三か月後。いわゆるディープキスとやらをしたのは半年後だ。俺とカラ松は何度も何度もキスをした。勿論誘うのは俺からで、でもカラ松が断ってきたことは数えるほどしかない。
だから俺は毎日のようにあいつを誘ってキスをする。初めて舌を絡めあわせた時は、べろとべろをくっつけるだけでこんなにきもちーなら、セックスってどうなっちまうんだろうってぽやぽや考えていた。
カラ松とこうやってキスをしている間にも、兄弟たちはどんどん変わっていった。それがい良い悪いという話ではなく、確かに俺たちは成長しようとしていた。そこでカラ松から生まれた「兄さん」という呼称が、俺たち六人の関係をガラッと変えた。六人が横に並んでいた昔から、長男、次男、三男、四男、五男、六男といったように、縦並びになったのだ。周りからはお兄ちゃんでしょ、と言われたような気がしないでもないが、結局は同い年なので世の中の兄弟よりは長男っていう役目を意識させられるようなことは少なかったんだ。長男、次男、三男というくくりは最初は周りが俺たちを見分けるためにカテゴリーしたものだったけど、いつしか自分たちがその枠組みを強く意識するようになった。俺をおそ松兄さんと呼ぶ五人。カラ松をカラ松兄さんと呼ぶ四人。チョロ松をチョロ松兄さんと呼ぶ三人。一松を一松兄さんと呼ぶ十四松とトド松。十四松を十四松兄さんと呼ぶトド松。俺たちは、今までにない六人の兄弟の序列を楽しんでいた。普段呼んでいた名前に「兄さん」とつけることで、いつもと関係がまるっと変わっていくような気がしていた。俺は今までほぼ自分自身と認識していた他の五人から「おそ松兄さん」と呼ばれることに、とても浮かれていた。兄弟なんて、と距離をとっていた俺たちが、その最もたる象徴であるはずの兄という呼称をもってして再び一つに集い始めたことは、酷く皮肉的で滑稽な話ではなかろうか。
 そんな中でも俺とカラ松はキスをし続けた。兄と弟、完璧に線引きされた俺たち二人は、それでも絶えることなくキスをした。弟にキスしちゃってるんだと、ちょっぴり禁断めいた行為に興奮していたのも確かで、そしてやっぱり「おそ松兄さん」とキスをしている最中にも必死で俺を呼んでくるカラ松は可愛かった。

「月がきれいですね」
 なんて、一生かけても言えないと思った。愛してるをそんな、遠まわりをしてさらにオブラートで包んで机の中にひっそり仕込んでおきましたよ、みたいに間接的に想いを告げることなんか俺には無理だ。誓ってもいい。
 だけど、俺には無理だけどカラ松は、と考えてしまうのがもう立派に恋の病っていう感じだ。
中学を卒業して高校に入ると、まわりにはどんどんカップルが増えていった。そうなると焦りもひとしおで、俺は何とかカラ松を繋ぎとめようと必死だった。女の子たちはどんどん可愛くなっていくし、男だって中学生と高校生じゃ中身も外見も全く異なる。そうした変化の中で、俺は少しだけだけどもがいていた。
 相変わらずカラ松は部活がない日は放課後に教室で台本を読んでいることが多く、それでも中学よりも部活の練習量が増えていたので、俺とカラ松の教室での逢瀬は段々数が減っていった。それが焦りに原因の一つでもあったのだが。今日は久しぶりに部活がない日だとカラ松が朝に言っていたので、あいつの教室へとぶらぶら歩いていた。そぉっと扉を開けると低く穏やかな声が俺を迎えた。カラ松の声は、エロい。昔はカラ松の声ってなんかぞわぞわするなーって思ってたぐらいだけど、最近気づいた、あいつの声はエロいんだ。そして俺はあいつの声を思い出して、こう、右手を動かしたことも数知れずなわけで。実の弟の声を思い出してシコるなんておわってんなーとは思うが、しょうがない、好きなんだから。
「知らなかったんだ、胸を焦がすというのがけして比喩なんかじゃないってこと」
 カラ松の台詞がはっきりと聞こえるところまで近づいて、後ろから抱き付いた。
「カーラまつっ!」
「うわあああ!」
「おわっ!」 
 この世の終わりの様な声を出されて思わず俺も叫んでしまう。すぐ近くで男の叫び声を聞いたので耳が痛い。しかも毎日発声練習をしている演劇部の男の声だ。
「な、な」
「お、お前声でかい……」
 ぷるぷると震えているカラ松にそう苦言すると、ぽかりと頭を殴られた。
「背後から近づくのやめろって言ってるだろ!」
 そういえば、カラ松は不意打ちに弱いんだっけと今更ながら思い出すが叩かれた頭は痛かったのでちぇーと口を尖らせて近くの椅子に座った。
「最近ずっとそれ見てんなー」
「あ、ああ。高校での初めての舞台だからな。気合いも入るさ」
「ふーん。絶対演劇なんかより兄ちゃんと遊んでる方が楽しいのに」
「なんかとはなんだ。兄さんもやってみればいいのに。楽しいぞ?」
「うへえ。遠慮させていただきまーす」
 このやりとりも最早何度目だろうか。カラ松からすると俺は毎回かかさず舞台を見に行ってるし、いつも台本に興味を示すので俺は演劇が好きだと思われているんだろうか。でも、俺が見ているのはいつも舞台に立つカラ松だったしそれ以外には特に興味を持つことはなかった。絶対、俺といたほうが楽しいのに。
「今度はどういう役なの?」
「うーん……恋に身を焦がす哀れな子羊といったところか」
「子羊? お前羊役なの?」
「いや、高校生だ」
「ぶはっ。わかりにくいよお前ー」
 最近ますますそのわかりにくい話し方に拍車がかかってきたカラ松の言葉はかみ砕くことに苦労した。それでも、最近「イタイ」と言われ始めたカラ松の言動は的確に俺の腹筋を攻撃してくるので、こいつといて笑いが絶えることはなかった。よくそんなに色んな言葉が思いつくなーって、感心すらしている。
(そっかー、恋ねぇ)
 中学の時の内容に比べて、高校の演劇の話は色気づいたものも多くなっていた。そして、カラ松が誰かに恋する役を演じるなんて言うから、俺は、ずっと尋ねてみたかったことをついに口に出してしまったのだ。
「恋ねー……。あ、恋といえばさ、『月がきれいですね』ってやつ知ってる?」
 どくんと、柄にもなく心臓が緊張ではねた。間接的にとはいえ、その言葉が言えてしまったのだ。何だよ恋する乙女かよなんて自分で自分を揶揄するが、顔が赤くなっていないか心配になってしまった。こんなに俺って緊張しいだっけと、ぐるぐる思考が展開する。
「夏目漱石か?」
 思った通り、こいつはやはり知っていた。知らなかったら兄ちゃん直々に意味を教えてやろうと思ったのに、こいつは何でも無さそうに答えを導いてしまった。
「あら、やっぱ知ってたか。なんかさー遠回し過ぎると思わね? 俺ばかだからそういうの絶対スルーしちゃうわ」
「なかなかロマンチックでいいと思うぞ?」
「お前はそういうやつだよねー」
 愛の言葉を遠まわしに言うことをロマンチックだと称するカラ松は予想通り可愛くて、俺がこんな話題を出してきたことが意外なのか少し不思議そうに首を傾げるカラ松が可愛くて、ちゅっと軽くキスをした。
 不意打ちが苦手なカラ松は俺をじろりと睨んだが、俺にとっちゃあそんなのも可愛いとしか思えないのだ。諦めてほしい。
「カラ松はさ」
「何だ?」
「あるの? なんか、そーいうやつ」
 聞いてしまった。勢いに任せて一番尋ねたかった核心に触れてしまった。
「『月がきれいですね』って、お前ならなんて言うのかなーって」
 鼻の下を擦りながらそう言うと、カラ松はぱちくりと瞬きした。質問を理解しようと考えている間抜けな顔に、もう一度唇で触れた。すると今度はカラ松のほうからちゅっと軽く唇を吸われて、それだけで俺は心が舞い上がってしまうぐらい嬉しかった。
「そうだな……」
「うん」
 溢れる俺の心の内の輝きがとかまたわけのわからないことを言いだすんだろうなと俺はたかをくくっていたから、その口から舞出てきた言葉に俺は思わず口をぽかんとあけることになる。
「……からあげ、食べたい」
 じゅわぁ~と、母さんが肉をあげている音が聞こえた気がした。
「へ?」
「うん、そうだな。俺だったらそう言う」
「やべえ、全然わかんねえよ俺」
 カラ松の好物はからあげだ。これは家族全員が熟知していて夕飯のからあげをカラ松から奪おうものなら後には血祭りが待つのみ。いくら俺でもカラ松からからあげを横取りしようなんていう無茶はしない。
 わかってる。お前がからあげ大好きなのはお兄ちゃんよく知ってる。でも。
「何でからあげなの
「何でと聞かれても……俺の好物だからな」
 噛み合っていない会話に思わず頭を抱える。ぽんこつな脳みそをしているカラ松だったけど、こうまで意味が分からないのは初めてだった。
「俺は一人でからあげを食べるより、誰かと食べたほうがもっと美味しいと思っている」
 カラ松はご飯を食べる時、いつも誰かと一緒に食べることを好む。部活が遅くなって一人で夕飯を食べることになっても、必ず兄弟の誰かに近くに居てもらいながら食べるし、逆に兄弟の誰かが一人でご飯を食べている時は必ずそのそばで話し相手になっていた。
「うん。で?」
「その誰かが自分の愛する人だったら、最高だなって思ったんだ」
 いつもはきゅっと角度が付いている眉を、へにゃりと下げて笑いながら言うものだから。思わず俺の心臓は、きゅっと音を立ててしまった。
(あ、そうか)
 そういうやつなんだ、こいつ。
 好きな人と一緒にご飯が食べたい、近くにいたい、最愛の人と自分の好物を一緒に食べることが出来たら幸せだと、こいつは言っていた。
(あー……くそ、)
 もうこれ以上、好きだなぁ、なんて、恥ずかしいことを思わせないでくれ。
「あー……、そっか」
「うん」
「……カラ松」
 二度あることは三度ある。俺は、カラ松に三度目のキスをした。
 そのキスは今までよりも甘く感じて、俺はもう戻れないんだろうなぁって、どうしようもなく甘くどろどろとした想いを胸に抱え込んだのである。

純愛が美しいなんて、そんなこと誰が言い出したのだろう。少なくとも俺には無理だ。肉欲を伴わない恋愛なんてこの世に存在しないだろうと俺は勝手に結論付けている。顔を見ればキスがしたくなるし、ふいにさらされた首筋に触れたくなり、なだからな胸を目にすればそこに顔をうずめて心音が聞きたくなる。そのうっすら腹筋がついている男の腹に入ってみたいと、そう思ってしまうのだ。裸なんて銭湯でほぼ毎日見ている。しかしその場では兄弟マジックみたいなものが働くのか、催すことはけしてなかった。ただ、今日はだめかもしんねーなぁって察した時はあいつと一緒に銭湯には行かなかったけど。
 とにもかくにも、俺は何年もカラ松とキスをし続けて、その間幾度もこいつとセックスがしてみたいと思っていたのだ。
 あいつを想って一人で自慰するだけじゃ足りない。この、一人の男を想って立ちあがり堅くなるものをあいつにぶちこんでしまいたいと、どろどろと俺は考えていた。入れたら、あいつはどんな表情をするのだろう。どんな声を上げるのだろう。そんなことを想像しては一人で慰める日々にも、もう限界だった。
「カラ松、セックスしたい」
 あれは夏の日差しが刺すほどの、油照りが首筋を伝う八月のことだった。俺とカラ松は押し入れの中でぐちゃぐちゃのキスをしていて、つい、俺は暑さにのまれてそんなことを呟いてしまったのである。カラ松の口の中を舐めまわして、汗なんだかよだれなんだかわからないもので口の周りはひどいことになっていた。俺としては今すぐにでもしたかったのだが、ぐい、とカラ松が俺を押しのける素振りをする。ダメだったか、と肩を下げるが、カラ松はじいっとこちらを見つめてきた。
「あした、じゅんびしてくるから……」
 蚊が鳴くような声でそう言われ、俺は脳天からぶちぬかれたように体中が熱くなった。
 じゅんび、するって。カラ松が、俺とセックスする、じゅんびするって。
 浮かれたままに次の日が来て、俺とカラ松は再び押し入れの中でキスをしていた。この暑さの中で閉めきった押し入れでセックスなんかしたら熱中症でぶっ倒れてしまう。幸い兄弟たちは誰も居なくて、ただ一人家に居た母さんはスーパーへと買い物に出かけてた。二人きりなわけだから、といつもは閉めている押し入れの扉を開けて、俺たちはセックスしようとしていた。
「一応準備してきたけど、初めてだからうまく出来ていないと思う。優しくしてくれ」
「あ、はい。優しくします」
 何で敬語なんだと言われたが、何の伺いもなく受け入れる側にまわったカラ松がかっこよすぎて、俺は惚れ直すしかなかったんだ。セックスする立場でかっこいいもかっこ悪いもあるか、とはてなマークを浮かべたカラ松だったが、知らなくていいよと俺はその唇を塞いだ。知らなくていいよ、俺だけが知ってればいい。
 結論から言えば、セックスは出来た。ちんこを入れて出すもん出すことは出来た。しかし、お互いに気持ちよくなることで初めてセックスと呼ぶのであれば、初めてのセックスは失敗だったのだろう。カラ松は痛がっていたし、カラ松の尻から僅かに垂れた血が痛々しかった。
 それでも、俺は酷く興奮していた。
 カラ松の尻から垂れたものは血だけではなく、白いそれもつーっと太腿へと流れていた。あろうことか俺は初めてのセックスでカラ松の中に出してしまった。とんでもない不可抗力ではあったけど、出した後の俺の高揚を誰が理解出来ようか。
(あ……)
 俺の精液がカラ松の中へと注ぎ込まれて、その瞬間、カラ松が弱弱しい声で「おそ松兄さん」と呼んだ。その瞬間、心臓が握りつぶされたようだった。ああ、俺、こいつとセックスしちまった。あいつらの兄ちゃんに、俺、ちんこぶちこんで中に出したんだ。自分の弟の腹に精液をぶちまけて、俺はとんでもなく興奮していたのである。
 男は抱いた相手を自分の所有物だと勘違いするなんて言うけれど、残念なことに俺はその思考が手に取るようにわかってしまった。俺の物だと。この両腕で抱きしめているものは俺の物だと、全身がわななくように叫んでいた。
「あに、き」
「あ、わりぃ」
 いつまでも体を抱きしめていた俺の名前をカラ松が呼ぶ。素直にその体を手放すと、カラ松は腰を抑えて上半身を起こした。その腰を痛めている様子も俺のせいなんだなと思うと黒い独占欲がなみなみと満たされていく。
「布団、汚れてないか?」
「あ、ああ」
「よかった。母さんやあいつらが帰ってくるまでに片付けないと……」
 満身創痍なはずなのに動こうとしたカラ松を腕を引っ張ることで止め、ぎゅうっと抱きしめた。
 家族に見られたらやばいのはわかるけど、母さんはこの時間にスーパーに行くと近所のおばさんたちと井戸端会議をして長い時間帰ってこない。兄弟たちも夕飯ギリギリの時間まで帰宅しないと言っていたので、少しぐらいゆっくりひっついていてもいいだろう。
「まだ大丈夫だろ」
「そうか……?」
「……ごめんなぁ。痛い?」
 カラ松の肩に頭をのせると、そりゃあ痛いさと頭を撫でられた。俺も思ったより疲れたのか、カラ松のごつごつした比較的男らしい手に撫でられるとふわりと優しい眠気が俺を包んだ。
「今日の夕飯何だろうな」
「んー……何だろう」
「俺、からあげ食べたい」
 きらきらと、カラ松の周りを舞っていたものが俺に降り注いだ気がした。 
(え)
 とくん、とくんとカラ松の心音が俺の密着している胸に伝わる。
(今、こいつ)
 その誰かが自分の愛する人だったら、最高だなって。
 あの時のカラ松の言葉が頭に浮かんで体全体に染みわたっていった。
(あ、ああ。そっか)
 こいつも俺とおんなじ気持ちなんだぁって、そう理解すると俺は先ほどまでの眠気などどこかへ飛んでいってしまって、目の前の体にぎゅうぎゅうと抱き付くことしか出来なかった。
「……そっか」
 俺はそう呟いて、カラ松の唇に触れた。
「…………俺も」
 そう、カラ松の瞳を見つめて言うと、カラ松がふにゃりと笑った。
 俺は間違いなく、今この世界で一番幸せな男だと、そう思った。

カラ松から遠まわしの愛してるの言葉を貰って、俺はもう浮かれに浮かれていた。一度セックスをしたら何が何でもカラ松を気持ちよくさせてやろうと俺にしては随分頑張った。その甲斐あって一年後にはカラ松をとろとろにすることはなんなく出来るようになっていたし、俺自身、セックスするたびに溶けちゃいそうなくらい気持ちよくなっていった。あれ以来カラ松から好きだといったような言葉はもらわなかったけどそれは俺もそうだったのでおあいこだ。好きだ、なんて、恥ずかしくてそう簡単に言えるものじゃない。
 だけど、好きっていう言葉が無くたって俺は満足していた。
 カラ松が再び、俺を「おそ松」と呼び始めたのだ。
 セックス中は相変わらず兄さん呼び、兄貴呼びだったけど、普段は大体俺のことをおそ松と呼び捨てにしていた。俺を呼び捨てにするのはカラ松一人だけだったし、それがなんだか恋人同士の特別みたいで、俺はくすぐったくてぽわぽわして、カラ松に呼ばれるたびに何だよぉと口元を綻ばせていた。
 あと、カラ松って俺の変なところが好きだ。母さんが以前六人全員に種類違いの動物のパジャマを買ってきて、俺がレッサーパンダ、カラ松がトラ、チョロ松が羊、一松がネコ、十四松が犬、トド松がウサギを割り当てられた。下三人はオーソドックスな動物だったけど、上三人は不思議なチョイスでこれ余りもんなんじゃねーのと三人で微妙な顔をしたものだ。もうこの頃には成人していたので、ハタチ過ぎた男共六人がこれを着て寝るなんてどんなホラーだと笑っていたのだが、せっかくだから一回ぐらいこれで寝てみようと全員がそのパジャマを着た。その時のカラ松の顔は忘れない。ぽわっぽわした目で俺を見て、「おそ松は可愛いなぁ」なんて言いやがった。いや、俺でも思ったよ。俺可愛くね? 成人男性にあるまじき可愛さじゃね? 俺ってば何でも似合っちゃうながははーなんて思ってたよ。でも、俺に対してかっこいいやら可愛いやら、そんな褒め言葉なんてカラ松は言ったことがなかったから、俺はぽってりとしたしっぽを両手で掴みながら「ほあ?」なんて間抜けな声を出してしまった。その日はカラ松はそわそわと落ち着かなくて、さりげなく俺の近くを陣取ろうとしていたみたいだった。わかりやすすぎて笑えてきたんだけど、俺のしっぽをふにふに触りながら「可愛い」とぽそりと呟くトラの姿をしたカラ松が可愛かったので好きにさせていた。その日の夜、みんなが寝た後にカラ松が俺の写真を一枚だけこっそり撮っていたのを実は俺は知っている。そんなに俺のこの姿が好きかと嬉しさ半分、複雑さ半分といったところだった。
こんなに可愛い兄ちゃんに抱かれてひゃんひゃん言っちゃってるカラ松はばかでぽんこつでたまらなかった。俺がセックス中に眉をへにょりと下げると、カラ松はおそるおそるといったように俺の頭を撫でてくる。それが幸せで幸せで、俺はとんでもないものを手に入れたんだなぁって、少しだけ怖くなった。
カラ松に釣り堀に連れていかれた時に、イタイって何だと聞かれたことがある。俺はカラ松が自分の好きなものを貫けるところ、しっかりとした自分の価値観があってそれがぶれないところにとても惹かれていたので「そのままでいいよ」と、何の解決にもならないアドバイスをした。トド松からは何がよかったの、なんてツッコミを受けたけど、所詮カラ松のイタさなんて俺のあばらが折れるぐらいだ。あいつの、好きなものを惜しみなく好きって言える凄いところに比べれば、そんなの些細なことだろう?
俺はとにかくあいつに惚れていた。もう勘弁してくれというぐらいにはベタ惚れだった。
好きだよとか、愛してるとかは恥ずかしくて言葉に出来なかったけど、この先一緒に墓に入るまでこの手を握っていたいなぁって。あいつへの恋心を、俺は大切に大切に育てて、それであいつを包み込むことが出来たらなぁって。そしたら俺は初めて、あいつに愛の言葉を伝えられる気がした。

違和感を覚え始めたのはいつのことだっただろう。
 セックスした後のカラ松の顔がどこか浮かない顔をしていた、二人でどこか行こうと誘ってもよく断られてしまう、最近特に兄弟の目を気にすることが多くなった。色々思うことはあったけど、何がおかしいとは一概に言えなかった。ただ、俺といる時のカラ松の元気がなくて、確かに嫌な予感はしていたのだ。
「なー、カラ松って最近なんかあった?」
 そう聞いたのは当の本人ではなく、チョロ松だ。
「えー、知らないよ。何、なんかあったの?」
「いや、なんかあったわけじゃねーけど……」
「カラ松に直接聞けよ。そういうの僕らには相談しないっておそ松兄さん知ってるでしょ」
 アイドル誌に再び目を向けたチョロ松にぶーと俺はふてくされた。確かにそうだけど、ちょっとぐらい話聞いてくれてもよくね?
 俺のことを「おそ松兄さん」と呼び始めたのは、こいつが一番遅かった。長かった俺とチョロ松の微妙な関係は、高校でやっと距離が近づいたという感じだった。真面目になろうとしていたチョロ松と今でもこうして小六メンタルで生きてる俺は喧嘩だって数えきれないほどしたが、中学の時みたいに目を合わすことすらしないなんてことは高校ではなくなっていた。そしてその時ぐらいから俺はチョロ松に兄さんと呼ばれ始め、いつも俺の隣にいたチョロ松がなーってちょっとだけ寂しい気持ちにもなったけど、今でも一番馬が合うのはこいつかなーって思ったりする。子供から大人になって関係性の形は変わったけど、変わらないものも確かにそこにはあった。
「直接なー……」
 カラ松は自分から話してこない限り、こちらが尋ねてもちゃんと答えてくれることは少ない。それは話したくないという意地というよりかは、あいつは言葉に出すことを自分で熟成させないと上手く外へ発することが出来ないので、質問に答えるのが壊滅的に下手なのだ。
「カラ松ー今ヒマ?」
 そう誘っていつも通りパチンコ屋に二人で行って、ラブホでセックスして帰って。元気ないのかとでも尋ねればよかったのだろうが、俺は正直あぐらをかいていてまた後ででいっかーなんて軽く考えていた。
 だからある日。
「セックスするの、やめよう」
 そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったんだ。
 カラ松が背中を向けて出ていく。俺はその背中に手を伸ばすことすら出来ず、ただただ茫然としていた。

俺は二階でイライラしていて、煙草はもう何本吸い切ったかわからない。幸い弟たちはみんな出払ってしまってこんな姿を見せずに済んだ。
 朝、カラ松が十四松と一緒に出掛けていった。よく考えてみると俺は何も理由を説明されていないし、突然セックスするのやめようとだけ告げられても意味が分からない。
「別れようとか、言われんのかな」
 それはやだなぁ。セックスはしなくてもいいから、このままでいたい。我慢できるかなんてわからないし、俺はそんなの絶対無理だろうなって今から思てしまうけど、カラ松を手放すぐらいならひとときの堕落した快楽なんて。
(いや無理かなー……でも、別れるのはいやだよ)
 季節は秋で、俺と十四松を混ぜたような色をしている葉がはらはらと道端に落ちていた。あいつら紅葉狩りとかしてんのかなーとか考えたけど、多分普通に野球だ。そういえばあいつ、俺と紅葉狩りに行きたいとか言ってたっけ。俺はそんなのつまんねーとか言って結局カラ松の願いは叶わなかったけど。今ならいくらでも行ってやるからさ、とかかっこよく思ってみたけど、でもやっぱり紅葉狩りなんてつまらなさそうだから行きたくない。
 すると、玄関ががらりと開いた音がした。迷うことなく階段を上がる音が聞こえて俺はきゅっと口を閉じた。
「おかえり」
「ただいま」
 カラ松は肌寒い中で体を動かしたからなのか、ちょっとだけ頬が火照っていた。カラ松は赤面症のきらいがあるから、些細なことでその頬を赤く染めている。
「お前だけ?」
「ああ」
 じゃあ何の気兼ねなく話が出来るなとカラ松をじいっと見つめた。カラ松もそんな俺から目をはなすことなく腰を下ろした。昨日と違って、カラ松はしっかりとした目をしていた。ああ、こいつの中ではもう決まっちゃってるんだろうなーって、絶望の欠片が俺の心を突き刺していった。
「あのさ」
「うん」
「昨日の話なんだけど」
「うん」
「あれってさ、本気なの?」
 カラ松の瞳は、こいつ自身がもつ自意識のように深く澄んでいて、俺の大好きなところの一つだ。
「ああ、本気だ」
「……そうかよ」
 その瞳でもってそう言われてしまえば、俺はうなだれてしまうしかない。
「確認しとくけどさ、したくないのはセックスだけ?」
「いや……」
「何、体くっつけるのも? キスするのもやめたいの?」
 最悪の事態だ。うすうす勘付いてはいたが、カラ松が求めているものはセックスをやめるということだけではないらしい。別れ際に彼女に縋るだっせー男みてーだと自嘲して、俺はとんでもなく惨めな気持ちになる。
「……ああ」
「……何で?」
「え?」
「何でだよ」
「おそま」
「俺、なんかした?」
 心当たりなんてありすぎるほどある。それでも、何かあったなら言ってほしい。俺は生まれてからずっとお前のお兄ちゃんだけど、恋人としては全然赤ちゃんみたいなものなんだよ。 
「違う、お前のせいじゃない」
「じゃあ何? セックス気持ちよくなかった? 痛かった?」
「違う」
「キス、いやだった? しつこかったから? 俺のこと嫌いになったから?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
「じゃあ何なんだよ!」
 どうして。俺のせいじゃないならどうして。俺は難しいことを考えるのが苦手だから、わかりやすく教えてくれ。
 ぱりんと、何かが割れた音が響く。
「げん、かい、なんだよぉ」
 そして聞こえた弱弱しい声に、俺はふと顔を上げた。
「え……?」
 一筋だけ、涙がカラ松の頬に伝っていた。
(あ……)
 一粒だけとはいえ、カラ松が俺と二人きりの時に涙を零すのなんて、初めてだった。
 何で、何で。
 そんなに何が嫌なんだ? 何が、お前をそんなに。
「も、もう、無理なんだ、おそ松……っ」
 無理だ、と言われて、俺は部屋の温度が氷点下まで下がってしまった錯覚をした。
「が、がまんできないんだよ。ずっとだめだってわかってたのに、でも、もう無理なんだ」
 何が、がまんできないの。だめだってわかってたのに無理だって、もう、俺と一緒にいることが無理だって思っちゃった?
「ごめ、ん、おそまつ、ごめん……ッ」
 謝られて、俺は喉に綿が詰まったような心地がして、息苦しくなった。
 カラ松がこんな風に謝ってきたのなんて、今までなかった。こいつは、短気で頑固だった。だからたとえ喧嘩をしてもこいつが謝ってくることなんてそうそうなかったし、いつもあの落ち着いた声で音を紡ぐカラ松が息切れをしたように謝ってくるなんて、やはりただごとではなかった。
「ごめん、ごめん」
 なあ、何でそんなに謝るの。ただ別れたいってそれだけ言ってくれれば、俺はお前を問い詰めて責めて引きとめることだって簡単に出来たのに。そんな風に謝られたら、俺、なんもできねーじゃん。
「…………それは、お前の中で謝らなきゃいけないことなんだ」
「……」
「そっかぁ」
何よりもこたえたのは、カラ松が謝らなければいけないと、俺に思ったことだった。
「もう、無理なんだ?」
「ああ」
「我慢、できないんだ?」
「……ああ」
「…………そっかぁ」
 最近ずっと、カラ松はこんなことを考えていたのだろうか。難しいことを考えるのが俺と同じぐらい苦手なこいつが、ずっと俺に言わなければならないと考えていたのだろうか。
 カラ松とした初めてのキスを思い出した。
 そういえばあの時も、俺がカラ松の初めてを奪ったんだっけ。
(……ああ、そういうことか)
 すとん、と不快なほど澄んだ音が胸に響いた。
「……うん、いいよ」
「え……」
「お前の言うこと、わかったよ」
 生まれた時から、俺、お前の兄ちゃんだから。
「俺、お前の兄貴だからな。お前の言うこと、聞いてやるよ」
 俺の次に生まれたお前は、きっとその時から俺のことを見ていたんだろうなぁ。きっと、こいつが初めて耳にしたのは俺の泣き声だったんじゃないだろうか。
 もう俺はうんざりなんだと思われても、まあ、しかたねーよなぁ。
 これ以上その場に居られる気がしなくて、俺は部屋を出ていった。
 惨めだった。生まれて初めてこんなにも、自分が惨めだった。

「あ、おそ松兄さんおかえりー」
「おかえり……」
「ん? あれ? わんこっすかーおそ松兄さん!」
 パチンコ屋の角に居たびしょ濡れの仔犬を抱いたまま家に帰ると、下三人組が俺を迎えてくれた。
「あれ? カラ松兄さんは?」
「あー、なんか用事思い出したからってどっか行っちまった」
「こんな雨の中で? 何だろう」
「にーさんにーさん、わんこどーする?」
「とりあえずタオルで拭いてやるわ。なんか一枚持ってきてくんね?」
 そう頼むと十四松はかしこまりーと風呂場へ駆けていった。一松がじいっと俺の腕の中のこいつを見つめている。
「部屋ん中猫いない?」
「ん……いない」
「なら大丈夫か。そっちで拭くわ」
 一松、トド松と居間に行き、ストーブを持ってきてその前に座った。そのタイミングで十四松がふわふわの水色のタオルを持ってきて、タオルで思いっきりわんころをわしゃわしゃ拭いてやると、気持ちよさそうに目を細めていた。
「かわいー」
「人に慣れてるねこいつ……飼い犬?」
「野良だと思うけどなー。パチンコ屋のとこにいたから、色々餌とかもらってんのかもね」
 拭き終ると、こいつはすり、と俺の手に寄ってきた。ストーブが暖かいのでみるみるうちに仔犬は乾いてきて、ふわっふわの毛並になった。
「なんか、凛々しい眉してるね」
「ほんとだ! きりっとしてる!」
「かっこいいじゃん……」
 三人が交互に撫でてやると、言葉の意味がわかるのかなんなのか、俺の前よりきりっと立って見せる仔犬に俺は笑ってしまった。
(あー、やっぱ似てんな)
 弟の前でかっこつけようとするところとか、そっくりだよ。
「そういえば、チョロ松兄さんが母さんに買い物の手伝いお願いされたからお前らも来いって」
「えー俺もう外出てくのやだからお前ら行ってこいよ」
「そんなの僕だって同じだよ!」
「一松にーさん、トド松! 行くよー!」
 トド松の不満も何のその、十四松は二人の手を引いて玄関へと走っていってしまった。一松の頭痛は大丈夫かと思ったが、下に降りて二人と一緒に居られたのならだいぶ和らいだのかなと安心する。
「おそ松兄さんいってきマッスル!」
「おうおう、いってらー」
 玄関が大きな音を立ててしまり、急に静けさが部屋に満ちた。
「くーん」
 ふと隣を見ると、仔犬が俺をじいっと見つめていた。腹が減ってるのかもしれないと思ったことを思い出したが、特にそういうわけでもなさそうでとりあえずともう一度抱っこした。
(風邪、ひかねーといいけど)
 あの日から三カ月近くが経った。兄弟以上の接触をしない以外は、何も、本当に何も変わらなかった。元々がそんなにべたべたする関係でもなかったし、まあ少しぐらいぎくしゃくしてても周りはまったく気づかなかっただろうが。
 だからと言って俺が吹っ切れたわけでもない。好きだ。今だってどうしようもないほど好きだ。朝起きた時のおっさんくさい不細工な顔も、サングラスをかけてわけのわからないことを述べて兄弟にスルーされてんのも、肉を食べることに必死で話すことも出来ていないのも、変わらず好きだった。
 雨の中、用事があるからと走っていってしまったあいつの腕を、行くなと掴みたかった。俺と一緒に居てよって駄々をこねたかった。
「きゅーん……」
 わんころが切なげに鳴いた。それにつられて思わず俺も苦笑してしまう。
「あーあ、健気だねー俺も」
 わんころの鼻と自分の鼻をくっつける。やっぱり、あいつと似ていた。
「好きだなぁ」
 お前のことが、好きだよ、カラ松。

「見合い?」
 ニートにあるまじき言葉が聞こえて、俺は思わずオウム返しをしてしまった。
「会社でお前たちの写真を一度見せたことがあってな。そこにいた上司が六つ子に興味を持ったらしくて」
「んで、娘に会わせてみたいって? 何で俺?」
 突拍子もない出来事すぎて、俺はよく何が起こっているかわからない。その娘さんとやらの写真を見せてもらったら、確かに可愛かったんだけども俺らの幼馴染の方が数十倍も可愛かったし、認めたくないがイヤ代とチビ美のほうがよっぽど俺の好みだった。
「一応、お前も長男だからな。代表として……」
「長男ったって俺ニートだよ!? 自分で言うのもなんだけど!」
「うーん、問題はそこだなぁ。仮にも上司の娘とニートの息子を見合いさせてもいいものかどうか……」
「えー……そう思うなら断っといてよ父さん……」
 女の子は好きだけど、でも俺にはもう本命いるんだよーあなたの息子ですけど、と最低なことを思っていると、背後に嫌な視線を感じた。
「ん……?」
 振り返ると、二対の瞳と目が合う。俺たちの中でも黒目が大きく、スマホを手にしたトド松がにやりと笑った。
「ねー! おそ松兄さん見合いするんだってー!」
「あっ! トド松テメェッ!」
 居間に飛び込んだトド松がビッグニュースだよとでも言うように見合いのことを暴露した。何の因果か今日に限って弟たちは五人が五人とも勢ぞろいしている。
「見合い!?」
「ニートなのに?」
「いいじゃん、せっかく女の子とお付き合いできるチャンスだよー?」
 トド松がからかうように言ってくるが、俺がそういう堅苦しそうなものは嫌いであることは十分知っているはずなのでこれはただの嫌味だ。
「何でおそ松兄さんが?」
「長男だからじゃない? おそ松兄さんお疲れさまでーす!」
「お前らなー!」
 お前らも一回長男やってみやがれと暴れまわる。主にトド松、十四松、チョロ松が巻き込まれててんやわんやの騒ぎになってしまった。興味無さそうな一松は部屋の隅で猫と戯れていて、カラ松は鏡を持ったまま俺たちの乱闘をぽかんと見ているだけだった。それはいつもと変わらない光景だったけど、ばちりとカラ松と目が合ったことはいつもと違うことだった。
(あ、)
 俺は何かを言おうとしたけど、その前にカラ松が口を開く。
「兄貴も、大変だなぁ」
 からりと笑ってそんなことを言うので、お前もかと乱闘に巻き込んだ。ぎゃーすかぎゃーすか騒いでいる俺たちの元に父さんが来て、いったん俺たちの騒ぎは中断になる。
「おそ松、先方にはこちらから断っておくから行かなくても大丈夫だ」
「へ? あ、行かなくていいの?」
「やっぱりよく考えるとニートの息子と会わせるのはちょっとな」
 うんうんと頷きながらそう言う父さんに、俺たち六人はうっと息が詰まる。クズですいません。働く気は全くないけど。
「えー、何だつまんない」
「お前なー」
 ぐりぐりとトド松の頭をこぶしで抉るようにすると、痛い痛いと本気で訴えてきた。面倒事を俺に任せようとしていたことがバレバレだったので容赦はしない。
「おそ松、そのへんにしといてやれ」
「えー、……っていうか、お前も大変だなって笑ってただろーが!」
 トド松から標的を変えてカラ松に飛びかかると、カラ松は痛い痛いと言いながらも俺に対抗しようとしてきた。カラ松とこんな風に軽く小突きあったりするのは久々で、弟たちもやれやれーと面白がっている。
「おら! 観念しやがれ!」
「ちょ、おそ松ギブギブ!」
 あははと笑う声が澄んでいて、六人でふざけあうのはやっぱり楽しかった。
 カラ松と色々あって、俺もまあ悩んだりしたけど、なんかもう、いいかなぁって。
 兄弟としてこんな風にずっとふざけあって毎日を楽しく過ごせるのなら、もう、セックスするとかしないとか、キスするかしないとか、愛してるか愛していないかなんて、考えなくてもいいのかなって。
 なんだかちょっとだけふっきれた気がして窓の外を見ると、太陽がてっぺんで輝いている。

月の裏側はでこぼこしていて、俺たちが見ている姿よりずっと醜いのだと教えてくれたのは、カラ松が高校で初めて主役に立った舞台だった。
「あー、さっみー!」
 一月に銭湯に行くのは軽く修行のようなものだ。昼間の見合い騒動は結構長く続いて、母さんにいい加減にしなさいと止められるまでなかなかの騒ぎだった。はあと息を吐くと雪のように白く宙を舞う。寒さに弱い一松やチョロ松は風呂に入った後だというのにぶるぶると震えていて、逆に十四松とカラ松はほかほかと体から湯気を出して何が面白いのかげらげらと笑っていた。同じ六つ子なのに何でこんなに違うのだろう。
「ね、おそ松兄さん」
 トド松が、てててっと俺の後ろを着いてきた。何だよと振り返ると、今日はごめんねと珍しく謝ってきた。
「なに、どしたの急に」
「いやーなんか謝っといたほうがいいかなって」
 何だそれとこつんと小突くと、へへ、とトド松は顔を綻ばせた。こういうところが、なんか末っ子ってずるいよなーって思ってしまう。
「でも、惜しかったんじゃない?」
 チョロ松が後ろを振り返って俺にそう尋ねてきた。何がだよと返すと見合いだよと笑われる。
「ニートの僕たちには結構いいチャンスだったんじゃない?」
「確かにね。でもそもそも長男だからって理由でおそ松兄さんが行くことになりかけてたのはね、なんか」
「なんか?」
「僕たち同い年なのに、そこで差つけられてもってちょっと思っちゃったかな」
 トド松がそう言うと、皆が一斉にああと頷いた。
「え、お前らそんなこと思ってたの?」
「まあ一応弟ですし? っていうか、おそ松兄さんだって絶対考えてるでしょ」
「えーんなことねえよ」
 ほんとかなぁとトド松が覗き込んでくるが、長男だからといってそれほど何かを強要されたことはないから、ほんとだってと軽く笑う。
「考えてたとしてもお前らにはぜってー言わねーよ」
「何それ。やなかっこつけだなーもう」
「トド松、このアホはそんな難しいことなんにも考えてないから大丈夫だ」
「んだとチョロ松!」
 考えてますー長男だからとかめちゃくちゃ考えてますーとおちゃらけた顔でそう言うと、ほら見ろぜってー考えてねーだろとばかにされた。
「おそ松兄さんはおそ松兄さんだよ!」
「ま、僕ら皆クズだしごみだし変わんないよ」
 満面の笑みでそう言う十四松に、ヒヒと不気味な笑みを浮かべながら俺ら全員を自虐する一松。相変わらずの六つ子の風景で、月は白く輝いている。
「おそ松兄さんが長男だから僕たちも安心してクズやれるよねー」
「いやー、おそ松兄さんが兄さんでよかったよ」
「トド松も一松も好き勝手言いやがって……」
四人は俺を置いて前へと歩いて行ってしまったので、俺はカラ松を探した。カラ松は俺たちの会話を普段のように静かに聞いていて、何故か一松に寒いからマフラー貸せと自分のそれを奪われていた。
「あはは、カラ松奪われてやんの」
「フッ……愛しきマイブラザーの切なる望みは叶えてやるのが男だろう」
「それでお前が風邪ひいちゃ意味ないだろー」
「俺は寒くないから大丈夫だぞ」
 きょとんとして答えたカラ松にまあそうだけどねと相槌を打った。四人は前を歩いていて、俺たちはその後ろを隣で並んで歩いている。こうして二人で歩くのはあの雨の日以来だなーとちょっぴりセンチメンタルな気持ちになった。
「あ、そういえばこの前のわんころがさ」
「うん?」
「またあのパチンコ屋のとこに居たんだよ。今度会いにいかね?」
「ああ。元気にしているか?」
「元気元気。色んな人に懐いてまわってるよ」
 あの仔犬は次の日に元居た場所にかえしてきて以来しばらく姿を見ないなと思っていたら、つい先日あの日と同じ場所に居た。この間よりもちょっぴり丸くなっていて、美味しいもん誰かに食べさせてもらってたのかなって少し微笑ましくなった。
 寒いからか俺とカラ松は普段より近い距離で歩いていて、手を伸ばせばその指に触れることだってできそうだった。今は出来ないけど、別れる前だったら、躊躇なく伸ばしていただろうその距離が酷くもどかしかった。
「……俺、さ」
 だから、つい話してしまったのかもしれない。
「見合い、あのまま進んでたら本気で断ってたよ」
 ぴく、と、自惚れかもしれないけど、カラ松が肩を動かした気がした。
「長男だからって言われてもさ、でも、無理だったよ」
 隣のカラ松を見る勇気はなくて、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。雪は降っていないけれど地面は微かに凍っていて、気を抜くと足を滑らせてしまいそうだった。
「お前が長男だからって、そんなことを背負う必要はないだろう」
「ん……お前はさ」
「え?」
「俺が見合いするって話聞いて、どうだった?」
 何の意図もない質問だった。俺だけ見合いをするなんてずるいとか思ってんのかなとか、そういうことがなんとなく知りたかっただけの、世間話の延長のような質問だった。
 だけど、いつの間にか隣でカラ松は歩いていなくて、何でと思いながら振り返ると、カラ松は俺の五歩ぐらい後ろで何故か途方に暮れたように立ち竦んでいた。
(え……?)
 その顔はまるで、世界に一人きり、置き去りにされた子供のようで。
 「カラ松?」
 俺が名前を呼ぶと、カラ松はまた肩をぴくりと震わせた。
「……おそ松、が」
 カラ松の口が、僅かに震えた。
「俺の兄さんじゃなくなる、って、思った」
 何でそんなに震えた声を出すんだろう。どうしてそんなに離れたところにいるんだろう。
「おそ松は、長男だから俺の兄さんなのに、長男だから、俺の兄さんじゃなくなるんだって、思った」
「……何で? 結婚しても、俺はお前の兄ちゃんだよ?」
「でも、他の人の所に行ってしまうんだろう?」
 ああ、なんて残酷なことを言うんだろう。俺が他人のものになることを、そんな風に残念がらないでほしい。俺にはまだ、希望があるんだって思ってしまうだろう。
「なあ、カラ松」
 問うてもいいのだろうか。美麗に輝いているそんな月の裏側をわざと覗こうとするなんてナンセンスだとあの劇は言っていたけれど。
「お前は、俺が兄ちゃんでよかったって思うのか?」
 その時確かに、でこぼこだらけの裏側が見えた。
「そんな……そんなの、」
 カラ松が俺から目線を逸らしたそうに、でもはなすことが出来ないのかぐしゃぐしゃになった瞳に俺を映した。
「よかったに、決まってるじゃないか」
 カラ松は、俺が兄さんでよかったと、そうなんのためらいもなく言ってみせる。俺も、お前が弟でよかった。お前より一足先にこの世に生まれることが出来てよかった。こいつに恋して兄弟じゃなければなんて、一度も思ったことはない。きっと俺たちは、六つ子の長男と次男だから、ただ一つきりのその存在に惹かれあっている。
「カラ松、セックスしたい」
 こみあげてくるものは、どうしようもないほどの欲だ。
「キスしたい。くっつきたい。そっちに行きたい」
 手を繋ぎたい。抱きしめあいたい。だから、どうか俺のこの手を取ってくれないか。
「だめ、だ」
 カラ松が、くしゃくしゃの顔でそう言った。
「兄さん、だから、だめだ」
 だめだ、なんて、そんな顔で言われても、説得力なんかねえんだよ。
五歩ほどの距離を一気に詰めて、その腕を掴んだ。
 何の了承もなく歩き始めた俺に、カラ松は何かを言おうと口を開いてはそれを止める。
 月は相変わらず鈍く白い光をその体に携えながら、ただただ俺たちを見つめていた。

俺たちはいつも使っていたラブホに入り、その部屋のベッドの上で距離を置いて座っている。落ち着いて話をできる場所が俺はここ以外に思いつかなくて、勢いのままにカラ松を連れてきてしまった。距離は離れているけれど、どうしても掴んだその腕を離せなくて俺はずっと握りしめたままだった。
 弟たちは俺たち二人が急に居なくなってしまったことに驚いているだろうか。いや、俺たち六つ子はそんなことでいちいち騒いだりしない。とりあえずそちらを心配することはなさそうだった。
 長い沈黙の中、最初に口を開いたのはカラ松だ。
「……おそ松」
「…………なに」
「謝らなければいけないことが、俺にはありすぎる」
 ぼそりと低い声で言われたそれに、俺はまた、と心が沈んでしまった。こいつに謝られることほど、惨めになることはないのだ。
「いいよ、謝らなくて。……謝んな」
 値段のわりに広いベッドを置いてくれているところもお気に入りの一つだった。このベッドの上で何度快楽に浸ったことだろう。
「……--俺さ、お前とセックスするの、すげえ好き」
 カラ松が僅かに身じろぎをした。俺はカラ松に向き合おうと、初めてその掴んでいた腕をはなす。
「セックスだけじゃなくて、キスすんのも、抱きしめるのも、手を繋ぐことだって好きだよ」
 ぎしりと体の向きをカラ松の方へと変えた。目の前の顔は俺と寸分の狂いなくまったく同じもので、つりあがっている眉毛でさえ俺とカラ松はまったく同一のものにすることが出来る。ああ、俺たちは元は同じ一つの細胞だったんだなと胸が幸福感で満たされた。
「カラ松は?」
「俺……?」
「俺とセックスするの、どうだった?」
「……好きだよ」
 カラ松がそう言ってくれて、俺はとても安心したけれど、尚更のこと俺はカラ松が何で俺から離れようとしたのかがわからなくなった。
「お前、俺とセックスするの好きって言ってくれるし、俺のこと嫌いじゃないって言ってくれるじゃん。じゃあ、じゃあ何で」
 ずっとずっと聞きたかった。臆病な心が邪魔をして、何時まで経っても聞くことが出来なかったけど。
「何で俺と、別れたいの?」
 カラ松が、ぽかんと、それこそ効果音が文字そのままに頭に浮かんでいるような表情をした。
「え……?」
「セックスは好きだし、俺のことも嫌いじゃないのにそういうことするの止めようって……。俺と別れたいってことなんだろ?」
 俺は全部核心を言葉にしてどんどん悲しくなってきてしまった。思っているだけならまだしも、やっぱり実際に言葉にすると傷はますます抉られていく。
「え、え」
「わかんねえよ。俺、お前と別れたくないのにさ」
「俺、と、お前が?」
「教えてよ。俺、お前の兄ちゃんの仕方はわかるけど、恋人の仕方って全然わかんねーんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれおそ松」
 カラ松が、俺の肩を掴んでひとこと言った。

「俺たち、恋人だったのか?」

 アホウアホウと、夕方でもないのに烏の声がこだまする。
「……へ?」
「え……?」
 お互い、呆気にとられたように目を見開いて口を間抜けなほどに開いている。
「え、え、ちょ、ちょっと待てお前」
「え、え、な、」
「お前、今なんつった?」
聞き捨てならないものが聞こえて、俺もカラ松の肩をがしりと掴む。お互いがお互いの肩を掴みながら、必死の形相で相手を見ていた。
「お、俺たちって、付き合ってたのか……?」
 わからない。俺はこいつの思考回路が全く分からない。俺はとりあえず言いたいことはたくさんあったけど、口に出てきたのは、
「はああああああああ!?」
 という、叫び声だった。
「え、な、何、そこからなの? え、何が起きてんの今」
「お、おそ松?」
「え、何、カラ松は俺たちは恋人なんかじゃないって? そう思ってたの?」
 こくりと、カラ松が恐る恐る頷く。俺は未だに何が起きているのか把握できていなかった。
「……」
「…………」
「あー、あー、そっか」
「え? え?」
「そりゃあわけわかんねぇはずだよ!」
 何ということだろう。俺はカラ松と付き合ってなんかいなかった。恋人なんかじゃなかったのだ。まずその前提からして大いに間違っていた。カラ松は別れようなんて言っていなかった。ただその言葉通り、セックスを止めようと、そう訴えていただけだった。あまりの事態に両手で顔を覆う。カラ松はおろおろしていたがそんなのに構ってられなかった。
「……え、待って。じゃあ何でお前俺とセックスしてたの?」
「え、あ、お、お前がセックスしたいって言うから……」
 両手で覆っていた顔を上げて、俺はカラ松に尋ねる。すると、とんでもない返事が返ってきた。
 思わずごちんとその頭を殴る。「痛い!」と悲鳴が聞こえてきたが、そんなの知ったこっちゃない。
「おま、おまえ、そんな理由で兄貴に足開いてんじゃねーよ!」
「な、お、お前が俺にしたいって言ってきたんだろ!?」
「言ったけど! 言ったけども! そこでそうかってセックスするか普通!?」
 そう言いながら、ああこいつには普通なんて概念は通用しないよなと思いなおした。俺の勢いにつられてかカラ松もどんどんヒートアップしている。もう、次々と明らかになる事実に頭を抱えるどころではなかった。
「っていうか、じゃあ初めにキスした時も俺がしてくるからって受け入れてたの? どんだけポンコツなんだよお前は!」
「なっ……そんなのいきなり兄貴にキスされたら驚くの当たり前だろ!」
「驚くにしたってその期間長すぎなんだよ! 何でその後にわかってなかったなら理由とか聞いてこないんだてめえは!」
「……ッ、じゃあ、何でおそ松は俺にキスなんかしたんだよ!!」
「んなの、お前が好きだからに決まってんだろーが!!」
俺の言葉を最後に、部屋はシンと静まり返った。俺は自分がとんでもなく恥ずかしいことを言ったという自覚はなく、ただただ息を荒げてカラ松にうったえかける。
「お前にキスしたのも、セックスしたいって言ったのも好きだからだよ! それ以外になんかあんのかよ!」
 カラ松は魂の抜けたような顔をしている。今まで俺がしてきた言動全てが伝わっていなかったと知って、俺はもう絶望もいいとこだった。
「なに、お前、何で俺がキスしたりセックスしたりすると思ってたの? 俺がお前のこと好きって知らなかったんなら、どう思ってたんだよ」
 カラ松が、はくりと口を開けた。声が伴っていないことに気づいたのか、もう一度小さく口を開ける。
「お、お前は、何でも一番にやりたがるから」
「え?」
「キスも、セックスするのも、兄弟で一番に済ませたかったんだろうなって、思って」
 その答えはあまりにもポンコツで、ばかで、俺が全く思いもしないようなことだった。
「は……?」
「俺、は、お前の弟で、次男だし、相手にちょうどいいんだろうなって……」
「ちょうどいいって」
「……ちょうどいいから、だから、俺、嬉しくて」
 嬉しい、と言われて俺は首を傾げる。
「だめだってわかってても、我慢できなかった」
 あの日と同じ言葉を言われて、俺は眉をひそめる。
「おそ松が俺を選んでくれるのが嬉しくて、兄弟なのにって、俺が次男だから選んでくれてるだけなのに、嬉しくて止められなかった」
 あの日に言われた言葉が違う形で俺の心の中にすうっと入っていった。
(あれ……?)
 あの時、俺が言われたことはもしかしてと、少しの期待を抱いてしまう。
「俺といるのが限界だったから、セックスするのやめようって言ったんじゃないの?」
「ちがう」
 何かが変だ。カラ松が限界だったと、我慢できなくなるからと言っていたのは、多分俺が解釈したものと違うものだ。
「……―-カラ松」
「……っ」
「何で、俺とセックスするの止めようって言ったの?」
 カラ松が、泣きそうな顔で俺を見上げた。
 なんだかそのままこいつが逃げてしまいそうで、とっさにその左手を右手で握りしめる。
「あ……」
「なあ、何で?」
「あ、だ、だめだ」
「何で」
「だって、もう、」
 止められなくなる。
 俺とお前はもしかしたら、お互いにものすごい勘違いをして遠回りをしていたのかなって今更ながら気づいて。俺が握りしめていないほうのカラ松の手は、真っ白なシーツをぎゅうっと掴んでいる。
「言ってよ、カラ松」
「だめだ」
「何で?」
「俺たちは、兄弟で」
「そんなのセックスしてたんだからもう今更じゃね?」
 兄弟だから止めなきゃいけないなんて、そんなの俺たちにはもう過ぎ去ってしまったようなものだ。兄弟でも俺は変わらずカラ松のことが好きだったし、そんな枷で諦められるほど清いものでもなかった。
「……気持ち悪いって、言われるんだ」
「は?」
「おそ松が、気持ち悪いって言われるんだ。俺が、お前にそういうことを想うから、俺だけじゃなくてお前も気持ち悪いと思われてしまう」
「誰にだよ。ってか気持ち悪いって思われても俺たちに関係なくね?」
 カラ松が言いたいことはなんとなくわかるが、そんなのばかばかしいとしか俺には思えなかった。元々ニートのクズだし、何を言われようと今更。
「わかってる。そんなことわかってるんだ。……そうじゃなくて」
「そうじゃなくて……?」
「俺が、自分を許せないんだ。お前を、そういう道に引きずり込むことを」
 ああ、と腑に落ちた気がした。
 こいつは自分の中で価値観や好きなもの、どうあるべきかがきっとはっきり存在していて、それをぐるりと反転させるようなことが起きた時、自分の中で落とし前をつけるのが下手なんだって思い出した。
 きっと、近親相姦が周りにどう見られるのかをこいつは充分に理解していて、でも、それはこいつの中でそんなに重要じゃなかった、俺をその道に引きずり込むことをきっと一番に怖がっていた。
(ばかだなぁ、お前)
 初めにお前にキスしたのは俺なのに。初めにお前を引きずり込んだのは俺なのに、そうやって自分を責めてどうしようもなくなっちゃって。そのポンコツ加減が俺には愛しくてたまらなかった。
「カラ松」
 名前を呼ぶと、カラ松がもう限界だと言うように首をふる。俺から目を逸らして、ひたすらに床を見つめるばかりだった。
「好きだ」
 唇に落とすように、告白した。
 そういえば、俺はこいつに一度も好きだなんて言ったことが無かったから、そりゃあカラ松だってわかんないわなとちょっとだけ反省した。
「好きだよ、お前のこと、すげぇ好き」
「やめ、やめてくれ、兄貴」
「ずっと前から好きだったよ」
「兄さん、」
「ねえ、お前は?」
 聞きたかった。カラ松の口から、聞いてみたかった。
「あ……」
「カラ松」
「俺、は」
「聞きたい、カラ松」
 抱きしめたい。お前が素直に言ってくれたら、思い切りその体を抱きしめてやりたい。
「おそ、ま、つ」
「うん」
「おそまつ」
「……うん」
 好きだ、と、その言葉が唇を彩った瞬間にキスをしていた。
唇同士がふれあって、ひたすらちゅ、ちゅ、と重ね合わせる。舌でぺろりと唇を舐めると、カラ松がおそるおそる口を開けた。その隙間にするりと入って縮こまっている舌を捕まえる。くちゅ、と音が鳴って唾液が一筋カラ松の顎に垂れた。舌の先で上顎をつつくと、ぴくんとカラ松の体がはねる。そおっとその体を抱きしめて、もう一度カラ松の舌を吸った。何か月ぶりかに味わうカラ松の口の中はあったかくて、ひたすらに甘かった。

 なあ、何で、俺とお前が付き合ってるって思ったんだ?
 へあ?
 だって、俺もお前も好きだなんてお互い言わなかったじゃないか。
 それはごめんて。……あー、初めてセックスしたあとにさ。
 うん。
 夕飯なんだろうなって話してて、お前、からあげ食べたいっつったじゃん。だからだよ。
 ……?
 覚えてなかったのねお前。じゃあやっぱり俺の盛大な勘違いだったわけだ。
 からあげ……?
 いいよ、覚えてなくても。俺が覚えてるから。
 そうか?
 そうだよ。ほんと、ポンコツだねーお前は。

こぷ、と自らの口から自分の唾液とおそ松の先走りが零れてきた。拭いたいと思ったが、これを咥えているうちは無意味だなとさらに深く咥内へと硬くそそり立ったものを迎え入れる。
「う……っ」
 おそ松の呻くような声に嬉しくなって、じゅぷじゅぷと音を立ててストロークする。ぷは、と一度それを吐き出して、舌先で先端をつん、とつついた。びくりと震えるおそ松のそれに嬉しくなって、手のひらでつるりとした亀頭を撫でた後、もう一度大きな性器を口の中に頬張った。
「カラ、まつ」
「ふ……?」
「も、いい、それ」
 でそうとおそ松が切羽詰まった声で言うが、俺はなんだか手放したくなくて、きゅっと口の中全体でちんこを吸い上げた。
「おま、ばか!」
 おそ松が必死で俺の頭をはなそうとしてくるが、俺は意地でもはなれようとしない。
(おそ松、おそ松)
 好きだと言った瞬間、溢れてくるものが止まらなかった。それをどう処理すればいいのかわからずに、俺はただひたすらおそ松のちんこを頬張っている。おそ松のが俺の口の中にあるんだぁと、めちゃくちゃに嬉しくなってしまってじゅぷじゅぷとしゃぶってしまう。好きだ、おそ松、好きだ。
「カラまつ、もう」
 ちらりとおそ松を見上げて、出していいぞと目で訴えると、口の中のものがびくんっとはねた。
「うっ」
 どぴゅ、と喉の奥まで出されて、俺は粘つくものを何のためらいもなく飲み干した。ぷはぁと口を解放するとたらりと飲み切れなかった精液が顎から喉へ、鎖骨から胸へと垂れていく。
「あー……飲んだのおまえ」
 こくりと頷くと、苦いだろと顔をしかめられた。平気だぞ、と俺は言ったが、おそ松はそんな俺を無視してキスをしてくる。
「キスする時に苦いだろって」
 ああ、そういうことかと頷くがおそ松は結局そんなことに構わずキスしてくれるので俺にとっては大した問題ではない。おそ松が俺の手を引いてベッドへと押し倒した。既に尻は解されていて、ああ、これから繋がるんだなぁってもうすでに胸がいっぱいになってしまう。
「おそ松」
「なに」
「おそ松」
「はは、どうしたんだよ」
「おそ松」
 何度も名前を呼んで、その背を引き寄せた。今まで最中にどうしても呼べなかった名前を呼ぶことが出来る幸せを噛みしめた。
 おそ松のそれが、ぐぷ、とゆっくり入ってくる。
「ふ、う、」
 先端の一番太いところがちゅぷんと入って、おそ松はいったん休憩したようだった。俺は浅いところにいるそれが気になってしまって、ごそ、と腰をよじる。
「カラ松?」
「ん、も、いれろ……」
「ごめんごめん」
 ぐぐ、と奥までおそ松のものが入ってくる。ついに先端から根元まで俺の中に埋まり、俺は深く息を吐いた。
「は、ぁ」
「きつい?」
「だいじょうぶ、だ」
 最後にセックスしたのが大分前だったので、丁寧すぎるぐらいに後ろは慣らしてもらった。その最中に二回も達したので俺はもう体中がへにゃへにゃで、今からこんなんじゃ先が思いやられるなぁと小さく笑ってしまった。
「なに笑ってんの?」
「ん、いや、なんでもない」
「なんでもないってなんだよ」
 拗ねたのか、おそ松がぐり、と更に奥へと入ってこようとした。もう入らないってと腕で胸を突っぱねようとしたが、逆に抱き込まれただけだった。
「あー、あったけー……」
「おそ、まつ、くるし」
「ごめん、ちょっとだけがまんして」
 がまんって、お前がいる位置がちょうとイイところに当たってて辛いんだと抗議したが、おそ松は笑って宥めるように額にキスを落としてくる。
「……な、カラ松」
「何だ……?」
「兄ちゃんの秘密、一つだけ教えてやるよ」
 さらりと髪を撫でられて、俺はとろんと目元がふやけた心地がする。
「俺ね、朝が来るのが怖い」
 ちゅ、ちゅ、と目元に、頬に、耳に、唇にキスが降ってくる。柔らかい雨に夢心地になりながら、俺は必死でおそ松の言葉を聞いていた。
「朝が来たら、お前が隣に居ないんじゃねーかなって、もうずっと前から怖いんだ」
「おそ松……」
「そんな俺のこと、笑ってくれるか?」
 泣きそうな目をして、歪んだ口をしたおそ松がそこにいた。俺はどうすればいいのかわからなくて、ただ、重い両手をおそ松の頭にまわした。
「おそ松」
 今度は俺がおそ松を胸に抱きかかえて、耳元で安心させるように名前を呼んだ。
「おそ松、おそ松」
 心音を聞いて安心したのか、おそ松がするりと俺の背中を撫でてくる。性感帯をなぞるように背骨を辿られて、俺はぴくりと震えてしまう。
「……好き、だ」
 ずるりと、尻の中のものが動いた。
「あ、」
 ゆっくりと引き抜かれて、勢いよく貫かれる。
「ひっ……!」
 腹側の、擦られると気持ちよくておかしくなってしまうところを責められて、俺は喘ぎ声とも言えない声を出していた。
「カラまつ、カラまつ……っ」
 名前を呼ばれるだけで、どうしてこんなに満たされるんだろう。
「好きだ……―-ッ」
 好きだと言われるだけできゅんと奥がうずいて、どうしようもなく切なくなる。
「おそ、まつ、あ、あ、」
 名前を呼ぶたびに、目の前にある筈の体が恋しくなってぎゅうっと背中にしがみつく。
(あ……) 
 今までシーツを握っていた手が、おそ松の体を抱きしめている。暖かくてごつごつしている、男の体だ。こんな背中をしているんだと、こうやって抱き付いてみて初めて知った。
(おそ松だ)
 おそ松が、こんなに近くに居た。
「あ……」
 泣きそうになって、なんとかそれを押しとどめる。セックス中に泣くなんて、そんな恥ずかしいところ見せたくない。
「カラ松、カラまつ、」
「おそ松、好き、好きだ」
 奥を突かれてひぐ、と息が止まってしまうようだった。それでもおそ松はやめる気なんて無くて俺の中を暴いていく。
「好き、好きだ、好きだ」
 好きだと言葉にするたびに、満たされていくものがある。
 おそ松が中で達した時に、俺は確かにそう感じた。

 幸せって、きっと白色をしているんだ。
 朝目が醒めて一番に考えたことはそれだった。白いシーツ、白い朝日、おそ松が吸う、煙草の白い煙。
「おはよ」
「はよ……」
 掠れ切った声でそう返すと、おそ松はゲラゲラと笑った。そうさせたのはどいつだとじろりと睨むと、怒んなよーと煙草を消して隣に寝転んできた。
「体、痛い?」
「いたい」
「そっか」
 優しく腰を撫でる手が暖かくて、俺はもう一度眠りの淵に漂いそうになる。おそ松の親指が俺の赤い目元を擦って、「カラ松」と小さく呟いた。
「あいつら、何か言ってるかな」
「言ってるかもな。でも、特に気にしてないと思うぞ」
 あいつらだもんなーとおそ松がけたけた笑う。その頬に指を当ててぷに、と弄ると、おそ松は指にぐりぐりと頬を押し付けてきた。
「お前ほんと俺のほっぺた好きね」
「ぷにぷにしているからな」
「えーぷにっと料金取るよ」
「何だそれ」
 ふふ、と笑うとおそ松が俺の眉間をぐりぐりと押した。仕返しとその指に押し付けると、痛い痛いと苦情を言われた。
「朝になっても、居なくならなかったね」
「当たり前だろう」
「うん、当たり前だな」
 おそ松が、ぎゅうっと俺を抱きしめてきた。背中に爪痕が残っていないかとさすってみると、案の定小さく残っているようだった。しばらくみんなと銭湯に行けないなとぼんやり思っていると、おそ松が顔を近づけてくる。
 ふってきたのは、唇だった。
「……―-」
「な、カラ松」
「何だ……?」
「俺はお前のこと大好きだし、お前も俺のこと大好きだろ?」
 だから。
 俺の視界が、おそ松でいっぱいになる。
「だから、大丈夫だよ」
 おそ松の顔が歪んで、何でだろうと思っていたら、頬が冷たいもので濡れていた。
「あ……―---」
 ぽろぽろと零れるものはとめどなく、白い枕を濡らしていく。
 弟たち、母さん、父さんの顔が次々と思い浮かんでくる。いつかの教室、いつかの夕暮れ、いつかの部室が頭を駆け巡った。
「おそ、まつ、おそまつ」
「うん」 
 ラブホのベッドは広かったけど、俺たち二人が寝るのにはどうしても少しだけ狭い。
「おそ松、おそ松」
「うん」
 朝日は白くミルク色に輝いていて、二人ぼっちの俺たちを柔らかく抱きしめる。
「おそ、松、おそ松」
 ぎゅうっとその体を抱きしめる。
 生まれた時からおそ松は、俺の紛うことなき兄だった。
 そして、おそ松に手を引かれてこの世に生まれ出たその瞬間から、俺はきっと。
「好きだぁ…………っ」
 おそ松が「カラ松」と、涙声で俺を呼ぶ。
 世界に祝福されない恋が、今、ここで始まった。